「あいちトリエンナーレ」に放火テロ予告。「慰安婦像」とレッテルを貼られた『平和の少女像』展示中止で浮かび上がった日本社会のクライシス by 藤原敏史・監督

現代美術の展示が放火テロ予告で脅かされ、観客とスタッフの命が危険に晒されて中止を余儀なくされた。並行して主催者側には業務妨害と脅しを意図した匿名電話やメールが殺到し、電話応対した若い女性スタッフの名前・住所や顔写真までネット上で侮蔑の意図も露わに「晒され」た。ネットを利用した匿名の、悪質な言論テロの結果である。

客観的にいえば、現在開催中の「あいちトリエンナーレ」(10月14日まで、名古屋市、豊田市ほか)で起きたことの事実関係は、このようになる。付け加えるなら、名古屋市長つまり政治家が、その展示を非難攻撃する扇動的な言動を公然と繰り返す中で起きたことだ。

現にたとえばトリエンナーレの招聘アーティストが連名で発表した声明は、事件をこのように要約しているし、海外で報じられる際の概要も同様になるだろう。しかし客観的に見ればこうも危機的な事態に対する日本社会の反応は、マスメディアも政治も、SNSなどのネットメディアでの言説も、極端に鈍感だ。


展示中止は、テロの脅迫が現実の成果を出してしまった由々しき事態

いや「鈍感」では済まない。暴力の脅迫つまりはテロが原因であることを恣意的に無視するかのような言動が、トリエンナーレの開催側でも、国内外から集まった参加アーティスト達以外の、つまり日本の主催者側では主流になってしまっているし、この展示中止を非難する言説の多くも、「ガソリン携行缶を持ってお邪魔する」と言った脅迫FAXや、抗議というより恫喝・威圧に近い数々の電話やメールのことにほとんど言及しない。Twitterなどで批判している人たちは、自分も似たような嫌がらせや脅迫を含むネット・ストーカー行為の被害に遭った経験も一度や二度ではないはずなのだが。

当のテロの標的にされた「表現の不自由展・その後」のキュレーター達が「戦後最大の検閲事件」と、主催者・愛知県の知事やトリエンナーレのディレクションをメインの批判対象にしているのは、まるで展示中止の原因がテロであった、つまり自分たちがテロの標的にされた現実から逃避しているのか、あるいは恐怖を隠して虚勢を張っているようにも見える。だいたい中止を決めた愛知県を責めるなら、この場合は「検閲」ではなく、「匿名のテロに屈した」でなければおかしいはずだ。

暴力を伴う威嚇・脅迫が展示中止の理由で、観客と職員の安全を確保するやむを得ない判断だったことを明言しているのは、その愛知県の大村秀章知事だけだ。大村は会見で脅迫の具体的内容も語り、電話応対した女性職員に対して行われた犯罪的な人権侵害行為について「若い女性にこんなことをやられてはたまらない」と訴えたが、しかしその大村知事ですら、こうした脅迫行為が「テロ」だとはっきり非難することには及び腰だ。

一方で、あろうことか津田大介・芸術監督は、暴力の脅迫で中止になったことすら明言せず、テロリストを非難もせず、「表現の不自由展」を今年のプログラムに入れた理由が「物議を醸す」ことで、自分の思慮が足りなかったと謝罪する会見を開き、言いわけのように警備体制を説明して、準備不足だったとまで言ってしまった。

いやちょっと待て。「物議を醸す」展示だから慎重かつ重点的に警備を強化すべきだったとは言っても、具体的なテロ予告まで事前に想定することは常識的には求められない。テロ予告を受けて初めてそれに対応した厳重な警備を行うのが普通で、そうでないと逆に過剰警備で来場者にとっては敷居が高くなってしまうし、民間警備会社への発注では予算の制約もある。

今回のケースは、開催前から出品作品に対してよく知られたテロ集団から破壊予告や作者の殺害予告が出ていた、たとえばイランのシーア派指導部から作者サルマン・ラシュディの「処刑命令」が出ていた小説『悪魔の詩』や、完成前からキリスト教福音派原理主義の殺害予告が監督マーティン・スコセッシや配給のユニバーサル・ピクチャーズに出ていた映画『最後の誘惑』(原作『キリスト最後のこころみ』の作者ニコス・カザンツァキスもギリシャ正教会の破門宣告)のような作品とは、事前の事情がまったく異なる。公立美術館などから撤去された理由は県議会などの圧力や、行政機関内の内規の問題で暴力を伴う危険はこれまでなかったし、昨今のSNSが極端に普及した社会でも「炎上」するのはあくまでネット上のこと、本当にガソリンを撒いて火を付けるようなことは、さすがにこれまではなかなか想定されなかった。

本物のテロ予告も含めた脅迫行為が匿名の一般人からとめどもなく波状攻撃のように集中したのは、後から考えれば予兆はあったと言えなくもないにせよ、今回が初めてなのだ。この大きな質的変化を見逃してしまうのは、危険だ。

国が動かなければ警察が警備強化ができない日本の事情

愛知県とトリエンナーレ実行委員会が、観客やスタッフの命の危険さえ考慮せざるを得ない立場上、展示中止を決めたこと自体はやむを得まい。招聘アーティストの声明もここには基本、賛同している。作り手は自分の命を作品のために賭けることまではできるが、観客の命までは巻き込めない。造形芸術や映像作品では作家が展示場所に常駐しているわけでもなく、「ガソリン携行缶を持ってお邪魔する」テロで命の危険に晒されるのは主に観客なのだ。

それに襲撃リスクを想定しなければならないのは、「表現の不自由展」のそれ自体は比較的小規模なブースだけではない。「あいちトリエンナーレ」は100以上のイヴェントがある大きなフェスティヴァルで、会場は名古屋市内外と豊田市に点在する。屋内の展示だけでなく屋外展示や、さらにはテロの絶好の標的になり易い演劇プログラムもあり、音楽部門では人気バンドのサカナクションの大きなコンサートなども今年のプログラムに入っている。「表現の不自由展」への襲撃は警備の厳重さで諦めても、腹いせに他の会場で事件を起こす危険性は排除できないのだ。差し迫ったテロ対策としての厳重警備をこれだけの規模で敷くことは、民間警備会社には命の危険を伴う警備までは頼めない以上、警察の積極参加なしには難しい。だが匿名のテロ予告から予見される可能性を検討して警備プランを建てるなら、市内に会場が点在する名古屋市に先日の大阪G20サミット並や、来たる東京五輪並の警備が、最悪10月の終了までの長期に渡ることも視野に入って来る。

