文学には文学の言語システム、情報伝達の体系があり、映画の知覚・認識の言語体系はそれと全く異なっている。アゴタ・クリストフの『悪童日記』は文学言語について徹底した実験性を追及しているがゆえに、究極の第二次大戦体験小説として「これが映画になったら凄い」と思わせると同時に、その文体は映画化不可能ともみなされて来た。小説家の到達した文学的なフォルムこそが実は要なのに、映画でこれを表現するフォルムの発見が無理に思えるのは、単に原作が日記の体裁の、主観描写のみで書かれているからだけではない。
主人公の双子は「僕らは本当のことしか書かない」と、父にもらった大きなノート(原題)に記し、その言葉がそのままこの作品になっている。映画、映像なら「本当のこと」つまり現実に見えることは機械的に、光学的・視覚的情報として、そのまま写し出されるが、文学では書いている者の認識したモノが言葉という抽象記号に置き換えられる。たとえば子どもが認識しない、知らなければ理解しない視覚的な記号・象徴は、双子の日記には記述されないだろう。「ユダヤ人」の意味が分からなければ、「ユダヤ人の靴屋」と日記には書かないはずだが、映画ならたとえ二人が見ているものを撮っているだけでも、ユダヤ人特有の服装をしている、たとえばキッパを被っていれば映像ではそれが描写されてしまう。つまり観客は双子が書いたのとは違ったことを見て、異なった情報を認識することになる。
しかも双子は、過酷な戦時下の「小さな町」で生き延びるために自分たちの知覚・認識体系を「訓練」で変えて行く、この二人だけがアゴタ・クリストフの小説を語る主体であり、作品の世界を見て認識する(=体験を観客に伝達する)主体は、彼ら以外にあってはならない。町が空襲に遭う時、双子の一方は耳を塞ぎ、もう一方は目隠しをすることで恐怖の人間的感情を克服する。「見る」と「聴く」というふたつの知覚が分離して体験・認識され、日記に記述される。二人はこのように、「普通」である/「普通」に見えるよう見たり聞いたりすること自体を拒否し、その自分(たち)の見たこと聞いたことしかその大きなノートには書かれてないというのに、それをどう映画の、機械的な直接描写を前提とする映像言語に置き換えられるのか?
その上、この『悪童日記』に始まるアゴタ・クリストフの「三部作」は中欧のどこかが舞台になっているのに、あえてフランス語で書かれている。外国人、フランス語を母語としない作家のフランス語の言語実験には、フランス語の文法的・言語学的な特性を研究し尽くしてその限界を利用した大仕掛けまでが組み込まれている。だからこそ到達した第二次大戦の体験、ヨーロッパ史最大の悪夢の時代の世界の記述を、いったい何語で映画化すればいいのか?
