【映画評】公文書の改竄事件や隠蔽事件のまっただ中、妙にタイムリーな日本公開? アメリカ政府最大の噓を暴露するのか、「国家のため」に隠すのか?スピルバーグ監督『ペンタゴン・ペーパーズ』 by 藤原敏史・監督

偶然といえば偶然だろうが、あまりにタイムリーな日本公開だ。いや完全に偶然とは言えないかも知れない。スティーヴン・スピルバーグがこの映画を作ろうと思ったとき、当然意識していたのはトランプ政権成立後の「フェイク・ニュース」「オルタネイティヴ・ファクト」をめぐる混乱だろう。

そのトランプの嵐(荒らし?)の数年前から、日本ではどこから見ても真っ赤な噓でも政府の公式発表が「事実」になり、マスコミの政権への遠慮だか忖度だかで大手メディアの報道まで半ばフェイク化して、海外メディアを読んだ方が日本に関する事実がよく分かるような異常事態が続いている。そしてその和製フェイク王・安倍晋三の売りが、トランプとの「個人的な信頼関係」なのだ。まあそのトランプと仲良し偽装自体が、まったくのフェイクではあるのだが…

財務省の国有地売却をめぐる決裁文書の改竄・隠蔽事件に続いて、今度は防衛省から同じ表題の2通りの文書が出て来たり、イラク戦争当時の自衛隊派遣部隊の破棄されたはずの報告書が見つかったりしている。昨年には南スーダンPKOの現地からの危機的な状況の報告書が握りつぶされていたことも発覚した。アメリカ政府が「ヴェトナム戦争は勝てないし正当性もない」と結論づけられた国防総省の極秘報告書を隠し続け、国民を欺いて来たことが暴露されたスキャンダルを題材としたこの映画は、今の日本でこそあまりにタイムリーな「恐怖」を呼び起こすだろう。

「政治指導者が自分への反対を『反国家』だと言うのは、自分こそ国家だと言っているのに限りなく近い」

米国防総省でロバート・マクナマラ国防長官(ブルース・グリーンウッド)が研究させていたヴェトナム戦争の分析報告書(最高国家機密)を、1966年に密かにコピーしていた元分析官のダン・エルスバーグ(マシュー・リース)は1971年になって初めてこれを新聞社に流して暴露した理由を、こう語る。

「政治指導者が自分への反対を『反国家』だと言うのは、自分こそ国家だと言っているのに限りなく近い」

もちろん当時のニクソン大統領のことだが、これもなんだか今の日本の話のように聞こえてしまう。総理大臣の政治の私物化疑惑を報道すれば「反日メディア」と言われてしまう状況自体が、独裁警察国家の差別的恐怖政治に限りなく近い。現在のアメリカは幸いにしてまだそこまでの状態には陥っていないが、この映画の冒頭でニクソンがワシントン・ポストの報道に怒って娘の結婚式の取材許可を出さなかったようなことについては、もっと露骨に批判的なメディアがホワイトハウスの記者会見室から排除されたりしている。

共和党のニクソンの前の、民主党のリンドン・ジョンソン大統領の国務長官だったマクナマラは、元はケネディ大統領に請われて政権入りした。その立場上、表向きではアメリカが南ヴェトナムを支援する意味を強調し、本格参戦の後では戦況は有利だと繰り返し続けた。記者を平然と論破できるその知力と雄弁が評価もされれば批判も大きかったのだが、そのマクナマラ自身が実は自分でもなぜアメリカがこの戦争をやらなければならないのか理解しようがなく、そこでケネディ暗殺後のジョンソン政権下に国防総省で極秘に調査研究を進めさせていた、その結果がこの報告書だ。

その結論は衝撃的だ。アイゼンハワー政権以来アメリカ政府は国民を騙し続け、腐敗し切った独裁者だと知り尽くしていた南ヴェトナムを支援して泥沼の戦争に加担し続けて来たとしか言いようがなく、この一貫した方針にはマクナマラが最初に国防長官として仕えたケネディ大統領も抵抗できず、ケネディは撤退を模索していることも国民に隠し続けた。こうして報告書が極秘に作成されたジョンソン政権時代には、アメリカは正当性も勝つ見込みもない戦争の泥沼にどっぷり浸かっていて、ジョンソンも今さら自分の決断ではなにもできない状態だった。その欺瞞と噓、最初から「勝てない」と分かっていながら南ヴェトナム政府の不正選挙をアメリカが支援までしていたことが、数千ページに渡る報告書で詳細に論証されていたのだ。

