フクシマを描いた『無人地帯』について社会学者の宮台真司さんと藤原敏史監督が語る

2月8日、渋谷ユーロスペースで、映画「無人地帯」上映後に、社会学者の宮台真司さんとParis出身の藤原敏史・監督によるトークショーが行われ、大雪にもかかわらず、50名近くの観客が集まり話に聞き入った。以下、藤原監督の報告である。

○『無人地帯』について宮台真司さんと語る○

昨日8日の『無人地帯』の上映後、宮台真司さんを招きユーロスペースで対談があった。

その昨日の宮台真司さんの指摘で、恐らく今日的な文脈でいちばん重要だったのは、この映画は「誰が悪い」とも言っていないし、「誰が正しい」と主張する映画でもまったくない、ということだ。

人類の文明を超えた事態なのだし、原発事故は現代文明の構造それ自体の問題でもあるのだから。

こと原発の存在自体が日本社会の構造の一部であり、戦後日本社会が選択した構造から、ある意味必然的に産まれたものでもある。

「250Km離れた東京」が福島の電力の消費地であったことが「悪い」のではない。

しかし日本社会の構造のなかで、実はその東京が一方的に得をして来た、いちばんその恩恵を受けて来たという現実は消せない。

『無人地帯』のなかで飯舘村で炭焼きの話が出て来るが、近代以前から農村は副業で炭を焼いて都会の燃料を供給して来た訳で、その意味では電力のためのダムや原発もその歴史的な延長にあり、それがダムなどを故郷を田舎が諦めてでも受け入れた素地にもある、という宮台さんの指摘も鋭かった。

一カ所だけ僕の声で、「警戒区域」発令に関するナレーションが入ることについてわざわざ質問頂いたが、もちろんこの政府の決定には僕たち20Km圏内に映像を撮りに行った人間も無関係ではなく、「僕たちが悪い」というわけではないにせよ責任の一端はある。

もしかしたら僕たちも軽卒であったかもしれない可能性は逃れ得ないわけで、少なくともそれはちゃんと考えなければならない。

だからこの映画では決して作り手もまた「正義」の側に自らの立場を偽装しようとしていないことを明確にするために、この言葉だけは監督自身の声になっている、というのも宮台さんが予想した通りです。

その上で、監督自身の声も入ることで、アルシネ・カーンジャンの声によるナレーションとの位相の違い、差異化が出来る。このナレーションの機能について、今まで欧米の批評でほとんど論評が出ていないことに宮台さんも驚かれていたが、言われてみれば僕も驚いた。

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