それでも、これが例えばアメリカ合衆国であれば、市警察や州警察が自治体首長の指揮下に属するので、知事や市長の権限で重点警備を命ずることができる。しかし日本の警察制度では、愛知県警は予算的には県に属するものの指揮命令系統上の上部機関は警察庁で、知事命令だけでは動かせない。知事は脅迫の事実を正式に県警に通報し、県警は放火予告のファックス一件についてのみ訴えを受理し、59才のトラック運転手・堀田修司容疑者が逮捕された。とは言え殺到した脅迫的な内容や犯罪性の高い電話やメールの数からすれば、テロを実行する可能性があるのがこの人物だけだとは考えにくい。

国が動かなければ対テロ警備は難しい

不思議なのは、「暴力の威嚇によるテロ脅迫が美術イヴェントに対し行われた」という事態に対して、「テロと断固戦う」「テロに屈しない」と常日頃言って来た政府が、なんの反応も示さないことだ。

もちろん「表現の不自由展」のような展示を、現政権がおもしろく思っていないのは、自明のことだろう。

目玉作品扱いの「平和の少女像」は、日本では「慰安婦像」とのレッテルで呼ばれて来た。その慰安婦問題は(河野談話による謝罪で解決したはずなのに)安倍政権下で韓国との外交問題として再燃し、関連して戦時中の日本政府が徴用令などを利用した外国人強制労働の問題も、安倍政権が推進した「明治の産業革命遺産」の世界遺産登録の過程で外交問題化してしまった。

元朝鮮人徴用工が直接に自分たちを搾取した日本の民間企業を訴えた裁判は、韓国の大法院(最高裁判所)で確定判決の賠償命令が出ている。折しもこれに対する報復制裁が真の目的だと国際社会には見透かされている、対韓国の「安全保障上の貿易管理の見直し」で、日韓関係の緊張が高まっているところだが、純粋にテクニカルな問題であるはずの貿易管理なのに、なぜか経産省がわざわざパブリック・コメントを集めるなど、賛同の方向に世論を誘導し鼓舞宣伝する意図もあからさまだった。そうした政府の動きは有効だったと見え、民間の世論調査でも、この制裁というか事実上少なくとも短期禁輸措置にはなるはずの制裁ついては、賛成が過半数を占めている。

特にSNSなどインターネット上では、こうした政権の「反韓」姿勢に賛同する不特定多数の(多くが匿名の)勢力が、今回の展示中止の原因がテロ脅迫であったにも関わらず、それが「民意だ」「従って当然」と言い続けている。

これはあまりにも危険な兆候だ。

現政権の支持層の中に、司法や警察権力の制度だけでなく、明らかに違法で犯罪的な暴力でも、「民意」のためなら許されるのだと信じるファナティックな人々がいて、それも増え続けているのだ。そんな中ではたとえ堀田容疑者一人が逮捕されようとも、同様の発信をネットなどで行なっている不特定多数のうちの誰かが堀田容疑者に代わって犯行を実行する危険性は、かなり高いと言わねばならない。

警備以上に重要なのが、政府の「テロに与しない」意思表示のはずだが

だからこそ、そうした自分の支持層に自制を促すためにも、安倍政権が「反対意見であっても尊重し議論するのが民主主義のルール」「暴力で他人を黙らせることはテロであり、日本はテロを許さない」「犯罪で異なった意見に沈黙を強いることは許されない」と公式に表明しなければ、政府としての最低限正当性が保てず、日本の国際的な信頼すら地に堕ちてしまう。

このままではテロを容認し、テロを利用する政府になってしまうのだ。

政府に限らず今回の展示に反対する者たちは、逆に暴力の威嚇を含む犯罪行為と自分たちとの間に明確な一線を画さなければ、自分なりの「正義」を主張していることすら無効になってしまうと考えるのが普通のはずだし、それが成熟した民主主義社会の常識だ。だが現実はまったくそうなっておらず、堀田容疑者の逮捕もほとんど話題になっていない。「見せしめ」効果を狙った逮捕だったとしたら、事態のヒステリックさを抑止する効果も出ておらず、ガス抜きにすらなっていない。

その一方で、安倍政権が表向きでは「輸出管理強化」と主張しながらも韓国相手にその必要があると言える現実的な理由や具体的な実例をまったく説明できないままの事実上の報復・制裁は、韓国世論の激しい反発や国際社会の非難、そして安全保障上の観点から日米韓の連携を重視せざるを得ない上に韓国の半導体生産が滞れば自国のIT産業にもダメージが出るアメリカ政府の圧力に、日本政府が抗しきれなくなりつつあるのが現状だ。

その意味では運悪く重なったのが、日本側の暴力的な人種差別さえうかがわせるこのテロ予告事件だ。結果として客観的・国際的には、日本は言いわけができない立場に追い込まれている。安倍内閣もさすがに慌てたのか、経産省が通常90日かかるはずの輸出許可手続きを異例の1ヶ月以内という速さで出してしまった。だが逆にこんな小手先の誤魔化しではますます、まったく筋が通らない。韓国への戦略物資の輸出に安全保障上の懸念があるのなら、より厳密な審査が必要なはずで、より時間もかかるのではないか?

安倍政権自身にとっては、客観的に言えば「自業自得」の事態ではある。とは言うものの今回の展示については、国からの補助金についてあてこすった菅官房長官以外には、内閣から直接の反対や非難は出ておらず、問題の菅長官の発言も柴山文科大臣により速やかに否定された。文化事業への補助金について政府・政治家が直接口を出すことは日本ではあってはならないのが、文科省と政府の公式見解である。安倍政権も無自覚な期待はあったにせよ、さすがに想定はしていなかったであろう美術展テロが事実上のオウン・ゴールになって、安倍外交はまたもや韓国へのむき出しの敵意で逆に完敗し、今はなんとか責任をうやむやにして、なあなあで済ませて失敗を報道から隠す方向を、模索せざるを得なくなっている。

まあそもそも、これは最初から対外的には勝ち目のない、国内世論対策と参院選のための扇動でしかなかった。消費増税や年金問題の再燃で与党が不利になっていた挽回策として始めたに過ぎなかったものが、韓国側の反発が想定を超えて表面化してしまい、当初考えていた以上に問題が大きくなって引き伸ばされてしまった結果の、政権与党の大誤算でもあるのだろう。もっとも、こうした稚拙な外交スタントを、後先もよく考えずに始めてしまう政府の戦略性の欠如自体が、国民から見るとあまりに頼りない。

