デタラメと欺瞞に満ちた新安保法制の問題点を整理する by 藤原敏史・監督

衆院の特別委員会の最終日ですら、政府が答弁に詰まり審議が中断する局面が繰り返された。「論点は出尽くした」というが、仮にそうだとしてもその論点へのまともな答弁がない、議論し尽くしたわけではまったくないのに採決とは、呆れるほどの乱暴な強行だとしか言いようがない。

参院に送られた法案の審議は、野党側の反発で硬直したまま開始の目処も立っていないが、この機会に主要な問題点をいくつか整理しておこう。

集団的自衛権の行使は違憲であり、疑問の余地はない

いかに官房長官が「合憲という憲法学者も“いっぱい”いる」と言い、実際に3,4人はそういう“著名”な学者が名乗り出て、安倍首相らも合憲だと言い張っていようが、集団的自衛権の行使が違憲であることは確実に断言できる。理由は簡単だ。「合憲」と言っている側が誰一人として、憲法九条第一項に書かれた厳格な制約について(「国権の発動」としての戦争・武力行使は放棄)、同じ憲法のその他の文言を踏まえるなどして集団的自衛権を例外で合憲だとみなせる論理を、一切示していないからだ。

なんら例外の言及もなく「国権の発動」つまり国の権利としての戦争を放棄している以上、自衛権を理由とした武力行使も当然そこに含まれる。そして同第二項には「前項(つまり一項)の目的を達するため」戦力は保持しない、とある。

それでも自衛隊の存在が許されるのは、放棄されている戦争・武力行使が「国権の発動」に限定されている、と読めるからだ。

言い換えれば「国権の発動」でない武力行使なら制約はされておらず、その一方で憲法十三条では「自由及び幸福追及に対する国民の権利」を尊重することを国に義務づけている。だから国民の自衛権は憲法上なんの制約もされず、国がそれを担保する限りにおいては合憲とみなされる。戦力の保持は二項の「前項の目的を達するため」つまり国権の発動のための戦争・武力行使が目的なら保持は許されないが、国民の自衛権のための自衛隊に限っては認められる。

以上が自衛隊を合憲とみなしてきた日本政府の憲法解釈で、国民の生命財産を守るための専守防衛として、結果論として個別的自衛権ならば認められることになるが、国家と国家の自衛権の連携である集団的自衛権は認められようがない。昭和47年(1972年)にこの見解が内閣法制局によって確認され、以降のあらゆる内閣がこの解釈を踏襲し、集団的自衛権を認めていないのは、そもそも論理的に無理だからだ。

安倍政権は今回、この昭和47年解釈の基本論理を踏襲しながら集団的自衛権を合憲だと言い張っている…が、それがどんな「基本論理」なのか、誰も言っていない。

あるいは、そこで持ち出して来るのが、自衛のための適切な措置は政府の裁量で認められるとする、いわゆる砂川事件の最高裁判決だ。だが、まずこの判決自体が歴史的に大いに問題があって、最高裁がアメリカの圧力に屈したことは米国の機密文書の公開によって立証されている。当時は1960年の日米安保条約改訂の直前で、この判決次第では安保条約が違憲となりかねかったのだが、よりによってかくも判断の正当性自体に疑いがある判例を持ち出すこと自体、どうかしている。

砂川事件裁判とは当時の砂川町(現東京都立川市)で米軍基地に抗議するため侵入した市民が有罪か否かが問われた裁判で、米軍の日本駐留が違憲とみなされれば被告はは無罪になる。言い換えれば、砂川判決で合憲とみなされたのはあくまで米軍の日本駐留であり、裁判官による補足意見で集団的自衛権への言及があるのは、日本国憲法の制約を受けるわけではないアメリカの集団的自衛権の行使についてのみだ。

判決文の一部だけを取り出して文字通り読めば「自衛のための適切な措置は政府の裁量で認められる」、つまり政府が「適切な措置」と判断すればなんでもOKとも読めなくもないが、ならばこの判決そのものが法治主義・法の支配を放棄するトンデモ判決になってしまう。憲法の制約が時の政府の都合で左右され得るのなら、憲法の役割がなくなってしまうが、むろんいかに後ろ暗い理由で出された問題の多い判決でも、そんな出鱈目はさすがに許されているはずもなく、判決文では続けて、在日米軍の駐留がギリギリで正当化できる理論が積み重ねられている。

言い換えれば、安倍政権が今「砂川判決」を持ち出すのは、判決文の論旨を無視した恣意的つまみ食い、むしろ最高裁の判断を冒涜するものでしかない。

それでも「いや違う、合憲だ」と言うのなら、憲法条文から直接いかに集団的自衛権の行使が合憲になるのか、その論理をちゃんと提示すればいいだけだ。今のところ「合憲だ」と主張する政府や与党議員達は、ただでさえかなり苦しいにせよ全体として論理的整合性が曲がりなりにも担保されてはいる既存の解釈を、その論理構成を無視した一部の言葉尻だけを文脈から切り離し、ご都合主義で恣意的につなぎ合わせたものに過ぎない。

