史実がよく分からないからこそのリアル中世末期、「戦国時代」イメージを刷新する異色大河『おんな城主直虎』の真のテーマは「裏・家康」? by 藤原敏史・監督

とにかく「先が読めない」、大河ドラマで異例の展開

今年の大河ドラマの主人公が井伊直虎と発表された時、ほとんどの人はまったくなじみがない名前に驚いたろう。この井伊家の伝承を知っていれば、今度は「しかしどうやってドラマにするの?」と首を傾げたに違いない。昨年大ヒットとなった『真田丸』の後継のこのドラマ、残すところもあと数回だが、視聴率的には奮わないものの、見ている人の間では相当に評判がいいようだ。

見始めたらおもしろい大きな理由は、「先が読めない」ことだ。たとえば『真田丸』なら最初は信濃の国衆としての真田家なら知らないことがほとんどだが、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の時代で話がすぐに大河ドラマの定番というか、基本誰でも知っている「天下統一」に話が移ってしまうと、分かり易い一方で先が読め過ぎるというか、分かりきった展開の再確認に終始するのに、しかもナレーションでも台詞でも、妙に説明過多だった。

『おんな城主直虎』はそんな大河ドラマ定番の安土桃山時代の少し前、織田信長が桶狭間の合戦で今川義元(春風亭昇太)を討ち、今川氏が大苦境に陥るところからドラマが本格的に動き始めるのだが、室町時代末の遠江の井伊谷(現在の浜松市のあたり)のことなんて、今川がその後も息子の今川氏真(尾上松也)を当主にして存続していたことすらほとんどの視聴者にとって馴染みがない。今川氏は桶狭間で滅びたと思っていた人も多いだろう。

知っている史実の再確認ではなく「次はどうなる?」とハラハラできるおもしろさを組み込めた点がまず、今年の大河ドラマが前代未聞で、だからこそドラマとして成功している大きな理由だろう。まず知らない時代の知らない地方の歴史である上に、有名な史実についても視点を変えれば見方も変わる(たとえば「信長が武田軍を敗った」という一般理解の長篠の合戦は、武田勝頼に攻められた徳川の戦争で、織田はあくまで援軍だった、とか)し、さらにそこに「記録ではこうなっているが、実は」的な展開を幾重にも仕込んでいくのだ。これほど自由な創作が出来て、またその自由を存分に活かすことができたのは、大河ドラマとして前代未聞だろう。

その一方で、ひとつだけ有名な史実である、後々に起こる大きな悲劇について、最初からそうと分かる不吉な伏線を作り込んでいたことが、また極めて効果的だ。

井伊家の主家である今川義元といえば、青年時代の徳川家康(阿部サダヲ)もいわばその「人質」の立場で駿府で暮らしていたが、その正妻の築山殿(ドラマの役名は「瀬名」・菜々緒)が最初から重要な役で登場し、主人公の井伊次郎法師またの名を直虎(柴咲コウ)と幼なじみの設定なのだ。

もちろんこの築山殿と、家康のあいだに産まれた長子の徳川信康(平埜生成)は、家康に殺されることになる。徳川家最大の「黒歴史」、家康自身も後にほとんど語ることのなかった徳川家最大の悲劇で、戦国時代でもっとも後味の悪い、辛い逸話である「徳川信康事件」が、『おんな城主直虎』ではほぼ最初から大きな運命として組み込まれていたし、実のところこの悲劇に向かってこそ、ドラマ全体が構成されているとすら言える。

この原稿を書いている時点でまもなく、ついに信康と瀬名を悲劇が襲う。逆に今度は残ったほんの数回で、この後味の悪過ぎる事件の後どう最終回に持って行くのか、史実では井伊直虎が家康の天下統一を見ることはなく、本能寺の変の数ヶ月後に亡くなっているはずだが、ドラマとしてどういう結末が待っているのか、相変わらずさっぱり先が読めない。

判明している史実がほとんどない中でのドラマ化

この後の史実では、直虎の次の井伊家当主・井伊直政は家康の信頼が篤く、徳川幕府の譜代筆頭の家格となった。学校でも習う有名人物では、彦根藩主で幕末・開国期の幕府を主導した大老・井伊直弼がその子孫だ。放映開始時の触れ込みでは、女だてらに城主なった直虎が苦難の時代に家を守り抜き、最後はそういう井伊家再興の大団円になるかのような雰囲気だったのが、ところがもう終盤に入っているというのに、後の直政である井伊万千代(菅田将暉)は反抗期のまっただ中というか、養母である直虎と大げんか中なのだから始末が悪い。これ、どう終わらせるつもりなのだろう?

井伊といえば戦国時代好きなら「井伊の赤備え」で勇名を馳せ「徳川四天王」のひとりとなった、この井伊直政をまず思い出すだろう。直虎はその直政、幼名・虎松の養母であり後見人として、女ながら遠江の西の端で三河との国境になる井伊谷(読みは「いいのや」)の領主を務め、虎松を立派に育て上げたとされるが、江戸中期に井伊家の伝承をまとめた「井伊家伝」の記述以外には、ほとんどなにも分からない。井伊家は平安時代以前に遡る名門との伝承もあるが、当時は駿河・遠江を支配する大大名の今川に小さな領土を安堵された小さな国衆でしかなかった。京など中央で活躍して貴族の日記に記載があったり、有力者でその生涯がまとめられた文献があるわけでもなく、当時の史料としては直虎の署名がある古文書と、祐圓尼という法名で没年が分かる菩提寺の過去帳などくらいしかないのだ。

その伝承によれば、桶狭間の合戦後の井伊家では当主の直親(三浦春馬)が徳川との密通を疑われて暗殺され、その幼い息子の虎松(寺田心)以外に男の後継者がいなくなってしまった。そこで先々代の娘で、一度は直親の許嫁だった次郎法師を名乗る尼僧(柴咲コウ)が当主となり、主家の今川から命じられた徳政令(借金棒引き)を実行すると破産してしまうので、巧妙に策を練って先延ばしにすることで井伊家を守ったという。

徳川・武田連合軍が今川氏真を滅ぼそうと、武田軍が駿河に、徳川が遠江に侵入する直前に、井伊谷は今川からの付家老の小野道好(またの名を政次、ドラマではこの名を採用・高橋一生)に乗っ取られてしまったとされる。次郎法師ないし直虎は、侵攻した徳川の後ろ盾と井伊三人衆の助力で領土を取り戻し、やがて彼女が育て上げた直親の子・虎松が徳川家康に目をかけられ、後の井伊直政となったというのが、井伊家に伝わっているその生涯だ。

放送開始直前には「直虎は男だった」報道まで

幸先が悪いことに、放映が始まる直前には「直虎は男だった」との報道が出た。これは誤解を招く見出しで、新発見の文書に「直虎」について「今川の者」との記述があり、つまり直政を育てた次郎法師という井伊家嫡流の尼僧とは別人ではないのか、というのが新説の中身だった。「直虎が男だった」のでも「いなかった」でもなく、「直虎という名前が別人だった」可能性が出て来ただけとはいえ、NHKにとっては幸先が悪いというか、冗談半分でいえば題名を「おんな城主次郎法師」に変えればよかったのかも知れない。

まあとにかく、日本人なら誰でも知っている真田家ファンタジーで大ヒット(『真田丸』)の後で、よくも通った大胆な企画だ。「直虎は男だった」ですら実はそんなに重要な問題でもない。どっちにしろドラマのベースになる史実がほとんど判明しておらず、基本文献そのものがフィクションの可能性が高い上に一年の連続ドラマをもたせられるような分量もないのだ。だがほぼすべて「作り事」とは言うものの、やはり女性主人公の大河ドラマでも『花燃ゆ』(吉田松陰の妹が主人公)のような悪評だらけ(背景となる歴史は記録が大量に残る時代だというのにその史実のねじ曲げ方もひどく、歴史観として新しいなにかを提示したわけでもない)ではまったくないし、とくに直虎の家督相続から徳川の侵攻にかけての展開では、今川家からの付家老(つまり監視役)の小野但馬守政次を演じた高橋一生ががぜん注目された。

なるほど、ここはとりわけ作り込みがいのある部分だ。徳川の今川攻めの前後の井伊家については、どうも三河からの徳川の侵入に備えて今川の事実上の直轄領にされたらしいこと以外は、小野道好(但馬守政次)が徳川方に処刑されたことなど、断片的にしか分かってない。逆に言えば、ドラマの作り手はあくまで史実の枠内からはみ出ないままでも、自由に展開を考えられる。

そこでこのドラマの作り手たちが採用したのが、日本の演劇史ではおなじみの作劇法だ。言い換えれば日本人好みと言ってもいいはずだが、なぜか今まで大河ドラマでは見かけたことのない、「表向きは◯◯だが、実は」という展開が、それも次から次へと連発されるのだから、歴史ドラマだというのにますます先が読めない。