この最重要国家機密だった報告書の内容を、まずニューヨーク・タイムズが報道し、ニューヨーク連邦地裁が政府の訴えを認めて発行停止を命じてしまう。その報道を引き継いだのが、政治報道では首都ワシントンDCが地元ならではの人脈を活かしてNYタイムズのライバル紙だったとはいえ、そのワシントンの中上流階級が主な読者層の、その意味ではまだ小さな地方紙だったワシントン・ポストだ。

国家機密文書を報道するかどうかの問題が起きたのは、ちょうど創業者一族の家族経営に近い形態だった同社が、株式を上場して業務拡大を計っていた時期だった。大暴露スクープは販売を全国規模に増やす大きなチャンスにもなり得るが、発行差し止めを命じられたりすれば投資家は手を引き株の上場は大失敗に終わるし、「アメリカの国防に反する報道」と見なされるだけでも株価の暴落要因になりかねない。

ちなみにマクナマラ本人も、後には自分の過ちを率直に認め、ジョンソン政権下では自分でも、自分の立場も、政権内でなにが起こっているのかも分からなくなっていたことを告白している(ドキュメンタリー映画『フォッグ・オブ・ウォー〜マクナマラ国防長官の告白』2003年)。

マクナマラの説明はこうだ。当時のアメリカは「ドミノ理論」に囚われていた。つまりヴェトナムの共産化を阻止しなければ共産主義が将棋倒しのように次から次へと広がっていくのを阻止できず、アジア全体が共産化することを恐れていた、というのだ。この発想自体がまったくの誤りだったことも、後にヴェトナム側の当時の高官との歴史対話を始めたマクナマラは率直に認めている。北ヴェトナムから見れば、彼らは植民地支配者と侵略者に対する独立戦争を闘っていただけだったのだ。

「アメリカの敗北」を隠すためだけに継続された、アメリカ史上もっともアメリカ兵の犠牲を払った戦争

もっとも、スティーヴン・スピルバーグの最新作で1971年当時のワシントン・ポストの記者達がマクナマラ秘密報告を分析して到達する結論はもっと過酷だ。ヴェトナム戦争が止められなかったのは、「アメリカの敗北」という耐え難い現実を直視し国民に告げることを、なんとか先延ばしにしたかっただけだ。

これまた日本人にとってはどこかで聞いたような話である。1942年のミッドウェイ海戦の時点で対米敗戦は確実だった。それ以前に、1937年に始まった日中戦争はほんの数ヶ月後の南京大虐殺の時点で膠着・泥沼化して勝てる見込みはなく、1939年には満州とソ連の国境地帯で起きたノモンハン事件ですでに大敗北を喫していて、1941年末の対米・対英戦争開始自体が国家単位の無謀な現実逃避でしかなかった。つまり日本は「大日本帝国の敗北」という厳しい現実を直視しないためにアメリカ相手に確実に負けると分かっていた戦争を始め、敗北が決定的になった後もその現実を受け入れたくないためだけに各地の戦線で部隊を全滅させてはそれを「玉砕」と称し、45年に入ると各地の大都市の大規模空襲で多くの国民が焼け死ぬのを看過し、沖縄では県民の4人に1人が命を落とす焦土作戦を敢行させ、その沖縄が6月23日に完全に陥落しても8月まで戦争は続き、広島・長崎への原爆も大本営は予測・察知できていたのに止めようとしなかった。

自分たちの過去の判断が誤りで、その誤った判断のために戦争に負ける現実を先延ばしにするためだけに、多くの命が犠牲になったその結果は、かつての日本の方がさらにひどい。

話を1971年アメリカの、ダン・エルスバーグの告発に戻そう。5年前に写しを手許に置いていたマクナマラ報告を5年経ってから公開に踏み切ったのは、本人の弁では要するにニクソン大統領の時代になっていたからだ。自分への批判を国家への反逆と決めつける大統領はさすがに前代未聞で、現にマクナマラ報告の内容をスクープしたニューヨーク・タイムズには、そのニクソンの意向に影響された(忖度?)と思われる連邦地裁が、発禁処分命令が出てしまう。

ワシントン・ポストはエルスバーグ本人から写しを入手し、編集主幹のベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)は社主キャサリン(ケイ)・グラハム(メリル・ストリープ)を説得して、タイムズに代わって自分達が報道を続けようとする。グラハムと個人的な友人でもあったマクナマラは、当時は政府を離れむしろ反対派・野党の立場で、もちろん自分の保身もあるのだろうが、それ以上に彼女の身を案じて止めるように忠告する。「ニクソンは君が知っているような大統領や政治家たちとは違う。本当に恐ろしい、邪悪な男だ。逆らえば君を徹底的に潰す手段を、あの男なら確実に見つける」。

