政府の「メッセージ」を天皇に押し付け「新元号」、秋篠宮家「結婚」問題、こうも天皇家がないがしろにされるなら、天皇制はいっそやめてしまえ by 藤原敏史・監督

今上天皇の譲位と新天皇の即位が迫るなか、「平成から令和フィーバー」や「天皇皇后陛下ありがとう」熱狂の一方で、肝心の天皇家をめぐって不穏な動きが続いている。それも一時は、東宮(皇太子)家に子供が女の子1人であることや雅子妃の病気で(そして背景には皇太子が男尊女卑を嫌い妻子を大事にする常識的なリベラリスト、かつ平和主義者であるせいも恐らくあり)妙に批判ムードがまかり通っていたのと対照的に、と言うか東宮家を比較対象にして貶める意図も露骨に持ち上げられて来たはずの、秋篠宮家に対してだ。

雅子妃の公表された病名は「適応障害」、要は過剰ストレスによるうつ病であろうが、一時は公務もままならなかった妃への当てこすり・バッシングの含意も露骨に、女性誌を中心に盛んに褒めちぎられていたのが、男子つまり明治皇室典範の「男系男子」規定に従うなら「跡取り」の悠仁親王を高齢出産までした紀子妃だった。

日本の天皇制は父系・母系ともに血統重視が伝統、「男系男子」は明治皇室典範以外に根拠がない

なお念のため確認するなら、「男系男子」などという制約は、本来の歴史的な天皇位の継承には関係がない。推古天皇以降女性天皇も少なくなかったし、その推古天皇や、持統天皇は強力な政治的イニシアティブを発揮している(「日本」という国家の基礎を作ったのはこの2人の女性天皇だとすら言える)。その持統帝と夫で先代の天皇だった天武天皇の時代に完成した律令では、内親王の家系にも皇位継承権があり得ることが明記されている。

律令に女系相続についての規定が明文化されていたことだけは、その制定に当たってモデルに仰いだ古代中国の法制度の男系相続思想と大きく異なってい。つまり女系天皇にもなんの問題もないどころか、女系相続も認められていたことこそが、男系・父系相続の中国と異なる「日本独自」だったのだ。だいたい皇位継承権を持つ天皇家の男子を「親王」と呼ぶのと同様に「内親王」と言う称号がわざわざあること自体、天皇家では女性の相続(つまり女性の天皇)も女系相続も認められて来たことを示しているではないか。

日本の天皇家は、律令の確立以前の倭国の「大王(オオキミ)」だった時期(「日本」と言う国号を定め「天皇」を名乗ったのは天武帝)からずっと近親結婚が多く、つまり父系・母系共に血統が重視されていたことは歴史的に明らかだ。女性天皇が独身か、夫が天皇ないし東宮(皇太子)なのは、古代中国に倣った儒教の男尊女卑価値観(妻の天皇が夫より上位であることは都合が悪い)の結果に過ぎず、経験則上遺伝リスクが高くてもあえて近親結婚による血統の保全が重視されたので多くの天皇が男系であると同時に女系でもある。つまり「女系天皇はいなかった」と言うのは偏向した論理破綻の虚偽でしかなく、現に天智天皇もその弟の天武天皇も(母は二度天皇になっている斉明天皇・皇極天皇)、そして今上天皇も父系(昭和天皇)母系(久邇宮家の良子女王)共に天皇家の血統だ。

「伝統」と言っても時代に合わせて変わっていかなければ維持できないのは当たり前であり、例えばこうした近親結婚の「伝統」は現天皇と美智子妃の結婚を機に排されている。儒教起源の男尊女卑ならば、相変わらずセクハラ問題が女性の社会進出や社会貢献の大きな障害であり続けている(経済ベースだけで考えても非効率で無駄)現代の日本で克服が急務な問題のひとつだし、むしろ天皇家こそがそうした倫理の進歩を率先して来たのが、その歴史的な役割だ。

「結婚は本人どうしの意思」を定着させたのが現天皇夫妻

だからこそ今上天皇も、まもなく次の天皇になる東宮・徳仁親王も、男尊女卑を排した夫婦のあり様を国民に示し続けて来た。夫婦が公の場で対等に振る舞ったり、手を繋いだりすることを日本で定着させたのは今の天皇と皇后の夫妻だ。現天皇が妻の美智子皇后を常に対等の個人として尊重して来たことには即位直後にはバッシングもあり、皇后がストレス性の失声症に苦しんだこともあったが、夫妻がそうした苦難も乗り越えて粘り強く「日本の夫婦のあり様」を変えて来たことは、平成の代の大きな功績のひとつだろう。

ところがそんな「平成」の天皇の代の終わりに、秋篠宮家の次女・佳子内親王が大学卒業に当たってしごく真っ当な文書回答をマスコミ各社に出したことまで「炎上」してしまっている。

情報が入り乱れる今の世の中では受け手もしっかり考えなければ、とか、自身の恋愛や交際に関して「今後もこのような質問にお答えするつもりはいっさいございません」と言った、20代のはつらつとした現代女性として当然の、清々しく毅然とした態度には、世界で #MeToo 運動が高まりを見せ、戦時の女性への性暴力や女性への教育差別と戦う運動をして来た人たちがノーベル平和賞を受賞している今、「これから日本の若い女性もこうあるべき」と頼もしさを感じこそすれ、批判できる理由が分からない。

なによりも姉の眞子内親王の婚約について、「結婚においては当人の気持ちが重要」「姉の一個人としての希望がかなう形になってほしいと思っています」というのは、一言一句あまりに当たり前の話だ。

だいたい恋愛と結婚は個人と個人の結びつきであると言う倫理を戦後の日本人にとっての「当たり前」にしたことも、現天皇夫妻と次期天皇(皇太子)夫妻の大きな功績だ。女性であっても恋愛や結婚に「家の都合」が妨害になることがあってはならず、相手を選ぶのはなによりも本人の人柄で、家柄や出自の結婚差別は誤っている、という当たり前の倫理を定着させたのが、正田美智子が皇太子明仁親王(当時)と「恋愛結婚」をして「平民出身の東宮妃」となったことなのだ。

そして眞子内親王の婚約内定発表によって、この価値観は改めて国民に示された(お相手の小室圭くんの家が母子家庭なのは偶然で、別に内親王がそう選んだわけではないが)わけで、妹の佳子内親王は祖父母が自分たちの結婚で示していた当然の原則を姉の実例で再確認しただけだ。

なのになぜ、その佳子内親王が「一個人としての希望を振りかざした」などと批判されるのか? 結婚や家庭生活のもっともプライベートな個人の幸福が成立しないような国や社会が、幸福な国や社会を実現できるはずもなく、ましてや皇族はその国民の「象徴」のはずだ。

憲法が国家政府に義務づけた基本的人権の保証は、確かに法的には皇族には適用されないのが通例解釈だ。だがだからと言って「皇族には人権がない」から「民意に従え」などという暴論は、そもそも「基本的人権」の意味が分かっていない。

人権はあくまで大前提として最初から誰にでもある。皇族の場合は国家維持の都合でその人権を完全には保護できないのであれば(確かに、職業選択の自由は世襲君主にはない)こそ、国民が自発的にその人たちの本来なら当たり前の権利を最大限に尊重しなければ、およそ皇室や天皇に対する「敬意」のかけらもなくなってしまうではないか。たとえ国民の多数派だろうが、その筋の通らない身勝手に隷属しなければならない皇族ならば、世襲の「象徴」の意味がなくなってしまい、まるで「皇族=現代のえた・ひにん」のようになってしまう。 それとも自分たちの身勝手に隷属する対象を、我々は自分たちの「象徴」とみなせるのだろうか? だとすれば、それは一体どんな「象徴」で何を「象徴」していると言えるのか?

天皇家が国民の象徴なら、国民の一般道徳と権利に即した結婚であるべきなのは当たり前

まして眞子内親王は、結婚すれば臣籍に下って一介の私人になり、つまりその基本的人権、夫婦での幸福追求の権利は憲法によって完全に保証・保護されなければならない。

交際相手の経済状態がどうこうなど、親が心配するのなら分からないではないが、それですら結局は本人が納得するかどうか次第だし(天皇夫妻が宮内庁を通して声明している通り)、相手本人ならともかくその家が母子家庭で貧しそうだから結婚に反対する親などと言うのが今時いるとしたら、およそ誉められた話ではない。

しかもお相手の小室圭くんは、勤め先の法律事務所でも将来を嘱望されている有能な青年で、その支援でアメリカの弁護士資格を取るべく留学中、最近では留学継続のための最難関の奨学金も給付が決まったそうだ。むしろこれからの日本の新しい世代の将来目標を「象徴」するには、「キャリアウーマン」が流行語だった時代に優秀さが評判だった若手外交官の小和田雅子が皇太子妃となった時と同様に、申し分ない。

甘いマスクの好青年(しかも有能)への嫉妬もあからさまに、ネット上に至っては眞子内親王と小室くんの結婚が「民意に反する」から宮内庁に抗議電話をかけてやめさせよう、などという「運動」までまかり通っているのは、歪んだエゴやコンプレックスを満たすために「国民統合の象徴」の孫娘の将来の当たり前の幸福すら、阻害したいのだろうか?

佳子内親王も、学習院を退学してICUに移ったほんの数年前にはまるでアイドル的な人気を集めていたのが、しごく真っ当で倫理的な「正論」を言った途端に「炎上」させられてしまった。

自分たちの「象徴」を自分たちの身勝手に服従させたいのが日本国民?

