東京国際映画祭が今年も終わった。開会式にアニメ化された人気マンガのキャラクター着ぐるみが登場したり、新聞の全面広告や会場近くの六本木駅に貼られたポスターで「ニッポンは世界中から尊敬されている監督を産んだ国」というコピーと共に黒澤明監督の写真が宣伝で使われたり、会場の六本木ヒルズにはパトレイバーの実物大模型が立ち、大々的に宣伝されるクロージング作品もマンガ原作の商業映画『寄生獣』…と、この映画祭はなぜこうも、目につくところがちっとも「映画的」ではなく、なにか小児的で文化的な匂いや品性に欠け、そしてちっとも「国際」でなくどこまでも内向きのか、首を傾げるのは確かだ。
世界中どころか日本国内だけでも映画祭はたくさんあるが、東京国際映画祭(以下TIFF)はカンヌ、ヴェネチア、ベルリンと並ぶ数少ないクラスA映画祭である…といってレギュレーションの格付けがそのまま映画祭の評価に結びつくわけではなく、この格付けはむしろTIFFの足かせになりかねない面がある。クラスAの映画祭で上映されるのは基本的にプレミア、世界初上映か、製作国以外では初、少なくともアジア圏では初、という制約があり、すると後発のTIFFが選ぶ前に、めぼしい巨匠の新作はたいがい上記三大映画祭にとられてしまう。ところが一般の熱心な映画ファンが見たいのはそうしたカンヌ、ヴェネチア、ベルリンでやった有名監督の映画なのだから、特別招待作品以外はなかなかニーズが合わないまま30年近くが経過している。
当初は渋谷が中心で、数年で東急文化村がメイン会場になると「東急国内映画祭」と陰で揶揄するのが映画マスコミ業界の通例になったが、しかしそのTIFFのコンペティションを侮ってはいけない。少なくとも二人の、映画史上最重要クラスの映画作家を、TIFFは「発見」しているのだ。1985年の第一回の映画祭では『台風クラブ』の相米慎二が若手部門の審査員だったベルナルド・ベルトルッチを驚嘆させ最高賞を受賞し、1990年代の世界映画でもっとも重要な作品のひとつ『牯嶺街少年殺人事件』で、エドワード・ヤン(楊徳昌)もやはりTIFFのコンペティションで最高賞に輝いている。
牯嶺街少年殺人事件
TIFFはまだ天安門事件の余韻が残っている時期に、文革時代を子どもの視点から見せて中国政府から目をつけられた田荘荘の傑作『青い凧』を世界初上映したこともあるし(それに間に合わせるためということで仕上げは日本で行われた。つまり北京政府は介入できないし、完成して世界的に映画が発表されてしまえば、国家の対外イメージを考慮して田監督を弾圧は出来ない)、サタジット・レイの遺作『見知らぬ人』も上映し、イランの大巨匠モフセン・マフマルバフの三部作『サーラム・シネマ』『愛を織る娘 ギャベー』『パンと植木鉢』を、コンペとアジア部門にまたがって立て続けに紹介したのもTIFFだ。
確かにTIFFの近年のコンペ部門の作品を見ると、ぱっと目につく有名監督の作品や、観客の記憶や映画史に残るのが確実と思わせる傑作はない。だが実のところ、上記のいわゆる「三大映画祭」でも、常連以外にはなかなかめぼしい「発見」がないのが現状だし(2002年カンヌ「ある視点」部門の最高賞をとったタイ映画『ブリスフリー・ユアーズ』のアピチャッポン・ウィーラーセタクンが最後かも知れない)、その著名監督の作品の質が近年は必ずしも高いわけでもない。実は国際映画祭という文化それ自体、ひいては映画祭で上映されるような芸術性や作品価値の高いとされる映画が、現代では世界的に危機の状況にあり、TIFFはそっちの荒波もまた、真正面から受け止めざるを得ない立場にある。
それでも「TOKYOが、カンヌ、ヴェネチア、ベルリン、を超える日が、やってくる!?」とキャッチコピーまで出してしまった勘違いはあまりに無謀というか、失笑しか買わなかったが、かといってそうした有名映画祭が凄くてTIFFを駄目だと言うのも、ちょっと海外かぶれがひどい誤解だろう。実際には上記の通り、カンヌだって今ではそんなにいい映画祭が出来ているわけでは必ずしもなく、このところ毎回かなり辛辣な批判も出ているし、上映作品の質よりもレッドカーペットの華やかさが作品選考に影響してしまっているのは、今やヴェネチアも同じだ。
