「土井たか子」という時代の終わりに なぜ斯くも日本の女性政治家は「ブス」になったのか by 藤原敏史・監督

社会党代表として日本の大政党で初の女性党首となって「マドンナ旋風」を引き起こし、衆院議長も務めた土井たか子氏が逝去されるにあたり、「女性政治家の草分け」「護憲派」としての功績をとりあえず記すのが普通だろう。だがそうやって無難に済ましてやり過ごすことが、本当に土井たか子氏を追悼することになるのだろうか?

現状では日本の左派、リベラルはもはや青息吐息で、土井氏があそこまで情熱を注いで守ろうとした憲法さえ骨抜きにされそうななか、過去を手放しに形だけ褒めるのでいいのだろうか?

土井氏の人気と「マドンナ旋風」で社会党を中心とする非自民系の野党が一時は勢力を伸ばし、村山富市代表が総理大臣になったことさえあったのは確かだ。

「マドンナ旋風」がもたらした「客寄せパンダ」としての女性政治家

だがその後どうなっただろう? 社民党と名を変えたところでかつての社会党の現状は、目も当てられない状態だ。このままだと土井氏は日本の左派で最後の大物政治リーダーということになりそうだが、それが土井氏を評価する理由になり得るとは言い難い。東西冷戦が終わり共産圏が崩壊した結果、西側諸国でも左派が弱って行く世界的傾向があったことは勘案すべきだし、日本ではその前に団塊の世代のいわゆる新左翼の自滅が社会の信頼を失ったことも影響しているとはいえ、日本の左派の凋落が決定的になった時期に、その勢力の最有力政治家であったのが土井氏、というのが実際の流れになってしまうからだ。

亡くなった人を悪く言うものではないのが大人の見識でもあろうが、日本の左派やリベラルの現状には今さらそんな悠長なことを言っていられる余裕もあるまい。たとえば社会党が土井たか子後、結局は緩慢なる崩壊期に入りあとが続かなかったのは、土井氏が後継者を育てられず、継承継続が可能な党や政治勢力の体制を作り出し得なかったからではないのか? 旧社会党の系譜や、護憲、リベラルを自称する者が土井氏の活躍をただノスタルジックに称えるだけに終始するのであれば、それは自分達の現状から目を背け、土井氏から引き継いだはずの自身の責任から逃避することになりはしないか?

土井たか子氏が日本の政界に女性が参加できる流れを決定づけたのは確かだし、お子ちゃまマッチョ気取りの安倍政権でさえ女性閣僚の数で世論にアピールを計るような時代にもなった。だが逆に言えばそのような「客寄せパンダ」としての女性政治家、「男女平等」というお題目を満たすためだけの女性閣僚という現状を見れば、遡って「マドンナ旋風」は必ずしも肯定的に評価できるものでもなくなる。
今わざと、あえて「女性が参加できる流れ」と書いてみたのは、「マドンナ旋風」という言葉からして、どうにも「女性の政界進出」、つまり女性の政治的主体性の獲得とは言い難いなにかを感じざるを得ないからでもある。いったい誰がどういうつもりで「マドンナ旋風」などと言い出したのか、どんな意味で「マドンナ」と言ったのか、知っている人がいたら是非教えて欲しい。

女性政治家を「マドンナ」扱いとはふざけた男権主義目線な話だ。いい加減に祭り上げただけのお飾り扱いに処女性と良妻賢母イメージを押しつけ、女性性を去勢する女性蔑視とも言え、女性が政治家として本当に政治を左右し実力を発揮する、女性の視点や知性・感性の主体性で既存の政治の流れを変えて行くのを期待したネーミングとは、最初からおよそ思えなかった。

そして土井氏が話題と人気を呼んだ発言の多くが、そんな「マドンナ」枠内に押し込められた女性政治家イメージの傾向に輪をかけたものでもあった。「ダメなものはダメ」「やるっきゃない」、大学で憲法学を学び日本国憲法を遵守しようとする情熱自体は評価されるべきであろうが、これではむしろ男性原理のマッチョな教条主義でしかなく、女性的な、地に足をつけ生活感を踏まえた美意識を貫くしなやかな現実主義のかけらもなく、その実ファシズム的でもある。

