「争点はアベノミクス」だったのか、それとも「改憲勢力3分の2」だったのか? 詭弁と隠蔽で自民大勝の参院選、その意外な顛末 by 藤原敏史・監督

国民の80%がいつまで経っても効果を実感できない経済政策が3年半も続き、大多数の国民が反対する大きな外交安全保障上の方針転換が強行されたのも昨年で、しかもその方針転換がなぜ必要なのかを丁寧に説明するという約束は未だ果たされていないまま、7割近い人たちが憲法を変える必要をとくに感じていないのに改憲を悲願とすると公言し、反対の激しかった安全保障政策の大転換も強引に決め、実感がないだけでなく実態もよく分からない経済政策を押し進めるという政権与党が、それでもなぜか選挙で大勝した。

安倍晋三首相はアベノミクスをさらに進める信任を得たというが、翌日の会見で挙げた具体的政策はリニア新幹線や港湾改修など、看板だけは新しそうな「未来への投資」の中身は50年前の「日本列島改造計画」さながらの大規模公共工事ばかりだった。

選挙前に安倍政権は消費増税10%の先送りを「新しい判断」として発表して選挙でその信を問うと言い、その際には増税を財源に予定していた社会保障を全部は実行できないと言いながら、どの部分を切るのかは明言しなかった。まずどこを切るかは選挙後に決めるというのでは脅しまじりの利益誘導でやり方が姑息過ぎるのだが、選挙前にはそこまで財源論にこだわる姿勢で野党を責めながら、選挙後には財源を度外視した大規模公共事業で補正予算を10兆以上組むと言い出した。党首討論で先手を打って消費増税先送りを提案し、延期中は国債を社会保障財源に充てるのもやむなし、と述べた民進党岡田代表を「無責任」と罵ったわりには建設国債の発行も検討に入っている。これも「新しい判断」なのだろうか?

リニア新幹線などは一応は財政投融資の活用ということで、恒久財源が必要だから消費税を充てることになっている社会保障とは別建てという理屈にはなるが、回収の見込みに疑問符がつく財政投融資の大盤振る舞いでは「未来への投資」とは逆にツケを将来世代に押し付けているだけなのは変わらない。石原経済対担当相に「新たな経済対策を指示する」とも言うのだが、それは選挙前に素案だけでも準備させ、公約として国民に問うものではないのか?

「争点は経済と社会保障」もかけ声倒れに終わった参院選

アベノミクスは「3本の矢」が最初の話だったはずだが、1本目の金融緩和は日銀に札を増刷(年80兆)させ続けることで通貨供給量を極端に増やし続けても、「デフレ脱却」の物価目標の達成は先送りされるばかりだ。キャッシュばかりが増えてもキャッシュフローにはつながらず、大手企業の内部留保が増えるばかりで投資先がないまま、銀行が日銀に預けている現金が200兆を超えている。その対策のはずだった奥の手のマイナス金利も不発に終わり、アベノミクスにはもうこれ以上は打つ手がない。都市部の不動産だけは上がっているようだが、政権が執着する株価ですら年金を投入してなんとか買い支えているのが実態だ。異次元金融緩和は要するに人工バブルによる景気刺激政策なのだが、これだけやってもそのバブルすら起こっていない。

年金資金の株式投資で5兆円の損失という試算はちょっとだけ報道されたものの、年金の原資を増やすための運用ではなく株価を買い支えるための株式への投資では目的をそもそもはき違えていることを、真っ向から批判するのは共産党や生活の党だけだ。とくに民進党本部はなぜか反応が鈍く、直近で損失が出た可能性があることだけを議論にしようとし、メディアもせいぜいがその中途半端さに同調することに終始している。だがそれではアベノミクスという経済政策の危険性の本質にかすってすらいない。むしろ極端な話、株価を年金で買い支えられるだけ買い支える限りは株価は実勢より高めに維持されるので、GPIFの損失も名目上はかなりの部分隠せるのだし、逆に言えば直近損失額だけを問題にするのなら、政府はより年金を使った株価の買い支えに懸命になることでその額を減らそうとするだろう。

もちろんアベノミクスが続く限り、こんな自転車操業が近い将来に限界に来た時には一気に「消えた年金」となる、その将来の損失額がどんどん肥大している。以前の「消えた年金」もまた株などに投資されたり保養施設などの建設で運用されていた資金がバブル崩壊時に一気に蒸発したからだったのだが、民進党もまた旧民主党で政権を担当した時に公約したはずの年金改革と問題点の洗い直しをできないままだったし、そうした過去の失敗を検証もできない民進党が中心では、野党共闘も今ひとつ効果を発揮できなかったのが、今回の参議院選挙だった。

経済が本当に争点になっていたら、安倍自民党は惨敗したはず

安倍首相は公示前の党首討論でも選挙期間中の遊説でも争点は経済だと繰り返した。だが経済が争点であったとしても、与党が喧伝する恣意的な数字に対して民進党は「格差」を問題にするばかりで議論がかみ合っておらず、政策の議論になっていなかった。

恣意的に都合のいい数値だけを誇大に吹聴する「アベノミクスの成果」への単純な疑問すら、メディアも民進党も国民に理解されるようには提示できなかった。たとえば有効求人倍率は、高齢化で労働人口に換算される人が減っていることを無視しているし、実際に雇用が増えているのはもともとその計算に入っていない高齢者と専業主婦の非正規雇用(パート労働)が多いとも言われている。大手を中心に新卒採用が増えているのは政府が直接に経済団体に要請しているからで、人工的な円安株高で内部留保ばかりが増えて有効な投資先が見つけられない大手企業は応じているが、その人工的な円安株高が続けられなくなったときの膨大なリストラ予備軍を作り出してもいることも、メディアはなにに遠慮しているのか、まったく触れようとしない。

共産党と生活の党・小沢代表は、アベノミクスと称する経済政策が人工的かつ恣意的、しかも単純すぎる市場操作で実態経済を疲弊させていることを指摘し、日本がすでにとっくに内需中心経済構造の高度先進国である以上、内需を喚起するためには満遍なく社会の全体にキャッシュを流通させることこそが安定成長につながり、分配や働きやすい環境づくりを重視することこそが成長戦略になるという経済政策の王道を、かなり分かりやすく説明していた。アベノミクスが3年も経過した今、いわゆる新自由主義系のエコノミストですら日本経済の真の危機は生産能力自体が落ちて来ていることだと指摘し、金融政策頼みの見かけ上の好況に警鐘を鳴らす人は少なくない。そこで提示される処方箋までが、たとえば共産党の政策主張にこそ近いのだが、その共産党や生活の党からの発言は、アベノミクスを批判していると伝わる部分以外は、とくに肝心の経済政策の説明が報道になかなか乗らないし、肝心の民進党は「成長だけでなく分配」「成長よりも分配」と繰り返すばかりで、富の再分配を福祉政策としか考えられていないのでは、「弱者を救済」的な憐れみの感傷論の人気取りのつもりで「アベノミクスの果実の分配」を語る与党と、大きな差がなくなってしまった。