二十歳過ぎの若い女性の純粋な正義感にこんな意地悪とは、なんと狭量なオジサン社会なのだろうか? ここまで不遜不敬で卑屈に身勝手で、「皇室に不敬」どころか相手がどんな身分だろうが他人様に対して普通に許されない非礼が、「皇室には人権がない」からと許されていいわけもあるまいし、そんなにないがしろにされるなら「皇室」などない方がいい。

そもそも日本の天皇制が「皇族」とされる人々の多大な献身と言うか犠牲によって成り立っていることに、なぜ気づけないのだろうか? 眞子内親王にしても、小室くんの勇気がなければ普通の恋愛すらなかなか出来ない立場だった。プライベートな生活の細部に至るまで、それこそカーテンを変えたり家具を買うことひとつを取っても、いちいち宮内庁の裁可が必要なのがこの人たちの日常なのだ(これだけでも雅子妃が「適応障害」になっておかしくない過剰なストレスだ)。

同じく秋篠宮家の長男・悠仁親王も学習院以外の中学に進学すれば脅迫めいた抗議電話が学校にかかって来たり、教室に珍妙な細工を施した刃物が置かれていた嫌がらせ事件まで発生した。父の秋篠宮は少しでも普通に育って欲しいと思って学習院にも行かさず、警備もなるべく目立たないよう、本人にとって精神的な負担にならないよう希望して来たが、皇位継承権第3位(まもなく第2位)とはいえまだまだ子供、これから多感な思春期を迎える少年にとっておよそ幸福とは言えない環境を運命付けられてしまっている。しかもこの進学の直前には、週刊誌に悠仁親王の悪口めいた記事も載っていた。

ところが「皇室は税金で食べている」から国民に従え、なのだそうだ。これでは天皇や皇族が国と国民の「象徴」であるというその存在意義は全く瓦解し、天皇制を維持する意味がなくなるどころか、まるで天皇家を巡って国民の邪さと民度の低さが炙り出しにされてしまっているようだ。


戦後日本の理想的かつ等身大な家族の理想像こそ、現天皇の最大の「レガシー」

そもそもこの人々は、今度退位する天皇夫妻の努力と功績に、一抹の敬意すら抱けないのだろうか? 結婚は本人どうしの意思こそが優先されるべきで、他のいかなる理由も関与してはならないという倫理はすでに日本国憲法に明記されていたとはいえ、国民に浸透させた決定的な契機は、やはりなんと言っても今の天皇と皇后、当時の皇太子夫妻の「恋愛結婚」で、初めて「平民出身の皇太子妃」が登場したことだ。

政治学者の広岡守穂(中央大学教授)は、近現代の日本の小説の分析から「日本の民主化を進めて来たのは政治や思想よりも恋愛だった」と分析する(「通俗小説論 恋愛とデモクラシー」有信堂刊)。その意味でも現天皇夫妻が皇太子時代からの「開かれた皇室」作戦で日本社会の民主化を牽引して来た功績は小さくない。

律令の制定以降、天皇は父系・母系双方で血統が何よりも重視されて来たため、旧来天皇家に嫁げるのは天皇家の血統か、貴族でも旧五摂家の血統などに限られ、明治以降でも華族(つまり天皇家、旧来の貴族に加え、旧大名や将軍家)という特定身分の厳しい制約があった。たとえば昭和天皇は皇后となった良子女王も久邇宮家の出身だ。大正天皇の皇后は九条家、明治天皇の皇后は一条家と、それぞれ藤原氏北家正統の系譜で、平安時代以来摂政・関白はこの家柄と決まって来た五摂家の出である。ちなみに戦前の総理大臣で国民的な人気も高かった近衛文麿が五摂家の筆頭・近衛家で、かつては豊臣秀吉がこの近衛家の猶子になって本姓「藤原」で関白になる資格を得ており、幕末に薩摩の島津家の篤姫が13代将軍家茂の御台所に輿入れした時も、まず家格をつけるために近衛家の養女になっている。

そんな身分出自による差別の旧弊を打破して日本が平等な社会に生まれ変わるためにも、国民の象徴である天皇家が率先して旧来の悪弊の家柄差別を廃した結婚をしたのだ。むろん最終的には皇太子(当時)が美智子妃を懸命に説得し、その皇太子の誠意に心動かされた美智子妃の信頼という双方の強い意思もあればこそのめでたく「恋愛結婚」とはいえ、だからこそ双方ともにこの結婚が日本社会の価値観を大きく変え得る意義を持っていたことにも十二分に自覚的だったし、そもそもが小泉信三ら天皇家の側近がそこを考え抜いてこその「平民出身」美智子妃の人選だった。

逆に言えば今、佳子内親王の「自由恋愛」を躍起になって妨害しようとする「世論」は日本社会の究極の「逆コース・右傾化」兆候として分析できるし、しかもそれを突き動かす動機があまりに邪さで、所詮は母子家庭差別の女性蔑視と、甘いマスクで優等生のイケメンへの嫉妬にしか帰結しないことに、多様性の理解が必須になった現代の世界に逆行する平成の終わりの、日本社会の歪んだ閉塞が透けて見える。

日本の子育てを変えた「ナルちゃん憲法」

「ミッチー・ブーム」に湧いた国民の祝福の一反面、学習院の出身ですらないことへの抵抗も激しく、宮中に入った美智子妃は凄まじい苦難の連続で、流産し、やせ細ってしまったこともある。そこまでして皇太子(今の天皇)夫妻が自ら闘い続け、時にはその苦しむ姿すら国民に隠さずに示し続けたのは、日本の家族制度の民主化のモデルケースとしての理想的なありようだ。

子育てにしても、夫妻は乳人制度を廃し自ら3人の子供を育てることで、お互いを対等に尊重し愛し合い支え合う、戦後の民主化した日本が目指すべき家族のあり方を身を持って示し続けた。「家族のだんらん」という、戦時中や戦後まもなくの苦しい時代、怒涛の経済成長の真っ只中では無視されがちだった幸福の価値が日本の市民社会に復活したのには、この夫妻とその3人の子供達の功績が大きい。

海外訪問に当たって留守番となる幼少の長男・浩宮徳仁親王(現皇太子・次期天皇)について美智子妃が侍従に託したメモは「ナルちゃん憲法」として公表・出版された。子供を甘やかさず、しかし「しつけ」の枠に押し込むのでもなく、個性や自主性・主体性と責任感を育む理想の子育てのお手本の、いわば「子育てバイブル」のように一世を風靡したことが、戦後日本の子育てのスタンダードを一般に広める上で決定的な役割を果たしている。

次男の礼宮(現・秋篠宮)、長女の紀宮(現在の黒田清子)も産まれると、この三人兄弟と皇太子夫妻の5人家族は、戦後の日本の家族の標準形となった「核家族」の理想像として国民に受け入れられる。身近なところでは(と言うか身近こそが重要なわけで)「皇室アルバム」がかつてテレビの人気番組だったのも、3人の子供達がかわいらしく、しかも母の美智子妃が大変な美人だったのが大きい。そこには「戦後日本の新しい幸福な家族のあり方」、戦前の大家族制に代わって定着した「核家族」の理想像はこうあるべき、という啓蒙効果が、他ならぬ皇太子(現天皇)夫妻によって明らかに狙われていた。

天皇夫妻が作り国民に示そうとした「幸福な日本の家族」像の今

もちろん、例えば美智子妃が東宮御所にキッチンを作らせ、そこで浩宮の離乳食を準備するエプロン姿が取材・撮影されてテレビに流れたのも、自分たちの責務について夫妻が極めて自覚的だったからに他ならない。東宮御所に作られたからにはそこまで庶民的にも出来なかったろうが、それでも映像に映し出されたのは決して豪華でも贅沢でもない、当時広まりつつあった「団地」や「文化住宅」にいかにもありそうな小洒落た台所だった。こうして経済成長の右肩上がりの時代に、ちょっと頑張れば手が届くレベルの「幸福」のイメージを皇太子夫妻(当時)は明確に発信し続けた。

天皇の代替わりに際し、新天皇の子供時代のそうした映像がテレビに映し出される時のノスタルジアには、ある痛々しさが伴う。そこに皇太子夫妻にいわば「お手本」を見た60年代の日本人の多くが求めていた「幸福」の今となってはまぶしい姿が確かに映っていて、それが日本社会の「家族」の現状とかけ離れているからだ。

明仁・美智子の皇太子夫妻が天皇皇后になって30年後の今、そうした幸福のイメージが「失われた過去の輝き」になってしまったのは、なにも「シンデレラボーイ」とメディアが邪推たっぷりに決めつけた小室圭くんへの邪まな嫉妬と、父親が亡くなっていることなどへの底意地の悪い邪推が横行しているからだけではないし、曲がりなりにもまだ先進国だというのに日本の子供たちの現状が「幸福」とかなりほど遠いのも、単に経済指数で子供の貧困が顕著になったているせいだけではない。

他ならぬ天皇家にしても、皇太子(新天皇)夫妻の愛娘・愛子内親王が一時は摂食障害に追い込まれてやせ細ってしまい、その原因に学校でのいじめ問題が噂される一方で、いじめで自殺した中高生のニュースが頻繁に報道され続けているし、そんな報道は氷山の一角でしかない、と多くの国民が気づいていながら、なにもしようとしていない。しかもほとんどのケースで、学校や教育委員会は驚くほど被害者とその家族に冷酷だったと分かると、そこをバッシングするだけで溜飲を下げて終わってしっている。

さらには深刻な児童虐待で殺された子供たちのニュースも相次ぐあまり、しつけ・体罰と称する親の暴力を禁ずる法改正まで国会に上程されざるを得なくなっている。だがこの法改正ですら政権の世論対策優先の形だけのものでしかなく中身が伴っていない。国会で野党に、どのような意識や価値観を持った親が虐待に走る危険性が高いのか、と問われた厚労大臣が答えを濁そうと「虐待の連鎖」説を安易に口にして、質問した野党議員がこれでは虐待被害者への差別偏見になりかねないので慌てて大臣発言を訂正しなければならなかったほどだし(ちなみに質問した国民民主党の桜井充参議院議員は医師でもある)、現に他ならぬ政権の足元の支持層からこの法改正への反発が公然と語られている。この人たちは「ナルちゃん憲法」も知らないのだろうが、かつて美智子妃(現皇后)が示した子育ての価値観を親たちが尊重すれば、虐待なんてそもそも起こらないだろう。虐待の根本動機は、子供の人格の独立性・自発性を大人が認識できないところにあり、子供を親や大人の支配対象ないし所属物とみなす歪んだ意識なのだ。

天皇夫妻が若かった頃、徳仁親王(まもなく新天皇)が子供だった頃の映像が映し出す「幸福な家族」の、当時はいわば国民の未来への「お手本」として(おそらくは夫妻の決然とした意図を持って)示されたその姿は、現在の日本の家族、日本の子供たちの現実とは、あまりにかけ離れているどころか、そんな幸福な家族を目指すどころか夢見ることすら、今や多くの親たちの意識から抜け落ちてしまってはいないか?