「テロと戦う」を実践した試しがない安倍政権

だいたい安倍政権が口先だけで「テロと断固戦う」と表明して来たこと自体、羊頭狗肉としか言いようがない。

ISIS(イスラム国)による日本人人質事件では、要求もないうちからヨルダンのアンマンで身代金支払いに奔走し、そのあまりのあからさまさが自由主義陣営・友好国の不信を買ってしまった。具体的には、イギリス、アメリカとの電話首脳会談で安倍は厳しく叱責されている。やっとテロリスト側が公式に要求を出すと、今度はその条件だったヨルダンの死刑囚との人質交換を実現しようと、ヨルダン政府の主権を侵害してその国民すら侮辱する圧力を繰り返したのも安倍政権だ。釈放が要求されたリシャウィ死刑囚は、多数のヨルダン国民を殺傷した自爆テロの実行犯だった。

つまりヨルダンの司法制度を捻じ曲げるだけでなく、その国民感情を逆撫ですることすら厭わずに、平然とテロに屈したのが、この時の安倍政権の対応だった。ISISの真意がそもそもそんな外交非常識・平和ボケな安倍政権をバカにしまくることであったのも見抜けず、まんまとその術中にはまっただけだ。

神奈川県相模原市の重度障害者施設・津久井やまゆり園で起きた大量殺傷事件も、障害者に対する歪んで差別的な政治思想の実践として行われたテロ事件として分類されてしかるべきものだ。

しかもこのテロの単独実行犯は、自らの氏名住所と犯行計画の概要を明記した手紙を、事前に政府に(それも自らの手で)届けていた。直接には大島衆院議長宛だったが中身は「安倍首相にお伝えください」で、それも犯行声明ではなく安倍自身による賛同と保護を求める内容だった。こうして官邸が事前に把握していた詳細な情報はしかし、事件を未然に防止するためには全く活用されていない。つまり当時では戦後最大の殺人事件になったのは、政権の不作為による承認と応援で実行されたテロだったのだ。

しかし首相本人からも政府からも、この稀に見る残虐な犯行とその動機である歪んだ思想を非難する言葉は、事件後もなにも発せられないままだし、犯行予告だった手紙の存在自体が、報道でもほとんど注目されないまま現代に至っている。

「政権への忖度」や「政権の圧力」だけで説明がつくことだろうか? 日本国内で、危険思想に囚われた日本人が、同じ日本国民相手にテロを起こしたという現実は、とても直視できない、という逃避・忌避の心理は働いていないだろうか? いやすでにサリン事件があったじゃないか、と言うのであれば、あの場合はまだオウムと言うカルト宗教の「洗脳」と理解することで犯人の他者化は可能だった。しかし植松聖被告はそうした「洗脳」を受けたわけでもなく、自分で勝手に(たぶんにネットなどから影響を受けて)危険なテロ思想に染まっていた。はっきり言えば、今の日本では誰にでも起こり得ることだし、その予備軍が凄まじく多いことも認めなければならない。

テロリズムとは暴力や脅迫で政治的な結果を期待する行為、原義は「恐怖政治」

そして今回も、テロ予告とネットを利用した名誉毀損・脅迫を伴う個人をターゲットにした言論テロについても、安倍政権からはなんの発信もない。

その政権に犯人側が思想的に極めて近いのは自明だろう。とりわけ「平和の少女像」は安倍政権が在韓国日本大使館前と釜山の領事館前から撤去させようと韓国政府に的外れな圧力(設置したのは民間団体で、言論表現の自由が憲法で保護されている韓国では、政府にその権限はない)をかけているのと基本、同じ作品であるからこそ、これでは事実上、安倍政権がテロを利用して自らの主張を通したことになってしまう。

それに展示中止の現実的な理由が、警察を使って警備を強化する権限が愛知県・大村知事にない現実である以上、総理官邸がなんの発信もせず、警察庁が何も動かないのでは、この政府・政権の不作為がテロの支援を意図していると見られてしまっても反論は難しい。

つまりは安倍政権が何も言わず、警察庁になんの指示も出さないのなら、日本こそが「テロ支援国家」になってしまった、ということに他ならない。

テロないしテロリズムとは、暴力やその脅迫の手段で恐怖を流布することで、政治的主張を押し通したり、政治的・社会的な成果を得ようとする行為であり、原義は「恐怖政治」だ。

現代の世界では、1960〜70年代に先進国で広がった左翼過激派のテロ(日本の赤軍派、ドイツのバーダー・マインホフなど)や、アメリカでケネディ兄弟、マーティン・ルーサー・キングJr、マルコムXなどの指導者が相次いで暗殺されたこと、1972年ミュンヘン五輪でイスラエル選手団が狙われた「黒い九月」事件や、70〜80年代にIRA(アイルランド独立軍)が英国で行った数々のテロなど、主に政治的イデオロギー少数派の過激分子や、先進国中心の世界秩序に反抗する小国・発展途上国の独裁政権、ないし独立運動過激派が主導した事件が注目されて来た結果、「テロ」というと少数派の意見を暴力で主張するイメージが強い。1995年に日本で起こった史上初の都市型無差別テロとされる地下鉄サリン事件、2001年のアメリカ同時多発テロなども、同種のいわば「少数派」によるテロリズムとして分離される。

だがテロリズムの原義は「恐怖政治」であり、多数派・少数派どちらの主張なのかは、本来なら関係がない。そして政治的少数派の実力行使としてのテロは、やっている側がいかなる社会全体の変革を夢見ていようが、結局は一般の多数派市民の反発を買うだけで、せいぜいが直接の生命の危険止まりの影響力しか持ち得ないのが普通だ。

むしろより危険なテロリズムは、政府・政権側に立った、潜在的・顕在的双方の「多数派」によるテロの恐怖だ。これこそが社会そのものとその政治状況をこの上なく危険な方向に推し進めてしまうものとして、もっとも警戒されなければならない。現に20世紀はその全体を見れば、そうした多数派・権力側の主導するテロリズムの危険と、その惨憺たる結果こそが頻発した時代だった。

「政府側・権力側大衆テロ」の悪夢

例えば日本では庶民派で国際協調主義を唱えた総理大臣・浜口雄幸が、1930年のロンドン軍縮条約の調印からまもなく、東京駅で右派の青年に狙撃され、翌年に死亡した。並行して同年には関東軍が満州で命令違反かつ国際法違反の軍事侵攻を開始、国内では血盟事件のようなテロ事件が続き、1932年には海軍将校の起こしたテロ事件・5.15事件で首相官邸が襲撃され、犬養毅首相が暗殺された。昭和の大恐慌で国民生活も貧窮する中、こうしたテロの連鎖で大正時代から昭和初期の自由主義的な空気は一変した。

