ガザ大量殺戮を前に語られぬこと、語りえぬこと-パレスティナ=イスラエル原論 by 藤原敏史・監督

イスラエルは2006年にガザから完全撤退

ガザ地区にイスラエル軍が攻撃を始めて数週間になるが、そのイスラエルが2006年にはガザから完全に撤退していることは、なぜか報道などで当然であるはずの前提になっていない。

今回の空襲でも市街地で相当な数の一般市民が「コラテラル・ダメージ」で犠牲になっているのだし、抗議のデモが起こるのも当然ではあろう。「コラテラル・ダメージ」つまりやむを得ない巻き添えの犠牲と言いながら、その犠牲者を出来るだけ多く作り出すように、あえて敵対組織のリーダー等が都市にいる時を狙うのは、イスラエル国防軍が2001年から2006年頃までの第二次インティファーダへの対抗でよく用いた心理戦術だ。当時はイスラエルの占領に対する抵抗運動は民衆の支持を得てこそ成立もしていて、だから一般市民向けの威圧・恫喝の効果を狙った作戦だったと推察される。

だが現在のガザからイスラエル領内に攻撃を加えるハマスは民主的に選ばれたわけでもなく、民衆の支持を得ているわけでもく、その主流を握るのはパレスティナ人よりもイスラム諸国からのいわゆるムジャヒディン義勇兵が多いと言われる。つまり今のイスラエル国防軍(以下IDF)がいわば「昔のやり方」をやっていることには、もはや戦略的有効性すら見込めず、ただ対立するハマスとイスラエルの板挟みになったパレスティナ人の不条理な死や犠牲への怒りと恨み、結局は自分達が人間扱いされず命すら軽んじられている差別への絶望が募るだけであり、IDFがこれを軍隊ならではの慣習でなんとなくルーティーン通りにやってしまっているのだとしたら、ますますもって止めなければならないのは、まったくその通りだ。

だがとはいえ、そうしたデモの抗議の内容を見ると、「そんなこと言ったら逆効果なのに」とも思わざるを得ない。「イスラエルはパレスティナの占領を止めろ」がメインのかけ声に…だがそれなら上記の通り、ガザの施政権をイスラエルはとっくの昔に手放しているのだ。

ここで「パレスティナ」と言う時に、デモの人たちは具体的にどこの土地を指して言っているのだろう?それもはっきりせずに抗議したところで、まず「何も知らないくせに」と思われ、相手にされまい。

ガザと異なり、ヨルダン側西岸のパレスティナ自治区は未だに随所にユダヤ入植地があり、その保護防衛を名目にIDFが駐留し、半ば以上占領状態にある。その占領を止めるべきというのなら、それもまたその通りだが、ガザには最早当てはまらない。

イスラエル西岸地域は巨大な分離壁で区切られている

その入植地を除く西岸地域は、俗に「シャロンの壁」と呼ばれる巨大な分離壁で区切られている。「結果からすれば壁の建設はよいことだった」とイスラエルのインテリだったり左派、反戦派だったりパレスティナ独立を支持して来たはずの人に言われると、一瞬鼻白んでしまう。彼らは数年前、壁に反対していたはずだ。だが理由を聞くと納得せざるを得ない。確かに2002年頃から2006年頃にかけて、イスラエル各地では自爆攻撃事件が相次いだ。僕自身、2002年にはテルアヴィヴで滞在中に行きつけだったカフェが目の前で爆破されたことがある。それが一切なくなったのだから、壁はそれなりに役に立ったことになる。

だがその壁はパレスティナ人にとっては実生活の大きな障害であり、それ以上に心理的な圧力にもなり、長期的に見てイスラエルにとって良かったと言えるのかどうかは分からない。あまりいいことだとはどうしても思えないのは、東北の被災地に20mの津波を防ぐための堤防を作ろうという話についてと同じ感覚が頭をよぎるからだ。もっとも分かり易い解決策に見えるものはその実単純化された安易な拒絶反応に過ぎず、現実の世界に私たちが関わっていることの複雑さをもっとも無視したやり方になり、いずれ思いも寄らぬしっぺ返しを導くことになるだろう。