日本人の大好きな「表向きはこう見えるが、実は」展開

文楽人形浄瑠璃や歌舞伎ではおなじみの展開である「実は」「真相はこうだった」というのは、遡れば能楽がまず死者の亡霊がシテ(主人公)として現れ、旅の僧侶であるワキがその死の真相の告白を聞く、という構造を持っている。江戸時代に大名達が自らも好んで演じた定番の演目である『舟知盛』では、壇ノ浦で戦死した平家の武将・平知盛の荒れ狂う亡霊が航行する船を襲い、平家側から見た滅亡の【実は】の真相を語るが、浄瑠璃と歌舞伎の『義経千本桜』の前半のクライマックスでは、船を襲う知盛の亡霊が【実は】壇ノ浦を生き延びていた知盛本人で、兄・頼朝に追われる義経一行の前に立ちふさがる。同じく能の『敦盛』(織田信長の「人間五十年」の舞で有名)を底本にした『一谷嫩軍記』の「熊谷陣屋」では、源氏の武将・熊谷次郎直実が平敦盛を討ったものの、その若さを憐れみ、戦死した自分の長男の運命にも重ね合わせて世の無情を感じる、という展開を【実は】で深読みし、敦盛は【実は】後白河院の落胤であるので殺してはいけないとの密命を義経が直実に託しており、直実はその命に従うために大芝居を打ち、直実が討った敦盛は【実は】直実の嫡子が演じた身代わりで、その我が子を直実は自らの手で殺し、【実は】我が子の首を、敦盛の首として首実検に差し出す、という壮絶な悲劇になった。文楽歴史ものの最高傑作とも言われ、歌舞伎版も大変な人気演目だ。

自らの真実をあえて隠しつつ、その真実に誠を尽くす悲劇というのは、中世・近世の日本人が大好きだったものだが、このドラマツルギーを『おんな城主直虎』は採用している。史実、というか伝承では井伊家の家老・小野政次(小野道好)は裏切り者の奸臣で井伊家を乗っ取り、遠江に侵攻して井伊を今川から解放した徳川によって処刑されたことになっている。『おんな城主直虎』の小野政次は、今川からの付家老であることを逆手にとって、徳川の侵攻に備え井伊谷を直轄領にしたい、つまり井伊家を潰したい今川から井伊家を守ろうとして、そのためには井伊の家中すら欺いて今川の手先を演じることでその実今川の圧力を弱めさせ、直虎とは碁を打つ相手ということにして2人だけで会い続け、情報を交換し、相談に乗って支え続ける。

井伊家の伝承では次郎法師(直虎)は元々は先代・直親の許嫁で、結婚がかなわず出家したことになっているが、ドラマでは直親の死後も出家の立場のままの彼女に小野政次が密かに思いを寄せているかのように暗示され、だからこそ彼女に尽くし、それも陰ながら支えるというプラトニックな三角関係には普遍性があり、現代の観客にとっても共感しやすい。それに史実がどうせ分からないのだから(ちなみに実際の年齢から考えれば、次郎法師が直親の許嫁だったということ自体に無理がある)、作り事だからと言って誰も文句はつけられまい。

最終的に今川の圧力に耐えきれずに小野が井伊を乗っ取った、という大芝居を打つ時、今川から先代直親の子・虎松(後の井伊直政)の首を要求されて、政次が身代わりの首を差し出すという展開は、明らかに『熊谷陣屋』に想を得ており、しかも織田信長(市川海老蔵)に家康(阿部サダヲ)が我が子信康(平埜生成)の首を要求されるという後々の展開を暗示するパラレル構造にもなっている。

徳川に寝返った周辺領主の陰謀に巻き込まれて井伊谷が徳川軍に占領されたなか、政次が最後まで表向きは奸臣を演じて処刑されていく悲劇の壮絶さは、いかにも歌舞伎的・文楽人形浄瑠璃的なドラマツルギー(愛する者を手にかけなければならないという悲劇は『伽羅先代萩』など歌舞伎ではおなじみ)で展開し、戦国の世の営みの虚しさを強烈に印象づけることで、戦国の次の時代の到来の必然を強く感じさせる。

ほぼフィクション、だからこそ時代精神に忠実に

大河ドラマが視聴率を稼ぐなら、実際の歴史とかけ離れた現代人向けの価値観で描かれた絵空事になってもいいから、やはり黒田官兵衛(『軍師官兵衛』)だったり前田利家(『利家とまつ』)だったり浅井三姉妹(『江』)だったり、昨年大ヒットした信濃の真田一族(『真田丸』)だったり、視点と主人公は一応別に置かれていても、信長・秀吉がらみが無難だろう。通俗的によく知られた「史実」が実はまったくの虚実ないまぜで、後世の講談などの創作が大量に紛れ込んでいるだけでなく、「信長公記」などの基本史料でさえ怪しい部分も多いとはいえ、だからこそエピソードも豊富なので書き易くもある。

だがそうした “有名どころ大河” でも徳川家康が主人公になったのは一度だけだ。『真田丸』のように重要な脇役ではあるが悪辣な陰謀家の野心家で憎まれ役とするのも定番だが、これは歴史学的に言えば250年の泰平の礎を築き、その政策の大胆な先進性と合理性で評価の高い最新の日本史学の成果とは矛盾している。というよりも、家康が「悪役」扱いなのは、その幕府を倒して近代日本の政体を樹立した明治政府の「皇国史観」のプロパガンダ歴史教育の影響が大きく(明治天皇は家康を幕府を開いたということだけで「不忠」とみなしていた)、ほとんどの時代劇は映画もテレビドラマもその歴史観の影響下に作られて来た。

だがNHKは今回、“有名どころ大河” の登場人物では唯一、徳川家康だけがもっとも関わりが深い井伊家を主人公に、従来のイメージを覆すどころでは済まない、その地方や一族の歴史自体が一般になじみがなく、しかも確定的な史実がほとんど不明な歴史を、あえて作り手の想像力でドラマにしようと言うのだ。

そして『おんな城主直虎』は実際に、大胆に従来のイメージを覆すことを試み、成功している。それもなにか特定の人物についてというのでなく、一般に「戦国時代」と呼ばれる室町時代後期、中世末期の日本のイメージ、ひいては我々の歴史観そのものを問おうとしている。

考えてみれば、井伊直虎の伝承はそのうってつけの題材だった。女が城主・領主の役割を果たした例は戦国時代に他にもあるが、いずれも男だてらに武勇を発揮した女豪傑の話になる。ところが直虎・次郎法師は殺生を禁じられた仏弟子で、伝承にある彼女が今川から井伊を守った功績というのも戦争ではなく、徳政令(借金棒引き令)の先延ばしという経済政策でだった。

商業に農業に林業、果ては放浪民まで巻き込んだ「全階級型」戦国ドラマ

室町時代に入り、二毛作などの農業技術の発展と、院政期から盛んになった宋や明との貿易で大量の銅銭が輸入されたことで、日本には貨幣経済が定着していた。そのなかで貨幣経済の浸透で農村の自給自足の秩序が乱れ、しばしば農民が借金にあえぐことにもなり、「徳政令」つまり借金棒引き命令でその農民を救済する、という政策がしばしば取られるようになっていた。室町後期が「戦国時代」というのもこうした社会経済構造の変化があって、豊かな土地と寒冷地といった地域格差も背景に、地方分権化が進んでいたことに他ならない。

今川は井伊谷の住人の直訴を受けたとして、徳政の実行を井伊に命じる。だがその井伊家が度重なる今川からの軍役の命令に応じた戦費で大赤字になっていて、徳政を行うにも貸し主の商人にその担保を保証するどころか、自分が借金返済を要求されて財政破綻で崩壊してしまう。井伊家の伝承では直虎は百姓たちの人望を集め、彼らを説き伏せて借金棒引きを待ってもらい、徳政の先延ばしに成功したことになっているが、その政治手腕の詳細について、このドラマが創作した中身が凄い。

農民の苦境もまた今川の戦に大きな原因があり、軍役でかり出されたり農作物を徴発されたりで、戦死者も少なくない上に逃亡農民(「逃散」)が増え、田畑も荒れていた。そこで直虎は荒れた休耕田に目をつけてその再開墾を提案し、莫大な負債を抱えた相手の商人の瀬戸方久(ムロツヨシ)を家臣に引き入れて、新たな農地で綿などの商品作物を作らせ、綿布の生産技術も導入して農村に現金収入を得る手段を持たせる。農具を作る鍛冶の技術があることに着目すれば鉄砲の生産にも乗り出し、これを今川に恩を売る交渉のカードにもする。

信虎はさらに人手不足を補うため、他国からの農民が井伊谷に定着するようにと、暮らし易い村づくりにも腐心する。自分が出家していた菩提寺の禅僧たちの協力を得て百姓も読み書きを習えるようにしたり、薬草を栽培して簡単な医療なら無償で受けられるようにしたり、水害を防ぎ農業生産を向上させるために治水灌漑工事も進める。井伊谷を囲む山林を利用して林業を始めるために、偶然に知り合った流浪民の盗賊集団(柳楽優弥)を引き入れて、その労働力として活躍してもらったりもする。

こうして戦争ではなく経済、抑圧ではなく領民に手厚く接しその自主性を喚起する政策で発展する井伊に、今川も一目を置かざるを得なくなり、一時は港湾を備えた自由交易都市の気賀の領主まで任される。まずこういうものが大々的に主要な舞台として登場する大河ドラマというのも、呂宋助左衛門を松本幸四郎が演じた『黄金の日々』以来かも知れない。