民進党本部の攻め方がうまく行っていなかったのは、前回の17議席よりは伸びたものの改選議席を割り込んで終わった結果に現れているだけではない。同じ民進党でも、東北地方の一人区や長野県など、経済政策としての不均衡と格差が地方の経済発展に極度に不利になっている問題を野党統一候補が突き、経済産業政策を争点とする議論が「かみ合って」いた選挙区では、野党統一候補が勝っているのだ。確かに自民党は単独過半数に迫る勢いの勝利だった(その後無所属議員が入党することで、単独過半数になった)が、一方で現職閣僚が二人も落選している。法務大臣が落選した福島選挙区と沖縄北方領土担当相が落選した沖縄選挙区ではそれぞれに原発問題と辺野古新基地問題という大きな争点もあったが、そうした押しつけとセットで自民が進める公共事業や補助金頼りの経済振興策にもまたノーがつきつけられた。

選挙が終わったとたん、参院選の隠れた争点が「改憲」で、「経済」はうわべだったとメディアが報じ始めたのもずいぶん奇妙な話だが、そのうわべの争点ですら一部の地方選挙区を除けば争点として機能していなかった。だいたい、いかに英国のEU離脱、ダッカのテロ事件、目黒区のバラバラ殺人事件、そして都知事選の候補者選びをめぐるすったもんだなど、他の注目すべき話題も多かったとはいえ、参院選に関する報道の絶対量があまりに少なかった。各党の主張を戦わせる討論もほとんどなかったのだから、議論が深まるわけもない。

選挙が終わったとたんに「改憲勢力3分の2」が焦点に

投票時間が終了して選挙速報が始まると、いきなり与党を含む「改憲勢力」が3分の2議席をとるかどうかが大きな焦点として報じられた。投票前日までは改憲は争点として浮上していない、国民の関心は経済と社会保障だと、同じ報道が言っていたはずなのだが。

たしか安倍首相は年頭会見で参院選では改憲をしっかり訴えて行くと言っていたはずだし、参院選前の国会の党首討論では「わが党は憲法草案を出している」と声を張り上げ、改憲の案もない民進党の岡田代表には議論する資格がないとまで言い切ったはずだ。なのにその草案についての問いには「党の草案なので政府の総理である自分は論じる立場にない」と言を左右にするばかりで、参院選公示前のテレビ等での党首討論では突然、憲法は改正条文を国民投票にかけるので国民の判断はその時でよく、改憲は国政選挙の争点にならないと言い出した。

首相は結局その後の遊説でも改憲の話題には一切触れなかったし、メディアでも首相が「我が党は議論の叩き台を出している」と主張している、その4年前からある改憲草案の内容が報じられることもなかった。これで有権者に「争点は憲法」を認識しろというのは無理があるのに、選挙速報番組になるとフジテレビとテレビ朝日、日本テレビが改憲草案の内容に言及したり、現行憲法との比較を始めたのだ。それ自体は必要な報道だ。しかしなぜ選挙前に言わないのか? これでは有権者は判断に必要な十分な情報を得られないまま投票させられたことになる。

当然の帰結として、投票直前の世論調査でも改憲に前向きな党が3分の2議席を取れるかどうかがこの選挙の焦点になるとは、ほとんどの有権者が知らなかったことが明らかになっていた。有権者の意識が低いなどと言う資格が報道各社にないのは、報道が無視していることを有権者が意識できるわけがない。なのに投票が終わったとたんに「実は改憲が争点だった」と言われ「改憲勢力3分の2」が見出しに踊っても、国民は騙されたとしか思えない。

とくに今回の選挙では投票権の年齢が18歳に引き下げられたが、その若い人たちに至っては、改憲が争点と言われたってなにが論点でなにに賛成すべきか、なんだかよく分からない詐欺に遭ったようなものだ。

「改憲」というがどこをどう変えるのか?

騙されたのかどうかも判然としないわけのわからなさでいえば、「改憲勢力」という分類もどうなのだろう? 自民党は「改憲は我が党の結党以来の悲願」というが、どの条文をどう変えたいのかどころか、どういう方向の改憲を考えているのかの大筋すら明言を避け続けた(首相が自慢した改憲草案を見ればはっきりしているのだが)。これでは見え透いた騙しでないのなら「改憲したいがための改憲」という滑稽な倒錯にしか聞こえず、とくに1960年以前に遡るも護憲論・改憲論の歴史に縁がない子どもや若者には理解しようがない。

もちろん大人(つまり旧世代)の暗黙の了解として、「改憲論」は戦後史を通じて常に憲法9条をめぐって再軍備の是非が議論されて来たわけで、「改憲勢力3分の2」で衆参両院での改憲発議が可能となると、昔からの「護憲派」が危機感を抱くのは当然「日本が再び戦争をする国になること」だ。しかも先の衆議院解散総選挙でも「アベノミクスの信任が争点」と選挙中は言っていた安倍政権が、その後いわゆる戦争法案(安保法制)の採決を強行してもいる。当然9条改憲論を前提に、選挙前終盤国会の党首討論では岡田民進党代表が安倍首相に憲法の平和主義をどう理解しているのか詰め寄ったし、野党4党のなかでも社民党は極めて古典的に「戦争反対・9条を守れ」で選挙戦を戦った。

だがその社民党は比例区で福島瑞穂前代表が辛うじて一議席を守れたものの、吉田代表まで落選する党の存亡の危機に陥っている。一方でいわゆる「改憲勢力」とされた側では、公明党が9条をいじれるかどうかは支持団体の創価学会からすれば相当にハードルが高い(故・戸田城聖への裏切りとなり、まずあり得ない)。

おおさか維新は右派的な言動で人気を集めた橋下徹氏の作った政党だし、戦闘服姿で街頭演説をやった候補者もいたとかいないとか、イメージとしては9条廃止再軍備派の最右翼にも見えるのだが、片山虎之介共同代表は選挙前から「9条は変えるべきでない」と明言し、松井一郎代表もこれに準じた。同党の掲げる改憲方針は、人気取りとしては教育の無償化、引退した橋下氏から引き継いだ主張として憲法裁判所の設置、党の公式な主張にもっとも関わる部分では統治機構改革、地方分権だ。

「実は改憲が争点」としても、ここでも議論はまったく噛み合っていない。おおさか維新が実は9条廃止再軍備こそ狙っていて、うわべだけの改憲方針は嘘だと考えるならまた話は変わって来るが、そうやって裏の裏を読むことを強いない限り、たとえば今回選挙権を得た高校3年生や大学1年生2年生には「改憲派が3分の2」と言われてもなんのことだかさっぱり理解できなくなるだろう。

一方で自民党、安倍首相たちは「憲法を一字一句変えてはならない」とする主張との戦いだと強弁する。だがそんなこと言っている人たちは、いったいどこにいるのだろう?