思いも寄らぬ展開でしっぺ返しを食らうこと、これはパレスティナとイスラエルの葛藤の歴史であまりにもしょっちゅう起こって来たことだ。和平のために有効だと思えた動きが逆に抗争の激化につながり(たとえばイスラエルがガザから撤退しなければ、ハマスがそこを完全支配することはなかったろう)、一方がこれは自分の側に有利だと思ったことで大きな痛手を負う、そんな想定外の繰り返しがイスラエルとパレスティナの歴史であり続けている。

イスラエル人にとってシオニズムはとっくに死んだ理想主義

話を戻せば「イスラエルはパレスティナの占領を止めろ」という抗議は、喩えて言えばこのシャロンの壁のようなものだ。実はそうしたデモはイスラエル側になにかを訴えるためでなく、イスラエル側と自分達抗議者のあいだに壁を作るために言葉を発している。少なくとも、そうした壁として以外に、こうした言葉は機能し得ない。そしてこうした拒絶と無視の壁は、必ず作った側の思いもよらないしっぺ返しを引き起こす。

いやこの場合は、本来なら十分に想定できるはずだ。「パレスティナというが具体的にどのパレスティナだ?ガザならとっくに撤退している」と思われるということは「ああ、彼らは何も知らずに勝手な感情論を語っている、我々を敵視する理由を探しているだけなのだ」という感慨しか、イスラエル人には(反戦派、パレスティナ独立支持派で反リクード、それこそ極左で急進和平派のメレーツの党員であっても)呼び起こさない。

「シオニズム」という思想をあたかもナチズムのように攻撃するのも同様だ。イスラエル人にとってシオニズムはとっくに死んだ理想主義であり、勝ちはしたが損害も大きくなにも得ることのなかった第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争)の倦怠を経て、1980年代ともなればポスト・シオニズム世代であり、今でもシオニストと呼べそうな政治家といえばシモン・ペレス大統領とか極左政党のメレーツくらいしか思い当たらない。元の意味からすれば、シオニズムを認めていなかった宗教勢力と結びつきを強める右派リクード等の与党は、むしろ反シオニズムの政党だ。いやではシオニズムとはなにか、という定義問題になってくると本来の意味でのシオニズムと、イスラエル批判の政治的プロパガンダで悪魔視されて来たシオニズムには、マルクスとスターリニズムくらいの極端な違いがあるのだが、長くなるのでここでの説明は割愛する。

ただシオニズムがほぼ宗教否定、と言っていいくらいの世俗理念であり、社会主義の影響の強い近代的な民族主義であることくらいは言っておこう。そうでないとイスラエルとパレスティナの争いが「宗教戦争だから根が深い」などという、その実人種差別であり宗教差別でしかない誤解を増長させてしまうことになる。シオニズムはユダヤ人の定義を宗教と切り離した近代的なものに読み替える思想であり、その思想はアラブ諸国にも大きな影響を与えた。今ではサダム・フセインがイラクを支配した党の名前くらいしか思い起こさない「バース党」はイスラエル建国を受けてアラブ世界の各国で起こった民主化を求める民族主義運動であり、イスラム教の影響を排除した世俗主義でアラブの民族主義を再定義するその根幹に、シオニズムの明らかな影響が見られる。

民族のベースとなるのは言語・歴史文化・国土とする土地

近代的な民族主義、つまり民族は宗教や血統ではなく民族アイデンティティによって定義され、そのベースとなるのは民族の言語、民族の歴史文化、そして民族が国土とする土地である。シオニズムはそのためにヘブライ語を現代語として復活させ、イスラエル国家の建設を目標に、民族の故郷であるパレスティナに移民を開始したのが、19世紀の末のことだ。宗教との決別がユダヤ人にとってより重要だったのは、メシア(救世主)信仰を否定しなければならなかったからでもある。それまでのユダヤ教では、神がメシアを遣わし、そのメシアに導かれてでない限り、パレスティナへの帰還は認められなかったのだ。世界各地で少数民族として差別と抑圧に絶え、自分たちの運命を自分で左右できない立場に置かれたユダヤ人たちの命運の、最後の希望を決めるのもユダヤ人たち自身ではなく、神だった。シオニズムとはその自己決定権を自分達の手に取り戻す運動であり、だから自分達の意思決定でパレスティナへの「帰還」を開始したのだ。

というわけで、再び「パレスティナ」という地名の定義の話に戻る。地理的概念では現代のイスラエルがある地域は「パレスティナ」であり、ユダヤ人がそこに「帰還」して作られたユダヤ人国家がイスラエルであって、これは厳密には国家概念であって地理概念ではなく、地理的な領域が完全に確定したわけでもない。