集団的自衛権を違憲とみなすことを、従来の自衛隊違憲論と同列に扱うことは出来ない。自衛隊の場合、それを合憲とみなす解釈は、違憲とみなす解釈と同様に、論理的には成立していて、どちらを採用するかは個々人の良心・良識に基づく判断に任されている。政府はかつて憲法学者の大半が自衛隊違憲論だったと反論にならない反論をしているが、違憲論を採用する憲法学者でも、合憲論がガラス細工のようにデリケートでトリッキー過ぎる、人によっては無理がある詭弁とみなそうが、一定の論理的整合性があること自体は認めて来たし、認めざるを得ず、またその理屈がガラス細工のように繊細であることについては、合憲論を主張する学者と理解が共通している。

一方で集団的自衛権を合憲とみなそうにも、その基本論理が存在していないのだ。少なくとも、未だに誰も提示していない。現実にはそれでも「合憲」を主張する憲法学者は“いっぱい”…というかごく数名存在するが、「国権の発動」としての戦争・武力行使、及びそのための戦力の保持を禁止する憲法の条文について、集団的自衛権が例外とみなせる論理を提示出来ていない以上は、はっきり言えばただのトンデモ学者でしかない。

菅官房長官の言った通り、これは「数の問題」ではない。論理的に成立しない主張はどんなに多くの学者が言おうがトンデモだ。たいがいの学者には最低限の職業上の矜持があり、さすがにこんなトンデモは、よほどの恥知らずか、奇抜さ狙いの変人の確信犯以外は言わないので、結果として圧倒的少数になっているだけだ。

日本の集団的自衛権の行使は日本の抑止力の強化とは無関係

日米安保条約により、日本について米国が集団的自衛権を行使し得ることは、確かに日本を攻撃しようと思う側に対して、その行動を抑止する効果を持つ。日本の自衛隊だけでなく米軍にも反撃されることになるからだ。

だが日本の自衛権の行使によって日本を攻撃する敵と戦う場合、自衛隊がやるのはあくまで個別的自衛権の行使であって、集団的自衛権の行使を容認することは、日本の抑止力を高めることに、直接にはなんの関係もない。

むしろ集団的自衛権の行使によって日本とその近海以外に自衛隊が派遣されれば、そのあいだは日本の防衛は手薄になる、つまり抑止力は低下する。

こんな子供でも分かる理屈がなぜか無視され、「抑止力を高める」ためには集団的自衛権の行使が必要なのだ、と言うのだから、論理性の欠如にも程がある。

そこでいきなり飛び出すのが、子供じみた感情論だ。日本がアメリカを守ることにだって協力しなければアメリカも本気で日本を守ってくれないじゃないか、というのだ。安倍首相本人に至っては自民党のネット動画番組で、お友達のアソウさんは喧嘩が強いから自分を守ってくれているのが、そのアソウさんが不良に襲撃されて云々という喩え話を始めたそうだが、「オトモダチどうし助け合う」というのでは軍事力の行使をめぐる国家間のシビアな関係の喩えとしてあまりに不適切で、真面目に論評する気すら起きない。

そんな子供の喧嘩の世界観と関係なく、米軍が日本に駐留して来たのは冷戦期には自国の国防や国益、覇権の維持についてメリットがあったからであり、冷戦後の現在では日本に自国軍を駐留させればその負担は「思いやり予算」で日本が支払う上に、米軍の海外駐留先のなかで日本は治安も環境も良いので兵士軍人に人気が高い(特に沖縄はそうだし、本土で言えば例えば横須賀を中心とする三浦半島も抜群に環境がいい)。さらに高度な最先端兵器の場合、その整備や部品の供給においても日本は最適地だ。だから日米安保を維持することはアメリカにとってメリットが多いが、東アジアに目立った安全保障上の脅威があるとすれば米国から見ればせいぜい北朝鮮問題だけだし、そうした脅威が増大することをアメリカは無論望んでいない。

アメリカと中国は現在、世界第一位、第二位の経済大国である。この両国が対立することは世界中にとって決して好影響を与えることではない、とたとえばキッシンジャーやジョゼフ・ナイなど、かつて抑止力理論を構築した米国の安全保障のトップクラスの専門家達も言い続けている(ちなみに両者とも、抑止力理論は冷戦の遺物で現状の世界では成り立たない、とも言っている)。

日本が集団的自衛権を行使してアメリカの戦争に協力するのなら、アメリカにとって損な話ではないから一応は歓迎される。だが一方で、ことオバマ政権は、日本が菅政権以降、尖閣諸島を巡って対中関係を悪化させていることに警戒を隠しておらず、国内ではほとんど報道されていないが、「尖閣諸島で日本が武力衝突の事態を起こすことは決して許されない」と言い続ける一方で、中国相手には国際司法裁判所に提訴することすら奨めている(中国には今のところ、その気はない)。

安倍第二期政権の成立以降の日韓関係の悪化にも、韓国の方が軍事的には地政学的に日本より重要なパートナーになるアメリカが、神経を尖らせている。アメリカは常に自国の国益と覇権の維持のために東アジアの政治情勢の全体のバランスを考えているのであって、安倍が集団的自衛権を土産に対米ご機嫌取りに終始すればいい、と言うほどことは単純ではない。