信虎の先進的な政策こそ、その実「リアル戦国時代」



武家の戦争中心の、政治というか権力闘争史を主軸にしがちな大河ドラマや通俗戦国時代劇の歴史観では見落とされがちなことだが、こうした直虎の政策は、やがて織田の家中などの多くの武将もやり始めることだ。たとえば亀山城主になった明智光秀は川の流れを変える大治水工事で水害を防止し灌漑用水を確保したことで領民の信頼を得ているし、羽柴秀吉は琵琶湖畔の長浜に商業に向いた都市設計の城下町を作っている。信長自身が自由交易ができる楽市・楽座を始め、その成功で確保できた大きな財源と先端技術の導入は、織田が天下統一を進められたことにも大きく関わっている。

ドラマで直虎がやることは、それだけ当時の社会経済的に実際に合ったニーズに答えた合理的政策だったのだが、それにしてもその先取りっぷりは大胆だ。しかも農民たちや、借金返済の先延ばしの引き換えに所領を与えられ家臣になった商人など、武家以外の階級の人間をふんだんに登場させて武家と異なったその価値観もしっかり自己主張させ、中世社会の情報伝達や文化の流通に重要な役割を果たしていた特殊技能を持った流浪民(江戸時代のえた・ひにん階級)までドラマに取り込むことで、社会経済構造の変化をナレーションなどの説明だけでなく、ドラマの一部として描き込んでいるのだ。気賀も重要な舞台とすることで、中世の日本では中国大陸との交易が活発だったこと、この時代には対ヨーロッパのいわゆる南蛮貿易が始まっていたことも映し出される。

こうして時代そのものを、それも「戦国」という以外の切り口で見せる演出から説得力を持って見えて来るのは、これまでの戦国時代ドラマになじんで来た視聴者観客には斬新過ぎて風変わりに見えるかも知れない直虎の政策の数々が、歴史的な必然であったことだ。さらにそうした武家以外の階級の人達もまた、徳川・武田の侵攻と今川氏の滅亡の大混乱に巻き込まれて命を落とし、それでも生き残った者たちが悲しみを抱えながらもたくましく生き続ける姿を通して、戦国時代が終わらなければならないこと、新たな時代の新たな統治が必要なことが切実に浮かび上がって来るのも、戦国武将たちの権力抗争や戦を中心に構成され、その英雄譚に喝采を送りがちだった既存の大河ドラマと大きく一線を画すものだろう(『黄金の日々』や、院政期を舞台にした『平清盛』、幕末から明治を会津藩出身の女性の視点から見せた『八重の桜』などの先行例はあるが)。

裏テーマは、徳川家康はいかに徳川家康になったのか

ところで、いくら実は中世末期の社会構造の変化に適応した歴史的必然だとはいえ、ドラマの直虎のようになにもかも(新田開発、商業作物栽培の奨励、商人を政治に取り込んだ経済政策の重視、農村自治の奨励、教育や医療の無償提供、治水灌漑の土木工事、果ては植林まで)をやった統治者となると、同時代的にはさすがにちょっと見当たらない。それだけ先進的な「戦国ユートピア」ならぬ「中世末期のリアル・ユートビア」ではあるが、近世に入ってこれを成し遂げた人物なら、彼女と生きた時代が重なり、しかも大変な長寿だったので実はほぼ同世代で、確かにいる。

実のところ、このドラマが直虎にやらせた政策はすべて、徳川家康の江戸幕府が実践することなのだ。

関東に国替えされた家康がまず進めたのは、大治水工事と新田開発を推進しそれまで後進地帯だった関東を大穀倉地帯に育てあげることだった。戦国時代にたきぎや材木目的で乱伐が相次ぎ、戦乱による山火事もあって荒廃した山林に植林を大々的に行ったり、治水や灌漑の大土木工事や新しい町づくりを次々と敢行したのも家康・秀忠・家光の三代であり、直虎のような「庶民ファースト」政策理念を掲げたのは四代将軍の家綱だ。庶民にも無償で学問の門戸を開いたのは五代将軍の綱吉で、医療の無償提供となると八代将軍の小石川養生所の設立まで待たねばならなかったが。

直虎が家督を継いだとき、師であり大叔父にも当たる禅僧の南渓(小林薫)が彼女に読めと言うのが、今川の法令集「今川仮名目録」だ。これは今川義元の母・寿桂尼(浅丘ルリ子)が定めたもので、戦国武将としては異例に先進的で、成文化された法制度をその統治の要に置いたものだった。いわゆる「法の支配」の確立である。

徳川家康は少年時代、青年期を通して今川の人質として駿府で過ごしているが、織田=徳川同盟ばかりが注目され、今川から学んだことの影響の大きさは看過されがちだ。しかし徳川の安定政権にとって法と秩序による支配が極めて重要だったのは言うまでもなく、家康から家光までの三代のあいだに定められた公事方御定書、武家諸法度、禁中並公家諸法度などの、緻密に構築され完成度の高い法制度整備の、「今川仮名目録」がそのいわばプロトタイプとなっていたことにも、このドラマはしっかり焦点を当てている。

今川義元は大軍を率いていたのが少人数の織田信長軍の奇襲で呆気なく敗北したことなど、後代の我々には極めてイメージが悪く、貴族かぶれの暗愚の君のように思われがちだが、当時の視点で考えるなら、そんなに暗愚だったら駿河・遠江というとても豊かな土地を支配し繁栄を極め、天下に覇を示すべく京に進軍しようとなんて出来なかったはずだ。後代のイメージとはまこと誤解を招くものだが、大河ドラマを始めとする戦国時代を舞台にした時代劇は、そうしたイメージの再生産にひたすら奉仕して来た面が強い。

そんななかで一般には信長に桶狭間で討たれたことでしか知られていない義元と、とくにその母・寿桂尼の辣腕に支えられた今川の繁栄をちゃんと見せたことも、『おんな城主直虎』が評価されるポイントのひとつだろう。今川氏の京の文化人との交流も、近代の(明治以降の軍国主義的な)価値観では「そんなに軟弱だから」と思われがちかも知れないが、当時の価値観でいえば群雄割拠の戦国乱世でも日本の中心である京と上方への憧れや精神的・文化的な結びつきの強さは、戦国武将たちにとって極めて重要なものだった。武家ではあっても一流の武将ともなれば武勇だけでなく教養の高さが求められたのも、当時の日本の現実だ。

ちなみに桶狭間の戦いで信長が兵力で圧倒的に勝っていた今川を破ったという通説には、疑いが指摘されている。どうも「信長公記」では信長の天才性を強調するために話を「盛って」いるというか、実際には織田軍はその記述の10倍程度の兵力を備えていたらしい。

後世のファンタジーではない「リアル戦国時代」

歴史を現代の価値観で判断してはいけない、というのは歴史をよく知らない人こそ口にしたがる「教訓」だが、歴史劇ではあっても現代の視聴者相手に作っている以上、現代人に理解できる範囲の妥協点は探らなければならないだろう。歴史的には無理があっても『江』のように現代風にアレンジした方が視聴率は上がるのも確かで、まただからこそ「当時ではあり得ない」との酷評も出るが、実のところそうした「当時はこうだったはず」理解自体が、こと戦国時代というか室町時代後期についてはかなり怪しい。

平和が250年続いた江戸時代に現実の武家が官僚化したぶん、逆に戦国時代の武勇伝は庶民娯楽でもずいぶん神話化されたし、忠義といった儒教的な美徳が強調されるのも、儒教朱子学を幕府が奨励した影響だ。昨年の『真田丸』の主人公・真田信繁が「真田幸村」として英雄化されたのも江戸時代だが、その幸村が豊臣家への忠節心から大坂の陣に馳せ参じたという講談や浮世絵や大河ドラマの設定も、おそらくは後代のフィクションだ。他に動機が見当たらないから忠義のはずだと言うのなら、信繁はこの時代には珍しい、ずいぶん変わった武将だったに違いない。

儒教的に英雄神話化された忠義や武勇には、さらに明治以降の近代で「武士道」(これ自体が明治の、新渡戸稲造の造語)という国家主義的なプロパガンダ性も付与された。それが戦後民主主義の中でもまったく払拭されないどころか、近年ではマンガやゲームも加わり、ますますファンタジー化されたイメージが出来上がっている。そうした旧来の「戦国武将ファン」的な視点からすれば、『おんな城主直虎』への不満の第一は、まず合戦シーンがないことだろう。

ドラマが本格的に動き出す重要な契機の桶狭間は、今川軍が奇襲に遭った出だしだけで終わっていたし、ほとんど唯一の合戦シーンと言えそうなのが酒井忠次(みのすけ)の指揮する徳川軍の堀川城攻略で、しかも主に映し出されたのは武家ではなく、その無差別殺戮の犠牲になる民衆の側だった。

長篠の合戦も戦闘ではなく、犠牲者の弔いに行った直虎が見る、屍が無数に横たわる戦闘後の光景が画面に広がっていたし、遡れば桶狭間の描写でメインになったのは、井伊谷に運び込まれた戦死者・負傷者たちだった。この時、夫で井伊家当主だった直盛(杉本哲太)を失った直虎の母(財前直見)は、戦死した家臣の家族一人一人に手紙を書く。

今までの戦国時代ドラマでは考えられなかった描写だし、当時の武家にそういう慣習があったわけでもない。それでもこれは、この時代の主従関係がどういうものであったのかを脚本家が考え抜いていたからこその秀逸なシーンだ。確かに身分制社会ではあったが、忠義の固い絆で結ばれた主従などというのは儒教が普及した江戸時代以降のフィクションでしかないし、その身分制度も完全に分離固定化するのは、信長が兵農分離を押し進めて下級武士の足軽を城下町に住まわせるようにして、豊臣秀吉の太閤検地で農民が土地に縛り付けられるようになってからだ。