そしてパレスティナなんだからパレスティナ人の土地のはずだ、というのも正しくはない。今日パレスティナ人と呼ばれるのはここにだいたい千年くらい前から住み、次第に多数派となったアラブ人のことであり、イスラエル建国以前の民族としての定義はアラブ人であった一方で、パレスティナという地名自体は聖書に出て来る「ペリシテ人の土地」という意味だ。そのペリシテ人は考古学的な正体が未だに分かっていないが、とにかくペリシテ人やカナン人という民族も聖書によればここに住んでいたことになるし、そこに古代にユダヤ人の国ができ、王国になり、バビロニア帝国やペルシャ帝国に征服され、ユダヤ王国の知識人階級がバビロンに捕虜として連行された時期に現在の聖書の原型が確立し、その後はアレクサンドロス大王の大帝国の一部、やがてローマ帝国の支配下にある時にユダヤ人が反乱を起こしエルサレムに立て篭ったのが紀元70年、このユダヤ反乱の鎮圧の結果、ユダヤ人が地中海世界全体に離散した。19世紀にはその分布はロシアどころか極東の満州や、アメリカ大陸にも及び、という民族の歴史の一方で、土地の歴史の方ではその後も様々な民族が支配したり居住したりし続けた民族移動の十字路が、かつて「ペリシテ人の土地」と呼ばれた場所、パレスティナである。第一次大戦までは長らくオスマン・トルコ支配下にあり、アラブ人を中心にユダヤ人も含む様々な民族がエルサレムを中心に居住し、トルコがこの戦争の敗戦国であったため戦後はイギリスが委任統治し、第二次大戦後に国連決議を経てイスラエルが建国される。

「パレスティナの占領を止めろ」はだから、「パレスティナ」の定義によっては、恐ろしい過激思想にも聴こえる。無論それが現代のパレスティナ自治区であり1995年の合意によって将来パレスティナ国家の領域となる地域を指すのなら、正当な主張でありイスラエルは耳を傾けなければならない。イスラエル自身が署名していて今も有効で、それ以降はイスラエル国家自身の正当性を担保する合意に反することなのだから是正すべき、というまっとうな主張だからだ。

だが地理的な概念としてのパレスティナを指すのなら、それはイスラエルとその国民の生存権自体を否定に他ならない。ガザを現在支配するハマス政府が公的には主張している「地中海に叩き出せ」と同じ意味のジェノサイドの煽動を、主語と目的語を入れ替えることでオブラートに包んだだけのシュプレヒコールだ。ではイスラエルのたとえば大使館に抗議するときに「お前らを地中海に叩き出すぞ」か「お前らは地中海に叩き出されるべきだ」と叫んで、果たして相手が話に乗って来るだろうか?

ユダヤ人は2000年間差別に耐えて存続して来た
少数民族史のスーパーエリート

相手は2000年間差別に耐えて存続して来た、いわば世界の少数民族史のスーパーエリートである。ほとんどの少数民族は支配民族に虐殺されるだけでなく、そこに取り込まれ混血を重ね、あるいは差別を避ける選択で同化して消えて行ったなかで、ユダヤ人は2000年間屈っすることなく、「自分達は周囲とは違う」ことに少数民族の誇りを懸け続け、66年前にやっと民族の国家つまり民族が安心して住める土地を取り戻したはずの人たちだ。「お前らは地中海に叩き出されるべきだ」という脅しが通用するはずもなく、ただ「彼らは我々を差別する敵なのだから、我々は身を守らなければならない」と思うだけだ。

「我々は身を守らなければならない」。シャロンの壁がそうであり、今のガザへの攻撃ですらそうだ。手段に疑問は多々あるにせよ、イスラエルにとっては自衛の戦争である。ここで「自衛の戦争」というのは、それをあたかも絶対正義の金科玉条のように振り回す安倍晋三の時代の日本におけるような意味ではない。自衛の戦争には正義もへったくれもなく、正義以前に自分達の生残りをかけているときに、よく分かってもいない外野からの雑音など、聴こえるはずもないのだ。

仮に途方もない極悪人が死刑になったとしよう。絞縄が首にかけられるあいだ、死刑囚は必死に抵抗してもがき、看守を怪我させたりするかも知れない、その姿を見てしたり顔に「反省していない、許せない」などとうそぶいてみたところで、死刑にしている側の傲慢な自己満足にしかならないのと同じだ。