「改憲」と「護憲」の区分けの現実とのズレ

開票結果を受けた記者会見で、安倍首相は質疑応答で尋ねられるまで改憲には触れず、次の国会から憲法審査会で議論を始めると応じはしたものの、どの条文をどう変えるのかは相変わらず言葉を濁した。自民党の憲法草案についても投票日夜にはそれが無傷なまま憲法改正案にはならないだろう、と珍しく神妙なことを言っているし、安倍政権の韓国との慰安婦問題をめぐる妥協的和解や、選挙演説で語っている内容が、必ずしも自分の強固な支持基盤である極右層の期待に応えてはいないのではないか、との質問には「批判は甘んじて受ける」と、いつもならちょっとした揶揄にもすぐムキになるところが、妙におとなしく答えただけだった。

別の局の選挙速報番組では、稲田朋美政調会長が憲法学者の木村草太氏に自民党憲法草案の条文を具体的に突きつけられると、国旗国歌の尊重義務、人権の保証とバーターに義務があるとの規定、家族の助け合いの義務、国民の憲法尊重義務などが明記されていることについて「私も国民を細かく縛るのはどうかなと思います」と、日頃の主張とまるで真逆な神妙な受け答えで、聞いている視聴者の方が驚いたのではないか。

「改憲勢力」が衆参両院で3分の2を確保、つまり憲法改正案を国会で発議し国民投票にかけることが可能な状況が戦後初めて実現したとたん、「改憲を悲願」として来た自民党の足下が妙にふらつき(たとえば注目の都知事選では、自民の執行部の拙劣さから分裂選挙がこじれにこじれてしまった)、改憲については野党も含めてしっかり話し合うとしか言わなくなったのているのだ。安倍氏が民進党にも改憲に賛成の人はいるとまで言い出すのは、まるで「悪いのはボクだけじゃないんだ」と駄々をこねる子どものようにも見える。

だが隠れ9条改正派も確かにいそうな民進党だけでなく、生活の党にも共産党にも、現行憲法を社会の変化や自分たちの理念に合わせて改正すること、たとえば新たな人権を明記することには賛成の人ばかりだ。そもそも共産党に至っては、9条護憲は一貫して主張する一方で、長期的には憲法の第一章の改正、つまり天皇制と国家の関わりの見直しを党是としているし、第一条の破棄つまり天皇制の廃止すら、かつては主張していた。

野党4党と支持する市民団体や、今回議席確保には至らなかった小林節慶大名誉教授率いる「国民の怒り」、SEALDsの学生達が主張しているのは、立憲主義を理解していない安倍政権下では憲法改正は危険で許されないということ止まりで、主張を字義通り理解する限りでは公明党のいう「加憲」(たとえば環境権の直接言及)と大差がない。護憲そのものを全面に掲げる社民党ですら、20条で結婚を「両性の合意」としている文言を変えて同性婚を可能にする改正であれば積極的に賛成するだろう(ちなみに厳密に条文を精査すれば、20条は同性婚を想定していないだけで禁止などしていないので改正は不要、というのが定説解釈)。というか、「一字一句変えてはならない」などとは最初から誰も言っていない。安倍のような改憲派が信用されないのは、口先だけで本当は9条を変えたいのだろうと疑われている、彼ら自身が他の条項から手をつけるのは「お試し改憲」という認識だからだ。

改憲か護憲かを論ずるとき、過去数十年暗黙の了解となっていたのは9条を守るか変えるかどうかだったのに、今回の選挙戦で実際に交わされていた議論では、少なくとも言葉の上ではそうはなっていない。だからただでさえ分かりにくいところへ、9条は一字一句変えるなという護憲派の主張を、憲法全体を一字一句変えるなと言っているかのように安倍首相が歪めて反論しようとするので、ますます話が噛み合なくなっている。

自民党の悲願の「改憲」は「9条改憲」だったはず、と思えば…

もちろん自民党が結成されて60年、その党是に改憲・自主憲法制定が書き込まれているのは、自衛隊を念頭において9条を改正すること、その自衛隊に専守防衛限定ではなく普通の軍隊のような地位を憲法上持たせることを長年の目標として来たはずだ。だがこの過去の方針は、現在では二つの点で大きな矛盾に陥っている。

まず9条は「国権の発動としての戦争・武力行使」が禁じられ、「交戦権は、これを認めない」としていることをどう解釈するのかによって、完全な非武装とも読めるし、あくまで「国権の発動」のみが禁止で国民の自衛権は否定されておらず専守防衛の個別的自衛権のみ行使は可能とも読める。自衛隊の創立以来、政府は一貫して後者の解釈を取って来たし、だから自衛隊は合憲とみなされ存続が可能になっているわけで、この解釈が出て来た当初ならともかく、もう60年も維持されているのなら、今さら9条では国を守ることが違憲になるから憲法を改正して自衛隊のことを明記すべきなどという主張は、与党が自分たちは政権担当者として60年近く嘘ないしまったく誤った主張を続けて来たとでも認めない限り、いまさら成り立たない。

しかもどういう理屈なのかは依然不明にせよ、集団的自衛権による武力行使ですら9条に違反しないというのが、戦争法案(安保法制)を可決した政府与党の憲法解釈のはずだ。ならばさらにどんな戦争でも普通にできる国に変えるのだと主張を変えるのでもない限り、9条改正を唱える正当性はもはやない。安倍氏が戦争をやる気はないと強弁しながら、それでも9条改憲を言うのなら、安保法制が違憲立法だったと認めなければ自己撞着の論理矛盾になってしまう。

もう一点、これは自民党の憲法草案を見れば分かることだが、改憲という党是ないし「悲願」は、もはや同党にとって9条改正と再軍備合憲化ではなくなっているのだ。先の国会の終盤での党首討論で、岡田民進党代表は自民党の草案のうち9条だけを取り上げて平和主義の理解について安倍首相を問いつめようとしたが、この草案の平和主義が名ばかりで侵略戦争以外はどんな戦争でも日本からの開戦が可能(というか、実際には侵略目的でもそうではない大義名分をでっち上げれば日本から戦争を始められる)になる文言なのも大きな問題ではあるにせよ、この自民党草案はもっと根本的な論理構造で日本国憲法と大きく異なっている。