…と、これまたなんだか今の日本にとってタイムリーな話だ。もっとも、心底邪悪で恐ろしい男と言っても、邪悪さの方はともかくその恐ろしさつまり能力の点では、リチャード・ミルハウス・ニクソンと安倍晋三では比べ物にならない。それになんだかんだ言ってもニクソンがNYタイムズやワシントン・ポストを潰してでも守ろうとしたのが確かにアメリカ国家の威信だったとは言えるが、日本の財務省が公文書を改竄したのは総理の趣味の極右カルト小学校のための国有地が不当に値引きされたというひどくケチくさい政治の私物化、この映画の描いた歴史からすれば、劣化パロディみたいな話にはなる。

あえて「シリアス路線」ではない、スピルバーグが娯楽活劇路線の演出で描く「報道の自由」

この政治ドラマで本当の敵であり「悪役」は、リチャード・ニクソン大統領だ。しかしスピルバーグはその「敵側」をほとんど見せない。深夜にホワイトハウス正面から盗み撮りされたニクソンの窓越しの後ろ姿に、被害妄想気味だったニクソンが密かに自分と閣僚や部下の会話をすべて録音させていた、その当時の本物の本人の声が響くだけだ。

題材やストレートな政治的テーマからすれば、この実話の映画化はスピルバーグにとって『カラー・パープル』(1965)年に始まり、最高傑作『太陽の帝国』(1987年)、アカデミー賞を獲得して自らの地位を固めた『シンドラーのリスト』(1991年)と『プライベート・ライアン』(1998年)や、『アミスタッド』(1997年)『ミュンヘン』(2005年)などを経て、大人の映画作家としての成熟を見せた『リンカーン』(2012年)や『ブリッジ・オブ・スパイ』(2015年)のような近年の秀作へと続いて来た、いわゆる「シリアス路線」の作品になるかと思われた。

だがスピルバーグはむしろ自分のアクション活劇やSF映画など娯楽系作品の構造を、この映画に当てはめている。

「悪」や「敵」を実は描かないのが本来のハリウッド映画

デビュー作『激突!』(1971年)や『ジョーズ』(1975年)で見せた早熟の名人芸は、『激突!』なら主人公の車に襲いかかる巨大トラックは運転手が見えず、『ジョーズ』では肝心のサメをほとんど見せない巧妙な演出だった。このテクニックの応用で『宇宙戦争』(2005年)でも宇宙からの侵略者は、その巨大殺戮機械の「三脚」は見せても宇宙人は姿を見せず、この「見えない」敵が逆に恐怖を高める。『ペンタゴン・ペーパーズ』のニクソンの恐ろしさがこのスピルバーグが大いに得意として来た「見せない方が怖い」テクニックで浮かび上がるのは、確かに効果的であると同時に、政治的にこの映画をどう評価するかに当たっては議論を呼ぶところだ。独裁体質の強い大統領がただ「怖い」だけでいいのか、この巨悪の構造をこそ見せるべきでないか、という議論の余地は当然ある。

スピルバーグの「インディ・ジョーンズ」三部作(1981-89年)や『フック』(1991年)では、インディ・ジョーンズの敵もダスティン・ホフマン演じたフック船長のような「悪役」も、あからさまに見えるぶんむしろコメディ・リリーフになっていた。いわゆるシリアス路線の映画でも、『カラー・パープル』の横暴な父やDV夫は、その本人たちもある意味哀れな存在であることを通して、彼らもまた黒人の受けて来た差別の被害者であることが示されていて、その意味では「悪」として描かれる「敵」ではなくむしろ「同じ人間」だったし(むしろ本当の「悪」はその背後にある黒人差別)、『太陽の帝国』の帝国軍人たちでさえよくも悪くも個々人は観客に理解可能な人物として見せられる。観客は日本兵たちに一定の同情や共感すら覚えるし、だからこそこの傑作は日本軍を悪魔として描くのではなく、戦争そのものが狂気であることを示すなかで、クリスチャン・ベール演ずる英国人少年も、日本軍の軍人たちも、等しく同じ戦争という狂気に心を蝕まれた犠牲者として浮かび上がる。