「ダメなものはダメ」「やるっきゃない」は
民主主義の政治ボキャブラリーとは言い難い

「ダメなものはダメ」「やるっきゃない」は民主主義の政治ボキャブラリーとは言い難い。土井氏が理想としたはずの日本国憲法に謳われた民主主義とは、「ダメ」なら「ダメ」で、それはなぜなのかをきちんと説明することを要求するはずのものだ。現実主義の政治とは、政治が現実に対してなにをやるべきか、それにはどういう手段が有効かを精査すべきものであって「やるっきゃない」のはそれからの話だ。そんな時にこそプライドにばかり固執しへ理屈を押し通しがちな男性が馬脚を晒すのに対し、女性の方が現実をきちんと見た上解決策を見つけていく才覚もあり、訓練も出来ているのが一般的傾向でもあろう。

男がやる限り、政治とはしばしば「妥協の芸術」に陥り先に進まないどころか、「妥協の芸術」が腐敗にすり替わり、その腐敗をいい加減ないいわけで誤摩化す方向に走りがちだ。男女の性差に関する社会学、心理学、精神医学や大脳生理学などの研究が進めば進むほど、男性的な性格では天下国家を論じる大ボラを吹きながらどうでもいいことの勝ち負けにばかり熱中しがちなのに対し、女性の方が政治の実務、実際にどう世の中を動かして行くのかについて合理的な資質を持っている可能性が高いことが分かって来ている。たとえば男の指導者対男の指導者では避けられそうにない戦争を、女性指導者なら細やかかつ現実に根ざした機知で回避できるかもしれない。実際に我々の実生活や仕事の場でも、男達が意地を張り合っているところが女性の現実主義的な機転や丁寧さで無益な衝突が避けられる場合は多いではないか。

土井さんが示した女性政治家像は
男性以上に男性原理的に硬直したもの

しかし土井たか子氏がひとつのロールモデルとなった日本の女性政治家像は、そんな男女の性差における「女性的なもの」の方向性とは真逆に、むしろ男性以上に男性原理的に硬直したものではなかったか? 「ダメなものはダメ」で話を終えてしまえるのは、男権的なファシストだけだ。「やるっきゃない」では「進め一億火の玉」とそう心理的な方向性に違いはなく、その上ファシズムと言えば「マドンナ」(ちなみに原義は聖母マリアのこと)なる妙な純潔性を帯びた呼称はまさにそれで、ぶっちゃけ女性政治家に処女性を幻想してどないすんじゃい、という皮肉しか思い浮かばないのだが、男の(イメージとしては自民党旧田中派的な)政治家の腐敗に対する「政界のジャンヌダルク」だけが、彼女達に期待される役割であり続けている(ちなみにジャンヌ・ダルクも処女だ)。

これでは戦前、大正・昭和初期のブルジョワ民主主義政党がほどほどに腐敗したのに対して、純潔主義を標榜した陸軍が力を持つようになったことと、あまり変わらないようにも見えるし、なにしろマドンナにジャンヌダルクでは、日本的男権主義にありがちな妙な母性依存の甘えと処女信仰が結びついた、野暮で子どもっぽい男権主義の幻想におもねたものでしかないとすら言える。

女性議員って、なんとファッション・センスのない、
服の着こなしがなってないのだろう

土井たか子氏が颯爽と登場したはずの時代以来、いわばその後継者の福島瑞穂氏だけでなく、対立する自民党系の女性政治家達も含め、正直に言うと「女性議員って、なんとファッション・センスのない、服の着こなしがなってないのだろう」とずっと思って来た。政治家を美人と形容すると「セクハラだ」とぶっ叩かれそうなのが日本社会の奇妙なタテマエなのだが(そりゃ土井氏を「ブス」とか言ってしまえば失礼だしセクハラになるに決まっているが…)、大人の女性の美しさとはなにも顔や身体の姿形だけの問題ではあるまい。そして実際、容姿・身体的な姿形に関係なく、妙に似合わない、やたら派手な色が目立つだけで、カッティングの悪さは目もあてられず、シェイプやシルエットの野暮ったさに至っては「これわざとやってるんじゃないか」と思えるくらいの、さらにはっきり言えば品のない、品性を感じさせない服装が、日本の女性政治家ファッションの標準であり続けている。わけが分からないド派手さの、しばしば無節操にひとつの原色で統一された野暮ったいスタイルは、土井氏がそうであり、それ以来ずっとだ。

