舞台版『まいっちんぐマチコ先生』レポート “福音”と“希望”の重奏

舞台版『まいっちんぐマチコ先生~こんな世界に誰がした?? 世直しバック・トゥ・ザ・ティーチャーの巻~』(作・演出:ゴブリン串田)が、2018年5月3日~6日まで、東京・築地ブディストホールにて上演された。筆者は、二日目のお昼の部を覗いてきてみた。

『まいっちんぐマチコ先生』は、えびはら武司氏による日本の漫画作品、およびそれを原作としたテレビアニメ。

私立あらま学園の女性教師、麻衣マチコとその生徒達が繰り広げるギャグ漫画。1980年代前半にテレビアニメを中心に人気を博し、「まいっちんぐ!」というセリフが当時ブームとなっていた。1990年代後半からかつてのファンを中心にリバイバルブームとなり、単行本の再版のみならず新作も発表され、さらにはCDドラマ、実写化もされた。

まいっちんぐマチコ先生はアニメ化され、人気も博した。毎回のようにマチコ先生のパンチラ・シーンや乳房が出るなど性的描写が奔放で、一部PTAからは「抗議する会」も出来たという。

私は1980年生まれだから、1981年10月8日から1983年10月6日まで毎週木曜日の19時30分から20時までの時間帯(改編期や年末年始はスペシャルなどで変則あり)にテレビ東京ほかで放送された『まいっちんぐマチコ先生』を直接見た世代ではない。ただ、私が物心ついた90年代であっても、ゴールデンタイムで女性のおっぱいがパンツが映し出され、深夜放送はエロ放送がたくさんあった。いまの地上波では深夜であっても女性の裸を拝めることがなく、昭和を知る者にとっては、ある種のもの哀しさを覚える。

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今回の『まいっちんぐマチコ先生』はセクシュアル・ハラスメントの拡大解釈や「#MeToo」ムーヴメントの暴走が社会問題になっている今日、まさに、それらの壁を溶かす「希望」と「福音」の重奏として観ることが傑作だった。セク・ハラはもともと特定の地位や権力を利用して女性に性的関係を迫ったり、性的いやがらせをするものだ。フランスで90年代にできた刑法としての「セクハラ禁止法」はこれら地位利用型セク・ハラを罰するもので、地位を利用して性的関係を迫ること自体が罪とされた。「#MeToo」も本来は、映画プロデューサーという絶対的権力を得た者が、女優に対して性的関係や性的嫌がらせをしたものであって、これは地位利用型セクハラであって、社会通念上、到底、許されるものではない。ところがどうしたことか、「#MeToo」追及は暴走し始め、女性の裸やセクシーな姿を描いたものにまで標的を定め、攻撃していっている。レースクイーンは廃止に追い込まれる方向になっている。これは、セク・ハラとは何の関係もなく、守旧フェミニズムによる「女性の性の商品化」批判の復活・焼き直しであり、表現の自由を著しく狭めるものだ。アメリカでは2000年代に女性フェミニスト法学者による『ディフェンディング・ポルノグラフィー』が上梓され、「性の商品化」批判フェミニズムは理論上、完全に論破されていたのだ。なるほど、レースクイーンが女性だけという性の非対称性が許せないというのであれば、ガチガチムキムキ男子の「レースキング」を共演させればいいのであり、女性にとっても、あるいはゲイにとっても、目の保養になるであろうから、そちらのほうが健全だ。性的表現を許さない動きは、かつてはマッカーシズムに顕著に見られ、欧州では米国流の性的ビューリタニズムとして軽蔑の目を向けられてきた。
そんな社会状況がある中で、「まいっちんぐマチコ先生」を演劇として現代に復活させたことはたいへんに意義深いものである。

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1980年にタイムスリップ

上演が始まるのだが、なぜか幕は降りたままだ。まずはあらま学園のヘンタイ教師・山形国男が登場する。そこに、あらま学園のマチコ先生にエッチないたずらをするケン太、タマ夫、金三の三人組が客席通路から出てきて、皆で主役マチコ先生の登場を待つ。

観客も交えて「マチコ先生」と叫ぶと幕が開いて、お待ちかねの片岡沙耶さんが演じるマチコ先生が出てくる。舞台では新入生歓迎会が開催されようとしている。しかし新入生として現れたのは表情のない不思議ちゃん系の少女が一人だけ。企画したケン太たちを「胸を張っていいこと」とマチコ先生が励ますと、ケン太たちは「ボイン、タ~ッチ」といってマチコ先生の胸を触り、マチコ先生は「いやーん、まいっちんぐ」と例の所作をする。すると、舞台では下から風が吹きスカートがなびき、会場はわく。

やがて謎のおばさん科学者と自称助手が登場する。実は新入生である不思議ちゃんの少女はタイムマシンにもなるロボットだった。挙句にマチコ先生と生徒たち、山形先生にコケダルマ校長、愛知教頭らが諸共1980年のあらま学園にタイムスリップしてしまうのだった。そこで過去の自分たちや若かりし頃の自分たちの母親と会う……というSFな展開となっていく。タイムスリップ先となる1980年は、前述の原作漫画の連載が始まった年である。私が生まれた年だ。この演劇はセクシーなドタバタコメディでもあるが、1980年と2018年とを比較することによって、何が喪われたのか、何が進んだのか…ということを追うテーマになっている。
1980年代のアイテムとして出てくるのは、スカートの裾が長い不良三人組、聖子ちゃんカット風の女子、女子生徒の髪形や服装。懐かしいと感じた方も多かっただろう。

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さて、芝居のストーリーだが、最後は「すけべパワー」によって現代に戻ってくるというものだが、友情や連帯あり、節度と抑制のきいたエロあり、軽妙な会話ありで、観てて飽きることはなかった。そして、この38年間の変化についても考えさせるものであった。
決して、「昔はよかった」というものでも、「今が一番」というものでもない。バラク=オバマ前大統領が一般教書演説でつかった「The future is ours to win」というメッセージが含まれると同時に、故・立川談志師匠がいった「業の完全肯定」を含む内容だった。おそらく親鸞聖人も満足していたに違いない。さらに、観客も大満足していた。
また、次作ができるのを願ってやまない。

岡本杏理(芸能ジャーナリスト)


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