『激突!』と、とりわけ『ジョーズ』の路線のスピルバーグが、1970年代以降のもっともアメリカ的な映画作家であることに異論はないだろう。そしてアメリカの、ハリウッドの映画というのは、よく誤解されているような「勧善懲悪」というか「悪」との戦いを見せ、つまりその「敵」への偏見や憎悪をかき立てるものでは必ずしもない。たとえば古典的名作西部劇の『駅馬車』(1939年)で、「敵」であるアパッチ族は実は説話構造上ほとんどどうでもいい、ただそこに脅威としていればよくそれ以上は描く必要のない存在で、ドラマの根幹になる葛藤は「白人対インディアン」ではなく、駅馬車に乗り合わせた白人の乗客たちのあいだの衝突だ。クライマックスで駅馬車がアパッチ族に襲撃されるのは単にお話の展開上の都合と、西部劇にはお約束として派手なアクション・シーンが必要だったからに過ぎない。

戦争映画でも、西部劇でも、アメリカ映画はめったに「悪」や「敵」を描かず、そうした大枠の対立構造は実のところ状況設定でしかない。ハリウッドの関心は、その大きな脅威や危機のなかで1人の主人公がいかに自己を克服して「ヒーロー」になれるのか、あるいは危機や脅威に晒された集団が自分たちのあいだの葛藤をどう解消して合意を形成し脅威を克服するかに、ひたすら集中して来たのがアメリカ映画史だ。

スピルバーグと同世代で友人でもあるジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』(1977年〜)はその意味で、ハリウッド的な構造を持つ映画ではない。むしろアメリカ映画が確立された以前の、たとえばシェイクスピアや、19世紀メロドラマのような説話構造に戻った世界観の映画だ。端的に言えばスピルバーグが『ジョーズ』のサメをほとんど見せなかったのとは対照的に、『スター・ウォーズ』でもっとも魅力的な人物はダース・ベーダーであり、「悪」の銀河帝国の方こそがカッコよく、しかもその組織構造まで事細かに描かれる。「正義」である反乱軍の方は実はどんな組織や人間関係なのかもよく分からないのは、まったくハリウッド映画っぽい構造ではない。スピルバーグとルーカスは、実は映画作家としての資質がまったく正反対なのかも知れないし、現にルーカスのその後の活動は、特撮や音響の技術の提供以外ではハリウッドからほとんど独立している。

「敵」を描くより重要なのは「私たちの問題」と民主主義の意思決定

一見政治的な良心作で娯楽映画とは受け取られそうにない『ペンタゴン・ペーパーズ』で、スピルバーグは自らが意識的に継承して来たハリウッド的な、『ジョーズ』のような娯楽映画の説話構造をあえて用いている。

つまり映画のドラマの主軸となる葛藤はホワイトハウス対新聞社、リチャード・ニクソン対ベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)の間にあるのではない。映画の見せる葛藤はワシントン・ポスト社内のそれであり、政権に妥協して経営基盤の安定を守るのか、新聞社の役割というか記者の本能に忠実であるのかの対立だ。この合意をいかに形成するかの中枢に、創業者一族の娘でそれまではお飾り的な存在でしかなかった社主ケイ・グラハム(メリル・ストリープ)がいる。

この2人をストリープとハンクスという観客が共感する演技派大スターが演じるという構造も、古典的ハリウッド映画を忠実に踏襲しているし、ことハンクスの人物造形は、71年当時というより1930年代の新聞社ものの典型的な鬼記者のキャラクター設定だ。インターンの青年にニューヨークに行ってNYタイムズの動向を探るよう命ずるとき、「それって合法なんですか?」と訊ねられたブラッドリー(ハンクス)は「坊や、自分の仕事がどんなものか分かってるかい?」と言い返す。大衆の知るべきスクープのためなら違法手段も辞さない、というのが『フロント・ページ』(1931年) や『ヒズ・ガール・フライデー』(1941年) で描かれたアメリカの新聞記者魂だ(後者はそのパロディと言ってもいいが)。

なぜハリウッド映画がこうした敵が見えない、敵をほとんど描かない説話構造を好み、スピルバーグがこの『ペンタゴン・ペーパーズ』でこの古典的踏襲しているのかと言えば、それが「私たちの問題」をドラマにする有効な手段だからだ。圧制的な脅威に晒された個人がどう立ち向かえるのか、そして特に集団や共同体がどう集合的な意思決定に至るのかは、民主主義国家としてのアメリカの国民たちが常に直面しなければならない問題なのだ。