シモーヌ・ヴェイユのグレーのシャネル・スーツの「神話」は出来過ぎにしても、たとえばヒラリー・クリントン氏や、今のアメリカ駐日大使のケネディ氏は、落ち着いた色のスーツ姿が知性や鋭敏さを引き立て、華やかな場でのイヴニング・ドレス姿もすっきりしていて美しい(ヒラリーがいかに政治的には化け物でも!)。ドイツ首相のメルケル氏は決していわゆる「美人」ではないが、日本の女性政治家のほとんどが比べものにならないほど「きれい」だ(たとえ女ブルドーザーのブルドッグ宰相でも!)。少なくとも本人の個性、ないし政治家として必要に見合ったイメージの服を、きちんと着こなしている。フランスで初の女性大統領候補だったセゴレーヌ・ロワイヤル氏は、元夫の現フランス大統領オランド氏とは比較にならぬほどに「かっこいい」(ブルジョワ的高慢ちきなインテリ臭が鼻につくとしても!)。そしていずれも、大人の女性としての成熟した信頼感とセクシーな貫禄を演出している。現代の世界はとっくに、女が女だからこそ政治で能力を発揮する時代になっているはずだ。

それに対して土井たか子氏がロールモデルとなった日本の女性政治家像は、率直に言ってしまえばとにかく「かっこ悪い」のだ。なによりセクシーさがない。目鼻立ちはそれなりに整っているのに「ブス」が多い。性的といえばせいぜいが自民党の佐藤ゆかり氏とか小池百合子氏、片山さつき氏、高市早苗氏などの場末のホステス・タイプで、魅力があるとしたら一部のオジサン限定、あれはあれで国会やニュースや討論番組で見るには気持ち悪い。一方最新世代の、たとえば共産党の参議院議員の吉良よし子氏など、「女の子が政治をやるのかよ?」と言いたくなるくらいに雰囲気が幼いのは、ロリコン趣味な支持者限定の魅力なのだろうか? いやそれを言うなら、男性政治家だって40半ば過ぎても「男の子」と言いたくなりそうで、行動もまた子どもじみて来ている。細野豪志氏や小泉進次郎氏などセックス・アピールのある男性はごく一部、あとはいわゆるイケメン議員でもなにか子どもっぽくセックスの匂いもない者ばかりなのがたとえば民主党では前原誠司氏、年輪を重ねても菅直人的な清潔感のないムッツリ・スケベ・タイプにしかならないのだから、女性だけを責めるのは不公平かも知れない。

セックス・アピールは美意識を裏付け、
夢を信念に変えさせる力強さとなる

バラク・オバマも一期目が終わる頃にはずいぶんやつれてしまったが、大統領選挙に颯爽と登場した頃は間違いなくセクシーな政治家だった。むろんジョン・F・ケネディという例もある。オランド氏の前のフランス社会党の大統領選本命候補だったドミニク・ストロス=カーンはセックス・スキャンダルが暴露されて政治生命を絶たれたが、逆に言えばモテモテのフェロモン親父だったからこそ特に女性党員に人気があったわけでもある。政治家は、とくに左派のリベラル理想主義系は「かっこよく」あればこそ、硬直した世の中を変えて行けると思わせる精力と魅力があってこそ、信頼されてリーダーとなるのは、理想を貫くことが美学だからだ。セックス・アピールがその美意識を裏付け、支持者に夢を信念に変えさせる力強さとなる。

逆にファシズム体制の指導者は、不思議なまでに実はセックス・アピールがない。というか実はたいがい、ものすごく「かっこ悪い」。アドルフ・ヒトラーは貧相な口ひげのちんちくりん、ベニト・ムッソリーニはあまり軍服の似合わない小太り、東条英機でも軍服姿の昭和天皇でも「かっこいい」「セクシー」という形容は思い浮かぶまい。オウム真理教の麻原彰晃が美女信者を従える姿は珍妙だった。ファッショとまで言わずとも右派の指導者でも、ジョージ・W・ブッシュは一部が母性本能をくすぐられる程度だろうし、ジョン・F・ケネディにリチャード・ニクソンが大統領選のテレビ討論で完敗したのは話の中身もさることながら、本人に容姿についてのコンプレックスが強いのが災いして、立ち居振る舞いからしてまったく説得力がなかったからだ。裸でバカンスを楽しむ姿をわざわざパパラッチに撮らせたニコラ・サルコジ前仏大統領は、本人はセックス・アピールのつもりだったのが、かえって痛々しく見えた。