集団安全保障と集団的自衛権はまったく異なった議論

今回国会に提出された新安保関連法制は合計11の法律の一括審議だけでも問題は大きいのだか、さらに困ったことに二つの本来ならまったく別種の問題が、おそらくはわざと、混同されて議論されるように仕組まれている。同盟国などの国益において一定の利害を共有する「密接な関係にある他国」と連携する集団的自衛権の行使と、国連決議などに基づく集団安全保障体制への参加の責任が、なぜか同一視されているのだ。

まず憲法問題に戻れば、国益つまり国家の権益において利害の共通する他国との集団的自衛権に基づく武力行使は、「国権の発動として」の戦争・武力行使を憲法が放棄を明記している以上、明らかに違憲である。一方集団安全保障への参加は、憲法の基本精神を記述した前文に、

『日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。』

…とある以上、基本的に参加する責務を憲法が義務づけていると解釈すべきだろう。ただしその手段が軍事力の行使に限定されないのは、言うまでもない。

むしろアフガン紛争やスーダンの内戦で明らかになっている現代の流れでは、先進国が実行部隊を送り込んで治安の維持を図る旧来の国連軍、PKO、ISAFといった活動は明らかな限界を露呈するどころか、紛争それ自体を悪化させる事態すら引き起こしている。国連決議に基づき派遣された実行部隊の役割も、国際法上の国家ではない主体が紛争当事者である場合が多い現状では(要は破綻国家の内戦状態)、住民の保護が最大の任務になり、日本などの遠隔の先進国の軍隊等の役割はその点でも低下している一方で、この種のリスクが大きな任務を、多くの場合紛争地域にとって旧植民地宗主国である先進諸国は敬遠しがちで、代わって選ばれている手段は集団的自衛権行使に基づく空爆などがほとんどになっている。

現代に紛争が多発している中近東や西アフリカ、中央アフリカでは、日本は宗主国であったことがない、つまり旧支配者ではなく利害対立関係に巻き込まれにくいので、果たせる役割は大きいのかも知れない。だが自衛隊がそうした任務を実戦で実行できるかどうかは、まったく別問題だ。

自衛の戦闘すら法的に難しい自衛隊

新安保法制ではいわゆる「駆けつけ警護」と、「後方支援」の強化が可能になるとされるが、前者について賛成を標榜する多くの人が、同じ作戦行動に参加する他国の軍隊のピンチに駆けつけて自衛隊が活躍でもするかのように勘違いしているのは、子供じみたヒーロー志向にしても滑稽過ぎる(喧嘩が強いアソウさんのピンチに駆けつけるアベ君、的な?)。「駆けつけ警護」は村や町や難民キャンプ、非武装の援助組織事務所などを武装集団が襲撃された際の対応であり、相当に激しい市街戦的な、それも著しく混乱した状況が想定される。自衛隊にその能力があるのかと言えば、イラク戦争やアフガン戦争を見ても、実戦経験も多いはずの米軍の精鋭ですら逆に誤爆や誤射を繰り返し、却って反感を買っているのが現実だ。

ところが、たとえば誤射や誤爆など、命令された作戦行動中の不可抗力の殺人行為ですら、その自衛官本人が殺人罪や過失致死、傷害致死に問われる可能性が高いのが日本の法制度だ。自衛隊の発砲基準がやたら厳しいのは憲法九条との兼ね合いだと誤解されがちだが、これは単に命令された作戦行動中の行為の責任を命令した側が負うという法整備が出来ていないからだ。

そんな自衛隊が他国領内で駆けつけ警護の任務に当たった場合、住民の保護どころか自分の身を護るための発砲ですら、殺人罪での訴追が頭をよぎって躊躇してしまうだろう。たとえ国際的な集団安全保障、平和を護る任務という大義名分があろうとも、戦場で敵方がそんなことを尊重してくれるわけもなく、人殺しは人殺しであり、殺し合いは常に命がけだ。自衛隊が集団安全保障に積極的に関与するということは、国家の命令で自衛隊員が人を殺す、それも偶発的に敵でもなんでもない民間人や共同で任務に当たる他国の軍人、ひいては同じ自衛隊員を殺してしまうリスクすら負うことでもある。その責任を自衛官個々人に負わせるのはおかしい。最終的には、最高司令官である首相が負うべきとしなければ、このような危険な任務は不可能で、みすみす殺されに行くに等しい。

だがその最高司令官であるはずの安倍首相は、ただ「自衛官のリスクは増えない」とばかり強弁して来た。「リスクはない」を強調するあまりに、新法制で出来ることが既存のPKO法などと実際にはほとんど変わらなくなってしまっている。

