本年3月1日に日本全国で上映される中韓合作の大ヒットラブストーリー『最後の晩餐』について、『武士の献立』批評で反響を呼んだCineaste・脚本家・演出家の吉田衣里『げんこつ団』団長が同映画を論じた。批評を ここに一気に掲載する。
*げんこつ団(http://genkotu-dan.official.jp/)
「最後の晩餐」
こちら、「中韓合作の大ヒットラブストーリー」との事であるが、実を言うと、「中国映画」も「韓国映画」も「大ヒット映画」も「ラブストーリー」も、私はほぼ観た事がない。これまであまり興味のなかったものがこれでもかと詰まったこの映画。観る前の勝手な予想は、おぼろげにあったステレオタイプなイメージを単純に組み合わせたもの。「中国映画っぽいテンポの良さと大胆さ」で「韓国映画っぽいメロドラマ的且つ壮大な展開」をみせる「ラブストーリー」。そして「ラブストーリー」であるからには「せつなく」、そりゃもう限りなく「せつなく」、色々な「せつなさ」のフルコース、であろうと。正直、ラブストーリー的せつなさを苦手とする私は、耐えられるか不安だった。相当、身構えていた。ところがどっこい。
中国映画っぽいテンポの良さで見せる韓国映画っぽいメロドラマ、それは合っていた。まさにその通り。しかしその濃厚さは予想を大分上回っていた。私の想像していた「せつなさ」が、出汁または薄口醤油味だとしたら、この「せつなさ」は、豆板醤に甜麺醤にコチュジャン味。加えて全てに、ニンニクショウガに唐辛子が効いている。人を飽きさせないバリエーションに富み、盛りつけもゴージャス。確かに人によっては胃もたれするだろう。しかし徐々に食べいけば徐々に慣れる。前菜から始まったフルコースがやがてメインディッシュにさしかかり、まさに王道も王道のベタな「せつなさ」が訪れたところで、それを美味しく頂く用意が、知らぬ内に出来てしまっていたのである。
「互いの将来の夢を叶えるために別れ、互いに五年後もまだ独身だったら結婚する。」物語はこの五年間に集約されている。ひとりぼっちで味気ない弁当をつついていた彼女に彩り鮮やかな弁当を作ってあげた、料理人を目指す彼。その彼の料理に更に彩り添える器を作るべく頑張る、食器デザイナーを目指す彼女。その二人の技術が世間に認められた五年後、遂に、それぞれの五年が集約された物語が動き始める。
実際、色々な事が詰め込まれている。実際、五年という歳月の中には、色々な物事が詰め込まれるものである。ましてや好き合っていながらに別れた若い男女である。しかも互いに納得しての別れではなく、半ば彼女の方からの一方的な別れである。そこに詰め込まれるものは、特別に突飛な事でも劇的な事でもない。それは所謂、ベタな事なのである。しかし、ベタな事こそリアルなのである。互いへの、愛と葛藤、理解とすれ違い、素直さと不器用さ。そういったものが、無駄のないエピソードによって次々と隙間なく語られていく。円卓の上に隙間なく並べられる色鮮やかな料理のように、様々なバリエーションのエピソードが並べられていく。余韻や間、侘び寂び、箸休め、そうしたものが欲しくなってしまいそうなところだが、それはない。なくても不自然さは感じない。不自然さを感じさせぬほどに次から次へと展開し明らかになっていく物事に、それほどまでに二人の五年は濃密なものだったと知る。
恋愛ドラマ全20話分を一気に観せられたような感覚ながら、実に爽快。結局のところ、人生とは得てしてベタなものなのだと知る。人間とは得てしてベタな存在なのだと知る。それを一切、逃げず隠さず正面から見つめ堂々と描いた作品は、多くの人の心を掴む。それが故の「大ヒット」なのだろう。登場人物が皆、若く真っ直ぐであるのも、そのベタさに説得力も持たせ好感を抱かせる。しかもたった五年の物語だ。若き日の五年なんぞベタもベタであって然るべき。
いや当然、私のような若くも真っ直ぐでもない人間の頭の片隅にはどうしても、シニカルな思いがあれやこれやと次々に沸き上がってくる。しかしそれを無理に押さえつけなくてはいけない窮屈さはない。それは、恋愛映画でありながら、描かれているのは二人の恋愛という小さな世界のみながら、スペクタクルアクション的テンポと勢いと濃厚さをもって、その中の物語を描いた、娯楽作品だからだろう。これで良いのだ。ややこしい恋愛に疲れた女性を、スカッと泣かせてくれそうな映画である。それだけで良いのだ。そこに意味があるのだ。
また、このストーリーの中では恋愛における中国人女性の精神的強さを感じた。その強さは元来のものなのか、或いはそうありたいという願いからくる描写なのかは、勉強不足なのでいまいち分からず。そういった意味もあって、中韓含め色々な国の、敢えて王道の、恋愛映画を見比べてみるのも面白そうだと思った。
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