女性政治家となるとブッシュ政権の国務長官だったコンドレッサ・ライスは容姿は大変な美人なのが不思議なくらい、ちっとも「きれい」ではなかったし、サラ・ペイリン(2008年米国大統領選・共和党「副大統領」候補)となると知性もセックス・アピールもファッション・センスも欠片もなく、妙に子どもっぽくもある。

日本の女性政治家のイメージとなると、実はそのペイリンがいちばん近く思える。「マドンナ」という処女純潔幻想を帯びた呼称の呪縛なのか、土井氏以来増え続けてはいる女性政治家は、性的なものを去勢された存在を演じているか、ないし演じさせられているのではないか? 細川護煕政権の100日天下以降の日本の場合、男の政治家がこうも駄目になれば、女性が女性らしいしなやかな知性でとって替わった方がいいはずなのに、決してそうはならない。むしろ男らしさが男性政治家から去勢されれば、女もそれに合わせてそれ以下へとでも去勢されて行くのだろうか?

欠如しているのは個々の
女性それぞれの美意識

女性が女性らしい力強さを持った政治家たり得ない日本の現状は、女性の容姿をくさして本人の人格を貶めるのならセクハラになるはずが美しい容姿の女性政治家を「美人」ということが女性蔑視だセクハラだと勘違いされがちな日本社会全般の現状とも同調し、女性のファッション・センスがどんどん劣化し、変に子どもっぽいことを「かわいい」と勘違いした、奇妙にアンバランスでどこかおかしい着こなしや組み合わせ、暗色のストッキングにハイヒールを合わせたところになぜか白いソックスが挟まったり、O脚なのに極端なミニスカートを履きやはりなぜかソックスで足のラインを殺し、黒いタイツの上になぜかスカート(それもジーンズが多い)という不思議ないでたちがまかり通ることとも関連しているのかも知れず、そこに共通して見えて来るのは、女性が不自然に自分の女性としての性的なものを歪めているか、押し殺していびつなものとしてしか表象できないか、それを自分の見た目から去勢しようとしてしまっている姿だ。もっと言えば、わざと自分に似合わない、自分の魅力を殺す服を選び、美人ならわざと自分を美人に見せないようにするか、自らをブランド物の着せ替え人形へと押し込めてしまう傾向、とも言える。

欠如しているのは個々の女性それぞれの美意識であり、その美意識を感じさせない左翼こそが土井たか子氏が結果的に表象して来てしまったイメージでもある。あらゆる女性がそれぞれに自分なりの力強さを回復し、内面から輝く美しさを持つことが理想であったはずのフェミニズムが、日本のフェミニズムでは美人がいればブスが嫉妬するのでそれは避けるか美人を叩いて潰し、横並びでみんながブスになればフラットな関係になれるという平等性の強要の思い込みに支配されるようになり始めたのも、土井氏の「やるっきゃない」がもてはやされた時代と重なる。

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土井さんが選ぶ言葉や政治的行動は
人間的しなやかさを押し殺した

土井氏が頭角を表すのと相前後して国際ファッション界の寵児に躍り出た山本耀司は、社会を女性にとっての戦場とみなし、彼女達が身を守り戦える、いわば「鎧」や「戦闘服」として服をデザインして来たと語っている。女性の身体をやさしく包み、守り支えながら、その魅力を内面から引き出し目に見えるものとして表現する、それが彼女達の身を守る武器となるような服が山本の理想であるのなら、その対極にあるのが土井たか子的な、あるいは土井たか子氏が創造した戦後女性政治家アーケタイプの、いでたちも政治的行動も喋り方も含めたイメージであり、それはその後の日本の女性像やその社会的地位の変遷にも影響を与えているか、少なくとも相関関係にある。革新か保守かというのでなく、女性政治家のほとんどが土井たか子的アーケタイプを表象している今の日本は、その社会全般で決して「女性が解放されつつある」と言える現状ではおよそないのは、言うまでもない。