現実には、その地域もよく知らず、外国人であるだけに個々人や異なった民族の判別もつけにくい限界がある自衛隊が、駆けつけ警護などで住民や民間人を護ろうとしても、逆にその護ろうとした住民・民間人を敵と誤認して虐殺してしまうリスクすら戦場ではあり得る。しかもこと現代の紛争のような非合法・非政府のゲリラ部隊相手の場合、奇襲こそが正規軍相手のもっとも有効な攻撃手段であり、そんな状況下では正しい判断をやっている時間的余裕すら現場の部隊にはない。撃たなければ自分が殺されるかも知れないのだ。その際のコラテラル・ダメージの責任を誰が負うのか?日本の法制度では命令した国家でも最高司令官である総理大臣でもなく、自衛官個々人になってしまう。

命令されたものに責任があり、命令した側は無責任で済まされる危険な任務

従軍慰安婦問題について、安倍首相は英エコノミスト紙のインタビューで強制連行に相当する行為があった可能性を認めながらも、それはあくまで現場の個々の兵士の犯罪だったはずだ、と主張している。実際に朝鮮半島や旧満州で慰安婦の徴集に当たった部隊には朝鮮人部隊が多く、安倍氏の周辺には「朝鮮人がやったことで、日本の罪ではない」と言い張る者すら少なくない。果たしてこのような無責任な最高指揮官や為政者の命令で、自衛官が殺人を伴う任務を果たすべきなのだろうか? 任務の遂行のために不可避な殺人なのに「現場の個人が勝手にやった犯罪」にされては、その現場の兵士や自衛官はたまったものではない。

「後方支援」というのもアフガン戦争、イラク戦争の頃からしきりに日本の政治の世界で飛び出して来るタームだが、国際的にも、軍事の常識でも、まったく通用しない机上の空論だ。新安保法制で決るのは要は補給任務の拡大で、武器弾薬の供給・輸送も含まれる。軍事用語で言えば「兵站」に他ならず、兵站の確保は作戦行動・戦闘行為の重要な一部だ。と言うより、分かり易く言ってしまえば敵を倒すならまず補給路を断つのは、古来の戦争の常道である。安倍首相の答弁によれば、補給は安全なところでやるからリスクは増えないのだそうだが、こんな暢気な話が現実に通用するはずもなく、新安保法制が想定していると思われる中近東やアフリカの破綻国家における集団安全保障任務なら、非合法だったり反政府だったりする武装勢力のゲリラ戦術では、むしろ兵站が真っ先に狙われると考えるべきだ。

ところが日本の法律上(繰り返すが、憲法九条の問題ではない)、そこで襲撃された自衛隊員には刑法上の正当防衛の範疇を超える戦闘行為が許されていない。反政府ゲリラ勢力などであれば、相手は日本の法律上も国際法上も民間人の扱いになり、そうした集団との戦闘だけでも殺人罪の嫌疑がかかりかねない。しかも極度に身の危険があるというのに、日本の刑法の運用では正当防衛が適用される範囲がもの凄く狭い。

実際の戦場で、例えば夜間に奇襲を受けた時に攻撃する相手が認識出来るだろうか?弾が飛んで来た方向にやみくもに撃ち返すことしか出来ないのが現実だ。それどころか相手が撃って来なければ撃ち返さないというのであれば、安倍が「リスクはない」「安全」と繰り返す「後方支援」は、皆殺し全滅を覚悟でやる任務にすらなる。

果たしてそこまでして、国際的な集団安全保障に自衛隊が参加すべきなのだろうか? 役に立つのだろうか?憲法前文に謳われた精神・国家理念からして、日本は国連の活動に積極的に協力すべきではないか、という一般論とは別次元の議論だ。

自衛隊はその成り立ちからして元は警察予備隊で、憲法上も交戦権を持たないなど、法制度的な位置づけは軍隊よりも警察権の行使の延長に近いし、実際に災害救助などでは大きな実績もある。元々警察権の行使の方に重きがある特性からして、他国の軍隊とは異なった役割も紛争地で果たせるはずだし、またそうした役割こそ現代の国際紛争の現場では、まだまだ十分とは言えないが大いに必要な分野でもある。安倍晋三が「積極的平和主義」を本気で掲げるのなら、自衛隊をとにかく海外での軍事任務につかせたい、そこで戦闘を出来るようにしたい、という目標ばかりを優先させる必然があるとは思えない。

海外では「集団的自衛権」とは報じられていない

「集団的自衛権の行使」が議論になっているという国内の認識自体が、客観的にはかなり奇妙なものだ。海外での報道では例えば「日本が海外で軍事力を行使することを可能にする法案」、もっとはっきりと「海外で戦闘を行わせる法案」と説明されているし、「集団的自衛権の行使」とはミもフタもなくその通りの意味しか持ち得ない。

「個別的自衛権」「集団的自衛権」と議論している政治家ですらその区分けがよく分かっていない場合も多い法律的な専門用語を用いているからおかしくなるわけで、自衛隊が防衛し戦闘を行える範囲が日本の領土領空領海およびそこに隣接する地域、それが法的に許される要件を日本が軍事的な攻撃や侵略の危険に晒された場合のみとするか、それ以外の地域で、自国民とその生命財産の安全の防衛以外の理由でも戦闘が行えるようにするのか、従来の枠組み(個別的自衛権)と新安保法制(「限定的」とされる集団的自衛権)の違いは、ここにしかない。

