東京国際映画祭『ジャクソン・ハイツ』~アメリカの現代を観察・記述し続けるフレデリック・ワイズマン40本目のアメリカの肖像は、虹色の明るさにあふれた多様性と民主主義への讃歌 by 藤原敏史・監督

Photo courtesy of Zipporah Films, Inc. www.zipporah.com

ニューヨーク、クイーンズの地下鉄(といってクイーンズでは高架鉄道だが)ジャクソン・ハイツ駅の周辺に広がる街角では、現代のアメリカではまず考えられないことが起こる。キリスト教会の奉仕団がゴミ拾いのボランティアをやっているところに、中年の女性が声をかけ、祈って欲しいと頼む。父親ががんで危篤で、今日は腎臓の機能が低下したという。つまり、あと二、三日の命しかない、その父のために祈って欲しい。恐らくはこんな時までは信仰や宗教にとくに関心もなかったであろう彼女の頼みに、ボランティアの人たちは輪を作り、彼女の父の最後の平安のために神に祈る。女性は感謝し、人々と笑顔で抱擁を交わす。

確認しておくが、これが40本目になるフレデリック・ワイズマンの現代社会観察映画は、あくまでドキュメンタリーだ。だいたい2ヶ月くらいの期間、撮影すると決めた場所や組織で興味を引くものを片っ端に、だいたい1本の作品につき80時間から120時間ぶん撮影し、1年前後かけて編集構成していった結果が、『ジャクソン・ハイツ』なら3時間9分の完成作になる。映画のキャメラの存在が現実にまったく影響しないということもあるまいが(その問題意識、撮影する行為自体がある演出機能を持つことは、現代のドキュメンタリーでは常に議論の的になる)、ワイズマンはそうだとしても自分は関心がないと言う。「キャメラがあることでその人々が自分の社会的役割をより意識して行動するなら、社会のあり方を見せる私の映画にはむしろ都合がいい」と言うのが持論だが、いずれにせよこの祈りのシーンは、特段映画の作り手が演出したことでもなんでもない。

奇跡がささやかな日常のなかで確かに起こっていることを記録する

この祈りは、たまたまその場で、キャメラの前で偶発的に起こったはずだ。宗教や信仰がなにか奇跡を起こし得るという考え方に与する気はないが、それでもこのシーンが起こったこと、それが撮れてしまったことの偶然と必然はやはり奇跡としか言いようがないし、宗教や信仰が起こした奇跡であるのも確かだ。

多様な宗教は、人種民族の坩堝の、多様性の街では重要なテーマになる。最初に訪れるのはモスクだ。祈りの場に入るため足を清める男達と、そしてイマームの説教が映し出される。と言ってステレオタイプにことさら関係ない、ごく普遍的なことを語っている、それを聴く人たちの顔、顔、顔、顔のアップが積み重ねられる、それぞれに千差万別な風貌と、真摯な眼差しの力。『ジャクソン・ハイツ』は街角の風景の映画であると同時に、その街に住まい、その街を彩る顔の映画である。

こんどはユダヤ・センター、つまりはユダヤ教のシナゴーグに場面が移るが、集う人たちの服装はなぜかとてもカラフルだ。

アメリカが理想としながら未だ実現できていない、民主主義と多様性の社会

話の流れから、話し合われているのがジャクソン・ハイツが中心に組織されるクイーンズのゲイ・プライド・パレードのことだと分かり、地元選出の市議会議員が、もう30年の歴史のあるパレードを協力して盛り上げて来たコミュニティを挙げ始める。「自分の国が出て来ないと、不愉快な人もいるでしょう」と言うわけで列挙される国・民族名は、まさに際限がない。ここは人種民族だけでも167もの言語が使われていると言われるほど多様な街で、シナゴーグはこの街の、人種や民族・宗教や、性的マイノリティへの偏見さえ超えた、差別のないコミュニティ・センターとして機能しているのだ。

『ジャクソン・ハイツ』は夏の映画だ。ニューヨークの夏は暑く、明るい。ジャクソン・ハイツはマンハッタンに地下鉄で直結し交通は至便だが、今でもいわゆるマイノリティ、発展途上国からやって来た移民達を受け入れて来た街であり続けていて、小規模な自営の商店や民族料理のレストランだけでなく、発展途上国のどこの都市でも今もそうであるように、屋台が立ち並ぶ。