1936年に陸軍の一部将校が起こしたクーデタ未遂の2.26事件では、テロリストと化した軍人たちこそ鎮圧され処刑されたものの、この事件を頂点とする軍が大なり小なり関与した右派テロの連鎖の結果として、文民の政府・政治家に染み付いた恐怖が、軍の暴走を抑止する力を政治から完全に奪ってしまっていた。

この1930年代日本の自由主義の放棄と軍国主義化の過程において、自分たちの自由をどんどん奪われていった国民もまた、無罪・無答責とは言い難い。たとえば5.15事件ではテロリストとなった青年将校の助命を嘆願する、国民的な運動まで起きている。テロ、暴力、犯罪も、感情論的に同情できるならむしろ支持されたのだ。こうして軍国主義化と軍の抑圧が進めば進むほど、むしろその国家権力と共謀している自己満足に耽溺した多数派は、様々なテロ的手段によって戦争に反対する者や、カルト国教化した「国家神道」を信仰しないキリスト教徒、創価学会や大本教など新興宗教のような宗教的少数派、「アカ」と名指しされた進歩的な思想を奉ずるものなどを率先して脅し、威嚇し、弾圧し、官憲によるテロを期待して密告もして来た。

中華人民共和国では、「毛語録」を掲げることがトレードマークの毛沢東支持集団「紅衛兵」が文化大革命で国家権力を先導までして、恐怖政治の状況を作り出して政治を大混乱に陥れた時代があった。紅衛兵は国家体制とは一応別個の枠組みで、国家最高指導者たる晩年の毛沢東と、毛が重篤な病に倒れた後やその死後には毛夫人の江青ら五人組と密接に結びつき、その指揮や扇動で動いていた。その暴力的・脅迫的で本来なら非合法な手段は、広義にはテロリズム、集団テロと言ってしまっても大きな語弊はあるまい。

また現代の香港では、北京政府との裏の強い繋がりが疑われる「黒社会」、組織犯罪グループ構成員による反政府デモ隊襲撃が頻発している。これも多数派・権力側主導が政府に批判的な政治的少数派の弾圧に非合法の暴力を用いるテロリズムと言ってしまえるだろう。

アメリカ合衆国で相次ぐ銃乱射・大量殺人事件は近年、白人至上主義思想と結びついた単独犯テロの傾向が強くなっている。8月3日にテキサス州エル・パソで20人が殺害された事件では実行犯が確保されて「ヒスパニック移民を狙った」と供述、警察は明確に「テロ事件」と認定して捜査を進めている。同日にオハイオ州デイトンで起きた乱射事件の犯人は射殺されているが、動機が同様の白人至上主義テロである可能性が高いと見られているし、一週間前にカリフォルニア州で起きた乱射事件もやはり白人至上主義の人種差別テロである疑いが濃厚だ。トランプ政権はそうした白人至上主義勢力に支持されているし、大統領自身の人種差別発言や差別的な政策もある。トランプは以前にも、白人至上主義者が反対派のデモに自動車で突っ込んで1名を殺害した事件で、犯人側を擁護するような言動を繰り返した。今回のエルパソでの事件を受けてトランプは妻と共に慌て現地を訪問して被害者の側に立つかのようなポーズを取ろうとしたが、逆に一般市民から激しいブーイングを浴びせられている。

そう言えば、トランプ大統領といえば不思議なことがある。「令和初の国賓」としての来日中に、川崎市でスクールバス待ちの小学生の列が襲われる事件が起っているが、同日横須賀の自国艦船を視察した際のスピーチで、トランプはこの事件に真っ先に触れて犠牲者への哀悼と、自分が代表するアメリカ国民の心が遺族と共にあることを表明した。スピーチ自体は自国の将兵が対象だったのに、わざわざ、である。ところがこの時も、同行していた安倍首相は、事件についてなにも言っていないのだ。

京都市伏見区のアニメーション製作スタジオでの放火事件も、日本の戦後史上どころか近代史上最大・最悪の殺人事件(それまで戦後最悪だった津久井やまゆり園事件の死者19名だけでなく、1938年の津山三十人殺しも超える34人死亡)になってしまったのに、やはり安倍首相や官邸からはなんの公式の反応もない。そして「あいちトリエンナーレ」へのテロ脅迫は、放火予告が直接的にこの京都アニメ放火事件を示唆する内容だった。

文字通り「ナチスのやり方に学べ」になってしまいそうな危険な事態

言うまでもなく、多数派の賛同に訴えて扇動するテロ、政府側・権力側に立った政治的多数派によるテロといえば、もっともこれを巧妙に駆使したのがアドルフ・ヒトラーのナチス政権だ。

中でも最悪かつもっとも危険だったのが、ユダヤ人に対する大衆テロを政権と党が扇動した1938年11月9日から10日未明のクリスタル・ナハト(「水晶の夜」)事件で、一応は政府に直接は帰属しないSA(突撃隊、ナチス党の軍事組織で国家政府でなく党に帰属)が先頭に立って大々的に扇動し、ドイツじゅうでユダヤ人の商店や住宅が襲撃された。この大テロ事件をきっかけにホロコースト殺人マシーンが全面的にドイツ全土で動き出し、翌年9月に第二次大戦が始まるとヨーロッパじゅうのドイツ占領地に広がり、直接被害者数だけでも推計600万の大虐殺に繋がったのである。

ヒトラー自身が1923年のミュンヘン暴動、つまり大衆テロの扇動で頭角を表した政治家だ。そのナチス党は世界大恐慌の打撃がもっとも激しかったドイツの社会混乱のなかで、テロの暴力を手段のひとつとして支持を集めた。1933年1月に最初のナチス内閣が成立した一ヶ月後、総選挙の直前に国会議事堂が放火で破壊されると、ヒトラーはこれを「共産主義者のテロ」と決めつけて政権強化をはかり、腹臣のゲーリングが「敵に対しては、テロルの使用が不可欠である」と宣言している。結果、この総選挙はナチスの圧勝だったが、国会議事堂放火事件が実はナチスの自作自演だった可能性が今日なお強く疑われている。このような政府による「白色テロ」とそこに大衆を扇動・動員することこそ、もっとも危険なテロのあり方なのだ。