『太陽の帝国』や『カラー・パープル』は、突き詰めれば確かに人類に普遍のテーマを描いた作品といえるが、どちらも多くの観客にとって直接に「私たちの問題」ではない。他者の体験や苦しみを理解し、『カラー・パープル』なら極限状態を生き延びるヒロイン(ウピー・ゴールドバーグ)の成長を通して人間のあるべき姿を学ぶ映画だ。子供向けSFの形態を取りながらスピルバーグのもっともパーソナルな作家性が浮かび上がった大人の寓話『A.I.』(2001年)の愛するためだけに作られたロボットのデイヴィッド(ジョエル・ハーレイ・オズモンド)もまた、「私たちの問題」を直接体現する存在ではない。『リンカーン』ですら奴隷制廃止のための憲法改正は、今あるアメリカの礎となったという意味では重要であり、過去のアメリカ議会が現代から見ればびっくりするような議論をしていたことも新鮮な驚きで過去を理解する一助とはなるが、現代アメリカに直接関わる民主主義の判断と意思決定の問題、「私たちならどうするか」が直接に問われる映画ではなかった。

それに対し『ペンタゴン・ペーパーズ』でメリル・ストリープ演ずるケイ・グラハムが下さなければならない決断は、現代の観客に直接に同じ判断をしなければならない課題そのものでもある。自分の財産や生活がかかっている状態で、私たちは本当に正当な政治的な判断ができるのか? 友人や周囲の利害に影響されず、自分の意志や良心で意見を決められるのか? ケイ・グラハムはホワイトハウスに対決することでワシントン上流階級の社交界から追放されるかも知れないし、直接的にはなんといっても夫が自殺した時に親身に支えてくれたマクナマラ夫妻を苦しい立場に追い込むことになる。ブラッドレー(トム・ハンクス)でさえ、ケネディ夫妻とは取材する側・される側を超えた友人だった。マクナマラ文書の公開はそのケネディを「噓つき」と断罪することになる。

さすがはストリープ主演の映画というべきか、その「私たちが判断しなければならない問題」には、偉大な父や優秀な夫に庇護されて、ワシントンDCの上流階級という小さな世界しか見て来なかった彼女が、1人の自立した女性として成長していく物語も組み込まれている。これまた古典的なハリウッドの女性メロドラマの構造のいかにもスピルバーグらしい巧みな踏襲でもあるが、ストリープというスター女優ならではの人となりと演技力があるからこそ成立してもいる。夫の突然の死で新聞社の社主になってしまった彼女だが、その夫の死について「なぜみんな事故みたいに言うのかしら? 自殺だと言ったら私が傷つくとでも思っているの?」という台詞の絶妙な言い方に込められた感情など、さすがはメリル・ストリープだ。複数の内線電話でブラッドリーや顧問弁護士、役員たちがつながったいわば電話会議状態で、自宅の書斎の電話で彼女がついに決断する時に、俯瞰気味の位置に置かれたキャメラが彼女の回りをぐるりと廻るショットは、普通ならこれみよがし過ぎてなかなか成立させるのが難しい演出テクニックで、この大掛かりなショットの被写体がメリル・ストリープだからこそ成立している。

民主主義の意思決定とはなにかが問われる映画

ニクソンという「巨悪」がこの映画の主題なのではない。ニクソンのような脅威に私たちがどういう抵抗の手段を持ち得て、その意思決定にどうやったら到達できるのかがこの映画の葛藤が浮かび上がらせる直接のテーマであり、それがワシントン・ポストという集団に仮託されている。マクナマラ文書の報道を止めさせるようケイ・グラハムを説得しようとする弁護士や役員も「あちら側(敵、政権側、ニクソン)」ではなく「こちら側」だ。この映画の主眼は独裁対民主主義の敵対構造ではなく、あくまで同じ民主主義の側のなかでの葛藤なのだ。

いや狭義にワシントン・ポスト社内だけではない。たとえばケネディに忠実に仕えた国防長官だったマクナラマは、既にリンドン・ジョンソンとは対ヴェトナム方針をめぐって不仲になっていたし(本人の弁では、当時の自分にはよく分からなかったが、客観的には更迭されたのだと人から言われて気付いたのだそうだ)、民主党から共和党のニクソンに政権が移ってからは政権外で野党の立場になり、つまり実のところ「こちら側」の人間だ。

そのマクナマラやケイ・グラハムが属するワシントンDCの上流階級・社交界にとっても、ニクソンのような大統領やその強面で上品さに欠ける政権は、かなり異質な存在であったことも映画には示されているし、現にニクソンはこの社交界とあまり付き合いがない大統領だった。こうしたニクソンの異質っぷりというのは今のトランプの露骨なポピュリズムにも通じるし、日本でいえば有力な政治家一族の出身なのに成蹊大学に幼稚園からのエスカレーター進学でやっと入学できたような安倍晋三というのも、東大出が当たり前の財務省を中核とするのが霞ヶ関で、有力政治家となれば私大なら早慶以上か最低でも六大学レベル、地方でも国立大出身が当たり前だった永田町の学歴エリート主義からすれば相当に異質だ。