アメリカ合衆国のほとんどでは、都市部でさえ車社会になり、ストリートは人が歩く場ではなくなっているが、ここでは人々は徒歩で買い物や食事に出かけ、ストリートは生活の場だ。休日にもなれば街角や広場、公園で音楽が演奏され、その活気がこの映画により祝祭的な明るさを与えている。ワイズマンのキャメラは演奏する者達をフルショットで、聴く人たちの顔、顔、そして顔をアップで捉える。

人々がありのままの自分を率直に語る時、ストリートは名舞台になる

移民受け入れNPOの集会所は繰り返し登場する大きな舞台になり、その室内が大きな窓で外のストリートに繋がっていることが、夏だけにしばしば開閉されるその窓のショットで強調される。ドキュメンタリーなのにあえて「舞台」と書いたからと言って、別にドキュメンタリーであることを無視したわけではない。移民して来た人たちがその移民体験を集会で皆に向かって、そしてキャメラを通して映画の観客に語る姿は、現実の、自分たち自身を語っているからこそ、まるで名舞台の長いモノローグの名シーン…いやそれ以上に感動的なパフォーマンスなのだ。

彼らの移民体験はいずれも現代の現実に翻弄された、苦いものだ。映画が直接見せるジャクソン・ハイツの日常の風景がとても平和な、ほとんど理想郷のように見えるからこそ、ここ以外のアメリカの現実の過酷さ、アメリカのあるべき姿がおよそ現実になっていないことが逆照射される。

Photo courtesy of Zipporah Films, Inc. www.zipporah.com

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分厚いピケティの学術書よりもすんなり理解できる資本の論理

アメリカが常に悩み続けて来た多様性の尊重の実践が、この街では曲がりなりにもちゃんとある日常の一方で、ワイズマンはこの街で細かな困難や矛盾、まだ残る差別にも直面しながら、それでも実現している普遍的な価値が、別の普遍的な価値で脅かされていることを見逃さない。マンハッタンへの交通の便に恵まれたこの街では、不動産が高騰しつつあり、今後もここが発展途上国からの移民の生活が成り立つ場であり続ける保証はない。

民主主義と資本主義は簡単に善悪の対立関係として区分けできるものではないが、しかし資本の論理が幾重もの複雑なやり方で民主主義の選択を狭めていることを、映画は具体的な現実を緻密な構成で分析解明して行く。そんなメカニズムこそが資本主義のシステムの問題であることを膨大な史料データの検証で立証したトマ・ピケティの『20世紀の資本』は大ベストセラーになったが、ワイズマンがその資本主義の構造と論理を現実の映像の切り取り方とその積み重ねで示すやり方は、より明晰かつ凝縮されていて、学門としての経済に無縁の人にでも、とてもよく分かる。

決して万全でも完璧でもない、それでも心から祝福されるこの街の現実

資本の論理は確かに、人間を出自や性的志向で差別はしない。移民したばかりでアメリカの法制度も英語もよく分からない青年が最低賃金で、実際には週60時間働きながら、給料は40時間分しか出ていないという、その雇用主は白人でも差別する側でもなく、同じヒスパニックの仲間だったりする。これも『20世紀の資本』で現代の経済学がやっと辿り着いた分析の核心そのものだが、本ではまだピンと来ない人でも、この映画を見れば極めて強い実感が湧くはずだ。

ジャクソン・ハイツの将来は、決して薔薇色ではないかもしれない。多様性の尊重という民主主義の基礎が、このように実現している場所と社会を見られるだけでも奇跡的なのだが、それとてまだ決して完璧ではない。それでもこの映画が見せるこの街の姿が、虹色の明るさに満ちているのは、なぜなのだろう?

『ジャクソン・ハイツ』のラストショットは、現実の光景を撮影しながら、完全に映画のなかでのあるフィクションに変貌している。ジャクソン・ハイツ駅を前景に、遠方にマンハッタンの高層ビル群のスカイラインの夜景が、花火に彩られる。もちろん実際にはあくまでマンハッタンの花火のはずなのだが、3時間9分の上映時間のあいだこの街とともに生きて来た私たち観客にとっては、花火も、華麗な夜景も、この街とその人々、その多様性、その生命力、その力強い楽天性と自然にありのままの自己であろうとする姿をこそ、祝福しているのだ。

インフォメーション

In Jackson Heights 2015年/アメリカ映画/189分/カラー/DCP
監督・録音・編集フレデリック・ワイズマン
撮影 ジョン・デイヴィー

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