「集団的自衛権」とは、どんなに「限定的だ」と政権が主張しようが、利害が一致する他国の【自衛】戦争に参加する権利・権限のことであり、自国が攻撃されていなくとも同盟国等の「共通の敵」と戦闘を行うこと以外は意味しようがなく、それを「戦争法案」と呼ぶことのなにが「レッテル貼り」と非難されるべきなのかもよく分からない。文字通り、戦争への参加を可能にする、自衛隊に「海外で戦闘を行わせる」法案なのだから、仮にそうすることが結果として日本の安全を高めることになるとしても(ただし先述の通り日本の抑止力を高めるはずもなく、むしろ海外派兵で戦力が手薄な所を狙われるリスクすらある)、直接的には戦争という手段に走ることに変わりはない。

安倍政権は「丁寧に説明」を繰り返すが、この根本的な論理をそもそも避けておいて、「丁寧な説明」もへったくれもない。むしろ政府が不正直に隠そうとして来たことまで国民に理解されているからこそ、例えば米国なら米国との共通の敵との戦争も、場合によっては許容すべきではないかとする「集団的自衛権行使」容認派ですら、この政府への不信感を拭い切れないのに、新安保法制の文言も論理構成もあまりに曖昧で、政府の恣意性でいかようにも運用できてしまう内容だ。

ここで一点、集団的自衛権に関する誤解も解いておいた方がいいだろう。国連憲章では確かに、個別的・集団的を問わず、自衛の権利を加盟国に認めている。

だが国連憲章が認めていることについて各国の憲法がより厳しい制約を設けていることになんの不自然もないのがまず一点。ポジティブ・リスト、つまり「出来ること」の羅列のなかで個別に「出来ないこと」を決めたところで、そのポジティブ・リストそれ自体に反することになぞなるわけもない。逆にネガティヴ・リスト、つまり出来ないことの箇条書きの中で恣意的に「出来ること」を決めるのは明らかな論理矛盾だが、憲法という「国家権力がやってはいけない、出来ないこと」の箇条書きのなかで恣意的に、例外とみなせる論理的根拠の提示もなく「出来ないこと」を「出来ること」に変えようとしているのが新安保法制だ。これは法治国家や世界秩序の根本理念の否定である。

また国連が個別的・集団的を問わず、自衛の権利にも基づく武力行使を加盟国に認めているのは、あくまで集団安全保障による平和維持の体制が成立するまで限定で、それまでは自力ないし他国の助けによって自国を護ることが許されているに過ぎない。

「存立危機事態」というザル概念

国連憲章では集団的自衛権の行使は、当事国からの要請があった場合に限られる。ところが安倍政権が昨年閣議決定し、新安保法制の裏付けとなっている新三要件には、この制約が書かれていない。なのに「世界でも類を見ない厳しい制約だ」と安倍首相は強弁しているのだが、それでなくとも「新三要件」の規定するいわゆる「存立危機事態」はあまりにも抽象的でまったく曖昧、どう制約として機能するのかが怪しく、むしろどんな戦争への参加でも「集団的自衛権の行使」が言い訳になってしまいかねない。

①我が国に限らず、密接な関係の他国が攻撃された場合でも、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある。
②(危険を排除する)ほかの適当な手段がない。
③必要最小限度の実力行使にとどまる。

まず②と③は、これを超えてしまったら自衛である、正当防衛だと弁明しようがないわけで、なにも言っていないに等しい。集団的自衛権による武力行使を許容する要件は実質①だけだが、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される危険がある」とは具体的にどんな事態をさすのかさっぱり理解できないし、国会での議論で明確にするよう問われた政府側は、常に言を左右するだけで答えていない。

一方で、安倍政権は集団的自衛権行使の実例としてホルムズ海峡が封鎖された場合の機雷掃海しか念頭に置いていないと強弁し、つまり石油の輸入ルートが断たれることが「国の存立、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から」脅かされる事態なのだと主張する。ならばシーレーン防衛のために集団的自衛権が必要だという理屈にもなり、実際にそれを示唆する答弁もあった。だがいかに日本が貿易立国で、資源や食糧の多くを輸入に頼っているとはいえ、これでは利権の獲得と保護のための侵略戦争すら「存立危機事態」だと言い張って始められてしまう。

思い出してもみて欲しい。日本が15年戦争に突入する契機となったのは「満州は日本の生命線」、鉄鉱石と石油の資源確保であり、対米戦争のきっかけは東南アジアの石油資源確保のための仏印進駐を咎められたからだ。これでも新安保法制を「戦争法案」と呼ぶのは不当なレッテル貼りだろうか?