ガザの空襲や一般市民の殺傷を止めさせるなら、そのことだけを言えば(つまり「自衛の手段が間違っている」)抗議には一定の意味がある。相手が聞かなければならない正当性のある意見だからだ。だが相手を自分の生存のために闘わなければいけない人間として見るのを忘れた言葉を不用意にぶつけることは、はっきり言えば人種差別に他ならない。まして今の日本のデモのように「お前達は嫌われているぞ、差別してやる」という程度の意味しかない脅しを繰り返したところで、多くの人間はそれでも恐怖から屈せざるを得ないのだろうが(ハンナ・アーレントの言う「恐怖の体制」であり「悪の凡庸さ」である)、そうした差別に根ざした恫喝は、今さらユダヤ人国家には通用しない。ますます「我々を差別する敵がいかに多かろうと、我々はなんとしても生き残るのだ」と思うだけだ。

ハマス擁護も根本的に誤った主張

今回のガザ戦争についても、一方でガザを支配するハマスの政府は「イスラエルを地中海に叩き出す」を旗印に、実際にイスラエル領内へのロケット攻撃を続けている以上は、今イスラエルがやっている手段には疑問は多々あるものの、ハマスを攻撃すること自体は自衛の戦争だ。相手が相手だけに「平和的な交渉の余地があるはずだ」と言ったところで、これもまたお話にならない。ハマスのガザ政府は民主主義的な政府ではないし、宗教的な目的と称してイスラエル殲滅を聖戦とみなし、ロケット攻撃などの細々とした手段とはいえ殺傷能力を持ってそれを続けているのだ。

ハマスのガザ政府とイスラエルの国力の差、軍事力の差を上げてハマスを擁護するのは、人間として根本的に誤った主張だとも指摘しておく。戦争は大義を奉ずる複数の組織的なものの衝突として行われるが、実際に命を落とすのは個々人だ。ハマスはたいした軍事力を持たないからイスラエル人がたまたまロケット攻撃で死んでもやむを得ないなどとは決して言えないはずだし、そんなことを言えばイスラエルにはますます、自衛の戦争に凝り固まる以外の選択肢がなくなる。文字通り国民一人一人の命が懸かっているのだから、テレビやPCモニタやスマートフォンの前の安全圏で語る「正義」なぞ聞いている余裕はない。犠牲者の数を比較してハマス側を正義だというのは、その実恐ろしい非人道思想である。そうではない、個々の人間の生命や生活の懸かった苦しみをいちいち比較すること自体がおかしいのだ。

にもかかわらず、実はこの紛争は完全にそうした悲惨さの比較によって正義を競い合う様相を呈しているし、それこそが紛争が果てしなく続く本当の原因だとも言える。1995年の合意でパレスティナの分離独立の大枠が決まって以来、この紛争の実質はメディア戦争、情報戦なのだ。合意にはまだいくつか重大な未解決の問題が残されている(代表的なのが難民の帰還の権利をどこまで、どのように保障するかだ)が、国と国との問題として主権の及ぶ範囲である国境線などの大きな条件は今さらほとんど変わり様がない(西岸の入植地についてイスラエルは抵抗を続けているが)。その枠内のディテールの部分でどれだけ自分の方を有利にするか、そのためにどちらの側がより国際世論の支援が得られるかどうかが、ここ20年近くの紛争のほとんど唯一の実際的な目標なのだ。

この条件を少しでも有利にするためだったはずのメディア相手の戦争が、これまたもはや完全に自己目的化しているのが現状だ。今では双方の当事者以上に、双方のいわゆる「支援者」勢力が、自分の味方する側がより悲劇的な犠牲者でかわいそうな被害者であるが故に味方する我々は正義なのだ、というその実当事者無視の自己正当化の論理を競い合い、衝突がエキサイティングな暴力の映像を産み出すが故に(そして歴史的な経緯からここには世界中から報道のカメラが集中しているが故に)、世界がもっとも注目するいわばリアリティTV血みどろアクション付きとして、この地域の衝突は消費され続けている。