では美智子妃が宮中でしばしばひどい嫌がらせすら受け、流産や失声症まで経験してまで、現天皇夫妻が闘い、守り続けようとしたものはなんだったのか? その闘いにはなんの意味があったのか? 今や夫妻の孫の「結婚問題」として、その原点「本人どうしの意思こそが尊重される結婚」すら、他ならぬその国民によって否定されようとしているとは、いったい何事なのだろう?

「国民が目指すべき理想の自分たち」を示すのが天皇の役割

天皇家が「未来の国民のありうべき姿のお手本」を演じたり示したりするのは、なにも今上天皇夫妻の「恋愛結婚」や「ナルちゃん憲法」に始まったことではない。

近代天皇制の出発点の明治時代初期に、急務だったのは日本の近代化=西洋化だった。だが特に具体的な生活レベルでの変化、食生活に肉や乳製品を取り込むこと、男性が髷を切って洋風の短髪に洋服を着ること、「世界に通じる」西洋風のテーブルマナーを身につけること等々は、日常の生活習慣を激変させただけに、抵抗も大きかった。そこで明治新政府は明治天皇に洋装をさせ、宮中の公式の食生活も完全に西洋式することで、国民生活の西洋化を先導させた。

明治日本の「西洋に追いつき追い越せ」の先陣を切ったのが、禁裏の御簾の奥に座し見えることのなかった天皇が、洋装の姿で可視化されたことだったのだ。

それまで天皇が「行幸」で御所を出るときには御簾を垂らし中が見えない輿(こし)で移動していたのも、フランスから輸入されたガラス窓の馬車が行幸に使用された。つまり沿道に群衆が集まれば、輿よりも高い馬車の窓に、洋装の天皇の姿を見ることができるようになったのだ。現天皇夫妻の人気番組となった「皇室アルバム」のような「天皇の見える化」、不可視の神聖権威から直接可視化される天皇への変化は、この明治天皇の全国行幸に始まったと言える。

また初期の行幸では、明治天皇は貧困層や病に苦しむ人たちに積極的な配慮を見せて下賜金などを交付している。並行して明治政府は旧来の士農工商の身分制度を廃して「四民平等」をうたっていた。「平等」とはいえ「華族」と言う特権階級を残し、しかも下級武士出身だった自分たちもそこに列したこと、旧「えた・ひにん」階級を「新平民」とわざわざ特記したこと、家制度の戸籍の採用、なによりも地主・小作制度などの経済格差をむしろ強化したことなど、極めて不完全な平等化政策だった。明治天皇に一時は「仁」を強調させたのも、そのガス抜きでしかなかった、とも言える。

洋服を着て肉を食べる天皇、国民生活の近代化=西洋化を先導した明治天皇夫妻と皇室の西洋化

今では那須の御用邸にある天皇家の御料牧場は、元は千葉県成田市の三里塚にあった。現在の成田空港の敷地の大半が元は下総御料牧場で、少年時代の現天皇がここで遊ぶ記録フィルムも残っている。ちなみに空港反対運動も天皇の御料牧場を中心に生まれた農村共同体を守りたい、という運動から始まっていて、「明治大帝偉業発祥の地」という旗印まで使われていた。

実際には「偉業」は天皇ではなく大久保利通の先見の明で、御料牧場は大久保が内務卿だった時に、畜産など西洋式の新たな農業技術を導入する実験のために作らせた「畜産試験場」がその前身だ。しかし優秀すぎて人気がないことが自分の政治的な欠点と自覚していた大久保でもある。日本人が目指すべき目標を設定するのに天皇を利用することになんの躊躇もなかっただろうし、天皇はこれ以降も、そういう機能を持つ存在であり続けている。

大久保が明治10年に暗殺されると、農業振興と生糸生産などの軽工業・民生分野での産業促進による輸出立国を目指したその方針から、長州閥主導の軍事国家化とそのための国がかりの重工業の推進に国策が大きく転換するなかで、この新農業技術実験場は内務省から宮内省に所轄が移管されて「御料牧場」となった。そこでは羊毛生産のために羊が飼育され(ちなみに前近代の日本に羊はほとんどおらず「獅子」や「虎」や「象」や「龍」や「麒麟」と同じような中国文献だけで知られた動物で、十二支の「未」や「未年」でも空想上の、誤った動物が描かれていたり彫刻になっているケースが多い)、羊毛から毛織物の洋服が作られその洋服を天皇家の人々が着たり、牛肉やチーズ、バターなどの乳製品が生産されてそれを天皇や皇太子が食することになる。こうしてそれまでの日本人に縁が薄かった乳製品や肉食、それに洋服が、国民にも次第に受け入れられて行った。

一方で天皇の洋装は、大日本帝国憲法が発布される頃には西洋式軍服の「大元帥陛下」の「御真影」になり、日清・日露の両戦争と「富国強兵」政策で日本の軍事国家化を先導するイメージもまた、天皇が担うことになった。肉食や乳製品の摂取を天皇に率先させたこと自体にも、体格的に西洋人に劣るように見えた当時の日本人を、徴兵制も前提に西洋の軍人に対抗できるような「強い兵隊」に育てる意図があった(ちなみに当時はアジア人の「劣った」身体を「改善」するために積極的に欧米人との混血を、と言う珍論すら福沢諭吉の弟子筋や森有礼などから出ている)。

明治の天皇「見える化」の切り札「御真影」は写真ではなかった

そんな「御真影」で明治天皇のトレードマークになったのが、ドイツ式の豊かで男性的な髭(カイゼル髭、カイゼルとはほぼ同時期に成立したプロイセン=ドイツ第二帝国の皇帝)だったりするのだが、これにはちょっとした裏話がある。

明治天皇の有名な「御真影」は肖像写真ではなく、油絵の肖像画を写真複写したものなのだ。天皇本人が写真嫌いで「写真を撮られると魂を吸い取られる」と言う迷信を本気で信じていたという説まであるのは、実際には明治6年撮影の明治天皇の肖像写真が残っているので眉唾でもあろうが、しかしこの明治6年撮影以降、明治天皇の写真がほとんどないのも確かだし、しかもこの写真は存在自体がほとんど知られておらず、つまりは国民にもほとんど見られて来なかった。天皇が写真を嫌がったのではないとしたら、明治新政府が本物の写真を、政府が必要としていた天皇イメージには不適当と判断したのではないか。

ちなみにこの明治6年の写真でも、明治天皇は髭は生やしているが、なにしろまだ若干20歳の青年でしかなく、油絵の複写だった「御真影」のような威風堂々たる髭ではもちろんない。

写真嫌い説の真偽はともかく、即位当時は14才の少年で、まもなく明治維新に伴い京都の御所から東京の宮城・皇居(旧・江戸城)に移された天皇は、この環境の激変にも、西洋風の生活スタイルの押し付けにも最初は激しく抵抗した。身の回りを京都から連れて来た女官で固め、新政府の高官も西郷隆盛以外は全く信頼せず、会おうとすらしなかったのだ。

むしろ近代日本国家の求める天皇の役割に敏感だったのは、年上の皇后・一条美子(読みは「はるこ」、諡号は昭憲皇太后)で、宮中式の和装(つまり十二単的なもの)で外国人に謁見した時に好奇の目で見られた経験から、自ら進んで西洋式のイヴニング・ドレスを着こなし、その姿の写真も撮らせ、これが油絵の複写の天皇の肖像とワンセットの「御真影」として国民に広められた。

仁徳天皇・聖徳太子の神話と国民の「お手本」としての「天皇」の歴史

天皇に臣下や国民がいわば「見習う」べき理想的な人間像を見たり、その役割を天皇に担わせることは、なにも近代・明治天皇以降に始まったものでもない。日本の歴史上そのもっとも古い例はおそらく『日本書紀』の記述、なかでも仁徳天皇と聖徳太子(厩戸王)だろう。

『日本書紀』は中国(唐)との正式国交の回復と活発化に伴い、朝貢先の中国で読んでもらう意味もあって書かれた漢文つまり中国語の文献で、だから日本の君主を儒教的な「聖人君子」として記述しているのには国際政治上の必要もあったが、そうは言っても実在や史実が定かではない(と言うかほぼ「神話」の)仁徳帝や、実在はしたものの史実をどこまで反映しているのか分からない厩戸王の記述など、あまりに極端な倫理的理想像になっていて、「こんなに完璧な人間が本当にいたのか?」と正直、疑いたくなる。

仁徳帝の名前通りの「仁と徳」は、『日本書紀』に数年先行して編纂された『古事記』にも同様の記述がある。いわゆる「民の竃」の伝説で、飢饉で民の家に食事を料理する煙が見えないことを憂えた天皇が、民の竃から煙が立つようになるまでは自らの宮殿の竃でも火を焚いてはならぬ、と命じた、「国民と苦楽を分かち合う天皇」を象徴する逸話だ。明治の行幸の初期の貧困層への下賜金なども、この仁徳帝の神話を見習ったものだとも言える。

一方で『古事記』には、仁徳帝の女性関係が華やかで皇后を嫉妬で悩ませたような記述もあるが、この「モテ男」伝説の方は朝貢先の唐で読まれることを想定した『日本書紀』には言及がない。天皇が女たらしでは古代中国の基本倫理、つまりは当時の東アジア社会の基本倫理であった儒教的に大問題だからだろうが、『古事記』を見るとかくも心優しい天皇なので女性たちが放って置かなかったのでは、と言うようにも読める。

ちなみに仁徳帝に限らず、『古事記』では素戔嗚尊(スサノオノミコト)でも大国主命(オオクニヌシノミコト、大己貴命とも呼ばれ、一般には仏教の大黒天と同一視され「大黒さま」)でも、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)でも、重要登場人物の男性は、いずれも女性や女神たちが放っておかないようなモテ男で、あからさまに性的な記述も少なくない。

天照大神(アマテラスオオミカミ)の「天の岩戸」の契機となった素戔嗚の乱行というのも、『古事記』の記述では天照に仕える機織り娘を絶倫セックスで悶絶死させてしまったことが、素戔嗚の男性器がいわゆる「巨根」であったことの暗示も露骨に書かれている。素戔嗚が相手の女性が死んでしまったことを深く嘆いて号泣し、その涙が大洪水になったという記述まであるのは、性的な力の強さを、自然そのものの恵みと猛威のエネルギーの大きさと重ね合わせたアニミズム的な信仰の反映だろう。

仏教国・日本を代表する聖人君子「聖徳太子」はどう生まれたのか?