TIFFはどうにも一般の認知度が低いと言っても、東京ほどの巨大都市で開催される映画祭は稀だ。カンヌは映画祭がなければただの田舎のリゾートだし、ヴェネチアだって有名観光地だが大きな町ではない。ベルリンは大都市だが東西ドイツ統合後はかつて壁があったこの町の中心、ポツダム広場を占拠するようにして開催されるから存在感を保っていられるが、TIFFが東京の都市のなかで目立たない、と言ったってスケール的に無理なのも確かだ。
東京国際映画祭のグランプリ作品すら誰も
知らないのは問題で他国際映画祭ではありえない
そうは言ってもこんな大きな映画祭をやっているのに、グランプリ作品すら誰も知らなかったりするのはさすがに問題ではある。だがこれはTIFFを責めるよりはメディアの問題ではないか? カンヌ映画祭では毎日のように、話題になった作品がル・モンドやリベラシオンのような全国紙でまるまる一面を使って批評が掲載される。映画祭は一週間強か10日前後しか開催されない。ある映画が評判になって観客が自分で見ようと思うには、日刊紙の役割が極めて大きいのは当然だし、ベルリンでも僕がメインのコンペでなくフォーラム部門に出品した映画でドイツだけでも全国紙・地方紙を含めて4、5紙は日刊紙で批評や紹介が出る(ドイツで商業公開が決まっている映画ではなく、つまり宣伝目的のメディアへのアプローチは一切ない)。ところがTIFFでは大変な話題作・傑作や世界的巨匠の来日でも、日本の配給が決まっていなければ映画雑誌ですら記事にもならず取材も入れず、配給が決まっている映画でも日刊紙の新聞はせいぜい「人」欄的な囲み記事、およそきちんとしたクオリティの批評なぞまず出ないし、映画雑誌もファン的な関心か映画祭全体のおおざっぱな総論でしか記事を書かない場合がほとんどだ。こんな大きな(公金も使った、政府も関わる)文化事業をやってもほとんど社会の反応がないのに、TIFFにカンヌやベルリン並みを期待するのは、それこそ無茶というものだ。
むろんTIFFにも運営母体・組織の構造や体質を含め、多々問題があるのは否定しない。その国の映画業界のハク付けで映画祭が開催されるのは、実はカンヌだってそう変わらないし、映画祭が半官半民の運営で政治的・政策的な影響も強いのはヴェネチアも、ベルリンですら大なり小なりそういうところはあるのだが、ことTIFFの場合は大手映画会社と経産省が母体…と言ってしまえば、もう問題の本質がどこにあるのか、察する読者も多いだろう。その想定の範囲内に加えてTIFFのさらなる問題は、映画祭実行委員会側に強い権限を与えられた映画祭ディレクターという制度がないことで、「船頭多くして舟山に登る」の喩えそのままに、官庁を含む複数の巨大組織がお互いの利害を配慮しつつ、どこも指導力を発揮しないままなんとなく映画祭の全体像が決まる…いや実はなにも決まらないまま開催にすらなりかねない。
映画祭専属のプログラミングなど実務を担うスタッフはいるが、アジア映画や、日本のインディペンデント映画以外では、その権限は非常に制約されている。専属のスタッフは世界各地の映画祭にも行くし、各地の映画作家や映画産業とも交流があって(しかもTIFFの担当者は人柄も、映画の知識の深さでも国際的に評判がよく、人脈も豊富だ)、今現在の世界映画の動向を把握しながら、クオリティと映画祭の全体像を重視して映画を選んで行くはずが、官庁や大手映画会社やスポンサー企業からなる上層部はそういった動向には疎いし、そもそも利害に関係しないので興味を持たない。日本は人口1億超の巨大マーケットであり、その映画の大多数はわざわざ海外の映画祭で上映されて国際的評価を集めたり、海外に輸出・公開されなくても、産業として回転している(し、実のところ海外で商売になる映画もあまりない)のだ。
たとえばカンヌ映画祭のディレクターを長年務めたジル・ジャコブは、世界の映画業界で巨大な権力さえ振るっていた。だが日本でTIFFの全体を統轄するだけの権限と権力を、映画が専門で映画祭の運営専従のディレクターに与えたら、日本のこの業界なら嫉妬がすさまじく皆が足を引っ張ることになるだろうし、ならば今のようにエンタテインメント系などの大企業の社長に半ば名誉職的に兼任を頼んだ方が社会的な説得力を持つだけでなく、結局は映画の業界の人々もほどほどに満足するのかも知れない(安心して20年以上、記事には書かないTIFFの陰口を言っていればよかったことも含め)が、ならばこれは単にTIFFだけの問題ではないだろう。