クリスタル・ナハト事件の以前から、ナチスの独裁弾圧体制の強化には、常にSA突撃隊などの党組織による白色テロと並行して、熱烈支持者集団による大衆テロが効果的に用いられて来た。焚書運動の主体となったのは党を支持する学生など一般の若者たちだったし、ヒトラーが「退廃芸術」と断じた近現代芸術への大々的な弾圧は、大衆テロによる画廊や美術館への威圧・脅迫と、政府による没収がワンセットとなって進められた。

この「退廃芸術」弾圧にはナチスのテロ政治のブラック・ジョーク的に不条理な側面もある。若い頃は画家志望だったヒトラーの趣味(と言うかやっかみ?)で、印象派絵画は「退廃芸術」として公的には追放されたはずが、ゲーリングやゲッペルスのようなヒトラーの側近でナチス政権の重鎮たちはモネやマネ、ルノワール、セザンヌらが実のところ大好きで、没収された作品を自分の私邸に飾ったりしていたのだ。ナチス党が大々的に反知性主義の大衆扇動を繰り返した裏で、ブルジョワや没落貴族階級出身だった側近たちは、実のところそれなりに現代的で知的な教養を、実は持ち続けていたのだ。ちなみに画学生を目指していた頃のヒトラーの絵画は、主題としては穏やかな風景画が多いが、古典主義の凡庸で表層的な模倣程度のものでしかない。

一方で、これは全く笑えない欺瞞として、公的には燃やされ破壊されたはずの「退廃芸術」は、とりわけナチスに厳しく弾劾されたドイツ表現主義絵画ですら、現実にはほとんどが焼かれたりすることがなく、党に近い画商を通じて現金化されたり、スイス銀行に預けられて将来の資金源として温存されていた。スイスがナチスの侵略を受けなかったのは「永世中立」だからでも「国民皆兵」の国防軍の抑止力が効いたからでも全くなく、スイス銀行がナチスによる没収資産のマネーロンダリングに全面協力していたからに他ならない(つまりヒトラーは経済的な利用価値があるからスイスを温存したに過ぎない)と暴露されたのも、ナチスが破壊したはずの美術品の発見がきっかけだった。

先端芸術叩きは大衆のコンプレックスを突いて扇動するもっとも有効な手段

ナチスが実践したように、現代思想やそれが反映された現代芸術を弾圧することは、暴力的なテロリズムに支えられた大衆扇動の全体主義政権の樹立と維持において極めて有効な手段だ。すでに19世紀後半のフランス印象派がいい例だが、近現代の芸術はリアルタイムには必ずしも大衆に即座に受け入れられるものではなく、現に初期の印象派展は批評家からも大衆からもバッシングされた。このフランス印象派が、大衆の保守的というか、ぶっちゃけ「遅れた」趣味に対抗して表現の先進性を擁護する必然から本格的な近代芸術批評が生まれるひとつのきっかけとなり、ヴァイマール共和国時代のドイツでは先端的な芸術の開拓とそれを理論化して評価・擁護するインテリ批評が幸福な関係を確立していたが、その必然的な結果として、現代芸術が知的インテリ志向に独占されるエリート的先端文化となってしまうと、「無教養な」大衆は取り残され、コンプレックスばかりを肥大させることにもなる。

しかもそうしたヴァイマール共和国時代の先端芸術は、ドイツ社会の抱えた矛盾や問題を告発し病理を明らかにすることも躊躇しなかった。自分たち自身の問題をも突きつけるそうした作品や批評言説は、大衆にとって必ずしも見ていて快適だったり耳あたりがいいものではない上に、バウハウスに代表されるように先端芸術をデザインとして取り入れた生活改善運動も盛んになる中で、そんな最先端についていけない不特定多数の大衆は自らを貶められたような気分になりながらも、20年代は経済が比較的好況だったし、ドイツが第一次大戦の反省から生まれ変わらなければならないと言う強い意識が時代背景としてまだ生きていた。

しかし世界大恐慌で経済の破綻と同時にそうした前向きな理想主義的空気も崩壊し、治安も目に見えて悪化すると、不特定多数のドイツ大衆にとっては、社会矛盾の直視を芸術によって強いられるよりも、分かりやすいぶん中身がない「ドイツの偉大さの復興」を唱えるナチスが登場して、先端芸術や先端思想はユダヤ人による文化汚染だと断じてくれたことは、快感にすらなったことだろう。オリンピックも派手にやってくれたし。

なにしろ中身がほとんどないので深く考える必要すらないし、深く考えない方が「正しい」というお墨付きを、ナチス政権が与えてくれたのだ。こうして大衆テロによる表現・言論弾圧がドイツを席巻し、ナチス政権は不特定多数の大衆の支持をこそ力にして強化されて行ったのだが、その裏では常に、気に入らないものを暴力の脅迫で押さえつけられる特権の幻想に酔う多数派側のテロの欲望と、それを承認し利用する政府の共謀関係が、必然的な破綻に向かって、国民規模のアイデンティティの根腐れを起こしていた。

戦争直前の日本やナチス政権初期の状況に似通って来た

今回「あいちトリエンナーレ」で起きたことは、電話とインターネットによる匿名のバッシングという主たる手段が極めて現代的であることを除けば、1930年代のドイツの「遅れた」大衆がまんまとテロを政治的手段とする政府によってテロ集団として無自覚なうちに組織化され、国と社会全体と国民生活を倒錯と破滅の道に突き進ませる結果になった状況に、どんどん似かよって来ている。

日本社会の全体がこの事件で、危険な、もう戻れない一線を超えてしまったのではないかと考えるのも、あながち杞憂とは言えないのではないか?

しかもナチスとそこに扇動された大衆が、まだ「アーリア民族の栄光」の勇ましさに基づく自己正当化の理論くらいは装っていたのに対し、やり口がどう見てもあまりに卑劣で姑息で傍目にはあまりにカッコ悪いところは、ナチズムの劣化パロディにも見えて来る。

放火予告はつい数週間前に起きた悪質な放火殺人を模したいやらしい脅迫(「ガソリン携行缶を持ってお邪魔する」などなど)だったし、電話で対応した若い女性の職員の名前を聞き出してネット上で晒すなどというのも、あまりにいやらしく下賤だし、犯罪心理学を援用するなら象徴的なレイプ願望を含む卑劣なリンチとすら言える。そんなカッコ悪い人々の説く「愛国」だか「美しい国」だかは一体なんなのか、素朴な疑問すら湧いて来る。まだナチスは見た目はカッコ良かったはずだが、電話やネットの匿名性に隠れた現代の大衆テロは姿すら見せず、本人が特定されないからこそ平気で醜悪かつみっともない邪悪さを曝け出しながら、そのレベルの低さ自尊感情の欠如こそが「民意」だと、開き直っているかのようだ。