『古事記』には名前(上宮之厩戸豊聡耳命、読みはウエツミヤノウマヤトノトヨトミミノミコト、上宮とは太子の住んでいた斑鳩宮のこと)しか出て来ない厩戸王つまり「聖徳太子」の場合は、この用明天皇の皇子は歴史的な実在までなら確実ではあるが、『日本書紀』の記述がどこまで史実を反映しているのかは不明だ。

と言うよりも、『日本書紀』そのものの記述でも、厩戸王は仏教振興に尽力し、自ら優れた仏教研究者で遣隋使によって輸入されたばかりの『法華経』について推古天皇に進講(天皇に学術的なことなどを講義すること)を行ったこと、四天王寺や法隆寺を創建したこと、あとは例の「十七条の憲法」を書いたこと以外は、何をやったのか判然としないのだ。遣隋使の派遣や冠位十二階の制定はいずれもあくまで推古天皇の朝廷の政策であり、厩戸王がその天皇の「摂政」だったから彼の業績だったのだろうみなすのは明治以降の近代に、推古帝のような女性天皇が禁じられたのに合わせて流布した推論でしかなく(ちなみに「書紀」のこの部分の漢文の文面を「摂政」という役職で読むのは文法上おかしい)、前近代に「聖徳太子」はまずなによりも仏教の信仰対象(本地仏は如意輪観音ないし救世観音、つまり観音菩薩の転生活仏)だった。

厩戸王が住んでいたのが飛鳥の朝廷からかなり離れた斑鳩宮だった(今の法隆寺の夢殿がある東院伽藍で別名・上宮王院。本尊の救世観音立像は太子の等身大と伝承され、かつては絶対秘仏)ことなどを考えると、政治的な実権を担っていたのかどうかすら怪しい。

むしろ推古朝のさまざまな政策は、この女性天皇が有能な政治家で、蘇我馬子と力を合わせて様々な、当時で言えば「近代化」だった改革を推進したと見るのが、『日本書紀』の素直な読解ではないのか?

「聖徳太子」については、法隆寺を創建したことは確実だし、四天王寺についても疑念の余地はまずないだろうが、「十七条憲法」は『日本書紀』成立時の創作である可能性が高い。これが厩戸王の業績として書かれているのは、仏教的に聖人(というか生き仏)になっていた「聖徳太子」に政治的な倫理の理想像も仮託する必要が、「王法」つまり天皇を中心とした律令に基づく中央集権法治体制と「仏法」つまり仏教の2本柱で当時の東アジア国際社会に通用する国家になろうとしていた『古事記』『日本書紀』成立時のヤマト王権・天武持統朝にあったから、と考えるのが妥当だろう。

つまりは臣下がお手本とすべき、国家が理想とすべき君主像が、この時点で「聖徳太子」として(実在の厩戸王を基に)創作されたのであり、それが一万円札の肖像であった昭和の半ばまで、天皇の日本史における歴史的役割のモデルケースであり続けた。

『日本書紀』にすら実は政治的実績の記述がない厩戸王が、それでも「聖徳」と言う「仁徳」と並ぶ儒教的に最高クラスの諡号で呼ばれたこと、中国からもたらされたばかりの『法華経』が、相当に長いテクストで内容も難解と当時からみなされていたのにすぐに完全に理解して天皇にその内容を講義したと『日本書紀』に記されていたりすることは、他にも10人の話を同時に聴き分けたとか、大変な親孝行だったなどの数々の伝説・神話も併せて(その全てが創作であったとしても)、日本人の精神史において決して無視できない。近畿地方を中心に今でも「太子町」と言う町名は多いが、この「太子」はもちろん聖徳太子を指す。

無論その理由には、厩戸王が死後まもなく信仰対象になった(今日でも法隆寺や四天王寺、京都太秦の広隆寺など、太子ゆかりの寺院や宗派だけでなく、浄土宗、浄土真宗、天台宗や真言宗でも仏扱い)ことが最も大きいのだろうが、「和を以て貴しとなす」という十七条憲法の第一条に代表されるような「聖徳太子」像が当時の日本が必要としていた道徳的な理想(豪族の連合と衝突で成り立っていた古代国家から天皇中心の中央集権統一国家への脱皮)を体現し、仏教への深い理解し信仰も含め、『日本書紀』成立時の日本人が目指すべき「理想・お手本」の人物像として書かれたと見るべきだろうし、少なくとも日本人の読み手の大多数は(それこそ一万円札が太子から福沢諭吉に切り替わるまで)そう受け取って来た。

聖武天皇と大仏、奈良時代に完成された「象徴」としての天皇像

仁徳帝や厩戸王(聖徳太子)の記述は支配者側、上に立つ側の心得としての理想的人物像の傾向が強く、ちなみに「十七条憲法」もしばしば誤解されているが、「民」つまり一般国民が遵守する「法」ではなく朝廷の官吏・行政官つまり「臣」の守るべき心得だ。その天皇の「臣下」だけでなく「民」も含めて「見習うべきお手本」、半ば神的な君主というだけでなく等身大な、人間的スケールの面も含んだ理想的日本人としての性格がより明確になるのは、奈良時代の聖武天皇だろう。

この天皇について強調されるのは常に、国の制度や行政機構の整備に関する直接の政治的な業績ではなく、仏教の振興と、妻の光明皇后と共に尽力した貧民・病人救済の慈善事業であり、平城京への遷都以上に、その東の外れに東大寺を創建し大仏を建立したことの方が有名なのだ。

聖武・光明夫妻は「仏教徒たる日本人」の理想ないしお手本としてこそ、日本史に大きな影響を与え続けているが、皇后の役割がこの光明皇后ほどクロースアップされ、いわば「天皇夫妻の物語」が語り継がれた例は、他にはずっと以前の神話領域の応神天皇の母・神功皇后と、現在の天皇夫妻くらいしかいない。聖武・光明夫妻の後には有名な皇后や中宮はずっと誰もおらず、強いて挙げるなら徳川家康の孫で後水尾天皇の中宮となった徳川和子(まさこ)だろうが、こちらはその徳川幕府を倒した明治新政府の都合もあって明治以降は無視されがちだ。近代「天皇主義国家」体制の天皇でも、「御真影」で夫婦ワンセットになっていた明治天皇と昭憲皇太后夫妻ですら、実際の一条美子の生涯と業績は最近やっと研究が始まったくらいだ。強いて言えば、あとは大正天皇の妻で昭和天皇兄弟の母・九条節子(読みは「さだこ」、貞明皇后)は良妻賢母・孟母的な伝説も付随して人気があったが、これは軽度の障害者だった大正天皇を意図的に貶めるための対比の対象だった色合いが強い。

いや実は、聖武帝の前に天武天皇・持統天皇の恐らくは史上最強天皇夫妻がいるのだが、この夫妻については天武天皇がクーデタと内乱で皇位についた経緯がタブー視されて来たこともあり、歴史学的に注目されるようになったのは(律令制の制定、『古事記』『日本書紀』の編纂など、極めて重要な歴史的転換を担ったのに)比較的最近のことだ。研究するにも不思議なほど史料となる記録が少ないのは、意図的に抹消された可能性もある。

ちなみに実際の聖武帝は、政治プロパー「王法」の分野でも、遣唐使による積極的な外交で東アジア国際社会における日本の地位を確立し(朝鮮半島の高句麗王国を抑えて唐の朝貢国筆頭になった)、国内的には国府と国司の地方行政制度の完成など業績は大きい。長屋王の乱を治めて皇位の安定継承制度が確立したのもこの代だし、在世中に飢饉や疫病もあったものの、日本という国家の最初の安定した繁栄の時代を作り上げた天皇と評価してよさそうなのだが、それでも聖武天皇と光明皇后についてはるかに重視されて来たのは政治家としての仕事でなく、「敬虔な仏教徒」としての理想的な振る舞いの方なのだ。

ここには、天皇の政治的な役割の変化も関わっているのかも知れない。例えば聖武天皇は即位当時には政治上の機能に応じて都を内政の奈良の平城京、外交の大阪の難波宮、宗教(仏教)の近江の紫香楽宮の三つに分ける野心的な構想を持っていたようだが、これは失敗して奈良の平城京が単一の首都になった。つまり名目上は最高権力者たる天皇でも、必ずしも政治的イニシアティブを発揮できたわけではない。立場上は最高権力者だしカリスマ性も相当にあったはずのこの天皇でも、独裁的な権力の行使は見られないのだ。

天皇に直接権力を行使させない日本的システム、つまり「象徴天皇制」

時代を遡ってこの古代日本国家成立の経緯を見るならば、西暦645年に中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足が蘇我氏を滅ぼし(中国起源の干支に基づき「乙巳の変」と呼ばれる)「大化」という日本で最初の元号を発布、翌大化2年から始まったのが「大化の改新」だ。

それまでの倭国の大王(天皇)を中心に有力豪族が集まった「人の支配」から、中央集権で成文化された法の「律令」に基づく「法の支配」と、その法制度を支える官僚機構による中央集権の統治体制に移行する大改革で、これが引き継がれて大宝律令が完成(大宝元年・西暦701年)、同時に国号も「倭」から「日本」に変わったのが、国の起源の歴史として『古事記』と『日本書紀』もまとめられた天武持統朝だ。

つまり日本各地の土着神が整理されて伊勢の地元神で太陽にも擬せられる天照大神(アマテラスオオミカミ)が天皇家の祖先神とされ、天皇が体系的に神格化されたのもこの夫婦天皇の時代だろう。歴代の天皇でこの伊勢神宮に参拝したのは、明治の国家神道以前では持統天皇だけだし、その天照の『古事記』『日本書紀』における記述のモデルは持統帝ではないかという説もある(ちなみに現代の神社の格付けはこの時代のものではなく、明治時代に多くの土着神の神社が廃止された上で定められたもの)。

中大兄皇子と藤原(中臣)鎌足に始まる「大化の改新」は、対外的には中国・唐の国家体制を模倣することで「日本」が国際的な最新水準の文明国に脱皮する意味を持っていた。だがその構造が唐の法制度支配と大きく異なっていたのは、「天皇」を名乗るようになった君主(天武の以前の倭の大王はリアルタイムには「天皇」を名乗っておらず、漢風の天皇号は『日本書紀』等の後付け)自身の直接権限が大幅に制限されるようになっていた点だろう。

