ホロコースト600万人と言われるユダヤ人の死者達は、ただ「殺された」だけではない。あえて「神話」として見せられる、死ではなく生き残りの歴史-東京フィルメックス映画祭『ツィリ』映画評 by 藤原敏史・監督

森のなかを、はだけた服の若い女がなにかから逃げるように駆け出して来て、右往左往して、立ち尽くす。飛行機の爆音が響くなか、怯え切ったまま死んでしまうかと思われた彼女はしかし、やがて食べられる木の実を見つけて夢中に口にし、木の枝を集めて自分の寝場所を作る。台詞も言葉も一切なく、ただ森の風の音、鳥の声が空間を満たし、そこに砲声や銃声が響いて来ることだけが、戦争が起きていることを示す。

むろんアモス・ギタイの最新作を見に来る観客のほとんどは、このイスラエルの映画作家が初めてホロコーストの歴史それ自体と向き合う作品に挑んだことを前情報として知っているだろう。だが冒頭から15分以上、言語化され得る説明は一切なく、背景や設定は一切触れられず、彼女が誰で、なぜ森に逃げ込んで生きているのかも分からないまま、ただ生きている、生きねばならないその姿を執拗に見せ続けることは、我々にいったん、これがホロコースト映画だという前提を忘れさせる。
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映画は時に、しょせん人間でしかないその作家自身をも、超越しなければならない

映画が見られる理想の条件が、なんの先入観もなくその作品の世界観に入り込み、あるがままに写っているものを見ることなのであればいっそうのこと、この映画の物語を認識する順番は、「ホロコーストがあり、ユダヤ人がこんなひどい目に遭った」とは真逆になるはずだ。「まずそこに人がいて、その人たちにホロコーストが起こった」、そういえば同じように背景設定の情報をあえて冒頭で無効化する構成を、ギタイは1948年の戦争(イスラエルにとっては独立戦争、パレスティナ人にとっては故郷喪失の「大災厄(ナクバ)」)を描いた『ケドマ』(2002年)でもやっていたが、主人公たちがホロコーストを生き延びたユダヤ人であることを伝える前に、まず彼らをただ、人として見るよう強いるそのやり方は、ほぼ同じ時代に再び戻ったこの『ツィリ』では、さらに徹底している。

ギタイが時にこのように、映画の叙述・情報伝達を徹底的に純化させて、まずは「ただ見る」ことに慣れるよう観客に迫るのは、彼がイスラエルのユダヤ人映画作家として必然的に何重にも存在する差別の文脈のなかにある人間を描き続ける宿命を負っているからでもあろう。

ヨーロッパが中心であり歴史を作る主体となる歴史観では、ユダヤは差別される少数者の他者だったが、ギタイの映画では、そのユダヤ人の方が物語を産む主体となると同時に、イスラエルという国になったパレスティナの大地でユダヤ人が主体性を回復したその瞬間、パレスティナ人がその大地の歴史の主体であることを奪われたのだ。映画はまず、その俗世の人間社会の悪しき文脈理解・世界の把握の意識の構造そのものから、自由にならなければならない。そのことで、映画は一般的な世界や社会、政治の見方とは本質的に異なった視点で状況を考え直すことを可能にする。言い換えれば、映画作品は時に、しょせん人間でしかないその作家自身をも、超越しなければならないのだ。『ツィリ』もまた、そういう困難に挑んだ映画だ。

砲声が響く中、少女はひたすら「生きる」ことにのみ専念する

アーロン・アッペルフェルトのホロコースト小説『ツィリ』には、さらに別の差別にまつわる次元が、組み込まれている。一般的な客観叙述で言うのなら、主人公の少女ツィリは現代の精神医学の用語でいえば「知的障害を伴う自閉症」ないしそれに類する自閉スペクトラム障害(発達障害)と分類されるのだろう。だがアッペルフェルトは、周囲や家族が主体となって、彼らから彼女が「知恵おくれ」とみなされていたという順番の書き方よりも、逆に彼女の主体からその身に起こり続けることを描写していた。ギタイによる映画化はさらに、映画が言語から自由な情報伝達手段であり得ることに徹し、いわゆる一般人ないしマジョリティの言語化された理解の文脈で、この設定を提示しようとは一切しない。

