『すばらしい新世界』と最小不幸社会
――幸福、不幸、自由をめぐって
一 はじめに――不幸のない社会は、本当に幸福なのか
人間社会にとって、不幸を減らすことは望ましいことのように思われる。
貧困がなくなる。病気の苦痛が軽減される。失業しても生活を失わない。孤独になったときには誰かが支えてくれる。災害に遭っても再び人生を立て直すことができる。
こうした社会を否定する人は多くないだろう。
しかし、ここで一つの問いが生じる。
もし、人間からあらゆる不安、悲しみ、挫折、孤独、葛藤まで取り除くことができるとしたら、その社会は理想社会なのだろうか。
オルダス・ハクスリーが1932年に発表した『すばらしい新世界』は、この問いを極端な形で突きつけた作品である。同作品に描かれる「世界国家」は、戦争、貧困、深刻な病気、家族間の葛藤など、従来人間を苦しめてきた多くの問題を克服している。それにもかかわらず、その世界は典型的なディストピアとして読まれてきた。
一方、菅直人元首相が掲げた「最小不幸社会」もまた、失業、病気、貧困、災害、犯罪など、人間を苦境に追い込む原因を可能な限り小さくしようという思想であった。2011年の施政方針演説で菅は「最小不幸社会の実現」を国づくりの理念の一つとして明示している。
一見すれば、両者には奇妙な共通点がある。
どちらも「人間の不幸を減らす社会」を構想しているからである。
しかし、その思想の方向は大きく異なる。
その違いを考えることによって、私たちは「不幸とは何か」「幸福とは何か」、そして政治が人間の幸福にどこまで関与すべきなのか、という根本問題に到達することができる。
二 『すばらしい新世界』――幸福によって支配される社会
『すばらしい新世界』の舞台は、科学技術によって徹底的に管理された未来社会である。
そこでは人間は自然に生まれるのではない。人工的に作られ、誕生以前からアルファ、ベータ、ガンマ、デルタ、エプシロンという階級に分けられ、それぞれに必要な能力を与えられる。
さらに幼少期から心理的条件付けを受け、
「自分が属する階級が一番よい」
「自分に与えられた仕事が好きだ」
と思うように育てられる。
その結果、人々は社会的不平等に対して反乱を起こさない。なぜなら、自分が不幸であるという認識そのものを持たないからである。世界国家は、生物学的操作、心理的条件付け、階級制度によって、人々が与えられた役割を自発的に受け入れる社会を作り上げている。
ここにハクスリーの恐ろしい着想がある。
通常の独裁社会では、人間は「嫌なことを強制される」。
しかし『すばらしい新世界』では違う。
人々が、支配されている状態そのものを好きになるように作られるのである。
三 悲しくなれば「ソーマ」がある
それでも人間である以上、苦痛や不安が完全になくなるわけではない。
そこで登場するのが「ソーマ」という薬物である。
嫌なことがあったとき、不安になったとき、現実から逃れたくなったとき、人々はソーマを服用する。
すると苦痛は消える。
つまりこの社会では、人間は苦しみと向き合う必要がない。
悲しみを乗り越える必要もない。
苦悩の意味を考える必要もない。
不快な感情が生まれれば、それを薬物によって消してしまえばよいのである。
『すばらしい新世界』では、このような心理的条件付けやソーマなどによって、社会的安定と恒常的な満足が維持されている。
この意味では、世界国家は「不幸を最小化した社会」である。
しかし、それは同時に、
人間が不幸になる自由さえ失った社会
でもある。
四 幸福の代償として失われたもの
世界国家は幸福と安定を実現するために、多くのものを捨てた。
家族。
深い恋愛。
宗教。
芸術。
哲学。
自由な科学。
歴史。
そして、自分自身で人生を選択する自由である。
なぜなら、これらはすべて人間を不安定にする可能性を持っているからである。
人を深く愛すれば、失う苦しみが生まれる。
家族を持てば、愛情と同時に嫉妬や葛藤が生まれる。
芸術に触れれば、人間存在について悩むかもしれない。
科学が真理を追究すれば、社会秩序そのものを疑う可能性がある。
宗教を持てば、生きる意味や死の意味を問い始める。
したがって世界国家は、
「不幸を発生させる可能性のあるもの」を次々と人間から取り除いていく。