天武・持統の夫婦天皇と「日本」「天皇」の誕生

中大兄皇子(天智天皇)の時点では、中国皇帝に倣って天皇家に権限が集中する中央集権制度を目指したと解釈すればいいのだろうが、その天智の死で後継争い(壬申の乱・西暦672年)が起こり、この内戦に勝利して皇位についたのが弟の大海人皇子=天武天皇で、その崩御で後を継いだのが妻で天智の娘でもある持統天皇だ。

この夫妻(恐らくは天武の在位中から、特に妻の持統)が強力な政治的なイニシアティブを発揮して改革を先導・完成したわけだが、しかしその中身はといえば、むしろ自分たち天皇にこそ権限が集中しない体制とすることで、日本の政治に法と制度に基づく安定性を実現するよう仕向けたように見えるし、少なくとも歴史的な結果は実際にそうなっている。

ここには天武・持統なりの合理的な判断があったのかも知れない。中華帝国の制度のように皇帝(日本なら天皇)に政治権限が直接に集中すると、その皇帝・天皇個人の能力や人格で政治が直接左右され、個人的な判断ミスが国の行く末を危うくするリスクも大きくなる。

現に天武の兄・天智の政権末期には、倭国(当時の国号)は朝鮮半島での百済と高句麗の紛争に無謀な介入を試みて白村江の戦いに惨敗している。百済側についたために高句麗の支配権を承認していた唐とまで対立関係になってしまい、その報復懲罰で巨大帝国として発展を続ける唐に征討されるリスクで国家の存立(今風にいえば「安全保障」)そのものが危ぶまれる事態にまで陥っているし、内政では天智が晩年に息子・大友皇子に政務を任せたせいでの混乱も起こっていた。

天武が兄・天智の息子・大友人を討つことで天皇となったのも、本人の野心以上に天智政権の末期に混乱していた倭国の政治的な安定を取り戻す必然があったのだろう。しかもこの時代まで倭国では大王位継承のルールが法制度的に確立していなかったため、大王の崩御ごとに複数いた有力継承者それぞれに有力豪族がつき、次の大王を巡る内乱が繰り返されて来た。そこで大宝律令では血統によって皇位の継承権の順位が詳細に決められたが、今度はその血統上の正統継承者第一位が、個人の能力や適不適に関係なく、天皇になってしまう。つまり最悪、政治的資質のない天皇が強力な権限を持つリスクも出て来る。

現に聖武天皇と同時代の唐では、玄宗皇帝がその最大版図と最大の繁栄に到達し、だからこそ当時の日本もこの唐の最盛期の多大な影響下に発展した(例えば日本の正倉院御物に西域・中央アジアの文物が多いのも、唐がローマにまで至る「シルクロード」の交易路を整備・保護した結果であり、当時の唐の西方ブームの反映でもある)が、その治世の末期には「傾国の美女」楊貴妃との熱愛伝説でも知られる安禄山の乱で最盛期から一転、国力の著しい衰退が始まっている。玄宗のようなずば抜けて有能な政治指導者でも(あるいは日本でも中大兄=天智天皇の末期がいい例)高齢などの諸事情で政治力が衰えたり、判断を誤るリスクが避けられない以上は、天皇なり皇帝なり個人への権限の集中は、必ずしも有益とは言えない。

端的にまとめるなら、安定した皇位継承制度を確立し、内乱を防止するために血統の優先順位で次の天皇が決まるのであれば、今度はたまたま血統だけで皇位を継承した無能だったり幼稚でわがままだったりする最高権力者に国政を私物化される危険もある。だからと言って皇位の継承を能力や人柄本位とすれば、今度は有能だったり人気のある皇位継承者のバックに豪族がついて派閥争いになり、代替わりに内乱が起こるリスクが避けられず、現に長屋王の乱までそうした事態が繰り返されたのが、日本国家の黎明期だった。

常に失敗する「天皇親政」の歴史の教訓

聖武天皇の平城京(奈良)遷都と大仏建立以降では、天皇が実態権力を掌握し主体的な統治を行ったと言えそうなのは、平安京への遷都を敢行し、「征夷大将軍」を任命し東北地方での朝廷の版図を確定した桓武天皇と、鎌倉幕府を倒し「建武の親政」を行った後醍醐天皇、そして明治維新で「天皇中心の近代国家」として日本が再定義されて以降昭和の敗戦までくらいしかない。そして桓武天皇以外は、どれも失敗に終わっている。

後醍醐天皇が倒幕の勅命を発し新田義貞、楠木正成、足利尊氏らに鎌倉幕府を滅させて実現した「建武の親政」は2年しかもたなかった。それも天皇を熱愛と言っていいほど深く慕っていた尊氏に政権から追われたのは、有り体に言えば後醍醐帝の政治がまったく機能せず、人望を一気に失ったからだった。

密教の秘儀もマスターし神通力を奮ったかのような超人伝説まであり、死後もいくつかの仏教宗派で信仰対象にもなっているほどカリスマ性に溢れた「天才天皇」の後醍醐帝だが、いざ親政を始めると自らの倒幕を実行してくれた武家を無視して貴族優遇の側近政治に走り、鎌倉時代のルサンチマンが溜まっていた貴族層があからさまに武家を差別した結果、政治はあっという間に腐敗し停滞してしまった。

鎌倉幕府滅亡後の武家の最有力リーダーと目されていた足利尊氏は、貴族の横暴と天皇の失政に不満を募らせた武家たちの要請で叛旗を翻さざるを得なくなった面が強いし(尊氏は南北朝分裂後も後醍醐帝を深く愛していたようで、吉野に逃れた帝が崩御すると尊氏は嘆き悲しみ、側近でブレーンの禅僧・夢窓疎石国師に頼んで帝の菩提を弔うために創建されたのが京都・嵐山の天龍寺だ)、後醍醐天皇はそれでもなお自分の側を離れず義を通そうとした新田義貞、楠木正成ら武家の戦争のプロとしての意見を無視、2人は帝と側近貴族に無理難題を押し付けられて、勝ち目のないと分かっていた戦いで非業の死を遂げた。この一連の政治的大失敗は、天武持統朝にその基礎が作られた「天皇に直接権力を行使させない日本的システム」の正しさを証明したようなものだ。

明治以降に本質的な大変化を経た近代天皇制でも、明治天皇の場合は主体的な政治的役割を果たした例は見当たらないし(本人にやる気や資質がなかったのか、明治政府が天皇にただの「お飾り」を求めていただけなのか)、大正天皇は生まれつきの軽度の脳性麻痺を理由に療養生活に入らされている。実際には知能になんの影響もない障害どころか、知的能力にむしろ長けていたにも関わらず、知能に問題があったかのような俗説すらさんざん流布されたのは、逆に知能が高く教養もあった天皇だけに国家体制の矛盾や問題点にも敏感だった(もっと言えば民主・民権主義者でリベラリストだった)から政府に都合が悪かった可能性も指摘される。

つまり明治憲法下の天皇制ですら、実際に天皇の意思が直接に政治に反映されたのは、療養に追いやられた大正天皇の摂政になってから昭和20年の敗戦までの昭和天皇だけだし、その「天皇陛下万歳」国家体制の無残な結末については、今さら言うまでもあるまい。

日本の「万世一系」世界最長王朝はなぜ継続できたのか?

律令制の確立以降の天皇では、桓武帝だけが「親政」と国家体制の刷新に成功したとの評価に値するだろうが、そこで桓武が作り上げた平安時代の政治システムもまた、天皇への直接権限の集約と天皇による直接の権力行使を避ける構造担っていた。以降平安時代の政治は式次第に至るまで厳密に詳細が決まった「有職故実」制度の運用と、貴族の合議や権力闘争によって進展し、その中で中臣鎌足の子孫である藤原氏、特に「北家」が伴善男や菅原道真などの有力貴族を次々と排除して実権を掌握し、摂政・関白・太政大臣を歴任するようになって政治実務の最高責任者として具現したのが藤原道長の時代の最盛期で、よって平安時代の中期・最盛期は「藤原時代」とも呼ばれる。この道長・頼通の家系が、後の五摂家だ。

安定した政治がもたらした経済産業の発展に起因する、シンプルな古代国家から中世的な重層社会への必然的な変化に、藤原北家中心の前例踏襲的な「有職故実」踏襲政治が追いつかなくなると(ちなみに日本で貨幣経済が始めるのもこの平安後期。この時代から北宋・南宋から輸入され始めた中国製の銅銭が、江戸時代に徳川幕府が統一通貨を発行するまでの日本の基幹通貨となった)、危機感を覚えた天皇家は、退位した天皇が上皇として院政を敷くことで、再び政治実務のメインプレイヤーとなる。

だがここでもなぜか、現役・在位中の天皇が直接権力を行使することは避けられている。白河院や後白河院は貴族間の派閥争いや、勃興する武士階級の利害や心理を巧妙に利用し、陰謀や権謀術数を駆使する政治手腕をいかんなく発揮している。こと後白河院の狡猾な政治的計算と権謀術数と絶妙な政治バランス感覚は、源頼朝に「天下一の大天狗」とまで言わしめたが、その日本史上屈指の政治的才能とも言える辣腕を、現役の天皇時代には奮っていないのだ。あたかも天皇である間は自分の傑出した才能すら押さえ込んでまで、あくまでイノセントな存在でなければならなかった、と言わんばかりではないか?