すべてはイメージの問題であり、人命は実はイメージに奉仕するためにこそ犠牲になっている。インターネットが急速に普及した今、それはいっそう増幅される。アラブ人らしき子どもの凄惨な遺体写真に「ガザ」と銘打てば、実はシリアだったり、どうみても爆撃の被害ではない、服装や建物などもガザには見えなくとも、多くの「パレスティナを支持」と言う人たちは、そもそもガザがどんな場所なのか、パレスティナ人がどんな服を着ているのかすら知らない。

そうした人々の「イスラエルはパレスティナの占領を止めろ」とあたかも抗議するかかを装いつつ、その実壁を作っているだけの言葉は、人命がそこに奉仕することで産み出されたイメージを、安全圏にいながら気ままに消費する態度にしかならない。いやわざわざ相手に伝わるはずもない言葉を用いてあえて壁を作り対話の可能性を一切自分から遮断するのは、その壁の内側に自分達の安全圏を確保するためでしかない。シャロンの分離壁と同じだし、ならばまだ自爆攻撃を防ぐという具体的な目的を持った分離壁の方が、ただ自分を正義だと思い込んでいたいエゴの壁、養老孟司風に言えばまさに「バカの壁」よりはいくらかマシにすら思える。

決定的に無視されているのは「パレスティナ人」
一人一人の生活・
生命・尊厳

こうしたパレスティナ地域をめぐる言説のなかで決定的に無視されているのは、実はこの文章でさえこれまでイスラエル側の説明にむしろ字数を費やしてしまっていることも含めて、もっとも肝心な「パレスティナ人」、その一人一人の個の生活と生命と尊厳だ。

本文の冒頭で、イスラエルがとっくにガザから撤退はしていることがなぜか無視されていることを指摘したが、実は本当ならもっと無視されてはいけないことがある。いや別に、現在のガザがハマス支配下にあって、それは決してガザ市民であるパレスティナ人の支持を得た正当な政権ではないことを「無視するな」と言うのではなく、そのガザで、アラブの春の時に起こっていたことだ。

アラブの春のとき、ガザの市民もまた自分達の手に自分たちの運命を取り戻すこと、民主化の要求をハマスの政府に突きつけていた。ガザのハマスもある程度は耳を傾けざるを得ず、以前パレスティナ自治政府の民主的な手続きによる選挙で勝利したこともある、元々はガザのハマスとは敵対関係にあった西岸のハマス政治部門のイスマイル・ハニーヤを首相に迎えるなどしているが、こうした経緯はほとんど国際メディアに載らず、国際的支持も集めず、形だけで元の木阿弥になった。

いやその前に、ハニーヤの率いるハマス政治部門が、ある意味当然の結果として自治政府主流与党のファタハを評議会選挙で破った理由すら国際メディアはほぼ無視したし、一時は自治政府首相になったハニーヤが就任後すぐのインタビューでごくリーズナブルな交渉条件を挙げ(「1967年の国境線が交渉の出発点」)、市民にイスラム法の強制はしないと公約したにも関わらず、ハマス、イコール、イスラム原理主義テロリスト、とみなす国際メディアに抹殺された。

2006年パレスチナ立法評議会選挙で
ハマスが圧勝した理由

ハマスは確かにスンニ・イスラムの原理主義政党ではあるが、宗教政党だけに政治部門は腐敗を糾弾払拭する一方で、第二次インティファーダの結果経済的に困窮するパレスティナで貧民救済に力を注いでいた。パレスティナ人がハマスに投票したのは腐敗と自己顕示欲だけは天才的だったヤセル・アラファトの下に腐敗しきった主流与党ファタハへの批判も含め、ハマス政治部門の民生レベルでの活動が評価されたからだ。そしてハニーヤは選挙で勝った早々に、イスラム法を強引に政治に当てはめることはせず民主的手続きを尊重し、パレスティナ人のそれなりのパーセンテージを占めるキリスト教徒を決して無視しないことも約束した(ちなみにコーランはユダヤ教徒とキリスト教徒を保護することを命じている)。だがこれを潰したのが、9.11の余波でイスラムをひたすら敵視する、いやそれ以前からムスリムを差別したくて仕方がないアメリカとヨーロッパの国際世論だ。