無知無教養な騙され易さも度を越している。「現代アートの祭典」は地方公共団体の主催でもマイナーで趣味的なものとしてか、あるいは地元コミュニティでしか消費されて来なかったのが元からの日本の文化状況とはいえ、「トリエンナーレ」が3年に1回の開催だとも知らずに平気で「毎年行っているが今年はひどい」などという批判もどきがTwitterなどで出回るのは、冗談にすらなっていない。

河村たかし名古屋市長にいたっては、名義上は実行委員会の副委員長なのに、このトリエンナーレが100以上の催しがある巨大なイヴェントだから10億以上の予算規模であることも知らないのか、あたかも「表現の不自由展」のような「反日展示」のために10億の公金が使われたかのような事実誤認の扇動に熱中している。こうした事実誤認はSNSを使って同様の発信をしている「反対派」の(主に与党と維新の)政治家も同様だ。念のため訂正しておくと「表現の不自由展」はもう4年前に都内の画廊で行われた展示を基本そのまま持ってきただけで、予算規模は数百万にもならず、ほとんどがキュレーター側(つまり元の「表現の不自由展」主催者)の集めたカンパだそうだ。

『平和の少女像』ばかりが注目されて、どうも「韓国の反日イベント」という勘違いすらまかり通っているようだが、金曙炅・金運成(キム・ソギョン/キム・ウンソン)夫妻のこの彫刻と、安世鴻(アン・セホン)の組写真(銀座ニコンサロンでの個展が中止)以外は全て日本の作品で、強いていえばあとは在日コリアンの高校生が慰安婦問題を主題にした油絵一点だけ、それ以外は国籍も日本人の作家か、日本人の創作集団ばかりだし、横尾忠則のような一般にも知られた大家の作品も含まれる。

展示のコンセプトは主に公共・公立美術館などでの展示が議会などの抗議や主催者側の内規に基づく懸念を理由に中止された作品を見せること。それが「左翼が日本をバカにしているものばかり」に見えるとしても、ならば右翼な皆さんの熱心な抗議というか表現妨害活動か、自民党右派への地方公共団体や公立美術館からの過剰な忖度の結果論に過ぎず、その意味では「自業自得」でしかない。

そもそも「表現の不自由展」はほとんどが日本人の作品

「昭和天皇の御真影が燃やされている!」と叩かれたのは大浦信行の『遠近を抱えて』の映像も交えた4点組バージョンだ。これは天皇制と日本人である自分の関わりを視覚化した元のコラージュ作品『遠近を抱えて』が、富山県近代美術館での同県出身の現代作家の展覧会(大浦は富山生まれ)から県議会の抗議で撤去された件を含めた再作品化で、天皇の写真が燃えるように見える映像は、この時に美術館が作品の図版が掲載された(つまり昭和天皇の写真を含む)図録の販売を差し止め、焼却処分にしたことへの皮肉なのだ。同じ検閲事件をモチーフにした嶋田美子の版画『燃やされるべき絵』にしても、図録を燃やすことで大浦の作品に含まれる昭和天皇の御真影を「燃やすべき」と判断してしまったのは富山県であり、昭和天皇個人への攻撃などではまったくなく、直接に皮肉られているのは地方公共団体の文化行政における、行き当たりばったりな事なかれ主義だ。

そうした作品の成立背景やコンセプトを知らない観客が見ても、「昭和天皇」の写真や「御真影」を昭和天皇個人を中傷攻撃するものと解釈すること自体、本気でそんなことを言い出すのならただのバカだし、つまりは論点そらしの言いがかり、ないし自己欺瞞でしかない。作品が素材モチーフとして引用しているのが軍服姿や大元帥正装の昭和天皇というイメージと、その表象するイデオロギーなのは明らかだし、その天皇制軍国主義のカルト的イデオロギーを排除することでこそ成立できたのが戦後の民主主義日本であるのもまた、公式の日本史の流れではないか。

御真影を全国の学校や公共施設から排除した、つまり象徴的に言えば「燃やした」のは戦後日本であり、軍服姿の「大元帥」イメージを「燃やすべき絵」とみなし、マッカーサーと面会した際のモーニング姿や、戦後の全国御巡幸の背広姿へと昭和天皇のイメージを入れ替えたのも日本政府のプロパガンダ政策だった。その歪んだ歴史をこの作品が結果として象徴的に表現してしまってもいる(成立過程を知らない観客がそう解釈してもおかしくない)ことが嫌なのであれば、それは自らの行為の浅はかさを突きつけられてうろたえた、自己逃避にしかなるまい。

「バカな日本人の墓とは何事か!」と叩かれている中垣克久の『時代の肖像 絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳』も、「特攻隊員への侮辱」だと主張するのはあまりに的外れというか無理がありすぎる屁理屈だ。竹の骨組みに墨染で染めた紙を貼った、旧日本軍の鉄兜にも見える半球の頂点には、確かに特攻隊員の寄せ書きを模した日の丸が貼られているが、側面には「日本は今、病の中にある」「アメリカの一部 日本州」「犯されている日本」などと毛筆で書かれた紙や、特定秘密保護法や自衛権に関する「新三要件」の新聞記事などがコラージュされている。切り開かれた側面の中には大きな星条旗が敷かれていることも含め、このブラックな風刺に満ちた作品のターゲットはどう見ても過去の特攻隊員ではなく戦後の、特に現代の日本だし、全体に御神木のように御幣を垂らした注連縄が巻き付けられ、題名が「円墳」つまり古墳時代にまで遡っていることも含めて、この作品全体が現代の日本人が夢想する「日本的アイデンティティ」がいかに支離滅裂で薄っぺらなパッチワークでしかないことをこそ示している。特攻隊を表象する日の丸の寄せ書きも明らかにその文脈で見るべきもの、つまり特攻を薄っぺらに美化する者たちをこそ揶揄しているのであって、しかもこの「古墳もどき」の内部にある「真に聖なるもの」はアメリカ国旗だ。idiot JAPONICA、バカな日本人なるラテン語学名の種は、このような歪んだ自己認識しか持てていない現代の我々日本人であって、それが現代の世界における「絶滅危惧種」として呆れられているのだ。要するに自分たちがバカにされていることに腹が立てているのに、「反日」だの「特攻隊員が」だのと言い出すのもまた、自己逃避の自己欺瞞でしかない。