主君と家臣は利害関係や、井伊のような小さな国衆では生活を共にし続けている縁で結びついた運命共同体のようなものだった。戦に強く手柄が多い当主なら恩賞を得て領地を広げ、それを家臣に分け与えることで求心力も維持できたが、それがなければ人望でつなぎ止めるくらいは手段がなかったはずだし、しょせんは人間関係なのだから、そんな地道でささやかな気配りだって無視できなかったはずだ。

リアル戦国武将のそんなにカッコよくないリアル

よく「歴史は当時の価値観で」と言われるが、人間の根本的な感情にまで時代差があるわけでもない。こと下克上がまかり通り上下関係の秩序が崩れたこの時代に、家臣は当主に従うものだというよりも、当主が家中のさまざまな主張の意見調整役だった場合も少なくなかったことが、『おんな城主直虎』では生き生きと描写されている。だがそこで意見の一致をみればいいのだが、意見対立がさまざまな衝突や怨恨、確執を産むのはどんな時代のどんな組織でも同じだし、敵味方が入れ替わり続けるような戦国時代の武家ではなおさらそうだった。

だからこそ実際の戦闘以上に、調略を仕掛け内通者を作ったりしてこそ戦の勝敗が決まったことも少なくないし、当主の力や人望が弱まれば、それだけ敵の調略がつけ入る隙が出て来る。ちなみに実際の戦闘よりも調略・謀略の名手だったのが豊臣秀吉だが、実戦においても戦国最強の軍略家として恐れられた武田信玄も調略や陰謀で敵をまず内部から突き崩すことに長け、間者をスパイや暗殺者として駆使し、そこがまた恐れられていたことも『おんな城主直虎』の重要な要素になっている。

徳川の遠江侵攻が始まる前から、今川臣下で井伊家の監視役でもあった周辺の三人の領主・井伊谷三人衆がとっとと徳川側に寝返っていたりするのも、戦国武将ファンには気に入らないかも知れないが、これだってこの時代には当たり前だった。合戦シーンがほとんどないのも、実際の戦闘が勝敗や今後の政治的動向において、そこまで重要だったわけでもないからでもあるが、また家康の、そうして自分側に寝返った武将を偏見なく受け入れる性格が、後々に信康事件を条件づける伏線的に機能していると同時に、そうした寛容さがあったからこそ家康には天下統一が出来たとも言える。

恋愛関係や夫婦の情愛を描くと「それは現代の価値観だ。当時は政略結婚で、女は家の代表として」云々としたり顔の苦情が出ることも多いが、確かにそういう面もあったものの、たとえば浅井長政に嫁いだ織田信長の妹・市が夫の裏切りを兄に伝えるため両端を縛った小豆の袋を送って挟み撃ちになると警告した(つまり、市は浅井に嫁いでも織田方の人間だったと言いたいのだろう)というのは完全に後世のフィクションだ。実際の史料を見る限り、市はむしろ夫・長政と深い愛情で結ばれていたとしか思えず、三人の娘の命を守るためでなければ、夫と共に死んでいた。生き残った市が兄・信長とはあえて離れて暮らしていたのも、兄を許せなかったからだろう。

市は2度目の夫・柴田勝家と運命を共にしており、長女の茶々が実父と義父の双方の死に責任のある、いわば仇の豊臣秀吉の側室になっているのは確かに意外だが、その茶々・淀殿は男子を産むと、褒美として高野山に長政・市夫妻を弔う塔頭寺院を秀吉に作らせている。秀吉が串刺しの刑で殺させた長政の十歳の嫡子を、市は自分の子ではなくとも深く愛していたし、次女の初は浅井攻めを密かに生き延びた異母弟の次男を終生かくまっていたことが分かっている。こうした側室制度などを当時の女性がどう受け止めていたのかは、現代の一夫一妻の価値観からは理解が難しいところだろうが、家の維持のために重要ではあっても、だからと言って嫉妬心がまったくなかったわけでもあるまい(さらに時代の遡る『源氏物語』では源氏の愛人・六条御息所が嫉妬のあまり生き霊となって源氏の正妻をとり殺してしまい、自らの業の深さに恐れおののく)し、その一方で明治以降の西洋、とくにヴィクトリア朝英国の貞操観念が日本人の性道徳を大きく変えてしまう以前の、日本人の性に対する価値観はかなり異なった、恋愛や性にむしろ肯定的なものでもあった。

全般的に、『おんな城主直虎』の人間関係は現代の観客に理解可能なギリギリの範囲で、相当に実際の当時の価値観や文化に忠実だ。むしろストーリー自体がほとんどが創作にならざるを得ないからこそ、その心理や行動原理は当時の人間なら実際にあり得たであろうことで構成されている。直親の正妻だったしの(貫地谷しほり)と領主になった直虎の微妙な関係なども、後世に神話化されたり、美化した理解のために合理化された「戦国時代」イメージにはまったく従っていないのが新鮮なだけでなく、かえって現代人にとっても共感しやすくなっている。

とはいえ、たとえば井伊家と主家の今川家の関係は確かに簡単な敵味方図式には当てはめられないぶん、一見分かりにくいかもしれないし、それが視聴率が伸びない理由だと批判した評もある。だが「戦国時代」とは敵味方がはっきり分かれて憎み合い争う時代ではなく、利害と妥協でついたり離れたりし続けたのが現実であり、そこで複雑にからみあう人間関係を避けてしまっては、それこそ歴史の肝心の部分を現代の価値観で歪めることになってしまっただろう。

井伊直親が今川に謀殺されたのは徳川に内通された嫌疑をかけられたからだと、物語の主なソースになっている井伊家の伝承の「井伊家伝」にはあるが、ドラマではそこをさらに膨らませ、直親は本当に家康と密会しようとしていて、家康だと信じ込んで会った相手が今川が仕立てた偽物だったという展開になった。今川側からすれば処罰して当然の裏切りの証拠を掴んだ一方で、直親は別に今川が憎くて徳川に寝返ろうとしたわけではない。今川が「敵」なのではなく、むしろ今川が義元の死後に弱体化する中では、井伊家と井伊谷を守るためにはやむを得なかったのだ(またそういう他者の事情でも理解してくれるのが、このドラマでの家康の性格設定でもあるのは興味深い)。

幼なじみのいとこで許嫁だった直親を殺された直虎が、今川を恨んでもおかしくはないだろう。だが逆らえば自分だけでなく井伊家が今川に滅ぼされかねないし、いざ自分が政治を司る立場になれば、優れた政治家だと分かった寿桂尼に直虎が敬意を抱くのもむしろ当然だろう。その直虎は寿桂尼を尊敬しながらも、その彼女がまもなく亡くなるであろうこと、そうなれば今川家は崩壊すると見抜き、徳川と密かに結ぼうと画策する。病床の寿桂尼が信虎と心を開いて語り合い、お互いの本心に共感しつつも、だからこそ寿桂尼が井伊は徳川に寝返るだろうと見抜く展開は、浅丘ルリ子の鬼気迫る演技も圧巻だ。

当時の価値観や文化にのっとったといえば、ささやかながら非常に秀逸な描写があった。今川からの付家老の家柄なので井伊家中から白い目で見られる小野政次が、井伊家の親戚で重臣であり、直親の妻しのの父でもある奥山朝利に襲われ、逆に殺してしまう。事情が理解されて重い処罰こそされなかったが謹慎する政次に、次郎法師は写経を勧める。政次がいやいやながら写経を始めると、なんとそれが家中で噂になり、奥山の祟りを恐れて写経で弔おうとは、小野も案外かわいいところがある、と言われて家中全体の恨みを買っておかしくなかったのもなんとか丸く治まってしまうのだ。中世の日本社会では、いかにもありそうな話だ。

次郎法師という尼僧でもある直虎は、亡くなった祖父や曾祖父や父や直親にしばしば、寺の境内の片隅にある井戸で祈り、語りかけ、この井戸が重要な象徴性を持った舞台としてさまざまな事件の展開に関わって来る。徳川の侵攻のどさくさで井伊谷の乗っ取りに加担した近隣領主・井伊谷三人衆の1人が戦死すると、直虎はその遺児に頼まれるままに経をあげる。長篠の合戦で徳川・織田方が勝利したと聞くと、彼女は徳川の勝利を祝うためでなく、死者を弔うために合戦上に赴く。こうした行動は彼女が仏弟子であるからと同時に、死者にこだわり慰霊に尽くすのは、あまたの死者が出た戦国時代でいわば殺人を稼業としていた武家にとってさえ、実は当たり前だった。母の祐椿尼(財前直見)のように未亡人が菩提を弔うために髪を落として余生を送ることもごく普通の習慣だ。武家のあいだでは殺生が日常だった時代でも、殺生を禁ずる仏教は日本人の宗教にして行動規範であり生活文化でもあり続けていたし、また古来日本人は死者の霊魂を信じ祟りを恐れる文化を大事にして来た民族でもある。