東京国際映画祭の管轄は文化庁でなく経産省
メディアが映画祭の中身を時には厳しく、時には高く評価することもまるでないのなら、主催者側にはTIFFを質の高い国際映画祭として盛り上げる動機がますますなくなる。「こんなただの商業映画をなぜわざわざ映画祭で?」と我々が首をかしげても、『最強のふたり』を手放しで褒めちゃったら障碍者差別だろう、と言ったレベルの議論ですら、経産省にせよ大手映画会社にせよ、森ビルや電通などの企業にせよ話が通じない以前に、報道にまったく載らず世論に影響しないなら、無視されても当然だ。
開会式のアトラクションとしてなぜかマンガの着ぐるみが登場するのも、会場を提供する大手映画会社の商売からすればこれからの話題作の宣伝の方が優先度が高いし、またその方がテレビのワイドショーでとり上げられる。そもそも日本の映画祭ではTIFFですら電波にのるのは開会式のレッドカーペットがどうこうくらいのもので、出演作が出品されている俳優についてもタレントとしての「芸能ネタ」に過ぎず、どんな映画が上映されるのかに、そもそもメディアの関心が向いていない。映画関係者の密かな顰蹙を買っても、おおっぴらに記事にして批判するジャーナリストや批評家がいない。今年のカンヌ映画祭のオープニング作品は『グレース・オブ・モナコ』だったが、翌日には著名批評家のジャン=ミシェル・フロドンが「オープニング作品はなんの役に立つのか?」という辛辣な長文をウェブに出しているのとはえらい違いである。メディアが報道すらしないのならば、官庁や政治がこの映画祭のクオリティを本気で考えるインセンティブも産まれないし、閉会式がテレビで生中継されるカンヌやベルリンやヴェネチアと較べて、一般の認知や関心が低いのも無理もなく、そもそもどんな映画が出品されているのかの報道もないのに、閉会式に関心が集まる方がおかしい。
文化政策も文化に関するジャーナリズムもないも同然の国の、お国がかりの映画祭が、所轄でいえば経産省の縄張りで、外務省と文部省・文化庁がほとんど関与できない縦割り行政では、安倍首相が得意満面に開会式に出席するのもパフォーマンスにすらなっておらず、ただ安倍さんが嬉しいだけ、レッドカーペットが安倍さんのご機嫌とりにしかなっていないのも、日本の政府の権力の構造からすれば自然なことなのだ。
どうにも映画マスコミにとって悪口の的になりがちなTIFFが、実は隠れた面では相当な成功を収めていることも指摘しておく。TIFFはマーケット部門を併設しており、マーケット、つまり映画の輸出入の契約・売買などのビジネスの部分はほとんど日本の映画マスコミの関心の対象にならないが、相当な規模の充実を誇り成果も上げている。経産省による映画「産業」活性化のための事業なら、その役割は果たしているのだ。その上で首相閣下に開会式で得意満面で「クール・ジャパン」とか言ってご満悦頂けるのであれば、これ以上映画祭を質的に改善する理由は、経産省の論理からすれば、ない。
とは言うものの、経産省の論理でいえば映画は「コンテンツ産業」にしても、その「コンテンツ」という言葉が閉会式で開催母体である官庁や企業の口から繰り返され、関係各所への謝辞の羅列だけが閉会の辞になってしまうようでは、あまりに自分たちの内輪しか見えていない霞ヶ関体質に困惑してしまうが、彼らはまったく無自覚なのだろう。しかし多大な資金をかけて「国際映画祭」を開催しながら、意識が(タテマエだけでも)外側に開かれていないのでは、映画祭をやる意味が文化的になくなってしまうし、エンタテインメントとしてだってどうなのよ、とさえ思われるだろう。そして「国際」映画祭なのに自国のイメージ戦略に配慮しないのに至っては、まさに縦割り行政の弊害だ。
「世界中から尊敬されている映画監督を産んだ国」は
安倍晋三・首相のご機嫌取りに過ぎない。
