人生はいつでも、やり直せる!『プロミスト・ランド』映画評 by 藤原敏史・監督

破砕掘削法による天然ガス採掘(いわゆるシェール・ガス)をめぐる物語。よりクリーンな化石燃料として注目されているが、この採掘方法は一歩間違えれば重度の環境汚染の危険性がある。

だがこの環境問題に取り組むに当り、マット・デイモンが最初は自分で監督も兼ねるつもりで書いた脚本は、膨大な利益を得たりしている業界の側には行かない。デイモンが自分で演ずる主人公は大企業の社員だが、仕事は天然ガスが埋蔵している土地の地権者との交渉。相手はアメリカの名もない田舎の、普通の人たちだ。

この映画で大切なのは

ストーリーでなく空気

父や祖父、曾祖父の切り開いた土地で農業を続けるのが誇り、と口で言うのは易しい。だが自分もそんな地方の出身の主人公は、農業だけが産業では地域が立ち行かない現実を肌身で知り、だから故郷を棄てた男だ。補助金がなくては細々と農業を続けることも難しい人たちを説得するのに、うってつけの人材だ。

…と物語を説明するだけでは、『プロミスト・ランド』という映画の魅力はちっとも伝わらない。社会性の強い題材を選びながら、デイモンはメッセージ映画を作ろうとはしていないし、だからこそ監督をガス・ヴァン・サントに依頼したのだろう。この映画で大切なのはストーリーではなく、空気だ。アメリカのどこにでもありそうな田舎町を、そこにべったり張り付いてノスタルジックに礼賛するのでもなければ、旧弊で保守的とこき下ろすのでもなく、その複雑さを見せはしても、まさに「訪問者」のほどよい距離感で、まずその空間を共有する喜びを味あわせてくれる。シンプルな田園風景はひたすら美しい。同性愛者というマイノリティであるが故にヴァン・サントの映画がアメリカ社会に対して持ち続けて来た、拒絶や反発ではなく「距離」の感覚が、この映画の田舎町の描写で驚くべき成熟を見せる。

かけがえのないひとつひとつの世界を

Taking careすることが一番大切

天然ガスの話でも、今の日本人にはこの人々の物語は福島県浜通りの人たちにどんどん重なって行く。世界の変化にどうついて行くのか?繁栄のしわ寄せは極めて合理的な判断により地方にのみ押し付けられ(原発は都会には作られないし、天然ガスが採掘されるのは田舎だけだ)、繁栄の一部でも享受するのは、都会では想像もしていない大きなリスクと引き換えでしかあり得ない。確実に危険なら断る判断は簡単だろう。だが「万が一」「もしかしたら」環境は取り返しがつかないほど破壊されるが、このままなら故郷は確実に破綻する。メッセージを背負ったストーリーではなく、その立場に置かれてしまった人たちの間に流れる微妙な空気をこそ、ヴァン・サントの演出は丁寧に掬いとって行く。

こういう映画は「淡々とした演出」と類型的に語られるが、それは間違いだ。私たちはストーリーを押し付けられるのではなく、映像と音声の繊細で丁寧な配列によって、自分が知らなかった人々の世界に招き入れられて行くのである。あくまで訪問者ではあっても、映画館のなかで、映画の上映時間だけはその人たちの世界で共に生きる感覚。どこにでもある、しかしかけがえのないひとつひとつの世界、それをTaking careすることだけが一番大切なのだと、主人公が最後に悟る時、日本でこの映画を見る観客は、その唯一の大切なことすら原発被災地の人たちに我々の社会が許していないこの3年間の重みと、実は40年以上前からその権利を奪って来たことを痛感しなければならないはずだ。

『約束の土地』とはなんなのか?

Taking care of things. 果たして多くのリスクを一部の、いわゆる僻地や田舎にばかり押し付けることで成り立って来た文明の、その恩恵を最大限に享受している都会の我々は、自分の身の周りの世界ですら本当にTaking careして来たのだろうか?題名の『約束の土地』とはなんなのか?私たち自身がその「約束」を、裏切って来てはいないか?

 

2013年ベルリン国際映画祭 スペシャルメンション受賞

2012年ナショナルボードオブレビュー 表現の自由賞 受賞

8月22日(金)、TOHOシネマズ シャンテ、新宿武蔵野館ほかにて全国ロードショー!

YouTube Preview Image

Be the first to comment

コメントを残す