なにもファッションだけの問題ではない。理念的な政治的立ち位置ではなく、選ぶ言葉や実際の政治的行動も含め、土井たか子氏が作り出したか、あるいは彼女に代表される彼女以降の社会党など左派の政治家や運動家の、政治的な立ち居振る舞いのイメージすべてが、左派リベラルであったり、ないし女性であることが自由なものであるよりは、硬直して息苦しく、本来なら左翼思想や女性であることが持っているはずの人間的にしなやかなものを押し殺した、形だけの、教科書的な類型にしてしまったように思える。

土井氏が自身の庶民派イメージを売り出そうとした時に使ったのは、阪神タイガースのファンでパチンコが好き、だった。そんな薄っぺらなもんで庶民の支持を得ようとは、なんとも有権者を馬鹿にした話ではないか? そんな庶民派演出と引き換えに、憲法の専門家であった土井たか子氏が憲法論をおおやけに戦わし、知性と機知で自民党右派の男性議員をやっつけるような姿があったのかどうかすら、まったく記憶に残っていない。安倍晋三の言う「集団的自衛権」のハチャメチャ論など、簡単に問い詰めてやっつけられる素養も教育も知識もあるはずなのに、である。

平和主義は美学の問題であるのに、
それが欠如したのが土井さんではないか

庶民派の左派政治家ということは、野球チームや趣味の問題ではないし、まして無教養を装うことではないはずだ。庶民派とは庶民の生活現実をきちんと理解し、机上の空論ではない政治をやることのはずだし、それは「ダメなものはダメ」「やるっきゃない」のかけ声だけで実現できるものではない。上からのかけ声だけで巨大な行政組織が下の下まで従うと思い込むのは、力と上下関係のプライドに拘泥する男の権威主義にありがちな、誤った、人間性を理解しないやり方だ。男性政治家だが、先頃インドネシア大統領に選出されたジョコ・ウィドド氏はジャカルタ市長時代に、行政機関のお役所仕事を大改革した。開庁時間は9時なのに窓口業務が始まるのは早くて10時過ぎてから、行列だらけだったのを市民ニーズで変えるのに、ジョコ氏がやったのは市長自らの予告なしの抜き打ち視察、それもテレビ取材を同行してだった。無論、効果覿面である。このようにリアルで賢いからこそ「かっこいい」ことが「庶民派」政治家ではないのか? だとしたらむしろ土井たか子氏の登場は、日本の左派政治が庶民の美学や美意識、美しかったりかっこいいと感じるものから決定的に遊離する契機だったとすら言えるし、庶民は庶民でその政治的美意識や社会的ビヘイビアの美学を、ことバブル崩壊以降どんどん喪失して来てしまっている。とって替わったのは身勝手、わがまま、狭量な自己中心主義と承認願望、集団への所属願望の自己正当化と、その裏返しとしての他者叩きへの熱中だ。

平和主義は美学の問題だ。世の大勢に抗してでも信念に生きること、嘘や虚飾を嫌うこと、皆の幸福を望むこともまた美学の問題である。その美意識が決定的に欠如してしまったのが、土井氏が悪いというのではないにせよ、土井氏が頭角を現して以降の日本の左派やリベラルだろう。ちっとも美しくもかっこ良くもない、プライドに凝り固まって平等主義をいいわけにし、足の引っぱり合いが好きな教条主義者の、俗に「プロ市民」と揶揄されるような集団まで産んでしまっているし、土井氏自身がその頭目のようにさえみなされる節もある。福島瑞穂氏は優秀な弁護士でセミプロ級のピアノの名手だそうだが、なぜあんな間延びしてリズム感のない、語尾が不自然に伸びるだらしない喋り方で黄色い声を張り上げるのだろう?どピンクの上下で襟に変な飾りがヒラヒラしたり、およそ「かっこよく」ない。福島体制の末期に社民党内で対立関係になった阿部氏の方は女性教師っぽい雰囲気でも、たおやかで丁寧だが堂々とした口調で理路整然と政府側を問いつめる国会質問など、はるかに女性らしく信頼感を見せ、「きれい」だった。

村山富市元首相は土井たか子氏の死に際して「いま元気だったら、安倍政権を絶対に許せないと、全国で訴えて回っているでしょう」とコメントしているが、もし土井氏にその体力が残されていたとしても、それでなにが変わっただろうか? 「護憲の人」がもはや聞き慣れた…というか聞き飽きた「ダメなものはダメ」を繰り返したところで、喝采するのはそれを聞く前から立場上拍手すると決まっている人たち(要は「プロ市民」)だけだろう。土井たか子氏が最後の日本の左派の大物政治家であると言うのは、実は褒め言葉にはまったくならないのである。

こんな調子では左派やリベラリズムが世の中を変えようという大きなうねりにつながることは、最早難しい。土井氏以降、左派も護憲運動もリベラリズムも固定化して躍動するもののなにもない類型となった「ダメなものはダメ」、固定メンバーどうしが考える自由も許容し合えず議論もないままに「やるっきゃない」のかけ声でまとまるだけの、自己閉塞し疲弊したプチ・ファシズムになってしまったのではないか?