対案を提出した維新の最大の論点が、この集団的自衛権行使の要件の曖昧さだ。仮に日本がいずれその戦争に巻き込まれる危険が高い場合、その戦争の拡大を阻止する目的なら集団的自衛権の行使も必要と判断するにしても、ならばその敵国がいずれ日本を攻撃するはずだ、と少なくとも国民を納得させなければならない。ただ経済的な理由、つまり利権の保護で参戦出来るのなら、事実上侵略戦争を自衛と言い張ることすら可能だ。

いやホルムズ海峡の機雷掃海は、事実上の停戦状態で法的に停戦が発効される前だけだからリスクはない、と安倍たちは強弁して来たのだが、この想定自体があまりに荒唐無稽で現実的にあり得ないことは既に本サイトの別記事で述べた通りであるだけでなく、ただの論点逸らしにしかなっていない。ここでの論点はあくまで、集団的自衛権の行使も現実に日本を防衛するために必要だとしても、いかなる条件下に限定して「明白な危険」とみなし戦争への参加を許すのかであって、実際の作戦行動の危険性の問題ではない。

もっと言えば仮に「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」事態なのだとしたら、なのにその前線に立つ自衛隊員のリスクはなにも増えません、というのはあり得ない矛盾で、あまりに馬鹿げてもいる。

立法主旨が不明で、答弁通りならば制定を急ぐ理由が皆無の安保法制

安保法制が委員会で強行採決される前日には、安倍首相によれば「今のところそれ以外は考えていない」というホルムズ海峡封鎖の事態そのものが、ますますあり得ない想定になっている。イランと米国が長年対立したイランの核開発問題が、7月14日には一応の合意・解決に至っているのだ。ならばますますもって、衆院での採決を強行して60日ルールで確実に成立させようとした理由が、皆無になってしまう。強いて言えば安倍が訪米時に集団的自衛権を行使してアメリカと共同作戦が取れる法整備を約束して来てしまった、その辻褄合わせという総理の個人的な面子しか見当たらない。

もちろん安倍の本音は違うし、「総理周辺」からの情報リークとして、安倍が「支持率が低下してでも成立させなければ、南シナ海有事に間に合わない」と口走っていたことまで報道されてしまっている。以前には、大手新聞社重役との会食で、安倍が安保法制の目的が南沙諸島をめぐる紛争に介入することだと酔っぱらって口走ったことすら、週刊誌ではあるが報道され、中国メディアでも大きくとり上げられてしまったが、中国外務省は公式会見で、その時には無視を決め込んでいた。

いやすでに昨年7月に新三要件を発表した際に、安倍は記者会見で相手国(中国)を名指しこそしなかったものの、南シナ海(つまり南沙諸島)と東シナ海(つまり尖閣諸島)の領有権問題を関連づけて集団的自衛権行使の必要を主張していた。なのに11の法案を国会に出して以降そのことを一切口にせず、「ホルムズ海峡での機雷掃海しか考えていない」と言い張るのだから、なにが「分かり易い説明」のつもりで、どんな「理解」を国民に求めているのか、さっぱり分からない。

ちなみに米国の同盟国として南沙諸島問題への介入することは、集団的自衛権の行使には当たらない。言うまでもなく南沙諸島は米国領ではないし(最近NHKの報道などでは誤った印象を受け付けるためか「スプラトリー諸島」という英語名をわざわざ使っている)、そこで中国がなにをやろうが米国自身の自衛権には関係がなく、米国が紛争当事者として自衛権を行使するケースではない。

だからこそ新三要件には「同盟国」ではなく「密接な関係の他国」と書かれる一方で、国連憲章の定める集団的自衛権行使の要件である当事国の要請を無視した、それよりも遥かに緩く、侵略戦争の口実にも使えてしまう文言しか、あえて書かれていないのだろう。

あるいは朝鮮半島有事なら、韓国の要請がなくとも「密接な関係にある他国」なのは確実なのだから、米国が北朝鮮を攻撃することに参加する口実に使える。台湾海峡有事なら、日本が承認していない以上正式な要請は出せない台湾側に立って参戦が出来る理屈になる(ただし国際法上は許されない)。

南沙諸島問題であれば中国と同様にその一部をそれぞれに領有実効支配しつつ、他の島々の領有権を争っているフィリピン、ヴェトナム、マレーシアのどこかが、中国から「攻撃された」場合、その当事国の要請がなくとも米国と共に軍事介入したい、その正当化が日本が実効支配している尖閣諸島にも中国が同様に侵攻して来る危険があるから新三要件を根拠とした集団的自衛権の発動、という理屈なのだろう。

現実離れした「中国と戦争したい」法案

安倍は国会で新安保法制が審議中に出席したG7サミットでも、中国による南沙諸島開発を念頭に置いて「力による現状変更を許さない」と繰り返し、国内報道では各国首脳の同意を得た、とされている。実際には中国を名指しもせず「力による現状変更を許さない」という現代の国際法の基本を言っているだけなので、米国以外の各国に反論したり不同意を表明する理由がなかっただけで、たいした意味のある「外向成果」ではない。

その前に中谷防衛大臣が出席したアジア安全保障会議でも、国内報道ではNHKのテレビを中心に、あたかも各国から中国の南沙諸島開発に懸念が指摘さ、米国とともにとりわけ厳しい態度で発言した日本に賛同が多かったかのような印象操作がなされていたが、実際には読売新聞などが国際面では報道していたように、直接に南沙諸島の領有権を主張して中国と争う形になる国以外の東南アジア諸国は口々に中国に理解を示し、アメリカと日本には「外交的解決を求める」とやんわり警告すらしていた。日本によるインフラ整備の約束と引き換えに、大統領の来日時に日本の集団的自衛権行使に支持と期待を表明したフィリピンでは、自衛隊と合同の演習までやっている一方で、国内では自国の頭越しに本来なら関係のない米国が中国とこの島々のことで対立していることへの反発もある。

