ガザをめぐる現在の問題の原点に切り込む『撤退 Disengagement』(2007年、イスラエル=フランス=ベルギー=イタリア合作)映画評 by 藤原敏史・監督

ガザ地区へのイスラエルの空爆と攻撃が話題になっているが、そのイスラエルが2006年にはガザの占領を止めて完全に撤退していることは、なぜか報道などで当然であるはずの前提になっていない。

外からの視点/非イスラエル人のユダヤ人の視点

日本語では「撤退」と訳されたが、本来の意味は英語ならディスエンゲージメント、エンゲージメントつまり「関わりや介入を一切断つ」ということだ。以降ガザの施政権は完全にアラブ人側に帰属しているが、あえてパレスティナ人に、とは言うまい。現在のガザを支配し、IDFと戦争をしているハマスの「ガザ政府」の主流はパレスティナ人ではなく、ムスリム各国から集まったいわゆるムジャヒディン義勇兵たちだ。

この映画はガザ撤退という大決断の下でのイスラエル社会を浮かび上がらせるものだが、そこにさらに複雑な二重構造を持ち込んでいる。ジュリエット=ビノシュはフランスに住むユダヤ人だがイスラエル人ではなく、養子関係で義理の弟にあたるリロン=レヴォはイスラエル警察の幹部警察官で、ガザのユダヤ入植地を撤去するに当り住民の退去の指揮をとることになる。その退去させられる入植者のなかに、彼女が10代で産んでそのまま手放してしまっていた娘がいる。亡くなった父の遺産処理の条件として、彼女はその娘に会うためにガザに行かなければならない。最初はただ義務で会いに行くはずが、ガザ地区に入るだけでも困難な状況のなか、次第に棄ててしまった娘に会うことこそが目的になっていく。

最初は外(国際社会やメディア)から見えるイスラエルと、イスラエル人のまっただ中から見たイスラエルの構図をとりながら、前者のいわば“外野”の安全圏の立場はいきなりことの中核的な本質に放り込まれることで覆され、我々はその彼女の視点から理解不能なまでに矛盾だらけの現実を、その内側から見ることになる。イスラエル人である弟の視点もまた、イスラエル政府が公式にとっている立場とも、状況の全体像を見た際の客観評価からも完全に乖離してしまう。ガザ撤退は和平の進展のために必要だと、決して反パレスティナの好戦派や狂信的な愛国者ではない彼も思っているが、それは同じユダヤ人であり、国策でガザに入植した人たちから、家も財産も生活も奪ってしまうことにもなる。もともと住んでいた国でそれを失ったが故に「民族の故郷」であるパレスティナに移民して来た人たちなのに。

ここで問われるのは、ユダヤ人とは何者なのか、血統によって保障されるかのように見える「民族」という意識の限界と血縁や愛情の持ち得る意味であり、そして究極に問われるのは「なぜ彼らはここにいるのか」である。いきなり撤去される入植地のまっただ中に入り込み、しかも自分の娘がそこから退去させられる一人になってしまっているヒロインの視点から見ると、退去させられる入植地が必死に自分達の土地や家を守ろうとする姿は、同情の対象にさえなる。弟の視点からみれば、ガザ撤退はイスラエル全体にとっては正しい決断であっても、自分の任務が法の正義の執行とは思えない。

イスラエル官憲によって入植地が暴力的に撤去

こうしてイスラエル、ユダヤ人の側に徹するように見せ続けたそのまっただ中で、彼女は入植地を囲む柵でパレスティナ人の男(ユーセフ=アブ=ワルダ)と出会い、柵越しに世間話を始める。民族や血の違いにも関わらず、彼もまた普通の、共感すべき男だ。

だが途中から、ユーセフの台詞はパレスティナ詩人タウフィク=ザヤドが1948年に書いた作品の引用になる。「どんなに奴隷の屈辱を強いられようが、我々はここに居続ける。お前達の台所の床を磨く身分に落ちぶれようとも、お前達の前に立ちはだかり続けるだろう、壁のように」

そして入植地は、イスラエル官憲によって暴力的に撤去される。ブルドーザーが家を破壊し、クレーン車がなかに人がいるままのプレハブの家を持ち上げると脅し、その中にいる住人を追い出す。ちょうどイスラエル軍が第二次インティファーダの絶頂期だった数年前に、西岸の村々でテロリストを逮捕すると称してやったように。ラビがトーラーの朗読を続けるシナゴーグから、立て篭った住人たちが追い出される。そのラビは、警察の指揮官である弟の幼なじみでもあった。

パレスティナ・イスラエル民衆に共通する
「私たちは何者なのか?」という問い

ユダヤ人であるとはなにを意味するのか?その問いから逃げ続け、ヨーロッパに住みながらそこでアイデンティティを失い、かつての法王庁の町アヴィニョンにいながらにして時空を彷徨い続けて来た女は、唐突に現代の現実のなかで自分の民族的実存と人間的な良心の感情の根幹を突きつけられ、しかもそれが目の前で呆気なく崩れ去った時、もはや一人で立っていることすら出来ない。娘を連行しないでくれと泣き叫ぶ彼女を、弟が制止しようとする。彼女は「一人にして」と叫ぶが、彼はひたすら彼女を抱きしめる。押さえ込むためではない。本当に一人にしてしまったら、彼女はそのまま人間として崩壊してしまうだろう。

「私たちは何者なのか?私たちがこの民族であることは、なにを意味するのか?」この問いはそのまま、自分達が望んだわけでもないハマスの政権とイスラエルとの戦争で、空襲に逃げ惑うガザの市民にも共通する。パレスティナ人であるとはどう言うことなのか?世界の目には、イスラエルの攻撃に逃げ惑う姿が求められる。

アラブの春のとき、ガザの市民にもハマスに民主化を要求する気運が高まった。だがそんなパレスティナ人の姿、あるいは「たとえ奴隷になろうとも、我々はお前達の前に立ちはだかり続けるだろう、壁のように」と押し殺した感情で語るパレスティナ人を、国際メディアは求めていない。エジプトの革命も、国際メディアは決してアラブ人が民主主義の社会を作り上げることを歓迎したわけではなく、一見賞賛するような報道の裏には常に疑念や、失敗した場合に「それ見たことか」と言いたがっている欲望があった。

ちょうどユダヤ人が、ナチスから逃げ惑いホロコーストで殺される民族であることしか「世界」には求められて来なかったのと、同じことだ。

映画プロフィール

題名:『撤退 Disengagement』(2007年、イスラエル=フランス=ベルギー=イタリア合作)
監督:アモス=ギタイ
脚本:アモス=ギタイ、マリー=ジョゼ=サンセルム
撮影:クリスチャン=バーガー
音楽:ジーモン=シュトックハウゼン マーラー『大地の歌』より
独唱:バーバラ=ヘンドリックス
出演:ジュリエット=ビノシュ、リロン=レヴォ、トメル=ルッソ、ヒアム=アッバス、ユーセフ=アブ=ワルダ、ダナ=イヴギ、バーバラ=ヘンドリックス、ジャンヌ=モロー
DVD発売 IVC

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