通俗史観のステレオタイプに囚われない人物設定

信濃の真田だって知られているのはほとんどが実は後世に作られたフィクションで、江戸時代以降はそのフィクションで「真田左衛門之尉幸村」として知られる人物が、史実では「信繁」だったことを初めて徹底させたのは『真田丸』の功績だろう。大坂冬の陣の真田丸は場所も含めて詳細はほとんど分かっていなかったのが、最新研究を元に信繁の武田譲りの巧みな戦略を再現してみせたのもNHKがよく頑張ったところだったが、それでも真田が武田の国衆だった時期ならまだドラマのおもしろさはあったのが、こと真田家が豊臣に仕えるようになればその先は、通俗的に誰もが知っている歴史物語の展開を裏切れず、しかもそれが豊臣家ファミリードラマ的な枠内に妙にこじんまりと収まってでしか話が進んでいなかった。武家の話、それも政権中枢だけで歴史を描こうとすると、そこで動いている歴史の全体像はかえって見えなくなるのは、喩えて言えば現代の日本の政治がしばしば永田町というコップの中の嵐に終始して、国内の社会情勢についても、国際社会の動向への対応でも、妙に浮世離れして現実感がない(ゆえにことごとく失敗する)ところにも通じるのかも知れない。

それに対し『おんな城主直虎』は、小さな井伊谷が主要舞台でも、その全階級を網羅して産業構造や経済政策を見せたり、直接の戦闘ではなく手紙のやりとりなどの情報戦略や調略に光を当てたりして、井伊谷を通して当時の日本の全体像が見えて来る広がりがあり、また直虎自身がそうしてあらゆる階層と接することで、彼女自身の視野も広がっていく。武田信玄が対徳川で侵攻し、徳川配下で井伊谷の領主になっていた近藤重用(橋本じゅん)に武田に寝返るか徳川側として井伊谷を死守するのかの選択が迫られたとき、直虎はどちらにもつかないことで安泰を守る奇策として、農民たちに逃散を命じる。動員できる戦力がないから戦えなかったということにすれば、どちらの側が勝っても罰せられることは避けられるという武家の政治的な発想の一方で、そうすることで領民たちの命もまた守ることができるのだ。今川の配下としての井伊の生き残りに政次が直虎に授けた策が、孫子のいう「戦わずして勝つ」ことだった。それを階級横断型で応用した発想は、従来の歴史観の戦国武士ドラマの文脈では奇想天外に過ぎるだろうが、全階級網羅型戦国ドラマのヒロインにはふさわしい。

それに『真田丸』の場合には、信繁が直接には関白秀次に仕える設定になれば「ああ秀次、次回で死ぬんだね」とすぐ分かってしまうし、信繁と淀殿に恋愛めいた関係をフィクションで脚本家が書き込んだのも、なんとも作り話っぽい小手先にしか見えなかった。どうせなら江戸時代から根強い、秀頼が秀吉の子ではなかった説でも膨らませて、真田幸村こそが秀頼の実父だったとでもぶち上げてくれれば、まだおもしろくなったろう。なにしろ豊臣秀頼は高齢の父に甘やかされて育ったにも関わらず真っすぐな、竹を割ったような誠実で愛すべき性格で、父とは似ても似つかぬ六尺(180cm以上)の立派な体格の、しかも大変な美男だった。真田信繁が大坂の陣になぜか参戦したのは豊臣恩顧の忠義から、という明治的な軍国主義の発想ではおもしろくもなんともない絵空事にしかならず、説得力もないのが、歌舞伎的な【実は】を盛り込んで淀殿への愛と我が子の秀頼のため、といわれればがぜん刺激的なドラマが展開できただろうに、父・昌幸の代については小さな国衆の生き残りと野心に注目したはずだったのが、終盤が妙におとなしい通俗歴史観通りに進んでいたのは、それだけ分かり易さを優先させたので成功もしたのだろうが、人物造形も通俗的に知られている「定説」(必ずしも歴史学的な定説ではない)に沿ったステレオタイプが基本だった。

ちなみに『平清盛』では、有名な俗説である清盛=白河院ご落胤説をあえてドラマの中心に据えていたし、悪左府・藤原頼長の男色を駆使した人脈形成など恋愛も含む複雑な人間関係を、史実から推測される人物像を踏まえながらも自在に創造して、古代律令国家から中世へと社会構造が変化しつつある時代の権力中枢の、魑魅魍魎がうごめくような複雑さを怨霊まで含めて描き込み、この時代についてのイメージを刷新し、かつより実際の歴史に近いものにしていた。『八重の桜』の前半の幕末政治史は、従来の薩長土肥の尊王攘夷・倒幕側ではなく幕府側の、それも会津松平家に視点を置くことで、今までほとんど省みられなかった側から複雑な権力闘争の歴史を見せようとしていて、それだけに中盤のクライマックスとなる会津城攻防戦の壮絶な悲劇は衝撃的だった。

『おんな城主直虎』では、主人公たちに一般的なステレオタイプを満たす必要があるほど現代人に知られた者がいないのも、自由な創作でドラマにリアリティの厚みを与えられる強みになっている。

そんななかで一般にも固定したイメージが根付いているのが、最終盤になって万千代(後の井伊直政)と深く関わる徳川家康とその家臣団だが、後に天下無双の戦上手とされる一方で謀略家の狸親父と恐れられ、なにしろ死後は「東照大権現」というカミ様にもなっている江戸幕府を開いた偉人という後世のイメージは、この『おんな城主直虎』ではまったく見られない。江戸時代には勇猛果敢な三河武士団と美化されたその家臣団も、ぶっちゃけ粗暴な田舎武士集団にしか見えない。本多忠勝(高嶋政宏)などはがさつな粗忽ものでしかなく、酒井忠次(みのすけ)は野心家の猛将気取りで民衆の虐殺を命じてしまうような、ずいぶん陰険な、しかししょせんは小物と言った感じだ。

このように悪い意味でアクが強い家臣団に翻弄される家康(阿部サダヲ)は、内気で自信が持てず、碁盤を前に戦略を練るのは大好きだが、実際の戦闘では決断力に欠けていたり、「厭離穢土」という旗印の通りに実のところ戦争や人殺しが嫌いで、やさしいだけに優柔不断でもあり、自分のまったく望まない強硬策や、果ては民衆虐殺行為まで、酒井忠次らに勝手にやられてしまうような、いわば「普通の人」というか、この時代には向かない性格で描かれて来ている。このドラマは井伊家を描く一方で、こんな徳川家康がいかに江戸幕府の初代将軍になるまで成長していくのかを、いわば裏テーマとして丹念に追おうともしているのだ。

今川の国衆の子だった井伊直政は、なぜ家康の最重要の側近になったのか

気弱で優柔不断な家康像は、史実でももしかしたらこんなものだったのかも知れない。三河領に攻め込んで来た武田信玄(松平健)に三方ヶ原の合戦で大敗北を喫したのは、いくら相手が戦国最強の軍略家とはいえ、その陽動作戦にあっけなく翻弄された稚拙で無惨な敗退だったし、その信玄が急死(ドラマでは今川寿桂尼の亡霊に呪い殺される)したことで辛うじて助かったようなものだった。長篠の合戦でも援軍のはずの織田に主導権を握られたものの、武田の再侵攻という危機は切り抜けられたのだし、このまま織田信長を中心に天下が治まってくれれば、徳川は織田の同盟者とはいえ事実上の属国に甘んじつつ、それでも三河遠江を支配する一大名くらいにはおさまることが出来たはずだった。あとは将来を嘱望している長男の信康が無事この家を引き継いでくれれば、というくらいにしか、当時の家康は考えていなかっただろう。

その家康が没落した井伊家の嫡子に万千代という名を与え(家康の幼名「竹千代」は徳川家の嫡子の名で、その「千代」を名乗らせた)て小姓としてかわいがり、元服した井伊直政が今川の国衆の子、つまり三河武士の家系ではないのに異例の出世を遂げた(井伊家は三河出身の家臣をさしおいて徳川幕府の譜代筆頭となる)理由のひとつは、青年時代まで今川の人質として駿府で育ち、その洗練された文化教養も身につけていた家康が、家臣の三河武士団とあまりそりが合わなかったのではないかということが挙げられる。その点、虎松(後の万千代、直政)は禅宗の尼僧だった次郎法師・直虎と同様、禅寺に預けられて育っている。

禅宗寺院は中世の日本で最先端の知識や教養が行き交う場であり、禅僧は最高級の知識人として大きな影響力を持っていた。室町幕府の草創期には足利氏が夢窓疎石をブレーンとして重用していたし、室町後期の群雄割拠の時代となると一流の戦国大名は禅の高僧を身近に置き、子弟の教育を任せるのも常だった。孫子の兵法のような軍略も禅宗寺院を通じて学べるものだったし、現に今川義元の参謀だった太源雪斎のように、禅僧が軍師だった例もある。

後には徳川家康も京・南禅寺の以心崇伝を側近とし、崇伝は武家諸法度などの幕府の諸法令を執筆した他、後亀山上皇創建の寺で天皇家とも結びつきが強い南禅寺の往事という立場を活かして京と江戸を行き来して朝廷等との交渉パイプにもなり、また禅僧なので漢文つまり当時の東アジアの国際共通語である中国語も堪能で国際事情にも明るかったことから外交アドバイザーとしても大活躍した。