小説の場合なら読者はそれでも、彼女の視点から見た、彼女が家族から取り残されることになる状況の描写を、「これは実際にはこういうことなのだろう」と自分なりに理解しながら読み進めることになるが、ギタイの映画はそのような理解を観客がすることを、冒頭15分、砲声が響く中で少女がひたすら「生きる」ことにのみ専念する姿を、ただ見せ続けることで、徹底して拒絶する。森にもうひとり、今度は青年が逃げ込んで来て、彼が「君も僕らと同じなのか」と訊ねることで、やっと砲声が響いていたのはここが第二次大戦のヨーロッパのどこかだからであり、青年がマレク(アダム・ツェクマン)と名乗り、「君も僕らと同じなのか」と言う台詞から言葉がイディッシュ語(中部ヨーロッパで広く使われたユダヤ人の言葉)になることで、二人がホロコーストを追われたユダヤ人どうしであると分かる。

ガザ地区からのイスラエルの施政権放棄と入植地撤退を背景とした『撤退』(2007年)以来、ギタイは政治的・歴史的な文脈が強烈にある出来事を映画化しながらも、その通常の理解の文脈をいったん排除する映画文体を鮮明にして来ている。それはいわゆるホロコースト映画というくくりで言えば、例えば『シンドラーのリスト』とこの『ツィリ』の決定的に対象的なもの見方、物語的な主体の置き方にとりわけ極端に現れているし、それは「ホロコーストとはなんだったのか」を考える上でも、重要な意味を持つ視点だろう。
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ホロコーストのもっとも本質的な残虐さは、「自分がなにをするのか」の主体が徹底して奪われたこと

9時間にわたってひたすら歴史的証言を連ねたクロード・ランズマンの記念碑的ドキュメンタリー映画『ショアー』や、『アンネの日記』、フランクルの『夜と霧』などのノンフィクションの当事者による叙述を例外とすれば、ホロコーストが語られるとき、そこで起こる出来事の物語的主体は結局、ドイツ側、抑圧し差別し虐殺した側にならざるを得ない。自分もユダヤ人のスピルバーグがそれでもドイツ人のオスカー・シンドラーが主人公であり主体になる映画を作ったのは、ユダヤ人を救うという主体的行動ならフィクション映画になり得るがその逆は物語構成が困難だからでもあり、つまりとくにフィクションの叙述とは、「誰がなにをしたのか」によって展開する宿命を負っているからなのだ。フィクション映画が「ナチスはこんなひどいことをやった」という語り口しかまずできないのに対し、ユダヤ人の側は基本的に「抑圧され、差別され、殺された」だけで、そこに「彼らがなにをしたのか」はほとんどないどころか、ホロコーストのもっとも本質的な残虐さは、600万人が殺された以上に、「自分がなにをするのか」の主体がユダヤ人から徹底して奪われた、そのことで彼らが人間であることそのものが剥奪された、ということなのだ。