エジプト革命をムスリム同胞団を過度に敵視した欧米が潰したのと似た現象だろう。ここでも結局欧米は、選挙で選ばれ穏健政策も公約したムスリム同胞団よりも、軍の再クーデタを支持したのだ。全国規模の選挙に対応できる組織力を持っていたのが同胞団だけで、ムバラク政権が非合法化していたからと言って同胞団が軍事組織ではなく、主な活動が貧民救済であった以上は、民主革命で全国で普通選挙をやれば一回目には同胞団が大きく票を集めるのは最初から分かっていたし、同胞団もイスラム法を強引に当てはめればエジプトの最大の産業である観光産業を潰すことになると百も承知であったにも関わらず、である。

ガザへの攻撃への死者を嘆き、パレスティナ人に同情するかのように見えるメディアや人々も、本当にパレスティナ人のことを考えているのだろうか?アラブ人のなかでももっとも文化水準が歴史的に高いパレスティナ人を正当に評価しているのだろうか?いくらなんでも月に砂漠に駱駝の遊牧民でも想像しているわけでもあるまいが、それなりに肥沃なパレスティナは定住農業が古代から中心だし、エルサレムを始め数千年の歴史都市がいくつもあり、それらを結ぶ道路も整備され交易と商業が栄え、貴族階級と言っていいほど繁栄と伝統を誇る名家を多数輩出し、中近東全体に家族に親族に商売パートナーの巨大ネットワークも持っていたのが、この地域のアラブ人である。およそ純朴な未開の民の平穏な生活が突然、というような話ではまったくなく、この地域からベイルート、ダマスカス、果てはバグダッド、南はエジプトやイエメン辺りまで含む経済圏がもっとも栄えたのは、1930年代であり、そのいずれの都市にもユダヤ人もいた。

パレスティナ人は高度に洗練された文化的民族

そんな過去を思い返す時、95年の合意で決まって以来現在でも有効なはずの二国分離独立方式の和平がほんとうに実現可能で機能するものなのかは、当のパレスティナ人ですら実は分からない。ほんとうにこれが解決になるのか疑問に思えもするのは、たとえばパレスティナ自治区の経済がたぶんにイスラエルによって成立しているし、イスラエル領内に住みイスラエル国籍を持つパレスティナ人もまた多いからだ。

だがそれでも今は、本当の意味で「自分たちの国」と呼べる場所を今の自治区に作ること、それが他のアラブ諸国のような「我が国民の政府」とは名ばかりの、植民地支配者と大差ない独裁的で独善的な政権ではなく、アラブ世界で初となるかも知れない本格的に民主的な政治を担保することは、民族移動と文明文化の流通の十字路に住み、元々高度に洗練された文化と知性を発展させて来た上に、イスラエルに追われ流浪の民になったからこそ、より深く考えても来たパレスティナ人にとって、とても大切な目標のはずだ。だがその肝心のことには、国際メディアも注目せず、国際的な支援も行き届かない。

「月の砂漠で駱駝を引いてる純朴な民」だか「子どもが殺されている!」にせよ、「イスラムなる“邪教”を信じる狂信者」にせよ、アラブ人、とりわけパレスティナ人が高度に洗練された文化的民族で、自分達と同等かそれ以上に知的水準も高く、イスラミズム政党の指導者が知的で現実主義者の文化人である現実が、欧米や日本には耐えられないのではないのか?我々や彼らが欲しているのはジョークで知られるユダヤ人も凌駕するユーモアを巧みに操り、商売トークとなれば中国人と互角に争い、外国の文化に好奇心旺盛で、日常会話でもさりげなく韻律を効かせて詩のように豊かな音楽性を持った言葉を巧みに操り(それも母語のアラビア語だけでなく英語やフランス語でやってのける剛の者もいる)、自分達の70年に及ぼうとする苦境すら冗談で語ってしまう、本当のパレスティナ人の姿ではない。

イスラエルの旧軍や元モサドの指揮官たちは
パレスティナ自治政府の国連加盟を断固支持

これもアラブの春の頃、現在はオブザーバー資格しかないパレスティナ自治政府が国連の完全な加盟国になることが提起された。イスラエルは公式には反対し、アメリカ政府はどっちつかずの態度に終始したことくらいしか国際的に報道はされなかったが、これをもっとも強力に支援したのが実はイスラエルの旧軍や元モサドの指揮官たちだったという、これまたまったく予想も想定もしていなかった展開も起こっていた。