横尾忠則がJR西日本の列車の外装をデザインした一連の作品のひとつになるはずだった『ターザン電車』(2011年)に至っては、車両の前面に描かれたポップな色の叫ぶターザンの顔を、会社側が「尼崎の脱線事故(2005年)の被害者と重なるという声が出かねない」と憂慮したため不採用、という冗談みたいな話で、直接の政治性の問題ですらないのだが、そんな不可思議な理由も含めて「日本をバカにしている」と見えるとしても、ならば「現にバカなんだからしょうがない」と言われればおしまいだろう。

見てすらいないものを批判しても始まらない。だがその反理性的な反知性主義こそもっとも危険

「表現の不自由展」はよくも悪くも、こうした大雑把な「思いつき」的な枠組みの展示でしかない。自分たちの社会がどんな表現を排除して来たのかを突きつけられ、その偽善・欺瞞性を自覚させられることが果たして「日本人の心を踏みにじるもの」(河村たかし)になるのだろうか? 河村市長は記者会見で、表現の自由について「なんでもかんでも自由というわけには行かない」「規制は必要」と口走ってしまい、大村知事に「それは憲法違反の『検閲』になりかねない」と突っ込まれてしまったが、どうも河村氏はこの展示の基本コンセプトすら分かっておらず、と言うか興味関心すらなく、ただ “慰安婦像” と日本では認識されている(ちなみに日本だけの呼称で、韓国語原題は「少女像」、英語で「平和の像」)ものを政治的パフォーマンスとして叩きたかっただけだとすれば、政治家としてあまりに不見識で無責任に過ぎる。

そして公的にもっとも派手に発言したのが河村たかしで、その安易な扇動の結果これがテロ事件にまで発展してしまったことについてこそ、その責任は「万死に値する」と言うか、それこそ辞任すべきでははないか? あまりに不真面目過ぎて、自分の行動のもたらし得る結果について無自覚過ぎる。能力的に言って市長の資格がないのではないか。

同様の反省は、Twitterなどで同様の無知勘違いの扇動を繰り返した与党議員たちについてもしっかり求めなければなるまい。主張それ自体の是非以前の問題で、政治家が勘違いに基づきテロを扇動してしまう迂闊な言動をやってしまうようでは、能力も責任の自覚も足りなさ過ぎるし、結果として彼ら自身の「愛国的」な主張の正当性すら失わせることになる。

“慰安婦像” の展示に反対するにしても民主主義の法治国家の政治を担うものであれば、それなりの品位と責任は当然求められるはずが、こんな有様では「危険な衆愚」「テロリストに賛同している」と批判されて当然だし、もし意図的にそれを狙ったのだとしたら、今度は多少は頭もよさと戦略性を褒めようにも、やってることがあまりに不道徳で悪質過ぎる。

今回は直接の発信こそ特になかったとしても、安倍首相が「 “慰安婦像” の展示に反対」なのは自明だろうし、韓国相手の「輸出管理の強化」で安倍が日韓関係を意図的に悪化させたこととこの事件が無関係とはおよそ言えない。だからこそ、暴力テロ脅迫や女性職員への公然レイプ的な名誉毀損かつ命すら危険になりかねない嫌がらせの結果「展示中止」と言う形の「弾圧」が達成されたことを、総理大臣たるもの、是としてはいけないはずだ。「私と反対の意見であっても、暴力や脅迫で黙らせることを私は許さない」「日本はテロには屈しない」くらいは言わなければ、それこそ不作為によるテロへの共謀を疑われるし、警察庁に警備の強化を命じ、展示の再開の可能性くらいは検討させなければ、日本の文明国・文化国家としての品位が問われる。

その一方で、大村知事の判断こそやむを得ないものとかろうじて是認できるとしても、津田大介・芸術監督の態度もおかしい。記者会見で説明した、この展示を含めた動機が「物議を醸すため」だけだったのは、どうも本当にその程度にしか考えていないこと自体が、中止に当たって出品アーティストに通知・謝罪し了承すら得ていなかったこと以上に、あまりに失礼ではないか?

安直さのファシズムに抗うことこそ、アートの普遍的な政治的役割

こんなことはアートの世界では考えられない。美術館の館長つまりその組織の「顔」は、自分が選んだ作品でなくても、広報では必ず個々の作品を尊重してその歴史的・文化的・芸術的価値を語ることが仕事のうちだ。芸術監督、つまりトリエンナーレの作品選定の総合ディレクターたるもの、建前だけでもすべての作品について展示する価値を評価し、擁護するのがこの世界では当たり前の礼儀なのだ。ちょっと型破りな人物でも「俺はインテリじゃないからうまく説明はできないが、これはとてもいい作品で皆さんに見て欲しい」くらいのことは言う。実はこれはそう「型破り」でもなく、日本で地方公共団体ベースの文化事業で大きな実績を残す人には、こう言うタイプが多い。

だいたい勘違いされては困るのだが、「物議を醸したい」などとアーティストが口にするのは照れと、作品の意図を過剰に説明してしまって観客の受容・解釈が作家の視点に制約されてしまうのを嫌うのが理由であって、「然るべき人々を怒らせるため」などは作り手だから言っていいこと、展覧会ディレクターやジャーナリストが他人の作品について言うべきことではない。作家ではない津田大介の役割はあくまで、展示が中止になった個々の作品の価値を説明し、自らの批評的な視点で擁護することのはずだ。

もう一点、津田の勘違いを指摘するなら、この展示で喚起したかった政治的な意味での「言論・表現の自由」は、アーティストにとって手段でしかなく、決して目的ではない。だいたい近代政治的な「表現の自由」が、芸術表現の歴史を見ればそんなに不可欠でもないのは当たり前だろう。古典芸術のほとんどはそんな政治理念が生まれる以前の時代に、権力者の注文や、宗教上の必要で創造されたものだが、それでも作家のクリエイターとしての自由な創造は、作者名さえほとんどが不明な中世ロシアのイコンや、仏師の名前が分からない奈良時代の日本の仏像にも横溢している。作家にとって重要なのは自分の創作の自由(自分自身の固定観念からの自由も含む)、表現手法の自由と作品内容の自由、言い換えるなら自己の内面の自由の探求から、新たな自分の芸術を切り拓くことで、津田大介がテーマにしたかった政治上の「表現の自由」は、そのための手段でしかない。

今回の騒動で津田は一部から「左翼のアイドル」と揶揄されているが、こういう勘違いもあれば、あながち的外れでもない。確かに安倍政権下で政治的言論の自由はあらゆる側面で制約されている(インターネットで自分の意見を表明するだけでも、ネトウヨの論点そらし嫌がらせ、的外れな罵倒中傷や「炎上」すら覚悟しなければならない)し、津田がアーティストをその自分の戦いに巻き込みたい気持ちも分からないではない。