600万人と言われる死者達はただ「殺された」だけではない。「人間であることを奪われ、その上で殺された」のであり、また辛うじて生き延びた人たちを語るにも、本人たちですら口が重くなるのには、人間であることを奪われたなかでの生存の過程で、多くが自分でも決して口にできない行為に手を出してしまったこともある。『ショアー』の続編『ソビボール、1943年10月14日午後4時』では、ソビボール収容所を生き延びて脱走した人物が、その過程で冷酷にドイツ兵を殺したことを証言し、あえて「後悔はしていない」と淡々と言う。「たとえそれが殺人という許されない行為であっても、自分が生存のために主体的になしたこの行為によって、私は初めて人間に戻ることができたのだ」。だがこのショッキングに思える言葉、「ドイツ兵を殺した、加害者を殺した」ことですら、生存者たちが語れるギリギリの限界なのだ。もっと絶対に口にできない辛過ぎる事実は、あまりにも多い。
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『ツィリ』の叙述があくまで主人公の少女主体であるのは、この「ホロコーストとは決して語れないもの」にも深く関わっている。彼女からみれば家族は彼女に家を守るよう託して去って行った、ということになり(「こんなひとりぼっちの女の子にまで手出しはすまい」)、彼女はそれを自ら受け入れて「巨大な怒り」の渦巻く土地に残ったことになる。だが家族から見れば、障害を抱える娘は足手まといになるから敵地のなかに置き去りにした、という決してあがなえない罪を犯していたのだ。アッペルフェルトの小説では冒頭に記されているこのことは、ギタイの映画では最初まったく説明がない。「原作に忠実」かどうかの問題ではなく、映画と文学では叙述のシステムが違うことにギタイは極めて意識的だ(実際、文学作品の映画化で最初は一切言葉がない、というだけでも徹底している)。

自閉症だからホロコーストを生き延びられた少女の物語

考えてみたら恐ろしく不条理で、痛烈な皮肉とさえとれる話だ。ツィリがなぜホロコーストを生き延びることができ、森に迷い込んで彼女と生活を共にすることでマレクもまた生き続けることができるのか? ツィリが我々の視点から言えば「知的障害を伴う自閉症」に分類される…といえばポリティカリー・コレクトには「差別していない」という言い訳になるのだろうが、要するに彼女が「おかしな娘」、いわば「きちがい」「知恵おくれ」であって一般社会ではなかなか生きていけない存在だったからに他ならない。いわゆる一般的な「健常者」は、ホロコーストでなにが起こっているかを「理解」しようとするはずだが、彼女はそんなことは考えず、ただ自分が生きること、マレクが現れてからは二人が生きることにのみ集中する。もし周囲で、世界で起こっていることを「理解」してしまえば、自分たちに向けられた不条理な憎悪と、その世界のなかでの将来を考えるだけでも、人間という生物は生き延びることが困難になったはずだ(この傷の深さは、現代に至るまであまりに語られなさ過ぎていて、そのことが様々な禍根を引き起こしてもいる)。

このシチュエーションの構図だけなら、ホロコーストを逆照射してその残酷な不条理性を浮かび上がらせるのにうってつけの設定にも思えるが、アッペルフェルトの小説と、それ以上にアモス・ギタイの映画化は、そういういわば「歴史的客観性」に基づく「反差別」すら排除して行く。とくに映画の方では、そのためにあえて既存の「映画」という叙述の体系の暗黙の前提すら無視し、物語叙述構造としての映画のルール以前の、映像の物理的な原理への大胆な回帰すら試みるのだ。それは現代の歴史的・政治的・映画史的な文脈における「新しい映画の在り方」の模索であると同時に、そうした文脈をあえて拒否してまでそこから自由になろうとする「先祖帰り」でもあり、だからこそツィリが精神医学という理解の文脈であれば「知的障害を伴う自閉症」とみなされる、その特徴を行動に随所に見せることが重要になっても来るのだろう(そしてそのディテールの描写は、驚異的に精確だ)。

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映画は機械的な原理として、決定的に「発達障害」的だ

なぜなら、未だに使われる「自閉症」という語彙自体が誤解を招くが、それがまったく「自らに閉じている」ことではないからであり、一方で映画からその歴史的に蓄積された物語叙述構造の約束事をはぎ取ったとき、キャメラと映像と、トーキー映画なら録音装置と録音された音の機能とは、その実決定的に「自閉症」的であるからだ。いわゆる健常者なら、ものを見て聞く時に無自覚かつ自動的に注目して認識する情報と認識せず無視することを、生活上の必然に応じて選択している。「自閉症」ないし発達障害の場合はそれが「できない」、ないし「やらない」か「やる度合いが限られている」ないし「やり方が異なっている」が故に、日常生活でいろいろな困難を生じることがある。一方、あくまで機械であるキャメラや録音装置は、人間が操作しない限りはそうした見るべきもの分別や、聞き分けは、できない。ただ機械的に記録するだけだ。