ここで今年の映画祭が顰蹙を買った「世界中から尊敬されている映画監督を産んだ国」に話は戻る。在日コリアンの映画作家ヤン・ヨンヒ監督や松江哲明監督はこれを、個人の成功を国籍に結びつけて「ノーベル賞で日本が評価された」と胸を張ってしまったような流れでの安倍のご機嫌とりと見抜き、痛烈に反発しているし、それは正論だ。だからこそ叩かれる危険もあるのに、二人はよく勇気を持ってツイートやFBのステータスで書いたと思う。そこを危惧しなければならないのが今の日本の状況であり、それは映画界ですら変わらない(実はもっとひどいかも知れない)。SNSでは二人に「いいね」をつけたのと同じ人たちが、TIFFの試写上映の帰りに六本木で一杯やりながら「でもあいつらはザイニチだろ」とか言っていても、今さら驚くことではない。
だが「日本映画は世界で高く評価されている」という論法は、僕自身も政府による映画政策、公的資金による支援も含む映画の文化産業保護の必要を説くときにさんざん使って来たものだ。官庁や政治にとって重要になるのは、日本文化の産んだものは日本の国際的イメージに決定的な役割を果たすし、だからこそ外交戦略で使うべきカードでもある、という極めてベタな話なのだが、カンヌのような有名な大映画祭でもこれは同様で、むしろだからこそ存続して来ている面もある。ベルリン映画祭がしばしば平和主義や反戦、反差別などの政治性の強い全体テーマを掲げるのは、ナチスがかつて支配した首都の映画祭だからでもある。ヴェネチア映画祭は元々、ムッソリーニがイタリアの宣伝で始めた映画祭だが、そのムッソリーニ時代のヴェネチアの受賞作でもっとも歴史に残った有名作が、ジャン・ルノワール監督の反戦映画『大いなる幻影』なのだから、映画祭はおもしろい。
第二次大戦中ではそのムッソリーニやナチスと同盟し、カミカゼやレイプ・オブ・ナンキン(南京大虐殺)、従軍慰安婦問題と、対外イメージが極めて悪い「ファナティックな軍国主義国家」であった日本が、さしたる戦争の反省も表明せずとも戦後の世界で受け入れられて来たのには、国際映画祭での日本映画の評価と、その作品が世界中で見られたことが実は大きい。50年代に黒澤明と溝口健二はその点で日本という国家に明らかに多大の貢献をしている。70年代以降ではテレビのドラマやアニメが、日本のイメージの向上に大きな役割を果たして来ていて、たとえばフランスで大人気になった『キャプテン・ハーロック』など先進国に輸出された日本アニメの多くは無国籍的に放映されたが、80年代以降は発展途上国に行けばどこでも『おしん』は圧倒的に支持され(『おしん』を見て感動した時点で、日本の戦争被害国の国民は、日本の兵士を含む一般国民に関しては実は「許して」はいるのだ)、『ドラえもん』は東南アジアや中国や韓国、『一休さん』は仏教国のタイだけでなくイスラム体制下のイランでも人気で、日本人のイメージとして定着している。
安倍政権の無惨な勘違いは悲惨過ぎる
まったく、安倍さんは今さらなにを「クール・ジャパン」と言っているのか? なんでもコスプレのイベントがあれば日本政府から補助金が出るそうだが、世界がとっくの昔から日本を「クール」とみなして来たその理由からすれば勘違いも甚だしく、『一休さん』や『おしん』という敬意すら持たれて来た日本の対外イメージのレベルを、わざわざ下げている話でしかない。TIFF開会式で『進撃の巨人』のキャラの着ぐるみが登場したことは、勘違いしまくった「クール・ジャパン」の無惨さの氷山の一角でしかない。コスプレだから悪いわけではなく、コスプレがあったら「クール・ジャパン」だから補助金が出ますという、内容の評価が一切なく目的意識もまるで抜け落ちた、妙に皮相な平等主義の発想が官僚的過ぎるのだ。文化事業はスポーツでも受験勉強でもなく、国際映画祭もオリンピックではない。分かり易く公平なルールや採点基準に基づく優劣はつけようがなく、文化的な価値と主体的な判断が常に関わって来るのに、現代の日本人全般が官僚化していてそうした価値判断が苦手なのは、実際の官僚に限らない。教科書通りのお手本に従う官僚化したメンタリティが社会全体を支配していては、新しい表現が産まれて来る可能性すら限定されてしまうだろう。