それでも「あいちトリエンナーレ」はあくまで芸術祭であり、主役は作品とその作家のはずだ。なのに津田の発言は、まるで自分が主役、そのディレクションが自分の言論表現の手段でしかないようにも聴こえるし、いかに独裁的傾向を強める政権に対抗する必要の正当性で擁護しようにも、これもまた一種のファシズムであることは否定できない。

早い話がこれらの作品群が「表現の自由を考える」ための津田芸術監督の手段に押し込められるだけなら、それは作品そのものと向き合う観客の受容と解釈の自由を制約することに他ならず、作品そのものを殺す行為にもなりかねないのだ。

金曙炅・金運成夫妻の「平和の少女像」が「慰安婦像」としてのみ見られてバッシングされ、その作者の意図も作品としての真価も無視される状況は、津田自身が作り出してしまったとまでは言わないにしても、彼自身がこの像をそう言う不自由な偏見でしか見ていないのではないか?

そもそも「反日プロパガンダ」とはかけ離れた「平和の少女像」の造形

逆に言えばそもそもの疑問は、金曙炅・金運成(キム・ソギョン/キム・ウンソン)の『平和の少女像』の現物そのものを見たときに、これが「反日プロパガンダ」の「慰安婦像」に見えるのか、というところにある。

一人の10代前半と思しき少女が、いささか硬い表情で、居住まいを正して簡素な椅子に座っている。少女の国籍を示しているのは、単純化されて表現された簡素なチマチョゴリだけだ。

その隣には、少女が座っているのと同じ椅子が、空席のまま置かれている。

基本、たったこれだけの像だ。直接に感情を掻き立てる要素は何もない。ほぼ等身大に作られているので、像の目線は観客のそれよりずっと低く、威圧感もまったくない。よく見れば少女の足元の土台には、明暗が反転した影が描きこまれている。

この隣の空席は、誰の席なのだろう? 金曙炅・金運成夫妻はこの像を、戦後の元慰安婦の辛い人生をも取り込もうとした表現だというが、ならばこの空席は、慰安婦として幼くして性的な虐待に合わなければ、この少女にもあったであろう普通の人生の、現実には出会うことがなかった夫の席なのだろうか?

あるいは、死亡者数推計が最大20万ということを頑なに拒絶するにしても、多くの慰安婦が終戦まで生き残れなかった現実まではさすがに誰も否定できまい。この少女は生き残った慰安婦で、空席は死んでしまった同じような立場の女性のものなのかも知れない。あるいは、この少女もまた、生き延びた慰安婦なのだろうか? 実は死者なのではないか?

いやこの作品(特に今回展示されたのは屋外・街頭に置かれるモニュメントの銅像バージョンではなく、服も顔も普通に彩色されたものだ)の漂わせる静かな優しさを感じ取るとき、なかなか想像しづらい空席の主すら、頭を過ぎる。この空席が他ならぬ「加害者」だったはずの日本兵のものだとしても、ちっともおかしくないのではないか?

少女の隣の空席の椅子は、名もなき日本兵の席かも知れない

「慰安婦制度」なる冷酷で偽善的で非人間的な国の制度を考え出して運用した軍上層部はともかく、実際に彼女たちを抱いた日本兵もまた、慰安所の前に並ばされ、一人あたり何分と言う制限時間を階級によって細かく割り振られ、半ば以上強制的に「抱かされ」ていた者も少なくなかった。そのことに無自覚なほどに心が麻痺していたとしても、慰安婦制度はほとんどの日本兵にとってもその人間性が剥奪されるシステムに他ならない。別に「慰安所に行け」と文書で命令されなくとも上官や古参兵から「男になれ」とでも言われれば、様々な理由で本当はやりたくなくても、慰安所に行列せざるを得なかった兵士たちもまた、あまりに惨めだったのではないか? だがそこで例えば「あんな小さな子相手はあまりにかわいそう」とか「自分には故郷に許嫁が」などの理由で抵抗でもしたら、どんな目に遭わされただろう?

そしてこの惨めさは、戦時中の日本兵に限ったことではない。今でこそ厚労省のセクハラ基準に抵触し禁じられているが、童貞の若い社員が上司や先輩に売春場所に連れて行かれて「筆下ろしをさせてやる」だと言われるようなことは、ほんの20年ほど前には日本でもよくあったことだし、現代の学校でのいじめでも、同種の性的な屈辱はいじめ加害者の常套手段になっている。

日本政府は「河野談話」以来、慰安婦問題について「軍が組織的な命令として強制的に連行したと確認できる史料が見つからなかった」ことだけを争点にして来た。そのことの是非は今この場では論じまい。「平和の少女像」それ自体の表現にはまったく関係がないことだからだ。だが「銃剣を持って追い立てたかどうかなんて分からない、証拠がない、嘘だ」といかに強弁しようが、どんな事情であれ10代の、それも前半のまだ幼い少女たちが「慰安婦」として、階級に応じて一人何分と厳格に決められた状態で毎日何人もの日本兵との性行為を強制されていた事実は否定できない。そしてこの10代前半の少女の像は、そのことだけしか直接には表現していない。

そして少女は、誰も責めてはいない。ただちょっと硬い表情で居住まい正しく座っているだけだ。踵にあかぎれのあるはだしの足が、誰の心を踏みにじると言うのだろう?

芸術作品と向かい合うとき、我々はそこにないものを勝手に決めつけてはいけないはずだ。ましてアーティストが意図的に排除していることを決めつけてバッシングするのは、まったくの的外れでしかなく、あまりに愚かだ。この『平和の少女像』のような表現には、インテリ批評の助けもいらない。ただひたすら、日本人がありのままの像をまず見るべきだからこそ、この作品は名古屋で展示されたのではないか?

ひとつだけ作品外の情報を追記するなら、金曙炅・金運成夫妻はこの「少女像」のあと、『ヴェトナムのピエタ』という同じような大きさの像を発表している。これはアメリカの要請でヴェトナム戦争に参戦した韓国軍兵士が現地で起こした数々のレイプ事件や、韓国軍兵士がヴェトナム人女性に産ませた私生児たち(ヴェトナムの俗語ではライダイハンという蔑称で呼ばれる)を、聖母マリアと幼子イエスに、そして「ピエタ」つまり「嘆きの聖母」という題名に従えば、十字架から下されたイエスの遺体を抱くマリアになぞられた作品である。

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