それまでの政界の文化や風土に属さないというだけでは、もちろん国民が選挙で選んだ大統領を、批判したり排除したり敵視する理由にはならない。むしろそれまでのエリート主義に染まった政界が正しいとは限らず、旧弊な風習となったものは打破されなければ社会は前に進まない。ワシントンDCの社交界が貴族化していて、だから労働者階級的な粗暴な態度を売りにするニクソンのような人物を排除するのなら、そのこと自体はアメリカの民主主義の基本に反するだろう。だいたいアメリカ史上もっとも偉大とされる大統領だったエイブラハム・リンカーンは、貧しい出身で独学で優れた弁護士になったのだし、ニクソンの生い立ちも実はこれにかなり近い。もっとも極めて有能な政治家だったリンカーンは、そのワシントン社交界や政界に寄生する魑魅魍魎のような人々さえ狡猾に取り込み利用していた面もあるが。

民主主義イコール多数原理ではない

だが国民の多数派が選んだ大統領だから全肯定しなければならないというのもまた、それでは民主主義ではなく多数派の専制にしかならない。

ハリウッド映画はアメリカの民主主義とはなにかを国民に理解させる機能と責任も背負って来ており、それが政治的教育啓蒙や、個人的芸術表現ではなく、あくまで大衆娯楽産業として行われて来たことがその歴史の根幹にある。そんなハリウッドの古典映画で政治そのものを扱った作品といえば『スミス都に行く』(1939年)『我が家の楽園』(1938年)『オペラ・ハット』(1936年)『群衆』(1941年)などの一連のフランク・キャプラ監督作品があり、『駅馬車』の大成功で大人向けの映画ジャンルとして確立して以降の西部劇もほぼ同じ路線で発展して行くことになるが、問題になるのはあくまで個人の良心であって、多数派に従うことではない。民主主義の多数決は、あくまで個々人の良識に基づく判断の総体として最終的な判断に用いられる手段で、民主主義イコール多数原理ではない。

アメリカの民主主義は何度も多数派の専制が民主主義を脅かす危機を体験しつつ、成長して来た。エイブラハム・リンカーン大統領が南北戦争終結直前に憲法修正第13条(奴隷制の廃止)の可決に執念を燃やしたのも、当時で言えば必ずしも多数派の意見ではない。むしろ南部諸州との和平のためには奴隷制の廃止を連邦への復帰の条件とすることは対立の火種になり、戦争終結を危うくすることになりかねなかったし、北部にはすでに南部から逃げて来た黒人に仕事を奪われる労働者階級の不満もくすぶっていた。キリスト教本来の教義ではどう考えても黒人も白人も神の前に等しく人間となるはずが、白人が白いことは神が白人をより優れた者として作ったからだという人種差別の正当化も蔓延していた。まだアメリカに女性参政権がなかった時代でもある。

あるいは日本の真珠湾攻撃への対抗としてアメリカが第二次大戦に参戦する直前には、アメリカ国内にも影響力の強い資本家を中心にナチズムへの理解というか共感も広まっていて、ヨーロッパの戦争を傍観するか、下手すればナチスと組むことすら、単純な多数決だけならそうなりかねなかった。またアメリカの大手製造業は、ナチスに自動車や武器やその原料となる鉄鋼などを売っていたし、日本に対してでも日本のアジア侵略はアメリカの鉄鋼業や石油産業、製造業にとってはそれらの製品を売りつけて利益を上げることもできただろう。自らが民主主義の理想を守るために参戦することで国民が兵士として死に、膨大な戦費で財政赤字に苦しむよりは、その時点の多数派にとっては賢明な判断と思われたかも知れない(あまり知られていない史実だが、1945年の初頭にはアメリカは財政赤字で戦争継続が困難になっていた)。

ハリウッドの、それも娯楽映画が常に提示して来たモラルとは、そうして妥協するのでは民主主義にならないし、そうした直近の現実や多数派への迎合に堕すのでは、人間として恥ずかしく、そもそも自由ではないということだ。民主主義はあくまで個々人が必要な情報を冷静に考慮して、自由な立場で公益のために判断を下すことが前提だ。繰り返しになるが多数決による最終意思決定はその最後の手続きでしかない。マクナマラ文書の公開に反対する顧問弁護士や役員たちにケイが言う台詞が象徴的だ。「あなた達の仕事は私に助言をすることよ。助言は聞くけれど、判断するのは私」。