いったいどんな映画的実験を駆使したら、この原作を忠実に映画にすることになるのだろう? 映画でなにが可能なのか? 何度か映画化の話が出ては消えて来たが、クリストフの死後にその祖国ハンガリーで映画化を成し遂げたサース・ヤーノシュ監督は「これでは『悪童日記』の映画化にはなるまい」と誰もが思ったであろうことを、あえてやっている。
まずクリストフがあえてフランス語文学として書いたものを、彼女の母語であるハンガリー語に翻訳したこと。それも含め、戦時下のハンガリーの田舎が実直なリアリズム描写で見せられること。一方で原作の文体からすぐに思いつきそうな様式化やグロテスクな誇張はほぼ排除され、双子たちの知覚・認識の歪みないしズレを直接映像に反映させること、たとえば主観ショットの多用も、現実離れしたスタイルも、あえてやっていない。
原作がある種の「異次元」に属する小説であるのに、映画化の方はあえて、いわば普通の映画であるかのようにも見える形式を採用しているのだ。作品に固有の言語で書かれた小説を普通の小説のように扱い、そこで起こっていることを抽出し、いわば客観描写で脚本に書き直し、それを「普通に」撮影したはずだ、とだけ書くと、監督たちが頭の悪いプロデューサーの常套句「とにかく分かり易い映画にしろ」に従って妥協してしまった(では「分かる」とはどういうことなのか?)、傑出した異形の小説を普通の反戦映画にしてしまったかのようにも、誤解されかねない。
だが実際に映画を見て気づくのは、その真逆だ。サース・ヤーノシュによる映画化は『悪童日記』のほぼ完全な映画化だと言えるし、近年のヨーロッパ映画屈指の傑作でもある。アプローチからすれば原作の物語だけを分かり易くダイジェストした映画になっておかしくないのに、あらすじを引き写した通俗ではまったくなく、アゴタ・クリストフが到達した圧倒的な文学的フォルムが損なわれてもいない。原作のファンの期待を裏切ることはなく、むしろ驚かせるだろうし、原作を知らない観客は、この双子の、過酷な現実のなかで生存するために歪められた世界観で、確かに戦争の時代を追体験することになる。
ミヒャエル・ハネケ監督の『白いリボン』などで知られる名手クリスチャン・ベルガーの撮影で、丹念に映し出される戦時下の、オーストリア国境に近いハンガリーの田舎町の光と影は、どれだけ忠実に再現されていても、しかしやはり原作の通り「小さな町」の光と影であり、布の内張りのゴム長靴をくれる靴屋(双子がただ一度だけ他者の同情とやさしさを受け入れる相手)として、確かにキッパを被ったユダヤ人が写るのに、それは原作の読者のなかには「靴屋ならユダヤ人だろう」と気づく人もいるだろうというレベルでしか、映画を見ている観客には認識されない。大変な抑制の演出力、確かな技術に支えられシンプルさに徹したが故の映画構成力の離れ業であり、小手先の技巧にもハッタリの大仕掛けにも走らない地道な丁寧さの力だ。
『悪童日記』に始まるアゴタ・クリストフの三部作が衝撃の文学的革新となったのは、彼女が選び研ぎすました文学的フォルム、言語表現の形の力強さと同時に、そのフォルムでこそ初めて、第二次大戦下というヨーロッパ史最大の悪夢の時代のなかで人がどう生き延びたのか、その主題を表現できたからでもある。『悪童日記』は現代の、平和で豊かな戦後の視点から見て戦時下の苦難を同情する文学ではまったくなく、過酷な現実のなかで自らを過酷な人間に改造していくことで生き延びる双子を、小説は断罪も否定もせず、かといって読者に共感を要求もしない。双子の書く「本当のこと」にもまた倫理的な価値判断はなく、この映画化はそれを忠実に踏襲している。
その特性はこの小説と映画を評価する言葉を探すのに、とてもチャレンジングな条件を突きつけもする。つまり『悪童日記』の書き手であり物語の唯一の語り手、その世界を見ている視点である双子は、知覚・認識の根本的からして、その感性が戦争で「歪められている」ないし「歪んでいる」と説明する以外にないのだが、それを「歪み」と捉える我々の価値判断を伴う主観の枠組み自体が、実は誤っているし、そう言ってしまった瞬間にこの小説の体験は無意味になる。だからこそサース・ヤーノシュ監督は、いわゆる普通の映画言語での映画化を試みたのではないか?