作中では世界国家の支配者ムスタファ・モンドが、社会の安定を維持するため、芸術、宗教、科学的真理などが制限されてきたことを説明する。幸福と安定が、真理や自由よりも優先されているのである。
ここでハクスリーは重大な問題を提示する。
苦しむ可能性を完全になくすためには、自由そのものをなくさなければならないのではないか。
五 ジョンが求めたもの――「不幸になる自由」
この世界に対して根本的な異議を唱える人物が、文明社会の外で育ったジョンである。
ジョンとムスタファ・モンドの論争は、この小説の思想的中心である。
モンドは、安定した社会のためには、人間の欲望や感情を管理する必要があると考える。
これに対してジョンは、苦痛も、危険も、罪も、涙も含めて、人間として生きることを求める。
つまりジョンが求めているのは、
「幸福であること」ではなく、「自分自身の人生を生きること」
なのである。
幸福になる自由とは、同時に、
失敗する自由であり、
悲しむ自由であり、
間違える自由であり、
愛して傷つく自由でもある。
『すばらしい新世界』の根底には、社会が「幸福」を完全に管理し始めたとき、それは人間を幸福にするどころか、人間から人間らしさそのものを奪う可能性がある、という逆説が存在している。
六 「最小不幸社会」との共通点
ここで菅直人の「最小不幸社会」に戻ってみたい。
2011年1月24日の施政方針演説で、菅は「最小不幸社会の実現」を掲げ、
失業、病気、貧困、災害、犯罪
を具体的な問題として列挙し、こうした「不幸の原因」をできる限り小さくする必要があると述べている。
さらに、一人ひとりの不幸を放置したままでは、日本社会全体が前進することはできないとの考えを示している。
ここだけを見ると、『すばらしい新世界』との間には共通した問いが存在する。
それは、
「社会は、人間の不幸をどこまで減らすべきか」
という問題である。
しかし、決定的な違いがある。
七 決定的な違い――「不幸を減らす」のか「不幸を感じなくさせる」のか
『すばらしい新世界』の社会は、
人間が不幸を感じないように人間そのものを改造する。
これに対して「最小不幸社会」が対象としているのは、少なくとも菅の公式演説を見る限り、
失業、疾病、貧困、災害、犯罪などの、
人間が自分らしい人生を送ることを妨げる社会的・現実的条件
である。
ここには大きな違いがある。
たとえば失業した人がいるとする。
『すばらしい新世界』型の社会なら、
「あなたは今の状態で幸福なのだ」
と思うように人間を条件付ける方向へ進み得る。
それに対して最小不幸社会の論理を徹底するなら、
「もう一度働きたいなら働けるように支援する」
という方向になる。
つまり、
前者は人間を社会に適応させる。
後者は、人間が再び選択できるよう社会的条件を整える。
この違いは決定的である。
八 「最大幸福」と「最小不幸」は同じではない
ここでさらに重要なことが見えてくる。
「最大幸福」と「最小不幸」は、一見似ているようで、実は全く同じ思想ではない。
社会が「幸福を最大化する」と考え始めると、
「幸福とは何か」
を誰かが定義しなければならなくなる。
健康であること。
消費できること。
快楽を得ること。
社会に適応すること。
いつも明るく前向きであること。
これらを「幸福」と決めてしまえば、それとは異なる生き方をする人間は「矯正すべき存在」とされる危険が生まれる。
『すばらしい新世界』は、まさにその極端な姿である。
社会が幸福を定義し、その幸福を全員に与えようとした結果、
幸福から逃げる自由まで失われてしまった。
九 最小不幸社会が守るべき境界線
したがって、「最小不幸社会」という思想をハクスリーの問題提起に耐え得るものとして考えるならば、一つの重要な条件が必要になる。
それは、
「不幸そのものを禁止しないこと」
である。
政治が減らすべきなのは、
悲しみそのものではない。
失恋そのものでもない。
人生について悩むことでもない。
孤独を選ぶことでもない。
政治が向き合うべきなのは、
本人の意思にかかわらず、人間から選択可能性を奪ってしまう不幸
である。
食べるものがない。
治療を受けられない。
住む場所がない。
暴力から逃げられない。
失業しただけで生活のすべてを失う。