イスラエルの新聞だけが、彼らがしきりに西岸の首都であるラマラを訪問し、熱心に国連加盟のメリットとそれを勝ち取る戦略まで講演して廻っていたことを報じていた。建国以来敵に囲まれ「産まれたばかりの祖国を守る」ことに人生を捧げて来た者達から見れば、パレスティナ国家が安定した政権として成立し維持されることは、イスラエルの安全を守るために有益だと考えたのだ。そしてユダヤ人のイスラエルに出来たことがパレスティナ人に出来ないわけがないとも思っている。

実はイスラエルがなぜ建国されなければならなかったか、なぜその土地がパレスティナでなければならなかったか、いちばん理解しているのはパレスティナ人だ。真の問題は、ホロコーストを逃れたユダヤ人の国が必要なのは分かるし、聖書によれば兄弟民族であり学術的にも同じセム系統の民族であるし、そのユダヤ人の国がなぜここでなければいけないのも、エルサレムがユダヤ人にとって特別な意味を持つ都市なのも分かるが、しかしなぜ我々がこんなひどい目に遭わなければならないのか、なのだ。

イスラエルはこの問いに答えなければならないし、ヘブライ語と同等に公用語であるはずのアラビア語がまったく使えない社会になっていることも説明しなければならない。本当に国際世論がパレスティナを支持するのなら、パレスティナ人が民主的な手続きで自分達の政府を選ぶことを支持し、そこで産まれた政権を差別偏見なく承認しなければならない。それがなされる気配すらないことに、元々は土地争いであった(二つの民族が、それぞれに正当な理由を持って、ここを民族の故郷だと考え、そのことは相手方も理解している)この紛争の、別の側面の本質が見えて来る。

パレスティナ問題は人種差別の問題に他ならない

これは人種差別の問題に他ならず、欧米が未だに植民地主義時代の力による優越感を払拭出来ていないことであり、国際メディアが未だに欧米の植民地主義的な流れがその主流になっているままでは、パレスティナ人は結局抑圧される、故国を持たない民であり続けるしかなくなる。ちょうどその国際メディアが、イスラエルを米国の属国だといつも言いたがっているように。

今のガザの戦争、イスラエル軍とハマスの戦争がガザの一般パレスティナ人市民に犠牲を出していることは批判されるべきだ。だが客観的にみて、これがイスラエルの自衛の戦争であることは否定できない。問題は自衛の手段が間違っていることであり、一方でイスラエルを批判するからと言って、かつて選挙で勝ったときのハマスには見向きもしなかったのに、今はイスラエルの攻撃対象だというだけでハマスのガザ政権を支持するのはあきらかな筋違いだ。

今のハマスは決してガザの市民を代表する政府ではないどころか、この政府もまたパレスティナ人にとって危険な抑圧者である。イスラエルがハマスを「市民を人間の盾に使っている」と非難するのも、それ自体は誤った指摘ではない。ただハマスが確信犯的に一般市民の犠牲者を出すことを狙っているのに気づいていながら、それを防ごうとしないどころかみすみすハマスの術中に嵌っているイスラエル側もまたおかしい。

一方でいわば「外野」の立場である、国際社会の我々が考えなければいけないことがある。ハマスにとってイスラエル殲滅が建前とは言え「聖戦」であり、イスラエルにとって今回のガザ攻撃が自衛の戦争である以上に、こうした紛争が続くのはなによりも、我々がそれをニュースで見ては一喜一憂しながら、どちらかの側につくことの正義に酔ってしまうからでもあるのだ。だが実際に起こっている戦争は私たちの戦争ではないし、そこで争われているのは私たちの物語でもない。イスラエルのユダヤ人とパレスティナ人という二つの民族のそれぞれの物語であり、それは双方それぞれに数百万の市民一人一人の物語の集積であって、流血や爆撃のイメージに興奮するよりもずっと奥深く、遥かに価値のあるものだ。

「パレスティナ人=悲劇の主人公」が隠す現実

ユダヤ人はイスラエルという国家を建国することで自分達の民族の物語を取り戻した。ホロコーストでさえ言葉を遺したアンネ・フランクのような犠牲者や、生き延びた人たちそれぞれの、個々人のレベルの例外でのみユダヤ人は自分の物語を作る主体であり得たが、全体の歴史としては主役/主体は虐殺行為を行ったナチスであり、そこで起こったのは2000年間ヨーロッパで自分達の物語をほとんど持ち得なかったユダヤ人が、その民族の物語を個々人のレベルでまで奪われた、命を奪われただけでなく、名前すら奪われ数字に還元されたことだ。