いや大化の改新の時点ですでに、天皇家にはこの傾向があったとも言える。中大兄は乙巳の変クーデタで母の皇極天皇が退位した際にも自身が天皇に即位する要請を固辞し、叔父の軽皇子を孝徳天皇として即位させながら、その天皇が難波宮(今の大阪市・大阪城の南)への遷都を求めても無視し、難波宮にその天皇を孤立させ、失意の天皇はそのまま崩御している。すると中大兄はまたもや即位を固辞、母の皇極を斉明天皇として再び即位(重祚)させた。自らが天智天皇として名実ともに最高権力者となるのはかなり後のことで、そしてその時には白村江の戦いの大惨敗という大きなミスを犯している。

もっとも、天智天皇が無謀な白村江の戦いをやったのは、あえて、ないしわざとだったという見方もある。

ヤマト王権の成立期から、倭国は朝鮮半島と密接な関係を持ち、漢字と儒教(四書五経)も、仏教も、三国時代の半島からもたらされただけでない。もっとも重要なこととして、当時の日本列島では鉄を産出しておらず、ヤマト王権が最有力勢力となって統一王朝を樹立できたのは朝鮮半島から鉄を輸入できたことが大きく、だから倭国の朝廷は半島に出先機関的な領土を有したり、積極的に三国時代朝鮮半島の諸王朝と関係を深めたりその戦争に介入したりして来た。

天智天皇の代でも豪族の中には従来通りの朝鮮半島への積極介入で引き続き利権の確保し続けるべく、百済を日本の傀儡王朝とすることすら主張する勢力もあった。どうも天智帝はそんな自分の意に反する豪族たちをわざと白村江に派兵して、負けて皆殺しにされるよう仕向けたように考えられるのだ。

さらにこの敗戦後には、天智帝は唐に侵略されるかも知れないと危機感を煽ることで自らへの権力の集中を正当化し、特に九州方面の豪族を押さえ込むために、現在の福岡県に朝廷直轄の太宰府を設置した。名目はあくまで唐の侵攻に備えると称し、さらにその太宰府を水城や長大な土塁、防壁などを備えた巨大な羅城で取り囲ませてまでいる。もし唐の侵攻があれば真っ先に攻撃されるであろう九州の豪族たちは、天智帝の言いなりになってこの大土木事業に膨大な労力を注がされ、太宰府の強力な中央集権的支配下に組み込まれた。実は唐が侵攻して来ることなぞあり得ない、天智に騙された、と気づいた時にはすでに後の祭り、九州は天智帝の朝廷の強固な支配権下に組み込まれ、逆らえない状態になっていた。

『万葉集』にも歌が数々載せられている「防人」は、名目上は大陸からの侵攻に備えた国家防衛のために配備され、だからこそ「万葉集」の特にこの部分は戦前の愛国主義プロパガンダにも利用されたが、実態は九州の豪族を押さえ込んで朝廷に従わさせるために派遣され続けた軍事力だった。唐との朝貢関係(つまり正式国交)が回復して以降、そんな対外防衛の備えの必要も、実際にはなくなっていたのである。

天智・天武の両天皇の時代に、日本は朝鮮半島の権力抗争に直接関与する密接な関係を解消することで半島の戦乱から自由にもなり、一定の距離と独立性を保った島国という形で支配領域も明確化された「日本」へと変化して行った(「日本」は大宝律令の完成と同時に天武帝が名乗った新たな国号)とも言える。その天武帝と妻の持統天皇の代に、天皇の意志や政治力よりも法と制度による統治体制が日本で一応の完成を見ると同時に、天皇自身が権力よりも権威を担い、その政治力は制約される「象徴天皇制」的システムもまた作られていた。

天武・持統が「日本」とその「天皇」を定義づけると同時に『古事記』『日本書紀』でそれまでの日本の歴史もまとめていることは重要だろう。夫婦でもあったこの両天皇は国家成立の歴史記述に遡って仁徳帝や聖徳太子によって「天皇」のあり方の理想的な定型まで定め、その「象徴天皇」像は聖武天皇によってほぼ完成され、桓武帝の平安遷都で、3世紀近くに及ぶ政治的安定の平安時代が始まり、中華帝国を中心とする東アジア文明圏に属しながらも一定の独自性も併せ持った「日本」という国になって行くのだ。

天皇本人の責任が問われないためには、天皇は直接権力を行使しない

日本が東アジア文明圏の中で際立っている、他に類例のない特徴は、王朝交代がなかったことだとよく言われるが、ではそれはなぜ可能になったのだろう?

天皇が直接に政治的な実権を行使すれば、誤った政策の結果責任も問われることになったはずだし、権力闘争の過程で理不尽に人命を奪うことも避けられなかっただろう。そうした恨みや不満が溜まれば、いずれその王朝は崩壊するのが普通の歴史的な流れだ。東アジア文明圏の中心思想・統治理論となった「儒教」では、こうした王朝交代が「易姓革命」として理論化されている。

平安時代前期には、伴善男や菅原道真などの有力貴族が追放されて失意のうちに亡くなっているし、こと菅原道真は「祟り神」となって御所清涼殿に落雷したと当時は信じられ、「天神」「天満宮」として神格化された。道真の死を招いた太宰府への左遷は醍醐天皇の勅命だったはずが、これは右大臣・藤原時平の陰謀と讒言が原因とすることで天皇の直接責任は問われないようになり、『天満宮縁起』では道真の亡霊がカミとなって眷属(配下の神)の雷神に命じたという清涼殿への落雷も、あくまで時平を狙ったものとされている。だがこの解釈はいささか無理がありはしないか? 清涼殿は天皇の日常の執務の場であり、普通に考えれば雷で命が危なかったのは天皇のはずだ。

この清涼殿への落雷事件で道真が祟り神として恐れられたことから、朝廷は道真を神として祀ることでその怨霊を鎮めるべく、京都の北野天満宮、道真が没した太宰府のその屋敷跡に太宰府天満宮を創建した。こうして菅原道真が学問の神様「天神」となった経緯が典型だが、日本には古来、怨霊を恐れる御霊信仰の伝統がある。昭和後期のオカルト・ブームや近年の「パワースポット」ブームはその意味で、無自覚な文化的伝統の継承でもある。

この怨霊にこだわる国民性があるからこそますます、天皇本人つまり朝廷、国家そのものがそんな怨霊に祟られる事態は避けなければならなくもなる。たとえば道真の怨霊が天皇自身の過ちをこそ告発し天皇の死を求めてしまえば、天皇こそが仏教の因果応報や、儒教で君主に求められる徳と責任に反してしまう、道徳的な権威の失墜が生じてしまうだけで済まない。

「怨霊の日本史」と、だからこそ純粋無垢でなければならない天皇家

古代の日本においては『古事記』のイザナギ・イザナミ神話にもあるように、死と怨霊はそれ自体が「穢れ」でもああった。だからこそ、怨霊の封じ込めや鎮魂・鎮護は古代から日本ではとても重視されて来た。仏教も伝来以降そのような慰霊鎮護の効力が強調されて来た。

先ごろ亡くなった哲学者の梅原猛は、法隆寺には聖徳太子の怨霊を封じ込める様々な記号がが随所にあると論じた(『隠された十字架〜法隆寺論』新潮社)が、これは極端すぎて歴史学的に支持する論はほとんどないとはいえ、その聖徳太子(厩戸王)が建立した四天王寺が、蘇我氏と厩戸王が滅ぼした物部氏の邸宅跡に建てられたと言う伝承は古来知られており、現に中心伽藍の陰には物部守屋の怨霊を祀ることで鎮撫する社がある。日本最古の仏教寺院のひとつである四天王寺それ自体に、日本の仏教国化を進めた蘇我氏(厩戸王はその血統の王子でもあった)に反対して滅ぼされた物部氏の怨霊封じ込めの意味が創建当時から付与されていて、それが現代にもしっかり継承されているのだ。

春日大社の不可侵の至聖域・霊域である御蓋山や、春日山なども含む奈良の東側の山々には、古代に遡る霊的な意味があった痕跡が見られる。この山々の強力な地霊を抑え込むために、聖武天皇の東大寺建立に当たって九州・宇佐地方の農耕神だった八幡神が「鎮守」つまりより強いカミとして迎えられた。この手向山八幡宮をきっかけに八幡信仰は全国に広まり、八幡神(八幡大菩薩)は神話上の天皇である応神天皇とも同一視されるようになり、清和源氏(源頼朝以降の征夷大将軍の家格)の氏神となり、現代でも各地に八幡宮や八幡神社がある。ちなみにこの時から八幡神には仏法を守りお仕えする、という位置付けが付与され、平安時代に神像彫刻や図像として視覚的に表象されるようになると、その姿は「僧形八幡」つまり剃髪して袈裟を身につけた仏僧の形を取っている。また江戸時代までは、宇佐八幡宮も鎌倉の鶴岡八幡宮も正式には「寺」(宇佐八幡は「弥勒寺」、鶴岡八幡は「八幡宮寺」)だった。

この東大寺鎮守の手向山八幡の南に隣接する春日大社はと言えば、興福寺と一体化して「春日興福寺」となり、元は藤原氏の氏寺・氏神だったものが東大寺以上に重要な寺社として国家的庇護を受け続けた。現在の奈良公園全体が、明治維新の神仏分離・廃仏毀釈で政府に没収されるまでは興福寺の広大な境内だった。

春日明神の五柱の祭神は不空羂索観音ないし釈迦如来、薬師如来、地蔵菩薩、千手観音、文殊菩薩と同一視される「春日権現」として今日でも大和の国(奈良県)全体にその信仰の痕跡が見られるが(たとえば江戸時代元禄期以降「女人高野」として知られるようになった室生寺や、奈良の東・柳生の里の入り口にある円成寺とその近辺の神社)、その第一神である武甕雷(タケミカヅチ)は、社伝では鹿島神宮(常陸国・現在の茨城県)から降臨したとされているが、『古事記』によれば高天原から瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)や神武天皇ら天孫(天照の子・孫で『古事記』『日本書紀』で天皇家の祖先と定められた)の眷属として共に降臨した「天つ神」で、素戔嗚尊や大国主の系譜の出雲系の「国つ神」の側の抵抗を暴力的に押さえつけた記述もある。武甕雷に諏訪湖沿岸にまで追い詰められてそこに祀られたのが大国主の息子の1人・建御名方神(タケミナカタ)で、諏訪神社の主祭神になったと言う記述は『古事記』にあり『日本書紀』にはない。日本の建国神話は『日本書紀』の段階で天照を天皇の祖先神とみなされた天照=瓊瓊杵尊=神武帝を主軸に整理されたが、『古事記』の段階ではまだ各地の土着神へのアニミズム的信仰と、ヤマト王権に押さえつけられ怨霊となり得るカミガミを巡る記述が散見される。

「怨霊の日本史」の革命者としての宗教的天才・弘法大師空海

正史上の記述では整理されたり歴史から消されたとはいえ、土着神やヤマト王権の成立過程で淘汰された勢力の怨霊への恐れは、平安時代でも日本の政治に直接的な影響を与え続けていた。平安京以前は遷都が繰り返されたのも、地霊信仰と怨霊への恐怖が重要なファクターだったし、空海(弘法大師)が当時の東洋全体の仏教界で最新思想だった密教の秘伝を授けられて唐から帰国して開いた真言宗がまもなく朝廷の崇敬を受けるようになったのも、密教のミステリアスな秘儀(修法)や憤怒の形相の不動明王、五大明王の造形が怨霊鎮護に効果的と考えられたことが大きい。