災害に遭ったため人生を再建できない。
助けを求めても誰にもつながらない。
こうした状態から人を救うことと、「人間をいつも幸福な状態にしておくこと」は同じではない。
十 幸福追求権との接点
ここで「幸福追求権」という思想が重要になる。
幸福追求とは、
幸福そのものを国家から与えてもらうことではない。
どのような人生を幸福と思うのかを自分自身で決め、その人生を追求できることである。
したがって、政治の役割は、
「あなたの幸福はこれです」
と決めることではない。
むしろ、
「あなたが自分の幸福を探すことのできる条件を守ること」
にある。
この観点から見ると、最小不幸社会は幸福追求権と結びつけて理解することができる。
社会は幸福を配給しない。
しかし、貧困や病気や孤立によって、人間が幸福を追求する可能性そのものを失わないよう支える。
ここに『すばらしい新世界』との最も大きな分岐点が存在する。
十一 人間に必要なのは「幸福」だけなのか
ハクスリーの作品が今日まで読み継がれている理由の一つは、人間にとって幸福だけが最高の価値なのか、という問いを投げかけたところにある。
人間には、
真実を知りたいという欲求がある。
誰かを深く愛したいという欲求がある。
何かを創造したいという欲求がある。
自分自身で判断したいという欲求がある。
それらは、ときとして苦しみをもたらす。
真実を知れば傷つくことがある。
愛すれば別れがある。
挑戦すれば失敗する。
自由に選べば後悔することもある。
しかし、
苦しむ可能性を排除するために、それらすべてを失った人生を、果たして人間的な人生と呼べるだろうか。
これが『すばらしい新世界』の問いなのである。
十二 「不幸をなくす社会」と「不幸から立ち直れる社会」
ここから、最小不幸社会についてさらに一歩進んだ定義を導くことができる。
最小不幸社会とは、
「不幸が存在しない社会」ではない。
むしろ、
「不幸になっても、そこから立ち直ることのできる社会」
と考える方が、その理念をより明確に捉えられる。
失敗しても、やり直せる。
失業しても、生活を失わない。
病気になっても、一人にされない。
貧困に陥っても、そこから抜け出す道がある。
孤立しても、再び社会とつながることができる。
つまり重要なのは、不幸の完全な消滅ではない。
不幸が人生の永久的な判決にならないことである。
十三 結論――人間らしい社会とは何か
『すばらしい新世界』と「最小不幸社会」を比較すると、一つの重要な逆説が浮かび上がる。
人間の不幸をなくそうという善意が極端まで進めば、人間の自由そのものをなくしてしまう可能性がある。
ハクスリーが描いた世界では、人々は苦しまない。
しかし、自分自身の人生を選ぶこともできない。
そこでは不幸が消えている代わりに、
「幸福を追求する」という営みそのものが失われている。
これに対して、最小不幸社会を自由な社会の理念として成立させるためには、政治が人間の幸福の内容にまで踏み込まないという原則が必要になる。
国家がすべきことは、
人間を幸福にすることではない。
また、
人間から悲しむ自由を奪うことでもない。
病気、貧困、失業、災害、暴力、孤立などによって、人が自分自身の人生を選択する可能性そのものを奪われたとき、その可能性を回復できるよう支えることである。
幸福とは、与えられる状態ではない。
人が自分で探し、自分で選び、ときには失敗しながら追求していくものである。
だからこそ、ハクスリーの警告を踏まえて「最小不幸社会」を考えるならば、その理想は次のように表現できるだろう。
不幸をなくす社会ではない。
不幸になっても、一人きりにされない社会。
苦しまない社会ではない。
苦しみの中から、もう一度人生を選び直せる社会。
そして何より、
幸福を強制する社会ではなく、
一人ひとりが自分自身の幸福を追求できる社会。
『すばらしい新世界』が警告したのは、幸福という名のもとに自由を奪う社会であった。
それに対して「最小不幸社会」が自由な社会の理念として持ち得る意味は、
人間から不幸になる自由まで奪うことではなく、不幸によって自由そのものを失う人を減らすこと
にあるのである。
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