これまで一台のキャメラによる長廻しが特徴的なスタイルだったアモス・ギタイは、この映画では二台の、それぞれにほぼ同じ位置に置かれ続けるキャメラを用いている。一台目は人物が地べたに座ったときの目線よりやや低いポジションで、まだ普通の映画のそれに近いが、もう一台は常に真上から、一台目のキャメラが見せるのと同じ状況を、あたかも機械的に映し出す。むろん映画でありアート作品である以上、構図の端正さ美しさは慎重に配慮され、ただ監視カメラのように漠然と機械的にはなっていないが、とりわけこの真俯瞰キャメラからの映像には、既存の映画がそこに縛られ続けて来た人間的な叙述を超越した感覚があり、かといってヒッチコック映画で効果的に挿入される「神の視点」でもない。

いやヒッチコックの「神の視点」が、最後の審判や人間の救済と断罪を前提とするキリスト教的な意味での「神」であるとするならば、自らは非宗教の無神論者であってもユダヤ人としての論理的・文化的伝統にはだからこそ敏感なギタイにとって、この無機質的で非人格化されたキャメラこそが「神の視点」なのかも知れない。キリスト教とユダヤ教の決定的な違いは、神の概念に前者ではたぶんに人格や人間的心理が付加されていることで、あたかも神が人間的に理解可能であるかのようにみなされがちであるのに対し、ユダヤ教、つまりキリスト教でいうところの「旧約聖書」(ユダヤ人にとってはただ「聖書」であり「トーラー」)の本来では、神は本質的に人間を超越して人間には理解不能、なにを考えているのか分からない世界の存在それ自体の、超越的な論理的原点である。

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近代自然主義からの飛躍、リアリズムをあえて拒絶した自由としての「二人一役」の大胆さ

そういえば原作の『ツィリ』という題名に対し、映画の画面に現れる題名は『The Book of Tsili』、(旧約)聖書における「創世記 The Book of Creation」「出エジプト記 The Book of Exodus」などの「○○記」と同じになっている。ちなみにアモス・ギタイは以前に「エステル記」と「ルツ記」を非宗教的な再解釈で映画化している(『エステル』(1986年)と『ゴーレム さまよえる魂』(1992年))。極めて野心的なことではあるが、聖書をユダヤ民族創生の経緯の記述とみなすなら、現代のユダヤ人がユダヤ人であることについて、ホロコーストは聖書に書かれた古代の民族体験以上に決定的な意味を持っており、この映画は20世紀の歴史におけるいわば聖書的体験としてのホロコーストを記述し叙述するものをこそ、目指しているのかも知れない。

だとすれば、この映画の叙述構造の持つ近代自然主義からの飛躍、リアリズムをあえて拒絶していることの意味も明確になる。そのスタイルはアッペルフェルトの文体を映画的に置き換えるだけでなく、映画が可能にする叙述構造に聖書の本来のテクストの文体を再現しようとする試みとも言えるだろう。二台のキャメラの使用もそうであり、徹底して主人公に寄り添い、主人公が見たものとしてしか世界を見せない一方で、しかしあくまで三人称的で超越的な「客観」にキャメラが徹するだけでなく、ひとりのヒロインをふたりの女優(サラ・アドラー、メシ・オリンスキ)に演じさせ、その仕掛けを一切直接には説明しないどころか、同じ画面にふたりを登場させさえする大胆さにも繋がっているのだろう。