この草案を自民党が出したのは平成24年、4年前のことで、自民党ウェブサイトで公開もされて来た ( https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf )。だがネット上のごく一部で話題になっただけで発表当時にもほとんど報道されず、これまでの国政選挙でも無視され、国会が衆参両院とも改憲の発議が可能な議席構成になるまで、国民に内容がほとんど知られていない。首相が争点を経済だと言って街頭演説で憲法に一言も触れなかったのを「争点隠し」と言うのなら、そう言っているメディアもそのずっと以前からの共犯者ではないのか。

改憲が視野に入ったとたんに憲法草案を隠そうとする自民党

この草案を強く支持する急先鋒だったはずの稲田朋美氏が選挙後には言葉を濁し始めたように、自民党草案をぱっと見ただけでもまず国民に義務を課す条項が多いと気づく。それも国旗国歌の尊重義務、家族の助け合い、憲法遵守義務、前文では日本の伝統や歴史に「誇りを持つ」云々など、本来なら公的な法制度が立ち入るべきでなく個人の心情に任される範疇で「国民を細かく縛る」ことがやたら多いだけでも、基本的人権のもっとも中枢にある個々人の良心の自由を無視しがちな性格が露骨だ。この文脈では、現行憲法で政府国家が「個人」を尊重するよう義務づけていることが、すべて「人」と曖昧に書き換えられているのも見落とせない。

具体的な条文でも、まず基本的人権が保障される義務を述べた11条だが、現行条文では基本的人権の享有が妨げられ得ず、あらゆる人間に「与えられる」と受動態で書かれることで、その主体が国家であれこの憲法であれなんであれ、人間には常に基本的人権があって憲法の権能はそれを国民に保証し守ることであり、国家がその国民の権利を妨げることを禁ずる、という論理構成をとっている。

自民党の説明ではこの受動態の「妨げられない」「与えられる」が分かりにくいから前者は削除、後者は書き換えたとしているのだが、この説明が本気だとしたら、この人たちはまず近代法治国家における法の権能の基本的な論理構造を理解していない。受動態が分かりにくいから書き換えたと言いながら、実際の文面では憲法に対する基本的人権の位置づけが変わっていて、国民の権利(現行憲法ならたとえば参政権)と同レベルに押し下げられているのだ。さらに読みようによっては、日本国民でないものは基本的人権を享有しないとも読めてしまう(むろん現行憲法はそうはなっておらず、基本的人権は前文にある「人類普遍の原理」の一部で、憲法はその原理に従って国家にその侵害を禁じている)。

もちろんどんな憲法でも、基本的人権をまったく制約なしに完全に認めることはできない。身近で分かりやすい例で言えば刑罰は基本的人権の制約ないし侵害だ。日本国憲法ならその制約の根拠は「公共の福祉」であり、殺人犯が野放しであったり窃盗が横行したり、言論の自由を盾に虚偽誹謗中傷で他人を貶めることが大手をふるってまかり通れば、それは明らかに「公共の福祉」に反する。分かりやすく言い換えれば「世のため人のため」「人類全体のみんなが幸福になれる社会に向けた進化」を裏切ることになるだろうし、その判断は突き詰めれば(独立した)個々人の良心の総体に任される。

自民党草案の多々ある問題点のなかでもっともナンセンスで、だからこそもっとも危険なのが、これを「公益」と「公の秩序」に書き換えたことだ。公益の追及と秩序の維持は行政の仕事であり、つまりは政府の都合で人権侵害も弾圧もフリーハンドということになる。これでは憲法の意味がない。近代憲法の役割(立憲主義)は基本的人権を国家権力が侵害しないように後者の権限の行使を律し、その範疇の制約を定め、恣意的で不公平な権力の発動を抑止することのはずだ。

「公共の福祉」を「公益」「公の秩序」に書き換えた自民党草案

「公共の福祉」を「公益」「公の秩序」に書き換える問題点の分かり易い例を挙げるなら、ガリレオ・ガリレイの地動説がある。地動説は天動説を唱えて来た当時のキリスト教会の権威を覆す、つまり「公の秩序」に反するとしてガリレオは弾圧され異端裁判にかけられたが、その学術研究業績が人類全体の進歩つまり公共の福祉にかなったものだったこと、ガリレオがその意識で教会権威に弾圧されながらも研究を続けたことに、異論の余地はないだろう。続く12条で基本的人権を守る「不断の努力」を国民に課していること、97条では基本的人権が人類の「不断の努力」によって獲得されたものだと規定しているのは、こういった史実の積み重ねを指している。

あるいはイエス・キリストが処刑されたのも当時のユダヤ人支配層とローマ帝国の「公の秩序」を守るためだったし、今の日本で言えば慰安婦問題など歴史学の近代史研究の成果を「国益に反する」と言い出す人が、安倍政権の周囲やその支持者には大勢いる。冤罪事件の告発も官憲の権威を失墜させるので「公の秩序」に反することになる、むしろ冤罪を黙認してでも警察の検挙率を高く維持しているのが日本の警察や検察の体質だが、自民党憲法草案の人権制約要件が採用されれば、学問の弾圧だけでなく冤罪での死刑ですら「公の秩序」の維持目的で正当化できてしまいかねない。

なるほど、改憲勢力3分の2が確保できたとたんに自民党幹部が妙に慎重で遠慮がちになるのもよく分かる。国会の憲法審査会にこの草案を提出して議論のたたき台にしようとすれば、当然その内容が報道され、国民の知るところとならなければならない。さすがに国民投票を要する改憲の内容とまでなれば、この選挙までがそうだったように、政府に都合の悪いことは報じないようメディアに圧力をかけ黙らせるのは難しいだろうが、かと言ってこんな恥ずかしい(憲法になっていない愚かしさの点でも、政府の都合に国民を屈服させようとしていることでも)草案を大まじめに準備していたことがバレてしまっては、与党も安倍政権も立場がなくなる。

自民党の一部議員やその右派の定年退職組が分派した「日本のこころ」では、自民党憲法草案が日本の歴史伝統を踏襲するという主旨で聖徳太子の「十七条憲法」(日本書紀によれば推古天皇12年、西暦604年)を持ち出すらしい。制度としての国家体制が確立する100年以上前の古代国家の道徳心得的な、それも歴史学研究の観点では日本書紀の創作との疑いが指摘されるものを、高度に複雑化した近代法治国家の基本法になぞらえるだけでも呆れるまでの教養のなさだが、そもそもこの人たちはその肝心の「十七条憲法」の第一条の冒頭の「一曰。以和為貴(和をもって貴しとなせ)」しか知らないのではないか? 全文を読めば一目瞭然のように、これは天皇に仕える官吏の基本的な職務心得であって統治する側への戒めであり、統治される民衆に向けられた命令ではない。