安倍政権の無惨な勘違いは悲惨過ぎるにしても、まったくクールでない「クール・ジャパン」の問題はTIFFが最初から抱えて来た限界にも連鎖している。「クール・ジャパン」もTIFFも縦割り行政における経産省マターで、文化振興策や外交における日本のイメージ向上戦略とは捉えられていないのだ。もっとも肝心の外務省のやることですら、日本の対外イメージの向上があまりにも考慮されていない。いかに政権の要望があったって「河野談話は撤回しないが再検証する」なんて自己矛盾して下心が透けて見えるみっともない真似は、外務省が決死の覚悟で止めるべきだった。これも外交当局ですら内輪、国内世論どころか霞ヶ関と永田町の顔色しか見えていない、まったく外に向けた視点や意識がないことの好例で、これでは外交がうまく行くはずがない。
フランスのアングーレム市の国際漫画フェスティバルが語られざる記憶をテーマにした展示で、韓国の作家たちに慰安婦問題についての一連の作品を委嘱した際、韓国政府はこの展示が元慰安婦が韓国社会のなかで無視されて来たという自国にとってネガティヴなテーマ性を含むものであることを承知で、助成金を出して全面協力している。外交当局の担当者の女性が、慰安婦を無視してきた韓国社会の罪にル・モンドの取材に応えて言及したのに比べ、日本の駐仏大使がやったことと言ったら、日本からの特派員に若干名だけフランスのメディアも入れた記者達に囲まれて韓国批判をぶっただけ。これもまさに「内輪しか見えていない」の典型で、どれだけ日本の対外イメージを損ねるみっともない真似なのか、気づけなかったのだろうか?
ほんの30年前まで軍事独裁、民主主義国家としての歴史は20年前後しかない韓国で、儒教道徳が根強く女性蔑視と見られがちなステレオタイプもあるからこそ、対外イメージに敏感になるのも当然とはいえ、日本外交の稚拙さはあまりに無惨なのだが、同じ困った体質はTIFFにも共通してしまっている。とりあえず日本が黒澤明(や小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男、木下恵介、市川崑、鈴木清順など)を擁する映画大国であることを宣伝するなら、読売新聞ではなくニューヨーク・タイムズか、カンヌ映画祭開催中のル・モンドにでも全面広告を出した方がいい。もちろんそれは、ニューヨークなら近代美術館で、カンヌならクラッシック部門で、外務省や国際交流基金も援助する大々的な日本映画の回顧上映とセットになっていなければ、様にならない。
個人の悩みの映画ばかりで社会的な
構造に意識が広がる作品がない
TIFFの運営の本体がこうした日本政治の外交の拙劣さに唯々諾々と従っているわけでは決してない。アジア映画の紹介にはずっと熱心だったし、今年は日本のインディペンデント映画部門が充実していた、とさる老舗の大映画祭のアジア映画担当コンサルタントである友人が言っていた。ただし問題点の指摘もあって、そこはTIFFのプログラム担当者の方がもっと痛切に気づいていると思う。
「個人の悩みの映画ばかりで、ウェルメイドで見ていられるけれど、社会的な構造に意識が広がっている作品がない。自分達の悩みや孤独が社会の構造やありようの結果でもあり、それ自体が社会的、政治的な問題でもあることに気づかないのだろうか?」
結果として曲がりなりにも政治的・社会的意識があった日本映画は、皮肉なことに完全にメインストリームな娯楽作のはずの『寄生獣』だけだという。「主人公に寄生したモンスターが政界進出しようとするんだ。もっとも、原作のマンガを踏襲しただけなのかも知れないけど」
比較対象として、たとえばワールド・フォーカス部門で上映されたフルーツ・チャン監督の『ミッドナイト・アフター』は、香港が突然無人化してあるミニバスの乗客だけが取り残されるというホラー仕立てのSFだが、「現代の香港が抱えるアイデンティティの逡巡が見事に凝縮されている」と同じ友人は言う。いやまったくその通りで、今年の2月にはベルリン映画祭で上映されている作品だが、今の行政官選挙をめぐる香港の混乱、そこに浮かび上がる香港の将来への不安を、適確に予言した作品だと僕も思う(これはいずれ本サイトの映画評でとりあげたい)。