なぜこうなってしまったのか? 有り体に言ってしまえば、土井たか子氏の政治スタイル、その目に見える政治家としてのカタチ、そのフォルムが「かっこよくなかったから」だと言うのが、さしあたりの率直な結論になるだろう。「かっこよくない」から広がらない、内輪に引きこもって開かれた動きにならない。土井氏だけのせいでは無論ないが、土井氏の登場を契機に、日本において左派やリベラリズムは「かっこいい」ものではなくなってしまい、「セクシー」に至ってはもはや欠片もない。


権威主義的でかっこ悪い学級委員的な
女性しか政治家になれなくなった現状

「マドンナ旋風」にしても「阪神ファンでパチンコが好きなおたかさん」で庶民派を称することにしても、あるいは「護憲」「平和の党」にしても、朝日新聞を中心とするマスコミもまた、なんともまあかっこよくないイメージを使って土井氏を持ち上げて来たのだろう、と土井氏を追悼する記事を読んでいるとどうしても思ってしまう。これではせいぜい、学級会的なタテマエのみの支持を、優等生ぶりたい人たちから集めるだけではないか? いや安倍政権が女性閣僚の頭数を揃えて「女性に開かれた」を演出した気でいることもまた学級会的でしかないわけだが、土井氏が日本の政界への女性の進出に功績があると言うのなら、こんなヘタレ男たちの男権的な政界の、形だけのエクスキューズとしてしか女性が政治進出できない現状への貢献にしかなっていないのも、また現実ではないか?

なんとも女性ならではの洗練に欠けた、野暮ったくて男臭い、一皮剥けば権威主義的でなんとも「かっこ悪い」、学級委員的な形でしか、女性が政治家になれない状況を土井氏が作ってしまったとまでは言わないまでも、土井氏自身は自ら進んでそのイメージに甘んじて来てしまったのではないか? 知性と美意識を感じさせないことを「庶民派」と誤認するのなら、そんなかっこよくない左派を支持するのは、自分がかっこよくないコンプレックスに固まった人たちと、その有象無象への配慮で支持のポーズをとらざるを得ない、自身もまた「かっこよく」なりきれない、なれそうにない人たちだけだろう。

ドイツの現代詩人ペーター・ハントケはかつて、冷戦の終わりを予感しつつ「人類は未だに、平和の叙事詩を書けたことがない」と書いた。古今の叙事詩のほとんどは戦う英雄、戦争にこそ「かっこよさ」を見出すことで成功して来た。そして冷戦は終わってその後も、人類は平和の叙事詩を書くことが出来ていない。

冷戦は冷戦のまま終わったのであり、誰も勝ってなぞいない。しかし西側自由主義陣営諸国の、特に保守系の政治は、それをあたかも自分達の勝利のように装い、彼らがそこに偽りの陳腐な叙事詩もどきを紡ぐことを、我々は許して来てしまった。現状の日本では、たとえ実際の政治家たちが安倍晋三や石破茂のように目を覆わんばかりのかっこ悪さであり、彼らが「安全保障政策」と称するものが冷戦期の遺物の時代錯誤な世界観の産物の中国憎しとアメリカ依存という恐ろしくかっこ悪い、情けないものであっても、「戦争」や「兵器」という力の表象の記号性を「かっこよさ」に利用できるだけ、右傾化の方がまだ勝ち目を持ってしまう。いやもはやその日本の右傾化もまた、自らのかっこ悪さを誤摩化すために記号と表層だけの「かっこつけ」にすがるものでしかないものだが、それでも「ダメなものはダメ」や「やるっきゃない」的教条だけで自身の知性も感性も押し殺す、しかもあのファッション・センスの悪さでは、その実かっこ悪くて小児的な、情けない右翼に対してすら勝ち目はあるまい。