安保法制は違憲だと国会で証言してこの法案反対のオピニオンリーダーになった小林節慶大名誉教授(参院選に「国民の怒り」を率いて出馬)は、湾岸戦争とイラク戦争への自衛隊の参加まではむしろ改憲・再軍備派の憲法学者で、過去に自民党の勉強会などに招かれて来た。そこで憲法のことを自民党議員に教えようとして来た小林氏が度々訊かれ、その度に驚かされた質問があるという。「なぜ憲法にはこうも政府を縛ることばかり書いてあるのか? 国民ばかりが自由だ権利だと言うのは不公平ではないか?」とかなりの数の自民党議員が真顔で質問して来たのだそうだ。

いや憲法とは、そもそもそういうものだ。統治される側の国民はさまざまな法律の制約を受け、それを破れば社会的制裁や処罰を受ける。その国民を縛る権力の行使を制約するのが近代法治国家における憲法・基本法の役割であるだけではない。自民党の一部や「日本のこころ」が「十七条憲法」を持ち出して日本の伝統を強弁するのなら、聖徳太子の昔に遡っても、みだりに恣意的な権力の行使を防ぐため統治する側を戒めることこそが、古代国家にまで遡る日本の伝統だった。さらに神話を遡るなら、たとえば仁徳天皇は民のかまどに煙が戻るまでは自身の宮殿のかまどに火を焚くことを禁じている。「国民の生活こそすべて」なのは古代神話に遡り、聖徳太子もまたその死後すぐに民を慈しむ観音菩薩の生まれ変わりと言われ、ずっと信仰されて来た。

「十七条憲法」に創作説が根強いのは、7世紀初頭には不釣り合いなほど儒教道徳的な文書だからだ。日本の古代国家が儒教を統治原理に本格的に導入したのはその100年ほど後、律令制が確立し「日本書紀」(養老4年 西暦720年)が書かれた時代だと考えられている。その後江戸幕府が朱子学を公式学問としていたことに至るまで、中華帝国の統治原理である儒教は日本の統治者にも採用されて来たが、中国本土や朝鮮半島の儒教と際立って異なる特徴がある。臣下の主君への忠義よりも、君主が民草に尽くし続けることの徳を重視したことだ。小林節氏に不満を言ったような自民党議員たちの考えるような「伝統」はそもそも日本的とは言い難いし、自民党憲法草案は近代法治国家の憲法になっていないだけでなく、日本の文化伝統ともおよそ言い難い。

無知、無恥、なのに妙にズルい詭弁の憲法草案

この憲法草案は内容が、家族のプライバシーや個々人の内面にまで入り込む義務規定が多いなど、ところどころほとんど滑稽な不条理に見える一方で、上辺だけは前文に「国民主権」を謳いながら個々の条文を読むと国民が国家に従うことを前提とした条項が多かったり、11条で基本的人権を一応保証するように見せながら条文の論理構成が基本的人権の基本論理を無視していて、しかもそこで一応は言っていることが後の条文では事実上無効化されるようになっているなど、ずいぶんと考え抜かれた巧妙な抜け道や詭弁が多い。だからこそ本来ならメディアが憲法学者などを招いて詳細な分析的報道をするべきだし、ワイドショーのネタとしてもずいぶん長く使えるはずが、まったくそうはなっていない。

たとえば97条の最高法規規定が、自民党憲法草案では削除されている。自民党の説明では11条と内容が重複している(むしろ12条だと思うが)ので削除しただけで他意はない、となっているが、これも子どもでも騙されない詭弁だ。97条は最高法規の規定であって人権保証条項ではない。現行憲法は11条で基本的人権を普遍的なものとみなし、その保証を政府国家に義務づけていて、97条ではその基本的人権、平等な自由権の獲得に至った人類の歴史(その「不断の努力」にはたとえばガリレオやイエスやソクラテスなど、自身の良心ゆえの言動が「公の秩序」に反するとして処刑された者たちもそこに含まれる)に言及しつつ、憲法の最大の役割をその保護とし、その目的をもってこの憲法を最高法規と位置づけている。

ところが自民党草案はまず11条で基本的人権が普遍的な真理、あらゆる人間の平等な権利だとは認めてはいない。国家がその享有を妨げないよう憲法が命じている論理構成をとっていないのは、言い換えれば人権は、この憲法かなにかそれを擁する国家なのかはよく分からない統治権力側の主体が(能動態の主語が不明瞭なのも法文として明らかな瑕疵)与えたり保証したりするものでしかない。その上で97条がない、つまり最高法規とは認めていないということは、人権を守ることの絶対的な義務を、その憲法を擁する国家に課していないとも読めてしまう。

むろん、憲法・基本法である以上は自動的に最高法規だという考えも成り立ちはするし、だから最高法規規定をわざわざ明記する必要はないというのが、たとえばそもそも成文憲法を持たない英国であるとかの基本的な考え方ではある。しかし自民党が今は「そんなつもりはない、憲法である以上最高法規なのは当然だ」と言っても、これが抜け道になり得ることは変わらない。そこで決定的に危険なのが、自民党憲法草案には緊急事態条項があり、そこで政府内閣に法令と同等の権限を持つ政令の発行ができるようになっていることだ。

現行憲法なら97条は象徴的・理念的な宣言で、これがないからといって人権の保護の実務の上で大きな違いは確かにあまり起こらならないだろう。また憲法の権能の一部停止を含む緊急事態条項がある場合でも、最高法規の規定が明確であれば、まだ緊急事態条項は立法権を侵害し三権分立を無効にするとはいえ、それでも内閣が出す政令は11条の定める基本的人権の保護義務までは逸脱できない。だがもし憲法が最高法規でないのなら(そうは書いていない以上、その解釈は十分に可能だ)、内閣が出す政令が憲法の権能の一部ではなく完全停止、人権保護の義務すら無効にできることに、論理構成上はなり得るのだ。