日本のジャーナリズムにはとりわけ耳の痛い話

ワシントンDCで政治報道をやっていれば、記者もまた取材対象である政治家と個人的な関係を持つこともある意味避けられない。ベン・ブラッドリーは妻とともに、ケネディ夫妻とは親しい間柄だった。だがそのブラッドリーは、ケネディが暗殺された直後に夫婦でジャッキーに会いに行ったときのことを、その妻と語り合う。

ジャッキー・ケネディはまだ、暗殺の時の血痕がついたままのピンクのスーツ姿だった。だがしばらくブラッドリー夫妻に慰められたところで突然冷静になり、「ここであったことはあなたの記事になることではない」と言ったというのだ。

自分は友人のつもりでも、ケネディ夫妻にとってはそうではなかったのかも知れない。だが記者と政治家のあいだの上限関係では大統領の私的友人であることは大きな名誉だし、こういう緊急事態でもなければ政治家の側でも、記者の側のそうした幻想をわざわざ壊そうとはしないどころか、好意的な記事を書かせるために利用もするだろう。

取材する側とされる側には、常にこういう微妙な、欺瞞と言っていいかも知れない関係は存在するものだが、それにしてもこと日本では、この映画で描かれた時点でのワシントンDCというそれはそれで狭い世界の住人たち以上に無自覚か、意図的に無視されて済まされてはいないか?

多くの政治記者や政治評論家にとっては、政界の有力者の誰と親しいのかがステータスにもなるのも避けられないのかもしれないが、しかし日本の大手の新聞社では、そうした政界とのコネを使える政治部出身の記者が社長になるような「伝統」がある場合も少なくない。今やトランプ政権と丁々発止の対決を続けるアメリカのジャーナリズム(なかでもワシントン・ポストはニューヨーク・タイムズと並んでトランプ批判の最前線に立つ新聞のひとつだ)だが、そのような報道の「第四の権力」としての自覚と、だからこそ政治権力から独立していなければならない、という意識が明確になっていった過程もこのマクナマラ文書暴露事件やヴェトナム戦争の時期に起こっていたことであり、『ペンタゴン・ペーパーズ』の重要なテーマのひとつだ。

もちろん民主主義の国に暮らす者にとっては、この映画は誰もが「私たちの問題」として考えなければならない課題を提起しているが、こと報道関係者や、インターネットで基本的に誰もが政治や社会の問題に口を出せる世の中になっている現代では自分では「一般人」のつもりでいる人達にとっても、これはより真剣に自分に照らし合わせて考えなければならない問題だろう。

取材する側、される側の線引きが脅かされると民主主義は崩壊する

これは政治報道に限ったことでもなく、筆者自身とて例外ではないというか、例えば映画評論の業界などは配給会社に嫌がられないように批判的なことは書かないことが数十年に渡り常態化していて、その結果として今や批評が褒めたかどうかがほとんどの観客にとって映画を見に行く判断基準にまったくならず、映画批評そのものが限りなく無意味になっているのが今の日本だ。筆者自身の体験で言えば、さる日本映画の当時はもう大巨匠になっていた監督の最新作について、批判というか意地悪な評論を雑誌に書いたのがほぼ自分だけだったことがある。その2年ほど後に大巨匠の旧作が日本国内では初めてほぼノーカットの、最低限のボカシ修整だけで再公開されたとき、その大巨匠にインタビュー取材をしたところ、なんとその後なんども指名されてインタビューを繰り返すことになった。こっそり関係者に尋ねたところ「あの人は自分の映画の批評は全部読むのよ。あなたが書いたことももちろん知ってるわ」という。ちなみに繰り返し指名されたのは「あなたが来ると彼が元気になるから」だそうだ。なおその遺作になった映画については、筆者の見解は公開当時と今では、まったく逆転している。自分なりの言い訳としては、当時はその監督の世界観がなにも分かっておらず、当時書いた批判的な見解自体が的外れだったということにはなるが、これが客観的に正当化されるのか、ただの言い訳でしかないのかは、自信はない。なお何度も指名したからと言って大巨匠が僕に親しさを装って手なずけようとしたことは一切ない。むしろ取材する側がされる側を問いつめるなら、倍返しくらいにやり返すのが、その巨匠が「元気になる」ということで、そうやって相手を追いつめることでその出演者の本質を引き出すのが、この大監督の得意とした演出テクニックでもあった。要するに、同じ扱いをされていたわけだろう。

