ハクスリー「すばらしい新世界」と相対峙する「最小不幸社会」論

ハクスリー「すばらしい新世界」がちょっとしたブームになっている。

同作は1932年に発表されたディストピア小説の同氏の代表作です。舞台は遠い未来の「世界国家」。戦争や貧困、不安などをできるだけ排除し、人々が「幸福」でいられるよう社会全体が徹底的に管理されています。

ところが、その「幸福」には大きな代償があります。人間は自然に生まれるのではなく人工的に生産され、あらかじめ階級と役割を与えられます。幼少期から条件づけによって社会に適応するよう教育され、不安や苦痛を感じれば「ソーマ」という薬で気分を快適にする。家族や深い人間関係、強烈な悲しみ、孤独なども、社会の安定を乱すものとして遠ざけられています。

ここがこの作品の非常に面白いところです。人々は恐怖によって支配されているのではなく、「快楽」と「満足」によって管理されている。 ハクスリー自身も後の序文で、問題にしたのは科学そのものというより、科学が人間にどう作用し、社会統制に利用され得るかという点だと説明しています。

物語では、そうした文明に違和感を持つバーナード・マルクスと、文明の外で育った青年ジョンが重要人物になります。特にジョンが「幸福で安定した社会」と対峙することで、作品は次のような問いを突きつけます。

「苦しみのない社会なら、自由を失ってもいいのか?」

つまり『すばらしい新世界』の核心は、単純な「独裁国家は怖い」という話ではありません。むしろ、快適さ・娯楽・消費・薬物・科学技術によって、人間が自分から自由や個性を必要としなくなったらどうなるのか、という問題です。消費社会への風刺も作品の重要なテーマです。

ジョージ・オーウェルの『1984年』と比べると違いが鮮明です。『1984年』では監視や処罰などの恐怖による支配が中心ですが、『すばらしい新世界』では人々の欲望そのものを調整して、「支配されていることを苦痛と思わない社会」が描かれます。

不幸の要素をできるだけ小さくする

「最小不幸社会」は、すべての人を同じように幸福にすることを国家が目指すのではなく、社会の中にある深刻な不幸や苦痛をできるだけ減らしていこう、という社会像として理解すると分かりやすいです。

日本では特に、菅直人氏が首相だった2010年の所信表明演説などで「最小不幸社会」という考え方を掲げたことで広く知られました。政治的な文脈を離れて考えると、重要なのは「幸福を最大化する」ことと「不幸を最小化する」ことの違いです。

たとえば、病気になっても医療を受けられない、失業して住居まで失う、貧困によって子どもが十分な教育を受けられない、高齢者や障害のある人が孤立する、家庭環境によって子どもの安全が脅かされる――こうした人生を大きく損なう不幸を、本人だけの責任として放置しない社会をイメージできます。

したがって「最小不幸社会」は、「みんなを幸せにしてあげる社会」というより、

不幸になったとき、一人きりにしない社会

です。

同時に、これは「不幸が一切存在しない社会」という意味ではありません。失恋、死別、挫折、病気など、人間が生きる以上避けられない苦しみまで社会が消すことはできません。むしろ、避けられる不幸を減らし、避けられない不幸に直面した人には支えがある――という方向性です。

先ほど論じたハクスリーの『すばらしい新世界』と対比すると、興味深い違いも見えてきます。『すばらしい新世界』は、人間から苦痛や不満を徹底的に取り除こうとした結果、自由や個性まで失われていく社会を描きます。一方、「最小不幸社会」という考えを自由と両立させるなら、目標は「幸福を強制すること」ではなく「不幸から立ち直れる土台をつくること」になります。

その意味では、 「支え合う社会」 という言葉は、「最小不幸社会」を表す言葉である。

私たちが目指すは支え合う社会である。

 

 


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