彼らの知覚・認識・感性を「歪み」と称するときに比較対象となるはずの「正常」の基準自体が、ホロコーストの時代には存在し得ないのだ。彼らの独特の視点と語る主体に対し、なにかを「正常」とみなしてそこと比較すること自体が、「平和」にみえる「現代」から見た主観的独断、今風にいえば「上から目線」でしかあり得ず、その歴史を回顧する際の既存の意識の構造自体をこそ、クリストフの独特の文体は覆してみせた。そのフォルムこそが『悪童日記』の命であり、小説が「伝えること」つまりテーマ性や内容は、物語的あらすじではなく文体、フォルムのなかにこそ内在している。それは本来、ただ外形的な物語的事実やあらすじをどんなに忠実に踏まえても、映画に移し替えることができないもののはずだ。
いわゆる「現代の価値観で過去を判断してはいけない」という、実際にはほとんど誰も守ることのないルールを、この小説はやり遂げているし、その点においてこそ、サース・ヤーノシュによる映画化は極端なまでに原作に忠実だ。普通に写真的に写し取られたハンガリーの田舎でありながら、この映画は双子以外の視点・知覚体系で観客がそこを見ることを、あくまで普通の、小細工のないストレートな写真的叙述としての映画のフォルムの範疇で可能な緻密なキャメラワークの計算で、明晰に拒絶している。
戦争の時代をどう生き延びたのか、その精神の在り方に忠実に時代を描写することであの時代を考察する文学には、他にもユダヤ人のハンガリー語作家でノーベル文学賞をとったケルテース・イムレの『運命なき人』、それにイスラエルのヘブライ語作家アーロン・アップルフェルトの『ツィリ』が挙げられるだろう。『悪童日記』が実は間接的にホロコースト小説に他ならないのに対し、この二冊はホロコースト体験そのものを小説にしている。
ケルテースの主人公の少年(作者の分身であろう)は、なにも感じない、自分の利益以外は考えないことでホロコーストを生き延びる。親が連行されても、ナチスに迫害されても、強制収容所でも、なにも思わず、哀しみすらしない。ただ現実を見て、自分がその場その場でどうやったら生きられるかしか考えないのだ。『ツィリ』はヒロインがいわゆる「知恵おくれ」(恐らくは自閉症)で、ウクライナ西部を舞台にすると思われるが、ツィリの主観に寄り添う文体ではその言及すら直接にはない。ツィリはナチス・ドイツの侵略も、政治的激変などの社会情勢も、家族が逮捕され強制連行されたことも、そもそもそういう社会的な意味で理解しておらず、だからほとんどすべてのセンテンスが「ツィリは」が主語である小説にも、そうは描写されない。
だからこそ彼らは生き延びられたのだ、とこれらの文学は寡黙に、頑固に、なにも訴えない、説明しないことによってこそ主張しているのだ。徹底して非人間的な時代に、「人間」のままでは生き延びることは出来なかった。その「被害」(受け身)ではなく「生存」(主体的選択)の体験を忠実に、徹底して「見ない、感じない、考えない、意味付けをしない」主人公達の主体で描写することで、これらの文学は「弱者」「虐げられた者」を無自覚に下位に見た「同情」でホロコーストを理解しようとして来た既存の、通俗的で、その実差別的でもある文脈を決然と否定している。
ホロコーストを悲劇として糾弾断罪する前に、まず「ある人間に起こったこと」として捉えようとしているとも言えるだろう。いわば『シンドラーのリスト』的なホロコースト理解の対極を形成する。『悪童日記』の双子、『運命なき人』の少年、そしてツィリは、ただ決然と、それぞれに子どもであるのに(いや、子どもだからこそ)、我々大人の視点では見上げる他にない壁のように屹立して、頑固に、頑強に、微動だにせず、我々現代の大人を前に立ちふさがる。