冷戦崩壊期からバブル期以降の日本の政治に、平和の叙事詩を書くことが出来なかったからと言って土井氏を責めるのは、さすがに言い過ぎで不当ではあろう。平和の叙事詩は、世界中で誰もそれを書けたためしがない難事業なのだから。しかしこのままでは土井たか子氏の遺産とは、左派の教条主義化と女性の政治参加の形だけというか頭数だけになる自己閉塞した硬直と、その必然的な結果としての左派の凋落だけ、となってしまいかねない。

 

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4 Comments

  1. 微妙なタイミングで、監督にしては薄っぺらすぎる記事をよく書いたものだと思います。
    第一に、土井たか子批判は(朝日批判と同じように)ウケるものであり、共感コメントも疑ってかかる必要があるでしょう。

    ①まずファッションセンスですが、東アジアの政治家でセンス良い方がいるでしょうか?
    先進国の仲間入りして久しいですが、日本はいまだに「東アジアレベル」と言ってよい
    社会構造や文化的に遅れた面もあり、女性の社会的地位もそのひとつです。

    現代基準で見ると意外ですが、昭和末期に土井たか子氏はファッション的にはむしろ健闘していたと
    思います。だから「マドンナ旋風」というキャッチフレーズがつけられたのです。
    (当時の有力自民党議員には老人も少なくなく、彼らと比較すれば新鮮に映った
    のは言うまでもない。)

    近年でも、もし蓮舫が服装華やかに国会に登場しようものなら、バッシング受けておしまい
    でしょう、女性議員のファッションセンスに関して問題にすべきは土井たか子氏より、
    社会(永田町含む)風土かと。

    ②左翼の衰退と土井たか子氏を結びつけるのも疑問。
    社会党が躍進した80年代後半すでに左翼運動など下火で、思想的に左寄りが多かったのは確かでしょうが
    「平和ボケ」レベルがほとんど。
    何より社会党の躍進も、自民党議員の相次ぐ汚職が大きな原因。
    ある程度、民主党が政権取ったときのムードと共通する部分があります。
    (また、バブル末期~バブル崩壊にかけての日本はカネの問題が第一で、政治は二の次というか
    当時の社会党レベルでも良かったという時代)。

    何より、日本には実力ある野党など昔も今も皆無。日本が深刻な不景気に見舞われて以降、
    社会党が衰退の一途をたどったのは必然でしょう。
    今の野党の支持率も軒並み一桁パーセント台ですが、これが日本の野党の実態だと思われます。

    思想的にもバブルが崩壊した90年代は右左問わず空疎そのものであり、
    左翼と社会党の衰退は時を同じくしたとはいえ、社会状況考えるべきでしょうね。
    個人的には、吉本隆明が平成以降「日本の左翼に未来はない」(一字一句確かでない)
    という内容のことを言ってましたが、単にその通りなのではないでしょうか?
    土井たか子氏と左翼の衰退を直結させ責任を問うのは、もってのほかでしょう。

    ③他に気になった注意点

    ・「ダメなものはダメ」「やるっきゃない」の掛け声について
    ー社会党はいわゆる労働党です。そんな言葉に噛みついて持論展開しても意味ないのでは?

    ・女性政治家像は、男性以上に男性原理的に硬直したものではなかったか?
    ーこれも永田町&霞が関風土の問題でしょう、土井氏ひとりの問題ではありません。
    今に至るまで女性政治家の多くは「男性原理的に硬直」してます。

    ・女性政治家は、性的なものを去勢された存在を演じているか、ないし演じさせられているのではないか?
    ーマスコミの問題も大きいでしょうね。上にも書きましたが、もし蓮舫が服装華やかに国会に登場しようものなら、
    バッシング対象になります。

    ・土井氏が自身の庶民派イメージを売り出そうとした時に使ったのは、阪神タイガースのファンでパチンコが好き、だった。
    そんな薄っぺらなもんで庶民の支持を得ようとは、なんとも有権者を馬鹿にした話ではないか?
    ー票を得るための政治家の戦略は、たいてい下世話なものです。おそらく当時の関西でウケたのでしょうね。
    個人的にはこういうイメージ戦略を否定しません。投票率増やすかもしれないですし。

    ・知性と機知で自民党右派の男性議員をやっつけるような姿があったのかどうかすら、まったく記憶に残っていない。
    ーそういう場面もありましたが、ニュースは報道しません。

    ・学級委員的な形でしか、女性が政治家になれない状況を土井氏が作ってしまったとまでは言わないまでも、
    土井氏自身は自ら進んでそのイメージに甘んじて来てしまったのではないか?
    ー晩年の土井氏を責めるのは酷だと思いますね。むしろ変革心に富んだ政治家など日本にいるでしょうか?