ちなみに、こういうところも『おんな城主直虎』のよく出来たところで、直虎の師で井伊家の一族の出身で菩提寺の住職でもある南渓がブレーンとなり、寺と僧の身分を活かした情報ネットワークを持っているのも、これまで時代劇ではめったに描かれないが、当時のリアリティだった。

徳川家最大の悲劇をクライマックスに

そんな禅寺で育ち学問も教養もあり、文化的に洗練されていた万千代(直政)は、だから家康にとって先祖代々の家臣である三河衆よりも話が合い、家臣団から孤立しがちだった家康にとって、若くはあってもよき理解者だった。ドラマではその辺りもうまく脚色して、たとえば晩年の家康が薬草マニアの養生マニアになったのは、万千代が禅寺で学んだ薬の知識や、井伊谷から送らせた薬草がきっかけだったという話にしている。だとしたら家康の当時の日本人として異例の長寿も井伊の影響だったという、さすがに出来過ぎた話にはなるのだが。

もうひとつ重要な、象徴的な小道具が碁だろう。領主になった直虎は、今川方を装った小野政次と菩提寺の禅寺で碁盤を挟んで向き合いながら密談を重ねていた。幼少の虎松(後の万千代、井伊直政)も、その政次から碁の手ほどきを受けている。処刑された政次の唯一の形見として直虎に遺されるのも、碁石だった。家康の趣味は敵味方の一人二役で1人で碁を打つことで、その息子の信康もやはり碁をたしなみ、奥向きの書院の縁側に碁盤の目を彫り込んでいて、初対面の万千代を碁に誘う。家康と信康は親子でも2人で碁を楽しんでいる。

後に織田・徳川連合軍が甲斐の武田勝頼を滅ぼすと、家康は信玄が戦国最強を誇った武田家臣団を、処罰したり家を潰したりはせずに家中に受け入れた。その旧武田家臣団を家康に任されたのが直政だった。のちに天下に名を馳せる井伊の赤備えは、元をただせば武田の赤備えである。武田の優れた軍略を受け入れ学ぶことで、徳川家康はやがて「天下無双の戦上手」とまで言われるようになる。

また小姓時代の直政が家康の色小姓、つまり同性愛の愛人だったから出世したと憶測もあり得るし、『おんな城主直虎』ではそこをこれまた複雑な【実は】設定でうまく使っているのは、ややこしくなるので説明は割愛するが、直政は家康の嫡男で溺愛していた信康より少し歳下で、将来を嘱望していたこの我が子の死を命じた、つまり自分で殺してしまった後では、若い直政がいわば息子代わりのような立場にもなり得ただろう。

信康事件はこれまでの通説では、家康が信長に迫られてしぶしぶ我が子の死を命じたと考えられて来たし、「信長公記」などにも信康の不道徳な振る舞いを信長の娘である妻の徳姫が信長に訴え、逆鱗に触れたといった記述があるが、なぜこんなことになったのかの真相は、江戸時代に家康が神格化されてこの事件が完全なタブーになったこと、家康自身もほとんどなにも語らなかったこともあり、実のところよく分かっていない。

家康自身は二代将軍になった秀忠の妻で竹千代・国松兄弟(後の家光と忠長)の母・江与の方には、亡き長男についての忸怩たる思いを、子育ての教訓として伝えている。家康は江与(江、ないし小督・浅井長政の三女)が弟の方の、ハンサムで利発だった国松の方をとくに愛していたことに危惧を感じたのかも知れないが、果たして三代将軍となった家光と忠長の間には後に激しい確執が起こり、忠長の不行跡が幕府の秩序を揺るがせる事態にまで発展した。癇癪を起こして一般庶民を斬り殺してしまったとなれば、家光は弟の死を命じるしかなった。

信康事件について、家康が信長の命に逆らえなかったからという定説をとった場合、不思議といえば不思議なことがある。信康は元服の際に信長を烏帽子親にしてその名の一字の「信」をもらっているし、併せて信長の娘を妻に迎えている。つまり信康はむしろ織田=徳川同盟の要であり、徳川家中でも信長よりの立場だったはずだ。その信康の死を、信長はなぜ命じたのだろう?

徳川信康はなぜ死ななければならなかったのか?

この悲劇の背景として研究者が指摘するのは、信康が徳川は織田との同盟を解消して武田と結ぶべきだという考えを持っていた可能性だ。これまた後代の通俗的な歴史理解では結果を知っているせいで陥りがちな誤解があるのだが、武田勝頼は父・信玄の代からさらに領土を広げた有能な武将だったし、長篠の合戦で多くの重臣を失ったとはいえまだまだ巨大な勢力を維持していた。徳川は依然としてその脅威に晒される一方で、織田に隷属し続ける立場であり、若い信康がそこから脱したくてあえて武田と結ぼうと考えたとしても、確かに不思議ではない。だがそれが信長に伝わってしまえば、謀反を問われ死はまぬがれまい。

だが一方で、遠江の浜松に拠点を移していた家康に対し、尾張と国境を接する三河の岡崎城を預かった信康はますます織田・徳川同盟の要になっていたはずだ。父・家康が信長の言いなりになっていることに若い信康が不満を持ち、織田・徳川同盟を解消して武田と結ぼうとしていたというのも、その意味では意外でもあるし、だからこそドラマ的にはより複雑な【実は】解釈ができるところだ。

また信康とその母が、家康が今川から独立した当初から、三河家臣団に快く思われていなかったことにも、このドラマは触れていた。一時は駿府に残されたままの瀬名と信康が殺されかねない事態にもなって次郎法師もその助命嘆願を試みたし、人質交換でなんとか救い出された母と子が、今度は三河で孤立していた時期もあった。家康が信康が後継者であることを示すために岡崎城の城主とし、自分は浜松に居城を移してからも、家康についた本多・酒井・榊原康政(尾美としのり)らの武功にも長けた家臣たち(この三人と井伊直政が、後に徳川四天王と呼ばれる)と、岡崎城の信康の家臣たちのあいだには確執があり続けたが、そこには信康の母・築山殿(瀬名姫)が今川の出で、酒井忠次ら三河武士団には今川への怨恨が深く、なのに家康が今川氏真を滅ぼさずにむしろ庇護し、家臣に加え特別扱いしていたことへの複雑な感情もあった。家康が信康に家督を譲れば、酒井や本多の三河武士団にとっては恨みの残る「今川の者」に臣従しなければならないことになるのだ。

『おんな城主直虎』では、映画やドラマでは見落とされがちなこの浜松・岡崎の家臣団の確執と、家康がなかなかそこを押さえきれなかったことをこそ、まず丁寧に描写している。武将と家臣は「忠義」の絆で結ばれていたと思うのは江戸時代の儒教の普及以降、とりわけ明治時代の新渡戸稲造の「武士道」などの後付けの理想像でしかない。実際の戦国時代では、主君と家臣は恩賞や所領の安堵など利害関係のいわば「契約」で結ばれたもので、逆に家臣の対立に主家が巻き込まれて親子・兄弟で殺し合うようなことにも追い込まれかねなかった。

そうした家族間の殺し合いが多かったからといって、この時代に家族の愛情が薄かったわけではないし、親殺しや子殺し、兄弟の殺し合いは明らかに宗教的な大罪でもあった。だがそれでも、武田信玄が今川氏を攻略する際にまず今川の娘を妻としていた長男に謀反内通の濡れ衣を着せて自害させたことがこのドラマでも大きく描かれていたように、地獄魔道に落ちるとしても野心のために家族を殺す者もいた一方で、政治的な必要性でそうせざるを得ない場合も少なくなかった。例えば伊達政宗が弟の小次郎を殺害したのもまず家中の反対を押し切り秀吉に臣従しなければ滅ぼされる危険が高かった中でのやむを得ない決断だったし、しかも真偽のほどは分からないものの、小次郎は密かに出家して天寿をまっとうした、と示す記録と位牌が残っていたりする。

織田と徳川の、その実恐怖でこそ結びついていた同盟関係

信康がその育ちと血統(「今川の者」)ゆえに古参の三河家臣団と微妙な関係にあったなかで、家康の側室に息子の長丸(後の徳川秀忠)が産まれてしまうと、家康との愛し合う父子の絆があっても、家臣団からみれば信康がいなくなっても跡取りはいる(しかも信康のような「今川の者」ではない)という考えが出て来てもおかしくはない。そうした複雑な事情の積み重ねが複合的に信康の死に至ったとも言えそうだが、最近の研究ではさらに驚くことに、どうも信長から家康に信康を殺せと直接命じたことはなかったらしいという指摘も出て来ている。

『おんな城主直虎』が真のクライマックスとも言える信康事件(なにしろ伏線は最初から組み込まれていた)についてとっている解釈は、こうした複雑な諸事情を網羅しつつ、通説の信長に命じられた説を主軸にしているが、その展開にも苛烈極まりない意外性が組み込まれている。

信長はまず浜松と岡崎の軋轢と、長丸の誕生で信康の立場が微妙になったことに目を付け、信康を自分の側に取り込む動きを見せる。信長が自分に父に対する謀反を起こさせようとしかねないと見抜いた信康が、信長の申し出を「心配して下さるお気持ちだけで十分にありがたい」と丁寧に断ると、とたんに信長は手のひらを返したように、安土城を訪れた酒井忠次に、信康が武田と通じていると断言し、その証拠に新しい側室が武田の旧臣の娘ではないかと問いつめるのだ。その側室というのは、長丸の誕生に危機感を抱いた母・瀬名が、信康にたぶんに無理強いしたものだった。信康に男子が産まれれば、徳川の家はその血統で継承されると瀬名が考えたことが、完全に裏目に出てしまったかっこうである。