折しもアップルフェルトの『ツィリ』もアモス・ギタイによって映画化され、今年のヴェネチア映画祭で上映された。そこでギタイ監督は「直接の政治性よりもフォルムの問題の方が、現代の映画では実は重要だ」と語っていた。知的障害を伴う自閉症…と言うように、いわゆる「健常」との比較相対性によってしかツィリのような少女(あるいは、『悪童日記』の双子もそうかも知れない)の精神状態を説明する言語を、我々は持ち得ていないのだが、このような、いわば他者的な視点と主体から語られる物語を、我々が「正常」「健常」とみなす叙述との相対比較を拒否しつつ、どう映像化し得るのか?映画『ツィリ』は映画の『悪童日記』とはまた異なったアプローチを試みている、また別の「世界をどう見るのか」の実験にチャレンジしているに違いない。映画のフォルムとは作り手が自由気ままに「創造」するものでなく、世界とそれを見る視点のあいだに、映画作家が見いだすものなのだ。
「世界をどう見るのか」は「観客にどう見せるのか」でもあり、観客が世界をどう見るのかの映画のフォルムの方が、語られる/見せられる情報から導き出される政治的、社会的ないし倫理的結論よりも、実は現代の世界ではより根源的な危機にある。だからこそ、その既存の通俗化された映像の理解にチャレンジする映画が作られることが重要であり、今こそ必要である理由は明確だろう。『ツィリ』の映画化がパレスティナ人の多く住むガラリヤでわざわざ撮影されていることでも、その必然は裏付けられている。
ホロコーストならホロコーストについて通俗化された視点と見せ方で伝えることは、戦後そろそろ70年の間さんざん行われて来たし、同じ方法論が他の紛争や悲惨の描写に援用されて来たが、安易な感情論にスリ替えられる以外にさしたる意味や効果を持って来たとは、とても言えないだろう。ホロコーストならホロコーストについての我々の政治的・倫理的立場を既定しているのは、実はそれがどう語られ、どう見せられて来たかの枠組みにこそ左右されて来た。
『悪童日記』で双子は「小さな町」の教会の神父のある秘密を握る。その二人をなだめようと、神父は「読み書きはできるんだね。ならば神様について書いたきれいな絵のある本をあげよう」と籠絡を試みる。二人は聖書を読んでいるから要らない、と応える。神父「なら十戒も知っているね」。「知っています。誰も守っていない」。
通俗的な「きれいな絵」の安易で飲み込み易い虚飾で、本質をぼやかすこと。ホロコーストについても今までの叙述のもたらしたものが決して、本来なら導き出されて然るべきだった歴史の教訓として生かされていないことは、今の世界の現状を見ればもはや明らかだと言わざるを得まい。十戒を「誰も守っていない」、「殺してはならない」と書かれているのに戦争があることは直裁に言ってしまえば誰も否定のしようもないが、大人の言葉の「きれいな絵」、偽りのレトリックは、双子がはっきり見抜いているその真実を曖昧にしようと試みるだろう。逆に言えば、我々は未だにホロコーストについてすら(あるいは日本人であれば、原爆の被害、南京事件や慰安婦の加害ですら)、現代の、我々自身の人としての在り方において意味がある「伝え方」そして「考え方」のフォルムに到達していないのであり、結果としてその記録や記憶が現代において活かされているとはおよそ言えないどころか、むしろ美辞麗句のセンチメンタリズムでくるみ、学ぶことを忌避し、忘却を選んで退化退行に逃げ込んでいる。
『悪童日記』にせよ『ツィリ』にせよ、それが現代に読まれたり映画化されることの意味は、決して過去の回顧のためではない。人類がこの地球上に存続し得るに値するかどうかが問われる現代にこそ、そういった生存者の主体による新しい語り方/見せ方が必要なのだ。それは過去を見るだけでなく、現代を見る我々の眼差しに本当の主体性を回復させるための、不断の試みでもある。
2013年、ハンガリー=ドイツ合作/監督サース・ヤーノシュ 脚本セーケル・アンドラーシュ、サース・ヤーノシュ 撮影クリスチャン・ベルガー
10月3日よりTOHOシネマズ・シャンテ、新宿シネマカリテ他、全国順次ロードショー
www.akudou-movie.com
アゴタ・クリストフ『悪童日記』堀茂樹訳 早川書房刊、ハヤカワepi文庫
アモス・ギタイ監督作品『ツィリ』は東京フィルメックス2014で上映予定
www.filmex.net
France10は皆様の御寄付によって支えられています。
コメントを残す