だがアイデンティティの不安と、社会の将来像が見えないことは、今の日本では香港以上に深刻なはずだ。しかも香港の場合は中国本土との関係のなかでどう自分達が差異化され独立性を護り得るのかが大きな問題だが、日本の場合の行き詰まり感は日本人たち自身の選択や価値観と、日本人の作って来た社会自体にその原因があり、つまり自分達で意識することでしか解決できないはずだし、映画とはそういう意識を深く喚起するはずのものでもある。近隣諸国との外交関係の悪化だって、自身の近代史を直視できない日本側の一方的な問題がその原因で、相手国はただ過去の自己正当化はやめて欲しい、一応は謝ったのだからその言葉を守って欲しい、と言われているだけなのに、自分たちのアイデンティティの不安を直視する代わりに、たとえばTIFFであれば「世界中から尊敬される映画監督を産んだ国」に逃避してしまった格好になるのは(このキャッチコピーがプログラム担当者とまったく無関係の部署で作られているのは明白にせよ)極めて残念だ。
要は「世界中から尊敬される映画監督」を日本が産んだことを、いったい誰相手に宣伝しているのか、の問題だ。「昔の日本人は凄かったんだ、今の日本人はしっかりしろ」ならともかく、国内向けにそんなことを宣伝したところで自己満足の自画自賛…にすらならないのは、「世界最高の映画監督」ならともかく、なぜか「世界中から尊敬」である。ノーベル賞に至っては中国と韓国に科学部門の受賞者がいないことを揶揄する見出しを載せた夕刊紙まであったが、どこまで情けないというか、こうも他国との比較をしたがり欧米先進国の評価を絶対視する「愛国主義」というのも自己矛盾だし、なんたる依存性丸出しなのか、あまりにみっともない。
まだ「だから映画を振興する政策が必要だ」と有権者を説得する意図があるならともかく、ここで都合良く持ち出された黒澤明の作品ですら、大映製作の『羅生門』は国立近代美術館フィルムセンターと米アカデミー・フィルムアーカイヴによりデジタル復元され、映画上映のデジタル化の急激な進行に対応しているが、TIFFに会場を提供する大スポンサー東宝が黒澤明の映画の大部分を製作し著作権も管理しているのに、『七人の侍』や『生きる』や『天国と地獄』をデジタル復元するのに国家の支援を要請するなどの動きもない(まあ黒澤映画なら、東宝の自社出費でやっても十分ペイすると思うが)。手間と時間と資金のかかる復元とまではいかずともDCP(デジタル上映素材)化されなければ、「世界中から尊敬されている」はずの黒澤映画ですら、映画館での上映がほとんどなくなる危険は、とても大きいのだが。
国際映画祭の世界はヨーロッパ主導で
植民地主義的な意識構造を引きずっている
国際映画祭の世界は、なんだかんだで未だにヨーロッパ主導であり、たぶんに植民地主義的な意識構造を引きずっているのだが、そこに現代の日本映画や中国、台湾や香港映画を紹介した大きな功績のある批評家トニー・レインズが、今年は日本のインディペンデント映画部門の審査員で招かれていた。そのレインズがシンポジウムで痛烈なTIFF批判と日本の大手映画業界批判、ひいては「クール・ジャパン」批判を展開したことが、今年の映画祭で物議を醸した…はずなのが、まったくそうならないのは、TIFFの構造や体質よりも、日本の映画ジャーナリズムの問題をこそ浮かび上がらせている。
レインズの指摘と批判の具体的なポイントはいちいち適確だったが、いかに詳しいとはいえあそこまで精確なのは、日本の映画人の誰かが入れ知恵したからだろう。それがジャーナリストだとしたらその人たちは彼の口を借りるまでもなく、なぜ自分で書かないのか? 植民地主義は支配者側の傲慢だけでなく、その傲慢さを権威として是認し依存してしまう支配される側の、双方の野合によって維持される。
入れ知恵したのがジャーナリストでなく映画祭関係者や映画の作り手なら、なぜ映画ジャーナリストはその人たちに取材に行かないのだろう? なぜせめてこの発言を報道し、どう思うか国内の映画作家や映画関係者に訊かないのだろう? これではトニーがおなじみの毒舌意地悪を発散しただけで、なんの変化や改善にも寄与しないではないか。無視されるのはTIFF側が握りつぶそうとしたからでもないのが、この映画祭と日本の映画業界の本当の問題なのかも知れない。
TIFFディレクターは映画史的な視点を持ち、
現代の動向に造詣の深い選択眼が明らか
TIFFは今でも人が言うほど悪い映画祭ではない。そもそも「いい映画祭」にするインセンティブのない主催母体や上層部の、気まぐれな圧力に妥協も余儀なくされながらも、ことアジア映画の上映ではほんとうに丹念に、映画史的な視点や現代の動向に造詣の深い選択眼も明らかだし、それがカンヌ等のヨーロッパの映画祭で評判になるアジア映画と一線を画しているのも重要だ。アジアで開催される映画祭が、ヨーロッパの映画文化の植民地的な出先機関、日本のガラパゴス化する映画業界における「長崎の出島」になる必要はない。