適当な言い訳で日本から開戦すらできそうな9条改正案

同じような抜け穴というか裏の論理構成は、この憲法草案における国民主権についても、平和主義についてもある。

自民党は9条1項は変えていないというが、現行の条文が国権の発動としての「戦争、武力行使」を、国際紛争の解決手段として用いることを禁じているのに対し、自民党草案では「国権の発動としての戦争」と「国際紛争の解決手段としての武力行使」を分けて書いている。うっかりすると同じ文言に見えてしまって見落としがちだが、現行憲法の9条の第1項では「国権の発動」では戦争も武力の行使も出来ない(だから自衛隊は国家の自衛権ではなく、あくまで国民の自衛権に基づいてしか動けない)のが、自民草案では戦争はできなくとも武力行使なら国の権限として可能と読めるし、だからこそ自民草案では第1項の2という補足条文がつき(これはこれで、よほど文章が下手か、わざと分かりにくくしているとしか思えない)、そこで国家の自衛権に基づく武力行使を可能にしている。安保法制では限定的にしか許されないと政府も答弁した集団的自衛権が「フルスペックで」行使できるようになるのは、この回りくどい理屈のおかげだ。

あらためて確認しておくが、現行憲法では「国権の発動」に基づく武力行使と戦争を禁じているので、自衛権ですら国家のそれではなくあくまで国民の自衛権の行使しか自衛隊にも認められていないし、「国民を守る」のが目的ならばそれで十分なはずだ。同じような文言を用いていても、現行憲法と自民党憲法草案では許容される自衛権がまったく異なっているのだ。現行の9条があれば自衛隊の任務はあくまで国民に代わってその正当防衛の権利つまり自衛権を行使することに限定され、日本人の生命財産に直接関わらない攻撃があった場合、許されるのは自衛官たち自身の正当防衛の権利に基づく武力行使だけで、日本国という国家やその権威を防衛する目的での作戦行動は憲法上許されない(ちなみにPKOなど国連の集団安全保障活動への参加はそもそも武力行使の「権利」ではないので、本来なら別の枠組みの議論であるべきが、従来のPKO法も今度の安保法制もそこを恣意的に曖昧にしている)。これが自民党草案にあるような国家の自衛権を担う国防軍となると、安保法制の時に出て来た「存立危機事態」なる概念に基づき、日本からの先制武力攻撃すら「予防」の名目で可能になってしまう。

それに自民草案の9条1項の1は、戦争ではない武力行使でもそれが「国際紛争の解決手段」ではないと言い訳できるなら、なんでも可能になるとも読める。「戦争ではない武力行使」とは具体的になにを意味するのかと言えば、満州事変も日中戦争も当時の日本政府の公式の扱いでは「戦争」とは認めていなかった。実態は中国に対する侵略戦争でも、名目は日本軍が攻撃されたことにして(実際には虚偽・謀略だった)国家の自衛権を行使したという体裁をとり続けたのだ。

皮肉な偶然というか、改憲勢力3分の2という選挙結果が報じられるのと前後して、自衛隊がPKOに参加しJICAなどの職員も派遣されている南スーダンの内戦が激化し、政府は自衛隊の輸送機を邦人救助のために派遣すると言い出した。

この輸送機派遣自体は国際法上の問題には特にならないだろうが、国内法的にはどういう法的区分なのか曖昧なままだし、邦人の退避に自衛隊が必要なほど内戦が危険なのであれば、自衛隊のPKO参加は国内法では紛争地帯には行かない、と明記されているはずだ。ところが防衛大臣や官房長官は南スーダンの内戦をなんと「紛争とは認識していない」と、これまた珍妙な誤摩化しを言い始めている。満州侵略が「戦争」ではなく「事変」、日中戦争も「戦争」ではなく「支那事変」だったことと、これではなにも変わらない。

元を糾せば、PKO法が日本が国連の集団安全保障体制のなかで応分の役割を果たすという本来の目的を無視して、なんとか自衛隊を海外派兵したいために現実離れした机上の空論を弄び、国民の不人気を恐れて「自衛官に危険はない」と言い張るための歪んだ立法になってしまっていたがゆえの欠陥であり、新安保法制に含まれる改正でもこの根本的な問題はまったく解消されていない。すでにこういう誤摩化しに誤摩化しを重ねて来た日本政府に、自民党憲法草案の9条改正案のような抜け道だらけで論理のねじ曲がった条文を与えていいのか、国民として危機感を抱くべきなのが当然だろう。

ちなみに南スーダンのJICA職員など在留邦人は、自衛隊のC130輸送機の到着を待つ余裕などなく、陸路でケニアに脱出してそこから民間機に乗って危機を逃れることができた。

自由な個々人の総体ではなく多数原理の全体主義による国民主権

自民党憲法草案は一応「国民主権」も謳ってはいて、天皇を元首かつ国の主権者とみなす大日本帝国憲法とは違うと自民党は言っているのだが、そこでいう「国民」がなにを指すのかがよく分からない。現行憲法での「個人」がことごとく「人」に言い換えられていることも先に触れた通りだが、自民党憲法草案の場合は前文からの流れを見る限り、先祖代々日本人であった日本国籍保有者の多数派を「国民」とみなしてそれを「主権者」とする、その「国民」は当然のことのように歴史伝統を尊ぶ愛国心を持ち国旗国歌を尊重し家族が助け合うといった国家への忠誠の精神的な義務と引き換えに主権や人権を得る、という理屈になっている。

この草案を大日本帝国憲法への回帰と評するのは誤解というか、大日本帝国憲法を不当に貶めている。旧憲法における主権の所在は名目上「天皇」だが、あくまで天皇の位に象徴されるものであって元首たる天皇個人ではない。伊藤博文が練りに練った極めて複雑な論理構成は一般国民には分かりにくかったとはいえ、天皇への責任という形で政府の権限を制約する一方で、天皇個人の政治権力の行使の責任もまた厳格に定められていたのが明治憲法であり、伝統的に国家の主権者であった君主を元首に頂くことをどう近代法治・議会政治の論理体系に組み込めるのかという難しい問いへの、当時としては先進的な、かなり出来のいい回答になっていた。実際、昭和10年代に目に見えて軍部が力を伸ばすまでは天皇機関説がこの憲法の運用の定説解釈だったし、大正デモクラシーの時代もあり、昭和ヒト桁代にはかなり成熟したブルジョワ民主制が成立していたし、天皇のための戦争として戦われた第二次大戦のあいだも、昭和天皇自身は機関説における天皇の役割を押し通している。

統帥権の独立がこの憲法の最大の欠陥だったと歴史を振り返れば言えるが、これも曲解した抜け道の詭弁が大手をふるってまかり通ってしまった結果で、とたんに機関説的な天皇の役割が逆に機能不全を起こしてしまった。天皇大権に実態があって昭和天皇がそれを行使していれば、日本の降伏はもっと早かったか、日米開戦にすら至っていなかったかも知れず、実際に弟の高松宮宣仁親王は終戦を独断で決行しようとしない昭和天皇について「兄は天皇の器にあらず」と吐き捨てるように1942年の日記に記している。ここから日本人が学ぶべき教訓は、憲法の論理構成に責任の所在の曖昧さや抜け道を残すと、どのようにも悪用されかねないということのはずだ。なのに自民党憲法草案はもっとも肝心の主権のあり方ですら、「国民」と言いながら国家が国民と認める者といわば「非国民」を分別して前者のみを主権者とみなすかのような論理構造になっていて、実のところ主権の所在がまったく曖昧で、ということは責任の所在も不明なまま、多数派に選ばれた内閣が全体主義的な統治を行える論理構造が見え隠れしている。

「改憲勢力3分の2」で今後なにが起こるのか?