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またひとりのツィリをふたりの女優が演じ、その一方がしばしば自分自身であるもうひとりを見守っているという構造になることは、いわゆる「自閉症」的な感覚でもあり、こと知的障害を伴わない高機能自閉症やアスペルガー、注意障害などがある人間によくある(と彼らが自分で説明できる)自己認識でもある。その意味でも、いわゆる発達障害が「思い込みが激しく空気が読めない」というのはまったくの誤解で、彼らはしばしば、自分が日常生活で障害ゆえになんらかの失敗をすることをちゃんと見てもいるし、その理由を自分で説明もできてしまうのだ(ただだからといって、分かっていてもすぐ補正できるわけでないのが、この障害の難しいところだ)。

旧約聖書的な観点から見せる、ホロコースト体験の民族の歴史

ホロコーストは確かに、現代のユダヤ人のアイデンティティに決定づけている。イスラエル人は必ずしも「ホロコーストがあったからイスラエルが出来た」とは思っていないし、実際シオニズム運動はナチスが登場する40年以上前から始まっているが、だからと言ってヨーロッパでユダヤ人が生きていくのが難しくなったからパレスティナに移民した者が多いのは間違いなく、他国民からはしばしば、それがイスラエル建国の正当化の理由づけとも思われている。

しかしこの映画の題名が『The Book of Tsili』つまり聖書の「エステル記」などの伝統に則ったホロコースト記述としての「ツィリ記」であるとしても、後半でふたりにしてひとりのツィリがホロコーストを生き延びてパレスティナに旅立つのを待つユダヤ人難民たちと行動を共にするからといって、映画がホロコーストを利用してイスラエル建国を正当化しているとみなすことはまったくできない。これはある意味、ペルシャ王朝の下でユダヤ人虐殺が未然に防がれた事件を描く「エステル記」が、ユダヤ人を守った英雄モルデハイでなくあくまでペルシャ王妃となった女性エステルを主人公として書かれ、モルデハイが主導する敵方の虐殺で終わるのにも通じるのかも知れないが、ツィリが出会うことで見せられるホロコースト生存者たち(エレナ・ヤラロヴァ、アンドレイ・カシュカール)には、英雄的な建国に向かう強さなどどこにもない。ツィリとは違ってものごとを人間的に理解可能なレベルで把握しないと生きていけない「普通の人」であった彼らは、ホロコーストという極度に不条理で「普通」には理解不能な体験を経て、完全に打ちひしがれ、哀しみや苦しみや絶望とすら呼べないなにかに囚われ続けたままだ。我々のどの言語にも、この感覚を表現する語彙はないだろう。その意味でもまた、ホロコーストはどんなに報道され歴史書になり、芸術や文学の作品が作られても、それでもやはり語ることが決してできない人類の歴史なのだ。

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ツィリが生存者たちに出会うところから先は、この映画は設定上の舞台である中央ないし東ヨーロッパのどこかではなく、イスラエルで撮影されている。それもイスラエル領であってもパレスティナ人が多く、そこを故郷としながら戻れないパレスティナ人はもっと多いナザレ近郊だ。その風景のなかに、これからパレスティナに向かいイスラエル建国に参加するのであろう生き残りのユダヤ人たちが幽霊のようにたたずみ、ぐるぐるとただ、同じ場所をただ行ったり来たりして彷徨っている、その映像はこのあと、ユダヤ人たちが作った国家イスラエルが産み出し続けているあまりにも大きな禍根を、静かに浮かび上がらせてもいる。

●インフォメーション

『ツィリ』THE BOOK OF TSILI
監督アモス・ギタイ 原作アーロン・アッペルフェルト 脚本アモス・ギタイ マリー=ジョゼ・サンセルム 撮影ギヨラ・ベジャー 出演サラ・アドラー メシ・オリンスキ レア・ケーニッヒ アダム・ツェクマン アンドレイ・カシュカール エレナ・ヤラロヴァ
『ツィリ』東京フィルメックス映画祭2014で上映 www.filmex.net

参考
『ケドマ 戦渦の起原』DVD発売 彩プロ
『撤退』DVD発売 IVC

『ショアー』DVD発売・配給問い合わせ シグロ www.cine.jp
『ソビボール、1943年10月14日午後4時』は『ショアー』DVDに併録

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