会場が六本木ヒルズに移ってから、このビジネス&商業コンプレックスの設計上の特性から、ますます外の街に対して映画祭が目立たなくなってしまっている。しかもメイン上映会場のTOHOシネマズ自体がヒルズの片隅にあるせいか、ヒルズのなかでさえ埋もれた印象も否定できない。にも関わらず、観客動員も増えている。
だが相当な公的資金もつぎ込まれ、カンヌやヴェネチアやベルリンに次ぐ映画祭を目指すと言うかけ声とは裏腹に、どうにも社会や観客に向けてのキャンペーンやイメージ作り、発信力がいかにも心もとないし、プログラミングにも直接その限界が見えてしまってさえいる。日本での公開配給が決まっている特別招待とは別枠で、公開未定でとりあえずTIFFでしか見られないワールド・フォーカス部門があるのは、ある意味で開き直りとすらとれるが、さらに厄介なことに特別招待よりこの部門の方に明らかにおもしろい作品が並んでいるのが、今の日本の映画業界の現状でもある。
言い換えれば、TIFFが抱える問題とは決してこの映画祭の陰口を業界内で、昔なら酒席で、今ならSNSを使って言い合って済むものでもなく(だいたい、同じ悪口を20年以上言い続けながらなにも変えられないのなら、悪口を言っている映画マスコミにだって責任がないとは言えない)、むしろ日本の映画業界と文化行政の構造的な問題が浮かび上がっている、いわば私たちの合わせ鏡になっていることに、もっと冷静かつ分析的になった方がいい。
『ALWAYS 三丁目の夕陽』や『永遠の0』を
良い映画だと公言する政治家のあまりの無教養
こと口先では「歴史と伝統」を喧伝する安倍政権になってから、元からあったこうした諸問題が、加速度的に明白になって来ている。そこで安倍首相や今の自民党右派を責めるのは容易く、なにしろ『ALWAYS 三丁目の夕陽』や『永遠の0』がいい映画だと思っていることを公言しちゃうのだから笑ってしまうわけで、仏前大統領であまり教養がないと馬鹿にされがちだったニコラ・サルコジでさえ、好きな映画を訊ねられて並ぶのは『裁かるるジャンヌ』『アタラント号』といった、フランス映画の推しも推されぬ歴史的名作だ。著書で「美しい国」の理想像に自分だってリアルタイムで子どもで見ていたはずの時代をおよそ不正確なファンタジーに美化した『三丁目の夕陽』を挙げてしまう安倍と、演説で「若かりし頃見た映画『山猫』(ルキーノ・ヴィスコンティ監督の大名作、ちなみに1963年カンヌ映画祭最高賞受賞)」の台詞が引用されたりする小沢一郎とでは、教養や品性の差は歴然としているはずが、その差異を政治の文脈で誰も気にしないことにこそ、日本の問題がある。日本の政治にとって文化芸術は、オペラや歌舞伎が小泉純一郎の趣味であったレベルでしか意味がなく、「感動した」で終わってしまうのだ。
映画に限らず、文化芸術とは無形の社会資本であり、公共財だ。対外的なイメージ向上の外交カードに留まらず、その国家や民族のアイデンティティそのものと密接に関わっている。だから映画に限らず文化政策は資本主義ベースの商業原理だけに依拠してはならないはずだし、映画祭とはその牙城として存続して来たもののはずだ。だがこの国では、歴史的文化財や伝統芸能が義務的に保存されることだけはしっかりしているが、現代に産まれ続け更新され続ける日本文化、たとえば今の日本映画が優れていればそれが国家民族の未来にとっての文化遺産になり、今のリアルタイムの日本映画なり日本文化の創造がこの国家と民族の社会観や将来像に多大な影響を与えるという意識が、政治にも社会にもまるで欠落している。
映画振興策を語るときでさえ「若い監督が頑張っているから応援したい」という、いわば個人的なレベルの感情論ばかりが正当化に持ち出され、それこそ「日本は『東京物語』や『七人の侍』を産んだ国」をどう継承するのか、あるいは越えて行くのか、という議論は誰もやらない。だが『東京物語』や『七人の侍』を小津や黒澤の個人的な才能の成果とだけみなしても(いや当時の日本だから可能だった映画表現でもあるのだが)、それが日本人という民族のありかた、日本人のコレクティヴな人生観や世界観に大きく関わり、またその映画が名作になることによって日本人のアイデンティティが深められても来たことは、決して否定できないはずだし、だからこそ国家が映画も含め文化を保護する必然が産まれる。