中国が実際にやっているのは、自国領と主張し実効支配もしている島や岩礁周辺の埋め立てで、主張をめぐって対立がある領土領海を確定する作業にも見える(その効果ももちろん念頭には置いている)が、同じことはマレーシア等もやっている。もちろん国力・経済力の違いからして、表面上では領土主権という国家のタテマエで対決しているかに見える他の国々も、中国と必要以上にことを荒立てる気はまったくなく、米国が哨戒機を近海上空に飛ばして中国海軍から警告を受けるような事態を歓迎しているわけではない。ヴェトナムの本音は、自国の極端に愛国的な一部国民の行動を持て余している(尖閣諸島に上陸を試みる活動家を台湾政府が持て余しているのと同じような理由)。

そんなうちに中国は人民解放軍参謀総長が訪米した際に埋め立て工事の終了を宣言、今後は国際調査船の来航も視野に入れた港湾開発などを行う、と表明した時点で、南沙諸島をめぐる対立は、ほぼ収束に向かっていると見て間違いはない。安倍が「存立危機事態」を宣言できそうな武力対決が南沙諸島を巡って起こることは現状かなり考えにくく、米国と共に対中武力紛争に参加したいらしい安倍の願望が叶えられることは、まずあるまい。

またアメリカが仮に南沙諸島問題で武力的な介入を始めるような事態の急変があっても、日本の「密接な関係にある他国」を中国が攻撃しているとみなして集団的自衛権を発動にするには、法理上無理があり過ぎる。繰り返しになるが南沙諸島に米国領はなく、従って米国の直接の自衛戦争になりようがないからだ。新三要件に基づけば同盟国の米国だけではなくフィリピンやヴェトナム等を「密接な関係にある他国」と言えなくもなく、だから「存立危機事態」だとして集団的自衛権行使の口実に使えることにもなるが、対立関係にあるフィリピンなりヴェトナムなりマレーシアからの要請がない限りは国際法違犯に問われかねない。日本自身がここまで法的に脆弱なガラス細工のようなへ理屈で南沙諸島問題への介入を期待しながら、口先では「力による現状変更を許さない」「法の支配」を口にするのも、ひどく自己矛盾した話であり、どう「丁寧に説明」しようが、えらく分かりにくい。

いやそもそも矛盾していて動機も不純であることだけは、すぐに理解できるわけだが。

こうした安倍政権の不正直な割には真面目に隠しているわけでもない本音を、中国政府はむろん把握していて、衆院での強行採決に合せて「我が国の主権を侵害する結果にならないように期待する」という皮肉たっぷりの声明を出す一方で、訪中した日本政府高官を李克強首相自らが異例の歓待で遇して巧妙に飴と鞭を使い分けつつ、あくまで東アジア・東南アジア地域の安定とさらなる発展を望む姿勢をしっかりアピールしている。このままでは今夏ないし初秋に噂される安倍訪中(オバマ政権の圧力でやらざるを得ない)は、中国の外交的圧勝となりかねない。

中国脅威論のさらに背後にある、新安保法制の本音

新安保法制に一定の理解を示したり、あるいは賛成する者の誰一人として、本気で「ホルムズ海峡の機雷掃海のため」の集団的自衛権だとは考えてはいまい。自民党の一部の「右派」というよりは安倍首相に近い「非常識派」ないし「ネトウヨ派」と言った方が正確に思える議員や支持者層のなかには、拉致問題解決のための新安保法制、とかの荒唐無稽を思い込んでいる人たちもいるが、そもそも集団的自衛権にまったく関係がない上に、現実的にあり得ない話だ。自衛隊を北朝鮮に侵攻させて被害者の奪還などと言うのは国際法に反し侵略の口実とみなされるだけでなく、そもそも現実的に不可能な作戦行動である。論ずる価値もない。

多少はまともな人たちの衆目に一致するところは、これが米国と連携して中国と拮抗するパワーバランスの構築をこそ目的とした法整備ではないか、ということになるだろうし、日本経済新聞や読売新聞などはそうした論調を見出しにもしている。安倍政権が抽象的に繰り返す「日本をとりまく安全保障環境の変化」というのも、中国の成長とそれに伴う軍事費の増加を念頭に置いているのだろう。

だがそれですら、かなり現実離れした世界情勢の解釈だ。中国が急成長した経済力で軍事分野への出資を増やしていると言っても、あまりに強大な米国の軍事力の覇権におよそ対抗できるものではない。むしろアメリカが軍事的に圧倒的に有利な中で少しは自国の軍備増強をアピールしないとさすがに不安だ、というのが中国政府の本音だろう。