    ・「ダメなものはダメ」や「やるっきゃない」的教条だけで自身の知性も感性も押し殺す、しかもあのファッション・センス
    の悪さでは、その実かっこ悪くて小児的な、情けない右翼に対してすら勝ち目はあるまい。
    ー繰り返しですが、自民党議員の相次ぐ汚職と党内分裂でで躍進した政党です。実質的に勝ったことはありませんし、
    ファッションセンスはほぼ関係ないです。

  2. 反論にもなにもなってない反論を長々とご苦労さまです。つきましては本文を今度はちゃんと読んで見て下さい。「個人的には、吉本隆明が平成以降「日本の左翼に未来はない」(一字一句確かでない)という内容のことを言ってましたが」って、まさにその吉本が言っているのと同じことを土井たか子氏という事象を通して分析したのがこの本文で、「土井たか子に責任を直結」なぞしてませんが…?むしろその社会状況が「土井たか子」という存在を産んだ(本人はそれを演じざるを得なかった)って話なのですが?

  3. …っていうかどこ読んだら「上にも書きましたが、もし蓮舫が服装華やかに国会に登場しようものなら、バッシング対象になります」とか書いてるんだろう?まさにその問題を論じてあるのがこの文章でありましてねえ…。ちゃんと「ないし演じさせられているのではないか?」と書いてあるでしょう?

    「マスコミの問題」とか知ったかぶりで高飛車はいいんですが、原文には「朝日新聞を中心とするマスコミもまた、なんともまあかっこよくないイメージを使って土井氏を持ち上げて来たのだろう、と土井氏を追悼する記事を読んでいるとどうしても思ってしまう」とも明記されていますが?

    キーワードが「去勢」だってことも気づけないのでしょうか?『マドンナ旋風』『ジャンヌダルク』は日本的な男権にありがちな処女幻想と母性願望、って書いてあることの意味も分からないのでしょうか?

    > これも永田町&霞が関風土の問題でしょう

    それに負けて服従しちゃうんでは女性で左派の政治家の意味がない。それこそ自民の女性議員のような「場末のホステス」になるだけ、というかはっきり言えば場末のホステスの元祖が土井たか子氏だったわけです。

    だからほんとどこ読んでおいでなのでしょう?

    「男らしさが男性政治家から去勢されれば、女もそれに合わせてそれ以下へとでも去勢されて行くのだろうか?」

    と明記してありますよね?男だって女だって去勢されたら「カッコ悪い」に決まってるだろうに、半ば以上去勢されているのに威張りたがる人には読解できないのでしょうか?

    > 今に至るまで女性政治家の多くは「男性原理的に硬直」してます

    だから土井たか子がそのアーケタイプになった、という話なのですが?

    いちいち全部指摘するのでこの3点だけはあまりに問題なので

    > 日本が深刻な不景気に見舞われて以降、社会党が衰退の一途をたどったのは必然でしょう。

    まともな国では不況で社会格差が広がって低所得層が増えると左派政党が勝ちます。

    > 票を得るための政治家の戦略は、たいてい下世話なものです

    そんなテを使う政治家が日本の政治を劣化させてる、って話をしていることがなぜ分からないのでしょうね?

    > 社会党はいわゆる労働党です。そんな言葉に噛みついて持論展開しても意味ないのでは?

    あなたがたいした中身もないのにとにかく偉そうな顔をして威張りたがりたい方であるのは文章を読めば分かるわけですが、いったい何様のおつもりなのか、と当然思われるにせよ、これはあまりにも酷い差別意識ですね。労働者と庶民をなめるんじゃねえ。

    …と、このように下らんプライドだけで威張りたがるカッコ悪い男達が、女性たちをせいぜいが「土井たか子」レベルでしか活躍できない立場に追い込んでいる、というのがこの文章の主旨なのですが、なぜそんな簡単なことも分からなかったのですか?

toshi fujiwara/藤原敏史 (@toshi_fujiwara) へ返信する コメントをキャンセル