だがそうした意識はむしろ現代において、ますます希薄になっている。まだかつては「名画」と呼ばれる名作が一般常識として存在しており、それは映画ファンに限った話ではなかった。だからTIFFの開会式に出して来るアトラクションならナショナリズムに浸るとしても『七人の侍』や『東京物語』か『雨月物語』、せめて『ゴジラ』でなくてはならなかったし、今でこそ核兵器の時代を反映した映画的な内容の深さと叙述構造の特色が再評価される『ゴジラ』が当時はただ「怪獣映画」の子ども向け娯楽扱いだったのは兎も角、リアルタイムで「名画」「芸術作品」として受容されていた映画だし、しかも娯楽アクションでもあって世界中でヒットした『七人の侍』は兎も角、今や世界的に映画芸術の最高峰のひとつとされる『東京物語』は、その公開年の邦画興行収入第二位のヒット作でもある。小津の前作『お茶漬けの味』は興収第一位、つまり小津の前衛的な映画話法は、当時の日本だからこそ可能だった表現なのだ。
まだNHKの衛星放送開始直後には、そうした「名画」とされる映画が中心に放映されていたし、NHKの教育テレビも洋画を中心に「名画」をノーカットで放送する枠を持っていた。今はどうだろう?普通なら映画祭のコンペに入る映画とはおよそ思えないフランス映画の『最強のふたり』はTIFFのグランプリ作品で日本でも大ヒットしたが、これを「名画」とか「芸術的に質が高い」とか「クラッシックになる」とは、選んだ審査員ですら片時も思うまい(…というか、見た人ももう忘れたでしょ?)。だがそれは現代の日本の、文化政策もその教育啓蒙も不在の、芸術文化の継承が個人の趣味レベルの努力にしかかかっていない状況では、重要なこととしてはまったく扱われない。
逆に芸術性の高い優れた映画でも「誰が見ても凄い」ではなく、しょせん難しい映画が好きなファンの「趣味」としか認識されていないし、TIFFとは対照的に映画マスコミが皆で褒める(しかし記事にはほとんどならない)東京フィルメックス映画祭も、結局はそんな「映画ファン趣味」を共有する閉塞した集団として運営される殻から抜け出せぬまま10年以上経ち、今では日本映画や日本で配給公開される映画が、宣伝効果も見込めずただ固定層の観客を奪われるだけだから出品したくない、という現状すら実はある。またそういう映画や映画祭を追っかけるファンが実際にかなり固定している割には、その彼らがそうした映画を見て人生観や世界観が変わった、自分の人生に大きな影響を受けた、というようなことがあるようにも見えない。
ここでTIFFの問題とされるものが、実は日本の映画の業界の問題の合わせ鏡であることが、僕たち作り手にもはね返ってくる。
僕らが映画を作ることに、インディペンデント映画なら「自分のやりたいこと」という「趣味」、いわゆる商業映画なら業界の産業構造内での商売に貢献することで生残ること以上のインセンティブや意義を、果たして意識しているのだろうか?自分達の「映画への愛」と称するものを満たすことくらいしか、考えていないのではないか? なにも政治性や、社会的なテーマをというのではなく、そうした「政治的」な映画の多くが、特定の政治勢力の機嫌をとるものにしかなっていない場合も日本では多い(たとえば原発事故を取り上げる映画は、反原発デモの参加者が想定観客層だ)。だが映画も含めてある作品が文化でありアートなら、公共財であり無形の社会資本になるはずだ。そうなり得るのは社会の世界観を規定し、観客の人生観の根本に関わってこそだろうし、日本国内であろうと国際映画祭で上映される自分の作品は、日本人とは何者で日本社会とはどういうものなのかの意識なしに見られないはずだ。
自分の人生観や自己認識を追いつめることもなく、そんな意義や表現力を持った、無形の社会資本であり公共財となり得る映画が創れるのか、ということから問い直さなければならないのかも知れない。
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