ともあれ、自分が政権にあるうちに改憲を、と言い続けて来た安倍首相は、実際に改憲が可能かも知れない立場をこの参議院選挙によって得ることができた。改憲を「自民党の悲願」とも言って来たのだし、今さらそれを引っ込めるわけにも行くまい。それに自民党の歴代総理で初めて改憲を成し遂げたという実績は、彼自身あと二年強の任期中にどうしても手に入れたいはずだ。

とはいえ、いざ実際に改憲が現実にあり得そうかとなると、かえってその首相の立場が脆弱になっているのがいささか滑稽でもある。どこをどう改憲するのかはこれから与野党で議論して、というのは必ずしも嘘ではなく、本当にどこなら手をつけられるのか、安倍氏本人にもまったく見えていないのだ。

今まで「改憲」や「自主憲法制定」はただの夢物語みたいな机上の空論の目標に過ぎず、だからこそ野党時代には与党である責任や霞ヶ関の圧力から解放されて、ほとんど遊び感覚で自分たちの願望をあれでもか、これでもかと言わんばかりに詰め込んでしまった憲法草案は、すでに述べて来た通りおよそ議論の俎上に載せられるものではない。危険な思想・理念を含むものである以前に、あまりに恥ずかしい内容だからだ。

改憲の自己目的化、なんでもいいからとりあえず改憲という、ひどく倒錯した結果になってしまったのが、「改憲勢力3分の2」の偽らざる実態だ。安倍首相は改憲を成し遂げたという「実績」のためには改憲を進めたいだろうが、仮に国会の衆参両院で発議を議決しても、その後に控える国民投票で否決されてしまったら、逆に国会内のいわゆる「改憲派」にとっても、そして誰よりも総理大臣自身にとっても、政治的に命取りになる。だからますますもって9条をいじることも、自民党憲法草案を持ち出すことも、なかなか難しい。

結局改憲の議論が始まるのは、たいした反発も呼ばず、逆に言えば箸にも棒にも引っかからないような内容になる可能性が高いのではないか?

たとえば環境権を基本的人権に付け加えるのであれば公明党は喜ぶだろうし、野党からの反対も出て来にくい。もっとも、現行憲法の25条1項がすでに「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を定めている。環境権はこの生存権条項ですでにカバーされている(文面もほとんど同じになるだろう)ので本当に必要な改憲ではないのだが、逆に言えば改憲で加えたところで大きな政策変更の必要もなく、安倍政権がとにかく「改憲した」と言える実績作りには都合がいい。

安倍氏の自民党総裁としての任期はあと2年強だし、そのあいだに改憲の実績を作りたいのなら、このような反対の少ない話だけで終わらせることも有益な選択肢になる。

天皇生前退位の意向と改憲

改憲の可能性が高まった参院選の結果が出て数日後、今上天皇に生前退位の意向があることが大きなニュースになった。憲法自体は天皇位の継承について「世襲」としか言及していないので改憲論議には直接関係がないはずだが、これを言い訳に憲法第1章に定められた国家と国民と天皇の関係について議論を始めるというのも、案外とあり得る選択肢かもしれない。

安倍のような自民党右派や「日本会議」などは、天皇を「国民統合の象徴」とする現行の憲法に基づく象徴天皇制を廃止して、天皇を終身制の元首にしたがっても来ているわけだが、露骨にそのような復古調の国家主義を主張すれば国民の警戒も呼ぶし、なによりも当の今上天皇が納得しないだろう。もし天皇の憲法上の位置づけが改憲のテーマになれば議論は延々と、長期に及ぶことになるだろうが、そうなった方が安倍政権にとっては、むしろふたつの点で都合がいい。

第一に、生前退位の議論を際限なく先延ばしにできれば、すでに高齢でいくつか病気も抱えておいでである以上、時間稼ぎをすればするだけ実際に生前退位が行われる可能性はなくなっていく。悪名高い「日本会議」などの安倍首相に近い極右グループでは、今上天皇の平和主義、憲法遵守、先の大戦の反省や自由主義といった理念を引き継ぐ皇太子・徳仁親王への反発が強く、紀子妃の高齢出産で男子がある秋篠宮家の天皇継承を求める声すら根強いのだが、国民の人望が高い今上天皇の存命中にはなにもできない。安倍の周囲からすれば、その今上天皇の生前に徳仁親王が天皇に即位することで地位を盤石にするのも決しておもしろいことではなく、むしろ譲位の可能性はできるだけ先送りしたいほどだし、逆に今上天皇の側からみれば、だからこそこのタイミングで生前退位の意向を公にしたのではないか、背景には現天皇の崩御後に皇位の継承についてなにが起こるか分からないという危機感があるのではないか、とも思える。。

実のところ、天皇の譲位には憲法どころか皇室典範ですら改正が必要なわけでもない。天皇の崩御の「ときには」皇太子が即位する、と定めている皇室典範第4条の解釈運用で法的手続きは完了できるはず(「ときに限り」でも「ときに」でもなく「ときは」なので、4条の文言自体は皇位継承が行われる自由のひとつを述べているだけだ)だし、実際に今上天皇が上皇になったところでとくに予想される混乱もないのだが、すでに政府関係者から改正は数年がかりであるとかの慎重論、なかには憲法上難しいという話まで出ているのをみると、譲位の可能性を少しでも先送りしたい意図が見え隠れしている。

第二に、自民党総裁の任期は今の党規約では三選は不可能だが、安倍政権が提案した憲法改正の手続きの半ばでその任期が切れてしまった場合、ならば特例なり規約の改正で任期を伸ばそう、という議論が自民党内で出て来るのはむしろ自然なことだろう。つまり賛否がはっきり分かれるわけではないが、それでも議論に時間がかかる条項の改憲を目指すこと自体が、安倍政権にとって有利にもなり得る。