政治報道に話を戻そう。かつて日本の田中角栄総理大臣は(奇しくもこの映画の舞台となっているのとほぼ同時期に)、自分の “番記者” たちに「君たちの仕事は僕を批判することだ」と言っていたという。結局この問題は、日本では「取材される側」の矜持にのみ左右されてしまうようなところがある。

田中角栄や、あるいは筆者の個人的な体験の例で挙げた大巨匠のような相手であれば批判的なことも書けるのが、逆にニクソン政権であるとか現在のトランプ政権、あるいは今の日本の自由民主党のように批判する報道を目の敵にするような取材される側が、権力を用いて報道を潰そうとすることも辞さない姿勢を見せたとき、この『ペンタゴン・ペーパーズ』で再現された歴史を体験しているアメリカのジャーナリズムならば、今では徹底して対決することも読者とその総体としての社会や国家への義務とまず考えるように訓練されている。それでももちろん、妥協してしまうジャーナリストも多いわけだが。

では日本のメディアはどうだろうか? ベン・ブラッドリーが妻と、暗殺事件直後のジャッキー・ケネディについて語り合った時のような意識を、日本のジャーナリズムは持てているだろうか? およそ足下にも及ばないほど、なにも考えないまま無自覚に妥協してしまっていることはないだろうか? 確かに情報源となる政治家や官僚との人脈を維持するために、つまりは彼らに嫌われないように振る舞うことも理解できなくはないにせよ、むしろアメリカと違い、ジャーナリズムの矜持を守ろうとする記者がバッシングされるのも今の日本だ。

これぞハリウッド映画の本来の王道

『ペンタゴン・ペーパーズ』は最終的に、ヴェトナム戦争について何十年もアメリカ国民を騙して来た政府を直接に批判する映画にはならない。強権的な手法でこの秘密の暴露を潰そうとしたニクソン政権についても、ラストシーンがニクソンへの直接の痛烈な皮肉になっているものの、このような独裁体質の政権がなぜ戦後のアメリカに産まれてしまったのかについて分析しようとする映画でもない。そして同じようなことが今のワシントンDCで起こっている、その背景にも直接に触れようとはしていない。

だがそれがこの映画の限界であり、もっと言えばハリウッド映画の限界であるとしても、それはうどん屋でラーメンの味がしないと怒り出したり、ダヴィンチの『モナリザ』やフェルメールの精緻なタッチを、印象派絵画の筆跡が見える描き方と比較して貶すようなことにしかなるまい。

スピルバーグのもうひとつの、『カラー・パープル』や『太陽の帝国』や『A.I.』、あるいは『リンカーン』のようなよりパーソナルな作品の系譜も見れば、このマクナマラ文書の暴露事件をテーマに、別のアプローチの映画を作ることも出来たかもしれない。それでも、スピルバーグならばニクソンを主人公にする映画はあり得ないだろう(ニクソン本人にはたぶんそもそも興味を持てないのが、例えばオリヴァー・ストーンとスピルバーグのアーティストとしての個人的な資質の違いだ)。しかしたとえばマクナマラの抱えた葛藤なら、『ペンタゴン・ペーパーズ』でも実は裏テーマにもなっているほどで、スピルバーグ個人の関心の対象であるのも確かだ。

だが今のアメリカ社会や民主主義の現状を見たとき、スピルバーグは意図的・意識的な判断として、これを「私たち民主主義社会の一人一人の問題」として見せることを選んだのではないか? だからこその古典的なハリウッド映画の継承というスピルバーグのもうひとつの系譜に属する、「娯楽映画」の説話構造を持つ映画として、この作品は位置づけられるだろう。

この映画の題名自体が、その意志を示している。原題は「The Post」、ワシントン・ポストの「ポスト」であるが、これは前線における見張り場所や、戦闘において守るべき最後の砦などの守備すべき地点を指す軍事用語でもある。ここを守り抜くことが、民主主義を守る戦いで決して譲れない地点なのだと、スピルバーグは静かに伝えようとしているのかも知れない。

その意味でこの映画のラストは、単にメリル・ストリープ演ずるケイ・グラハムがワシントン・ポストの良心そのものへと成長するだけではない。彼女こそが民主主義を死守するThe Postになるのだ。そして彼女に共感して同化する観客の一人一人もまた。

ペンタゴン・ペーパーズ〜最高機密文書 公式サイト http://pentagonpapers-movie.jp/
フォッグ・オブ・ウォー〜マクナマラ元米国防長官の告白 https://www.youtube.com/watch?v=M8zx89IxS34
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