忠次は信長に反論できないままに信康処断の件を浜松に持ち帰り、家康を激怒させると、逆に本音をもらしてしまう。「今川の者」である築山殿と信康は自分達にとって好ましい存在ではなく(家康がこの前に今川氏真を諏訪山城主にしたことも、忠次たちはおもしく思っていなかった)、跡取りならば長丸もいるのだし、むしろ厄介払いになるではないか。それに織田の意向に逆らうことは徳川には出来ないのだから、素直に従った方が家のためではないのか。

信長の動きは自分への忠誠度を試してみて、100%服従するのでなければ見限るという冷酷な計算であるようにも、結局は「鬼神・魔王」のただの気まぐれにも見える。家康の小姓として一部始終を傍観する万千代にとってはショッキングなことだが、いずれにせよ徳川にとって織田への配慮忖度は欠かせず、理不尽な要求でも断るのはもっての他だと言う空気が、岡崎以上に浜松をこそ支配している。三人の重臣のうちもっとも知的で冷静に見えた榊原康政ですら、この事態には思考停止してしまう。こうして結局は「とにかく織田には逆らえない」というだけで、万千代にとっては主君・家康の最愛の息子で、自分も好感を持ち慕いはじめていた信康が、殺されなければならなくなるのだ。

定説に依拠しつつ、信康の武田内通説は信長の言いがかりであり濡れ衣という形で使った脚本の巧妙さは見事だ。内通説や、さらには家臣団内の確執も取り込むことで、むしろその定説の残酷さを最大限に引き立てて、最愛の我が子を殺さねばならない家康の悲劇を際立たせつつ、その家康のこの時点での限界と情けなさまでしっかりと明示している。

またこれは作り手も意図せざるまったくの偶然に違いないにせよ、結果としてこの織田=徳川の関係は、ちょうどこの回の放映と時期が重なったトランプ米大統領のアジア訪問と日米関係の痛烈なメタファーにも見えてしまう。魔王・信長の気まぐれに翻弄されて思考停止に陥り、嫡子の命まで生け贄に差し出す徳川の悲惨は、ひたすら対米従属に徹したゴルフや高級鉄板焼きの「おもてなし」だけで、首脳会談になんの成果もなかったのに、それでも安倍政権の支持率が上がってしまう現代の日本や、続いて韓国と中国を訪れた現代の魔王トランプの一挙手一投足に一喜一憂しているこの国のメディアのあり様を、つい想起させてしまう。

それに織田には逆らえないのは悔しいと口では言っておきながら、まんまと自分には利益になるように動いて信康と築山殿(瀬名)の排除を成功させた、この酒井忠次の姑息さはどうだろう? 同じようなやり口で「アメリカの機嫌を損ねた」として失脚させられた政治家は現代にもいるし、沖縄の反基地運動にしても「アメリカには逆らえない」としてそれを押さえ込むことで、自分達の沖縄に対する差別意識の優越感を満足させていることはないだろうか?

徳川を織田に守ってもらっているという関係は、裏返せば徳川は織田にいつでも滅ぼされるという恐怖を、勇猛果敢なはずの三河武士団に刷り込んでもいた。日米安保が日本外交の要というのも、裏返せば戦後の日本人にとってそういうことでしかない。もっとも尾張が魔王・信長の意のままにしか動かないのと違って、アメリカ合衆国が大統領の気まぐれでどこかの国を滅ぼすなどということは、その相手が北朝鮮だろうが日本だろうが、現代の政治システムでは絶対にあり得ないし、市川海老蔵演ずる織田信長の気まぐれだからこそまだ見るからに鬼神・魔王のそれと見えてしまって恐れおののくしかないとしても、ドナルド・トランプはどうかといえば、せいぜいが道化師にしか見えないのだが。

我が子を殺すという悲劇を超えて

信康を殺さざるを得なかったことで、家康が抱いていたであろう比較的慎ましい徳川の将来像が、根底から崩れ去ったのは確かだろう。信長が天下を治めることになるとしても、それで家康が期待していたであろう戦国の次の、新しい時代が来るわけではないのだ。

同じような不安は、この2年ほど後には織田家臣団の多くが抱くことにもなる。そして3年後には明智光秀が京・本能寺で信長を討つことになるのだが、もし光秀がやらなければ誰か他の家臣がやっていてもおかしくなかった。

鬼神、魔王の織田信長は、あろうことか日本仏教の最大権威・比叡山延暦寺を始めとする琵琶湖沿岸に多々あった天台宗寺院を次々と破壊し、しかもそれだけでは飽き足らずにもうひとつの最高の霊場である真言宗の至聖地・高野山の襲撃も計画していた。当時の日本人の感覚ではさすがにあり得ない罰当たりな暴挙だ。浄土真宗は庶民の信仰が厚く戦国時代には武装もした一大勢力になり、家康も今川から独立してまもない頃に三河一向一揆に苦しめられたことがあったが、信長の場合はそうした庶民が武家の横暴が乱世を招いていることへの叛乱でもある浄土真宗との対決でも、容赦なく虐殺を繰り返した。

血も凍るような残虐行為も、戦国乱世での生き残りのためには、見せしめ的にそれを誇示するメリットもあっただろう。再び伊達政宗の例だが、残虐で冷酷な戦いを繰り返したことを叔父宛の書簡で述べているのは、どうも母の実家ではあっても脅威であった最上氏への威嚇が目的で相当に誇張されていて、実際にはそんなことはやっていなかったらしい。

だが信長の場合は違った。家康に息子を殺せと迫ったような横暴は直接の家臣にも向かい始め、難癖をつけて改易したり殺したりして露骨に自分の息子たちに権力を集中させようという意思が露骨になって来たのが、晩年の信長だった。現代の我々は後代に美化された「武勇」とか「忠義」の「戦国時代」を見ようとするから、光秀の謀反の動機が「謎」に見えるだけで、当時の感覚なら信長はとてもついていけない、自分達もいつ殺されるか分からないような危険過ぎる主君になっていた。光秀が自分とその家臣や仲間を守るためにも、そして天下の安寧のためにも、信長を殺さなければならないと思うだけの、十分な動機はあったのである。

それに光秀のクーデタは、一枚も二枚も上手だった羽柴秀吉に敗れたから、現代から見れば無謀に思えるだけだ。この結果は秀吉がよくも悪くも当時の常識ではまず思いつかない奇手や陰謀を次々と打ち出したからこそであり、光秀に勝算がなかったわけではない。秀吉がいわゆる中国大返しで、あっというまに大軍を引きいて上方に舞い戻って来られるとは誰も考えていなかっただろうし、だいたい本能寺の焼け跡で信長の遺体が見つからなかったのも光秀にとって想定外の事態だった。まして秀吉がその事実をいち早く察知し、信長は生きていて自分に合流するというデマを大々的に流布するなどという展開は、想定外中の想定外だ。

家康が「天下無双の戦上手」とも言われる実力を見せつけることになるのは、信康の死から3年後のこの本能寺の変の際に、少人数の家臣だけを連れて堺にいて、そろって本拠の三河に脱出した「伊賀越え」以降のことで、この時にはいわゆる伊賀忍者も後々まで味方につけることになった。「忍者」と言われた伊賀の衆はこの以前に、天正伊賀の乱で信長の大弾圧に遭っている。家康はこの伊賀の衆を得たことで、かつて武田が誇っていたような情報戦略の手段と、信長軍と互角に戦ったような優れたゲリラ戦能力も使いこなせるようになった。

家康の旗印「厭離穢土・欣求浄土」とは

昨年の『真田丸』でも分かり易く悪役の憎まれ役だった徳川家康は、一般的にはよく知られてもいないし誤解も多い人物だ。戦国時代を終わらせ250年の平和の礎を築いたのだからもっと評価されていておかしくないのだが。

武田信玄と組んで今川氏を滅ぼした遠江・三河攻めでも、家康は信玄の意に反して今川氏真を殺さず、氏真が妻の実家の北条に身を寄せることだけで和睦している。『おんな城主直虎』ではこの時に氏真(尾上松也)と家康の密会を設定し、そこで2人に戦国の厭い殺し合いを嫌う会話をさせていた。氏真はこのシーンで、戦でなく蹴鞠で雌雄を決することができれば人を殺さずに済むのに、と力なく笑う。氏真は桶狭間までは駿府で暮らしていた家康とも幼なじみだった。さらに『おんな城主直虎』があえて取り上げた、あまり知られていなかった史実もある。氏真はのちに徳川軍に参加し、長篠の戦いの後には駿府の対武田最前線になる諏訪山城(牧野城)を与えられた時期もあり、氏真自身はまもなく出家するものの、子孫はその後も徳川家に仕え続けた。

徳川の遠江攻めの前後の井伊家の実情は、小野政次(道好)が井伊家乗っ取りを謀略して徳川に逆らったので処刑されたとされる以外にはよく分かっておらず、『おんな城主直虎』ではその政次が井伊家(というか直虎)を守りきれずに命を落とし、井伊家は井伊谷を失うことになる。

だが直虎は領主の立場を手放すことで逆にその民を守るという奇抜な戦略に出て、井伊谷を乗っ取った近藤重用(橋本じゅん)の家中に逆に入り込むことで「民あってこそ国」「民が安んじてこそ国も安んじる」の理想を実現しようとする。これも実は、後に徳川幕府が諸大名に課した道徳律だ。一揆が起これば悪政で民の不満を招いたとして領主も処罰されたし、島原の乱後には一揆軍に向けて水平方向に銃を発砲することも禁じられた。

後世の、とくに近現代の価値観・歴史観では、戦国の領主たるもの天下を狙う野心があるのは当然とされ、信長、秀吉の後に天下統一を果たした家康は「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」と喩えられて来た。辛抱強く待ち続けた忍耐でついに、というイメージで、人の一生は重い荷物を背負って長い道を云々というのも家康の遺訓だと言われている。だがむろん家康にその野心・野望がまったくなく、完全な無欲であったわけでもあるまいにせよ、しかし天下人になることだけが本当に家康の、最初からの目標だったのだろうか?