嵯峨天皇が空海に与えた京都の東寺が正式には教王護国寺と名付けられたのも、この「護国」は近代人の想像しがちな軍事的な意味ではない。「霊的な安全保障」というか、怨霊の仕業と考えられた疫病や飢饉、天変地異から国と民を守ること、天皇家自身の病や不幸を防ぎ安産などを祈願すると意味での「護国」だ。現代人から見ると密教修法の呪詛的側面と、空海がこれも中国から持ち帰った先端土木技術(それを活かした溜池や堤防は今も全国に残っている)はミスマッチに思えるが、どちらも当時としては等価の「最新科学」であり、天皇と民を守り、つまりは国を守る「最先端技術」だった。

また空海が持ち込んだ密教の理論の応用で、日本古来のカミガミは仏が日本向けに姿を変えて現れたもの(「権現」)とみなされ、いわゆる神仏習合も理論的に完成される(「本地垂迹説」)。つまり日本の土着神は仏教に取り込まれその信仰が一体化する体系化が完成されたわけで、例えば天照大御神は大日如来、大国主は大黒天、素戔嗚は牛頭大王、聖徳太子は観音菩薩と言った具合になった。

真言宗が導入されても「怨霊の日本史」は続き、平安時代には伝説的な陰陽師の安倍晴明も活躍した(占い師のように思われがちだが、安倍氏は中国伝来の陰陽五行思想に基づく天文学も司っていた)。

院政期には、後白河法皇の思惑で即位した崇徳天皇は、その後白河の策略で父・鳥羽上皇との激しい対立に追い込まれて退位し、謀反に問われて讃岐に配流されて亡くなり、菅原道真と並ぶ「日本三大怨霊」のひとつとして恐れられることになる。元天皇で、それも強烈な骨肉の恨みを持っただけにより強力な怨霊になったと信じられたのだろう。そして菅原道真が御所への落雷を経て「天満宮」「天神」という人気のカミ様になったように、特に船を襲う怨霊となった崇徳院は船乗りの守り神の「金比羅宮」の祭神のひとつ、つまりこれまた日本で屈指の人気のカミ様として神格化された。ちなみにその金比羅山は、一方でその地形から阿弥陀仏と同一視もされている(山の形がその横顔に見えるらしい)。

なお「日本三大怨霊」のもう1人が、関東で反朝廷の反乱を起こした平将門で、こちらは神田明神の「まさかどさま」として信仰される「江戸総鎮守」の、やはり今でも大人気のカミ様だ。京都に運ばれた将門の首が天空に舞い上がって関東に飛んで戻って来たという不気味な伝説で知られる平将門首塚が今も東京・大手町にあるが、神田明神の旧境内はこの近辺で(江戸時代に幕府の庇護を受けて江戸城の鬼門封じとなる現在の場所に移転)、「かんだ」は首を取られた将門の「からだ」が首なしのまま歩いて倒れた場所で「からだ」の訛ったもの、という説もある。ちなみに室町時代に将門が正式に神格化された時の神号は「蓮阿弥陀仏」だ。

「易姓革命」を起こさないためには、天皇は実権を持ってはならない

日本に文字(漢字)が伝来したのは、朝鮮半島経由で儒教の『四書五経』がもたらされたことに始まり、こと大化の改新以降の律令国家化において、その「王法」の基本的な政治理念は儒教を根拠として来た。

中国における本来の儒教では、君主・帝王は「天命」を受けて統治を行い、その「天命」にそぐわないような政権に堕落すると淘汰される「易姓革命」の論理で王朝交代が理論化・正当化されて来た。近現代風に言い換えるなら「絶対権力は絶対に腐敗する」、現実ベースで考えるならば権力の行使には自ずからなんらかの不道徳、例えば権力闘争に伴って人の命を奪うような「罪」が付随するもので、まして戦争ともなれば大量殺戮すら必然となる以上は、天皇が染みひとつない清らかな存在であるには、直接の権力行使から切り離すほかはなかったのだろう。

「易姓革命」論理を日本に当てはめれば、天皇家が怨霊に祟られるようではそれこそ「天命」の庇護を失い淘汰されるのが当然になる。言い換えるなら、後白河法皇を源頼朝が「天下一の大天狗」と評したようなことが現役の、在任中の天皇の行いであれば、天皇家が「徳」と「天命」を失って淘汰されなければないという理屈にも、儒教的にはなるし、そのせいか、退位し天皇でなくなったからこそ実権を動かせたのが「院政」だった。そして鎌倉時代の当初には後鳥羽上皇の院政と鎌倉幕府の「二重権力」状態になったのが、後鳥羽上皇が幕府に対抗しようとして失敗、配流される一方で、鎌倉では源氏の将軍は三代だけで終わり、以降は京・朝廷から迎えた名目上の将軍を頂きつつ、北条執権家が実際の政治を動かす、いわば「擬似天皇制」的なシステムが採用された。

こうした摩訶不思議で独特の君主制システムこそが、天皇が歴史上他に例を見ない長い王朝になった最大の理由だ。現実的な権力闘争においても、実態権力を持たない「象徴権威」の天皇であれば、その天皇家を倒して新たな王朝を作る意味はなくなった。

平安時代に藤原北家が摂関政治で政治の実務を担うようになり、平安末期に貴族に代わって武士が治安維持や徴税などの実社会の権力行使を受け持ち、武家政権の鎌倉幕府が成立して以降、室町時代、戦国時代、江戸時代を通して、天皇と朝廷は行使できる権力がなかったために淘汰されることもなく、淘汰され更新される実際の権力統治体制の権威的裏付け(たとえば関白や征夷大将軍の位は、あくまで天皇が授けるもの)として機能し続けた。

応仁の乱で足利幕府の全国統治システムが崩壊し「戦国時代」になると、儒教本来の思想であれば血を血で洗い民が苦しむ戦乱の世は君主の徳のなさとみなされ、「易姓革命」的には天皇家が倒されてもおかしくなかったはずだし、現実にも朝廷は経済的に困窮し、御所も維持できずひどく荒廃していた。

だがそれでも、中世社会の権威を支える三本柱だった幕府・宗門・朝廷のうち、幕府は足利義昭が織田信長に京都を追われて崩壊し、宗門つまり仏法の権威の方も、信長が比叡山の焼き討ちと虐殺を実行、本能寺の変の時点では高野山の破壊と虐殺も秒読み段階になっていた。だがその信長でさえ、朝廷が与える官位にだけは依存し続けていた。配下に恩賞として与える領地が足りない時には、官位を与えることが出来たりしたのだ。

話はその戦国時代に突入した当時に遡るが、この時の天皇・後奈良帝は、民が安心して暮らせる世の再来を祈願して、全国六十余州それぞれの一ノ宮(律令の地方行政単位であるそれぞれの「国」の筆頭の神社)に自らが写経した般若心経を寄進している。その一巻一巻の末尾に、天皇は自らの徳のなさゆえに民が苦しんでいることへの切実な慚愧の念を書き記した上で署名している。朝廷すら財政的に困窮し自らも苦しい立場に置かれても、天皇はその身の不遇よりも民を思うことで「徳」と権威を維持したわけだ。

まもなく天皇となる皇太子・徳仁親王は、現天皇の退位の意思が明らかになった後の誕生日記者会見で、この後奈良天皇宸筆の般若心経に言及し、自らの考える天皇の心構えはかくあるべき、という実例としている。

ちなみに今の天皇は生物学者だが、次の天皇たる徳仁親王は歴史学者で、専攻は中世史だ。

私利私欲や私心は一切なく、ひたすら民を思う「無垢」の天皇

折しも5月の新天皇即位のタイミングで、人形浄瑠璃「歴史もの」屈指の傑作『妹背山婦女庭訓』が東京の国立劇場で通し上演される。乙巳の変・大化の改新に取材したこのドラマで、作者の近松半二はこうした日本の特異な歴史の中で醸成された「天皇制」の本質の一端を、ストレートであると同時に複雑な表現で、鮮やかに浮かび上がらせている。

史実ではまだ中大兄皇子だった頃の、乙巳の変の前の設定で、終幕で藤原(中臣)鎌足が蘇我入鹿を滅ぼす展開だが、戯曲ではこの時点ですでに天智天皇で、その天皇が蘇我入鹿の陰謀で宮中を追放されるのが物語の発端になる。そして実際の史実では乙巳の変の首謀者で大化の改新のプロセスでも実際に権力を行使し続けることになる有能かつ野心的な政治家の中大兄は、盲目でその純粋無垢さが空恐ろしいほどの、無邪気すぎる神聖君主として登場するのだ。

この天智天皇(史実の天皇とはおそらく真逆の性格)は粗末なあばら家にかくまわれているのに、それまで畳の床しか知らず、しかも目が見えないので、板張りのすべすべした床を磨き上げられた豪華な何かと誤解して、追われる身の自分を臣下と民がそこまで厚遇してくれていることに心から感謝する。衣装も純白で文字通り「無垢」を表象する、子供のように無邪気な天皇は、まったく自分の利得を考えず、ひたすら藤原鎌足ら自分に尽くしてくれる臣下たちの苦難を思い涙する。そしてここまで徹底して無私で無心な天皇だからこそ、なんとか宮廷に復帰させようと、あらゆる手を尽くして反・入鹿の再クーデタ活動を指揮するこの戯曲の裏の主人公・藤原鎌足の陰謀戦略が凄まじい。近松半二がドラマのクライマックスとして設定し、観客の心を揺さぶるのは、その鎌足の天皇に尽くす陰謀ために次々と人身御供となる、若い男女たちの悲劇だ。

『妹背山婦女庭訓』の鎌足が悪虐とさえ言っていい策謀まで実行できるのも、鎌足もまた自らの利益には関心がなく、ひたすら無私無心かつ純粋に、無私で純粋な天皇のために尽くしているからだ。そして鎌足がひたすら天皇を思い、天皇が民をひたすら思う無垢の存在であるからこそ、若い男女の幸福が鎌足の策略で非業の死を遂げる残酷でグロテスクな展開ですら、やむを得ぬ犠牲として許容されてしまいかねない。