その全てを奪われかけた現代ユダヤ民族が自分たちの物語を成立させたのと引き換えに、自らがその主体ではない物語の悲劇の主人公にされてしまったのがパレスティナ人である。物語を成立させる主体となることは、過ちを犯す危険とその誤りの責任を負うことでもあり、イスラエルは不器用なまでの頑固さでそれを続けているが(イスラエルが時に欧米の世論の圧力と真反対の行動に走るのは、差別して来た側の言いなりになりたくない意地もないわけではない)、パレスティナの側はその民族の抵抗の闘いの物語ですら、支援すると称した諸外国の活動家(過去にはたとえば日本の連合赤軍など先進国の極左武装集団、近年ではアルカイーダなどのイスラミズム)に奪われ続けてしまっている。いやなにもそんな活動家達だけではない。たとえばヤセル・アラファトが人気があったのは国際社会に於いてだけであり、死後明らかになったということになっている腐敗の実態は、生前からパレスティナ人なら皆が知っていたことだし、しかもイスラエルとの交渉で実質的な成果よりも自分の名声を上げることにばかり執心したアラファトは徹底的に軽蔑さえされていた。本気でその死を嘆いたパレスティナ人がどれだけいたかも疑わしい。だがそのことを、彼らは国際メディアに語ることすら許されない。アラファトが死ねば世界のメディアが、その死を嘆くパレスティナ人の姿を撮影に来るのだ。

ハマスのガザ政権もそのようなパレスティナの歴史のひとつの末期的な現象として、今パレスティナ人に犠牲者が出ることをむしろ狙って戦争をしている。むろんイスラエルの攻撃がその犠牲を出し続けることは止められなければならない。だが最終的にもっとも大切なのは、パレスティナ人が「被害者・犠牲者」の役を国際社会から押し付けられることから解放され、自分達の物語を作り出すことが出来る状況が成立することだ。今のところその流れはアラブの春以降断たれてしまっているし、「イスラエルの被害者」というだけでハマスのガザ政権にあたかも正当性があるように国際社会が振る舞うことは、ますますその流れを逆行させることにしかならない。

ユダヤ人・パレスティナ人双方が
実は互いの民族をもっとも深く理解

パレスティナ人は今のところ、大きな民族の物語を自ら紡ぐことを許されない立場にいる。だがその流浪の立場に置かれた個々のパレスティナ人からは、だからこそかつてユダヤ人がそうであったように、偉大な文学や思想、芸術が産まれて来たことも付記しておく。エドワード・サイードは疑いもなく20世紀後半の最大の思想家の一人であり、ガッサン・カナファーニやマハムード・ダルウィッシュと言った偉大な文学者も登場し、エリア・スレイマンは現代の世界映画のもっとも注目すべき才能の一人だ。ただ残念なことに、この人たちの作品はそれが傑出しているから評価されるのではなく、被害者であるパレスティナ人の言葉や表現として消費されるだけなのが現状だ。皮肉なことに現代パレスティナ文学や芸術をもっとも正当に、作品としての価値で評価している国はイスラエルであり、公金から経済的な援助さえしている。

二つの民族が同じ土地を、自分達の民族の故郷だと考え、双方に相応の正当な理由があることを、双方が実は理解しているだけでなく、実は双方がお互いの民族をもっとも深く理解している。その双方とも、国際メディアが消費し易い「気の毒な犠牲者」民族では決してない。彼らが国際メディアや無数の(今ではネットで見ている)その実無関係で無責任な観客に奉仕するためでなく、自らを語り、語ることによって自らを問い考える物語を紡ぐ自由を与えられたとき、少なくとも流血や暴力は止まるだろう。

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*アイキャッチ写真はジョセフ=クーデルカの代表作「分離壁」だ。この文章は「分離壁」の批評・評論でもあり、その意味は読まれた方ならば、すぐに得心するであろう。


1 Comment on ガザ大量殺戮を前に語られぬこと、語りえぬこと-パレスティナ=イスラエル原論 by 藤原敏史・監督

  1. パレスティナ支援を行ったのは連合赤軍ちがう日本赤軍です。連赤は日本国内で銃撃戦&同志総括リンチで自滅した方であって、アラブに行った重信房子らとはお互い同じ赤軍派から分離した完全に別の組織なので。

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