ならば天皇の地位に関わる条項を改憲議論の議題にすることも、安倍が自分の任期延長に利用するのにはうってつけだ。

日の目を見ぬまま消えるかも知れない自民党憲法草案

選挙前まではあれほど「改憲、改憲」と言っていた安倍政権が、参院選後には改憲について慎重なもの言いしかできなくなっているのには、議席数配分という数の確保だけを優先して、肝心の改憲の内容をなにも準備していなかったことが直接的にはなによりも大きいだろう。国会の終盤ではあれほど「わが党は草案を出している」と首相が胸を張っていたのに、実際には自民党内ですらこの改憲草案でコンセンサスがまとまっているわけではまったくないようだ。たとえばポスト安倍の候補の1人の岸田外相が本当に後継総理になれば改憲議論はストップするだろう、という党内の観測さえ漏れ聞こえて来るし、実のところそれも当然ではある。そもそもたとえば弁護士出身や元官僚などの議員であれば、あまりに瑕疵が多くてまじめに相手にできない内容なのだ。

だがいささかの皮肉を交えて言えば、自民党憲法草案はナンセンスに満ちて姑息だからこそ、日本国の現状にあった、身の丈の憲法になっている、とも言える。日本国憲法は近代国家の民主主義の基本法として相当に完成度の高い憲法なのだが、国民主権にしても国家権力を立法権・行政権・司法権に分ける三権分立にしても、敗戦後の日本の憲法としての際立った歴史的特徴である徹底した平和主義にしても、いずれも決して無理ではない内容のはずが、この憲法の施行以来ちゃんと実践されたことがあったとは言い難い。むしろ集団的無責任体制の多数派支配の論理構成の自民党憲法草案の方が、日本社会の意思決定の実態には近い。

基本的人権の保護と制約に至っては、「公共の福祉」ではなく「公益(国益、ないし社会の支配的多数派の利益)」と「公の秩序」が優先されて来たのが実態だし、国民がその公権力のあり方に十分に批判的だったともおよそ言い難いのも、度々明らかになる冤罪事件のことを考えてみるだけでよく分かる。「公共の福祉」であれば誤って誰かを処罰することは社会の公平性と社会正義の観点からは決して許されない過ちだが、「公の秩序」であれば多少の冤罪はあっても警察の検挙率と検察の起訴率、裁判所の有罪率をあげた方が、大多数の国民は「警察が守ってくれる」と安心もできるし、実際に警察も検察もその態度を徹底することで、結局は国民のそれなりの信頼を維持できて来ている。さらに国民の後ろ暗い本音をあえて指摘するなら、極悪人の凶悪犯とメディアが報じる犯人を容赦なく死刑にし続け、冤罪で死刑にされた人がいる可能性は無視できる方が、精神的にも楽になる。憲法が謳う「公共の福祉」の理念は多くの判断を個々人の良心に多くを任せるた上でその個々人の総体としての社会に最終的な責任が課せられる。なにかとマニュアル化されたマナーを求めてそれをルールとして扱いたがる傾向が強い現代の日本国民に、この考え方が浸透しているとはおよそ言い難い。

あるいは歴史問題にしても「国益に反する」の一言が絶対的な反論になって正当な学術研究に基づく見解を無視し続けるのが昨今の世論の風潮で、ならば「公益」に基づき言論の自由を制約できるのならその方が楽だ。これは過去の歴史だけでなく現代のニュース報道にも当てはまる。安倍政権に成立以降、日本の報道の自由度ランキングは低下し続けているが、このランキングの信頼性の議論もあり得るとしても、ほとんどの国民がまるで気にしていないのが実態ではないか? 政府や官憲に都合の悪い話は、国民の多数派にとってもあまり気持ちよくない話になり得るし、またそうした報道の現状を危惧する「良識ある」人たちでさえ、一方ではとくにネットの普及に伴う無根拠な中傷や度を超した個人攻撃の蔓延にうんざりもしているだろうし、自らが攻撃対象にされる場合も少なくないはずだ。本来ならこうした問題は、「公共の福祉」に対する義務と責任を個々人が自覚することで自然に淘汰されていくべき、というのが現行憲法が理想としている社会モデルなのだが、実際にどう減らして行くかとなると、たとえば名誉毀損の法的手続きは極めて煩雑だ。ならば「秩序」名目でバッサリ潰してしまえた方が楽なのではないか、という誘惑は、リベラルで現行憲法を支持すると自己認識している人たちにとってさえ、決して小さくはないのではないか?

改憲勢力3分の2で発議の条件は整ったが、しかし改憲は本当に実現するのか?

今回の参院選で選挙権を得た若い人たちはもう知らないだろうが、かつて山本七平という保守系と目される人気評論家がいた。最大のベストセラーはイザヤ・ベンダサンというユダヤ人名のペンネームで書かれた『日本人とユダヤ人』で、同書の「日本人は水と安全はタダだと思っている」という言葉が9条改憲・再軍備派に広く支持された。だがこのいささか安易なキャッチフレーズばかりが一人歩きすることで山本は安易な再軍備主義者に見られがちになり、その論じていた内容がはるかに複雑な日本人論であったことは見落とされがちだ。

たとえば日本人の多くが自分を無宗教だと思っていることを、山本は「日本教」という無意識・無自覚な信仰体系があると論じ、さらには仏教でも儒教でもキリスト教でも日本に入ればそれは「日本教」化し、その「日本教」における神とは日本人が文化的に共有している「人間」ないし「人間らしさ」だと指摘している。近代の日本人にとって最大の聖人は「セイント西郷」、西郷隆盛だという例示は確かに見事に現実を言い当てているし(客観的な史実だけで言えば、西郷がなぜかくも尊敬されるのか、確かに理解不能だ)、昭和天皇の人間宣言を、逆に人間であると宣言したことで昭和天皇は日本人の真の「現人神」になったという慧眼も鋭い。

その山本の「日本教」論の中核となる『「空気」の研究』には、改憲論についての興味深い指摘がある。当時の改憲論といえば9条改憲・再軍備のことなのだが、山本は自民党は9条を変えると言い続けるだけで決して変えることはないし、逆に当時は9条を論拠に自衛隊違憲論をおおっぴらに唱えていた共産党が政権をとったとしても「人民の自衛の軍隊は軍隊ではない」くらいの宣言はすぐに議決するだろう、と述べているのだ。

なぜ山本七平がそう考えたのか、先にも述べた通りその「日本教」という議論、日本人を無意識に支配する「空気」の分析は極めて複雑かつ大胆ながらデリケートなものでもあるので、ここで要旨を説明するのは難しいが、参議院選挙の結果が出たとたん、山本が予言した通りのことが起こり始めている気がしてならない。

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