徳川家(松平家)は浄土宗の家柄だ。家康は今川からの独立後、その浄土宗の「厭離穢土・欣求浄土」という言葉を旗印とした。本来の意味は欲望に満ち穢れた人間世界よりも阿弥陀浄土への往生を切望する祈りだが、家康は今川義元の討ち死に後に将来を悲観して菩提寺で切腹しようとした時、その住職にこの言葉を授けられたと言われている。武家が私利私欲で殺生を重ねる戦国の世は穢れきっており、だから永遠に平和な浄土を願い求めるなら仏の加護を得て事を成すであろう、今死んではならぬと諭され、以後これを自らの標語とした。

信長・秀吉の両政権と家康の際立った、本質的な違いは、辛抱強く待った(そして当時としては異例の長生きだった)ことではない。2人の先駆者と異なり本当の全国再統一を実現できたのは、天下を手中に納めるかどうかになってからの(いや正確にはそれ以前からの)政策の違いだ。信長は暗殺された時には四国侵攻の直前で、先述の通り一説には高野山焼き討ちも計画していた。秀吉は関東の北条家を屈服させて統一を実現すると、今度は朝鮮半島の侵略に乗り出している。

忠義などの美名ではなく、利害の一致の一種の契約によってこそ成立していた日本中世の武家の主従関係で、臣下は恩賞として所領を与えられるために戦で手柄を立てた。野心的で戦に強い武将には、だからこそ人も集まる。

しかしこのやり方は拡張政策を続ける限りでしか使えず、統一を果たしこれ以上広がる領地がなければ、恩賞になる土地もない。しかも応仁の乱以降の100年余りのあいだに、武家は人殺しのプロとしてこそ能力を高め、その武勇によって賞賛される(=恩賞が増える)立場が定着していた。井伊家の再興を目指す万千代(後の直政)はこの論理を盾に領主の地位を棄てた直虎に反抗し、直虎はそんな考えのままでは家督は譲らない、と言い切る。万千代が言うのは戦国の武家社会では当然の価値観だったが、そのなかに閉じこもったままでは確かに、どんなに信長や秀吉が天下統一を進めても、戦国の次の新しい時代には結び付かない。

信長は与える領土がない時には、千利休に権威づけさせて高値をつけた茶碗を与える、という逃げ道も考えついたのだが、いずれにせよこの手柄の恩賞で領地という発想と価値観を根底から変えない限り、武力統一は成功させたところで、その先が続かない。朝鮮出兵は晩年の秀吉の狂気だと解釈するのが一般的だが、これでさえ戦争を続け領土を拡張しない限りは主従関係が維持できないという限界から来る必然でもあった。

こうして「戦国時代」は終わった

井伊家が井伊谷の支配権を棄てることで、かえってその土地と民を守れるようになるというドラマの中の直虎の発想は、当時の武家ならばまずあり得ない。だが彼女は幼少時に禅寺に入った尼僧であり、だからこその自由な発想で軍事ではなく民生の充実で領主として成功すると同時に、屋敷の奥にこもった御姫様や奥方様ではなく、当時の社会の全階層と付き合って来れたし、戦乱に翻弄され多くの死を見て来たとき、禅の修行というバックグラウンドもあった彼女がこの発想の転換に至ることは、中世の日本でも決してあり得ないことではない。日本はなんと言っても仏教国、当時の日本人は殺生を重ねる武家たちでさえ、それでも敬虔な仏教徒でもあった。武田信玄のように出家しても戦を続けた武将がいる一方で、家督を譲った後で本当に文字通り「出家」つまり家を出て世を棄て仏門に帰依した大名や武将も当時でも確かにいた。このドラマの登場人物では、今川氏真の晩年がそうだった。

直虎が領民の古老(山本學)と水害防止の植林をしながら、この木々が大きくなる時にはここは誰の領地になっているだろう、と会話するシーンがあった。武家の視点では突飛に見えるだろうが、諸行無常の禅宗の発想では当たり前のことであり、農民にとってはリアリティでもある。山も川も、人間の支配者が誰であろうがそこにあり続け、身分制度の厳しい時代ではあっても仏教的にも、また四季の豊かな農業国としても、身分の違いですらちっぽけなものに過ぎない。この直虎と古老の会話の中身もまた、実は後に徳川幕府の基本方針となったものだ。領民こそがその土地の「末代までの者」で、統治者の大名はそれを一時的に預かったかりそめの者でしかない、としたのだ。

フィクションの直虎のような禅問答的大コペルニクス的転換までは至らずとも、戦国を終わらせる発想の転換を確かにやったのが徳川家康だった。天下統一よりも以前に、秀吉の命で関東に国替えになった時から、家康はその巨大化した軍事力を大土木工事の労働力などへと役割を変化させ始めている。

今日でも活きているその功績を言うならば、家康は「戦上手」以上に天才デヴェロッパーとして評価されるべきかも知れない。当時は海辺に茫漠たる湿地帯が広がっていた江戸を、内海で静かな江戸湾(現在の東京湾)に面した交通の便の良さに目をつけ本拠地に選び、住める土地を造成するためには江戸湾に流れ込んでいた利根川の水量がネックだと考え、太平洋に注ぐよう流れを変える大工事を構想したのも家康だ。この利根川東遷によって関東平野では大洪水が起こらなくなった。火山灰地で水の利に不便な武蔵野台地に玉川上水、野火止用水などを整備したのも徳川家だし、都内を流れる神田川なども徳川の造成した人工の川だ。荒涼とした僻地だった関八州は、こうして家康の手で全国有数の穀倉地帯に変貌した。それから400年、つい数年前の鬼怒川の氾濫まで関東では大規模水害がなかったし、東京が今日の規模で発展できたのは、家康の江戸開府に始まったことだった。

秀吉の朝鮮出兵の際に家康は関東に国替えしたばかりで余裕がないという理由で参加を断っているが、これは定説で言われて来たような天下統一の野心で戦力を温存したかった言い訳ではなく、本気でそう思っていたと考えた方が自然ではないか? 関東の大改造計画という大事業で膨大な労働力が必要なときに、それを兵力として提供なぞしたくなかったのは自然なことだ。

それに100年以上続いた戦乱がやっと治まろうとしていた当時の日本が今度は対外侵略戦争というのは、国全体で考えた時におよそ得策ではないし、まして李氏朝鮮だけでなく明にまで攻め入ろうなどという秀吉の野望が地理的に考えるだけでもまったく現実離れしていたことも、教養人だった家康には分かっていたはずだ。果たして朝鮮半島で、秀吉の軍は国内の戦乱では織田信長でさえやらなかったような残虐の限りを尽くし、得たものはなにもなかった。身分の低い出身の秀吉だからこんな当たり前の教養がなかったとまでは言いたくはないが、戦争ではなく土木工事に武家の力を注がせたこと以外に、読書家でもあった家康が臣下に強要したことがもうひとつある。学問だ。書籍が大量に必要になるので、日本初というか東洋の漢字文化でほぼ初の、印刷用の活字まで作らせている。

史実の井伊次郎法師直虎・最後に名乗った名では祐圓尼は、本能寺の変の約3ヶ月後、家康と直政が無事本能寺の変の危機から伊賀越えで脱したのを見届けて亡くなっている。この大河ドラマが時代をどこまで描くのかも、未だに先が見えないのも連続ドラマとして目が離せないところだが、愛する息子を自ら殺さざるを得ない悲劇に追いつめられようとしている家康と、その傍らであまりに残酷な現実を目撃しているまだまだ未熟な万千代(後の井伊直政)が、この絶望を乗り越えるために必要なのは、ドラマの中では直虎が井伊谷でやり遂げたことの意味を理解することなのだろう。

もちろん実際の歴史では、このフィクションの次郎法師=井伊直虎がいたわけではない。

史実の家康が戦国時代を終わらせる意思を持ち、その手段を考え始める決定的なきっかけが、恐らくは信康事件だった。この陰惨過ぎる悲劇もまた「リアル戦国時代」の重要な一例であり、だからこそこんな時代は終わらせなければいけない。だからこそこの大河ドラマは家康の正妻・瀬名の母が井伊家の出身という「井伊家伝」に書かれていた設定を活かし、信虎と瀬名を親しい関係とすることで、家康が最愛の我が子を殺すことになる運命を、ほぼ最初から大々的な伏線として組み込んでいたのだ。

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