とはいえ中国を中心とするアジア諸国の急成長で、アメリカ一極覇権の既存の世界秩序が、こと東南アジアで明らかに変わって来ているのは確かだ。将来的にどのような秩序維持のメカニズムが最適なのかも、各国の政情不安も含めてまだ見えていない。南沙諸島をめぐって米中がここ数ヶ月あたかも対立を強めているかに見えたことは、中国だけでなく東南アジア諸国も台頭しつつあるなか、新たなパワーバランスとより多極化した国際秩序の構築を模索する過程で起こった小競り合いのボタンの掛け違い程度のもので、米中関係を本気で悪化させることは両国だけでなくこの地域のほぼあらゆる国にとって、国益を著しく損ねかねない事態になる以上、極力避けるべきことだし、中国との関係悪化は、ヨーロッパなど他の先進諸国もやはりまったく望んではいない。

結局なにがやりたいのか分からない新安保法制

こんな国際情勢の現実のなかで、日本が米国と連携して中国と軍事的にも対抗するために新安保法制の成立を急いでいることは、その実えらく時代錯誤で現実離れしている上に、ポテンシャルにはむしろ日本の立場を危機に追いやり国際情勢を不安定にするリスクすら高い。既に安倍が訪米中に集団的自衛権の行使を可能にする(つまり日本とその周辺以外での自衛隊の武力行使で米国に協力する)法整備を約束した際に、米国のメディアの多くが、ワシントンが日本との共謀で新冷戦体制を構築しようとしているのではないか、と批判する論調をとっている。

新冷戦体制、米ソ対立の時代を再現するかのような米中対立の時代なぞ、まず誰も求めていないはずだし、現実的に不可能でもある。現状すでに中国と米国の関係は、経済や産業分野で極めて密接で、対決はその商売の邪魔にしかならない。それでも一方で、米国には未だに反共保守の一部政治勢力が政界に残存していたり、軍需産業の都合もあって、米中新冷戦時代を望む動きも皆無ではなく、ブッシュ政権までは国務省東アジア課を牛耳って来た、いわゆる「日米安保で食って来た連中」、安倍さんがやたら尊重するアーミテージ氏などは、その急先鋒でもある。新安保法制を強行することで安倍政権が目指しているのは、そんな過去の構造のなかでの対米従属だということもできよう。

とはいえこのような、このような将来の現実になる可能性が決して高くない話のために、国の基本方針や国家理念の大転換である新安保法制を、国民の命運を賭けて強引に成立させるのは、やはりあまりにも現実離れしていて時代錯誤、かえって我が国の将来を危うくし、日本にとっての最大の国益である経済活動の邪魔になりかねない。少なくとも法理の上で穴だらけで憲法違反ですらある新安保法制を拙速で強行する理由はどこにもないし、それもわざわざ戦後70年の節目にやるべきこととも思えない。

とにかく自衛隊を海外派兵したいだけ

結局、安倍政権や自民党はなにをやりたいのだろう?本当に中国脅威論が動機だと考えるにしても、あまりにやってること言ってることが支離滅裂なだけでなく、現実離れし過ぎている。

いやひとつだけ、一応は納得が出来る説明がある。あまりにも馬鹿馬鹿しくてにわかには信じ難いのだが、それでも集団的自衛権と集団安全保障という、本来ならまったく異なった問題を11法案抱き合わせで混同させている乱暴さも含め、辻褄は合う。

安倍政権が単に、自衛隊を海外に派遣したいだけなのだとすれば、集団的自衛権と集団安全保障の区別がついていないのも当然だ。彼らはただ海外派兵、そして海外での戦闘を可能にすることで、「普通の国」になりたいのだ。

彼らには自衛権つまり国を護る権利の行使と、集団安全保障つまり世界秩序に対して無償で果たすべき責任の区別もつかず、自分達が軍隊を持ち戦争が出来る「権利」をこそ獲得したいのではないか?その自分達の願望を果たすことこそが、彼らにとっての「戦後レジームの打破」なのではないか?

言うまでもなく、だとしたら極めて幼稚で馬鹿馬鹿しい勘違いでしかない。こんなものは政治ではない。ただの思春期にさしかかった辺りの男の子にありがちなマッチョ願望に過ぎないのだが、そういえば安倍が「分かり易い」つもりで自民党のネット番組で語った喩えは、子供の喧嘩の話だった。

憲法九条に象徴される不戦の誓いは、日本国民にとって第二次大戦の反省を受けたものだ。戦争放棄はあの戦争が間違っていた、その過ちを二度と繰り返すまいという日本国民の意思表示だった。そのこと自体を安倍氏達は覆したいのかも知れない。歴史問題で中国や韓国を挑発すること以上に、自衛隊の海外派兵と、海外で戦闘任務につかせることは、日本が敗戦国であったことの克服であり、戦争犯罪国家であった過去の否定なのだ。

だからこそ安倍氏に限らず自民党右派は、冷戦終結直後の湾岸戦争以来、自衛隊の海外派兵に固執して来たのだろう。

情報にはコストがかかります。France10はタブーなき自由な報道のために皆様からの御寄付によって支えられています。


Leave a comment

Your email address will not be published.


*