近松半二がこうして浮かび上らせた天皇制の構図のグロテスクさは、人形とはいえ「天皇」が見えてしまい、その言葉が直接聞こえてしまうことで鮮明化される。極端なまで理想的に純粋な神聖君主は、その存在自体があまりに純粋なので現実離れしていて、その真摯なセリフの無邪気さはほんとんど馬鹿馬鹿しい。だがそれを言うなら前近代までの天皇はほとんど「禁裏」とまで呼ばれた御所を出ることがない「見えない存在」で、その禁裏の中でさえ、ごくごく一部の側近や貴族でもなければ簾ごしにしか見ることのない相手、いわば「不可視の権威」だからこそ、民は天皇を道徳的な権威として信じ続けることが出来、その担保があったことで江戸時代の幕藩体制にも絶対的な道徳的裏付けが成立した。言い換えれば天皇が常時見えてしまえば、本当はそんなに完璧ではないことも明らかになってしまうわけだし、逆にそんな完璧な人間がいれば、むしろ「人間離れ」して不自然にすらなりかねないか、『妹背山婦女庭訓』の天智天皇に至ってはまるで子供だ。

天皇の意思を「忖度」することで倫理がギリギリで担保される日本の政治文化

江戸幕府の統治理論は、幕府が征夷大将軍として天皇の民を預かり、各大名はその幕府から天皇の民を預かっているとみなし、だからこそ各地の支配者たる武家大名がその民に尽くすことこそが、天皇の「臣」として民を預かっている将軍家への忠義だとみなす論理構造によって幕藩体制が正当化され、しかも武家が武力によって将軍や天皇に忠誠を示すのではなく天皇の「徳治」を「お手本」的に見習って民の生活の安定に腐心するよう仕向けたことで、経済も発展し、民衆を巻き込むような内乱も防止された。

つまり前近代に天皇が見えなかったからと言って、存在感がなかったわけではなかったのだ。民の幸福を祈り続けるという地位を与えられた天皇の、その人自身の人柄や思いについても、宸筆と呼ばれた天皇の直筆の書は全国の大きな寺社仏閣の扁額で日常的に見ることができたし、直接の命令である勅命や綸旨などはめったに出されなかった(それも天皇の直接の言葉ではなく、宮中で延々と審議された結果)一方で、天皇本人が自らの心情を込めて詠んだ御製の和歌も、京都を中心に都市部では、江戸時代にもなれば庶民にもかなり知られていた。

日本では中世ですでに文字コミュニケーションが普及していた形跡があり、江戸時代になれば都市を中心に庶民レベルで識字率が高まっている。庶民でも子供は寺子屋で読み書きを習うのが当たり前になり、江戸時代後期ともなれば極端に複雑で長大な物語の「読み本」が人気の大衆文化になっている。大ベストセラーになった滝沢馬琴の「椿説弓張月」や「南総里見八犬伝」などは、相当に儒教的な教養や過去の歴史背景の知識も必要とされる物語だ。先述の『妹背山婦女庭訓』や「義経千本桜」、曽我ものなどの浄瑠璃、歌舞伎の時代物も同様で、歴史や儒教に関する一定の教養なしには理解が難しい。同時代の事件に取材した「忠臣蔵」でさえ、芝居は時代設定は南北朝時代に置き換えられている。読み本や浮世絵には「源氏物語」や「伊勢物語」のパロディも多く、つまり「百人一首」や「古今和歌集」の「三十六歌仙」も庶民大衆文化に入り込んでいた。それだけ識字率や教養水準が全般的に高かった江戸時代の日本では、例えば幕末期には孝明天皇の「すみのえの 水に我が身は沈むとも 濁しはせじな 四方の國民」と言う御製の和歌に込められた真意への憶測、要するに歌から推測する天皇への忖度が、攘夷思想の流行の大きな支えとなったりしている。

昨今「忖度」と言う言葉があまり良くない意味で広まっているが、宸筆の書から天皇の人柄を、御製の和歌や「禁裏」の奥深くから何重もの伝聞を経て漏れ聞こえることを手がかりに天皇の思いを忖度することこそが、日本の政治の最低限の倫理を担保し、実態権力を制約する抑制装置として機能し続けて来ていた。

つまり「忖度」そのものは天皇制の根幹にあり、日本文化そのものだったとすら言える。またそうなった背景は、徹底的に純粋無垢が付与された見えざる天皇であるがゆえに、その神聖な権威性が極度に高められた天皇の言葉は、直接的に発せられてしまえば影響が極めて大きく、勅命となれば絶対服従で逆らえば「朝敵」ともな理「天罰」すら招きかねないからこそ、滅多なことで世間を荒立てないように、天皇が直接の言葉で意思表明することをなるべく避けて来たとも考えられる。

そんな天皇への「忖度」はむしろ美徳ですらあったはずで(なにしろ天皇は無私・無心に民を思う尊い徳の持ち主のはずなのだから)、「忖度」が問題になり得るのはあくまで「何を忖度するのか」に寄るはずだ。徳と仁に満ちているはずの天皇の意思を忖度するのなら、忖度する臣下は結局は自身の良心や倫理観を最大に働かせることになるのに対し、権力者の趣味や私利私欲やお友達人脈を忖度するのでは政治腐敗にしかならないのだから、天皇は忖度すべきだが総理大臣を忖度するのはおかしい、と言うだけの話なのだ。だいたい総理大臣なら、忖度なぞ期待せずにはっきり言うことが政治家の役割だろう。小学生に「教育勅語」を暗唱させたいのなら国会で堂々とそういう「教育改革」でも訴えるべきであり、それが出来ないから官僚に極右カルト小学校への便宜を測るよう忖度させるなどというのは、天皇制の伝統に対する冒涜でしかない。

天皇の政治的発言が憲法で禁じられているわけではない。だが…

そもそも天皇の声に至っては、禁裏の奥底にいるのだから近代の機械技術なしに声が伝わるはずもない(民衆の面前に馬車や馬で行進し、演説もする西洋の君主とは正反対だし、ことフランス絶対王政を確立したルイ14世などはその食事までが一般公開行事だった)わけで、日本人が天皇を初めて「見た」のは明治天皇の行幸と御真影が初、そしてその声を聞いたのは昭和天皇の終戦の詔勅の「玉音放送」が初だ。

現代でも、天皇が直接的な政治的発言をすることはまずない。一般には憲法上できないと理解されがちだが、なぜちょっと考えればまったく論理倒錯した話を誰も疑わないのだろう?

憲法はあくまで天皇が「政治的権能を持たない」と規定しているだけ、つまり誰であろうが天皇の命令に従う必要がない、と言うだけのことだ。天皇が何を言おうが政治的決定においてそれに従う必要はない、というのが「権能を持たない」の普通の意味であって、憲法の文言は天皇の政治的発言を禁じてなどいない。

戦後の天皇家が政治性を伴う発言に慎重なのは、むしろ天皇に絶対的な影響力があった結果の第二次大戦の悲惨への反省から戦後の民主主義を妨害しないよう自粛している意味が強いし、またたまに一般に公表されてしまった戦後の昭和天皇の発言が、しばしば、天皇の「徳」を疑わざるを得ないものだった問題もある。有名なのが記者会見で戦争責任について問われた昭和天皇が「文学の研究に疎いのでそう言う言葉のアヤは分からない」と誤魔化したこと、同じ会見で原爆について「やむを得なかった」と言ってしまったことだ。

当時の政府が嫌がるデリケートな問題を曖昧に済ます圧力もあったのかも知れないが、こと「言葉のアヤが分からない」というのは、伝統的に和歌と書で国民に自らを表現して来たのが天皇だと言うのに、これは天皇にあるまじき発言だったし、少なくとも「天皇陛下万歳」を叫んで死んだ兵士に対する道義的責任は認めるのが、後奈良天皇の先例に少しでも近く最低限の「徳」だったはずだ。昨年公表された「戦争責任のことを言われるのがツライ」発言もなかなか呆れた話だが、そこでさえかくも稚拙な言葉の行間に天皇の「反省」し「苦悩」する「善意」を懸命に(ほとんど無自覚な習い性で)忖度したのが、昨年夏の日本国民の大勢だった。

だが天皇が政治的な発言をしないのは、こうした戦後憲法体制以前に、そもそも天皇が直接的な発言を避けることこそが文字通り「天皇の伝統」だったから、という方が大きいのではないか。昔からそうだった、つまり天皇の発言への制約は憲法ではなく「伝統」に基づくものだと気づくと、「天皇大権=国家主権」だった帝国憲法下でさえ、例えば戦時中の御前会議でも昭和天皇の発言は、明治天皇の御製の歌を持ち出して皆に考えるように求めた、といった程度の記録しか残っていない。

これなどは明治天皇の思いを忖度する自分の思いに忖度するよう天皇が求めたわけだが、むろん記録にないだけで、本当に天皇が御前会議でほとんど何も言わなかったのかどうかは分からない。終戦後に天皇の戦犯訴追を避けることが占領下の政府とGHQの共通方針になった以上、天皇が御前会議で発言していた事実などが明らかになれば、あまりに都合が悪かったのも確かであり、ならば実際に発言があったとしても隠されて当然だろう。

ふと気づくとこの仕掛けは、平安時代前期の菅原道眞の太宰府左遷は醍醐天皇の勅命だったにも関わらず、道眞は藤原時平の陰謀と讒言の被害者で、つまり道眞にも天皇にも罪はない、とされた天満宮縁起の論法とほとんどそっくりである。

天皇の真意を忖度する臣下と、民の思いを忖度する天皇と

この昭和天皇の例や、菅原道真の誠意に気づけなかったことに『天満宮縁起』ではなっている醍醐天皇はともかく、天皇は天皇でまた民を「忖度」するのが本来の天皇制のあり方であったのは、『古事記』『日本書紀』の仁徳天皇伝説にも明らかだ。仁徳帝は民から生活が苦しいという訴えを聞いたのでもないし、重臣や側近が飢饉の窮状を報告したのでもない。天皇自身が竃から煙が上がっていないことから「察した」、民が直接には言えないことを忖度したことこそが、この神話上の天皇の文字通り「仁で徳」な神聖君主の人柄の証なのだ。

臣下は天皇の思いを忖度し、天皇は民の口にできない思いを先取りで忖度することにこそその徳を表す。それが忖度ではなく『妹背山婦女庭訓』のような直接の言葉による思いの交換となると、その無邪気すぎる関係性がかえってグロテスクに見えて来てしまうだろう。この劇中の天智帝は忠義の若い男女が犠牲になったことを聞かされて心から涙し、そんな民の犠牲まで払って自分を皇位に復帰させるべきではない、自分はそれに値しないと退位すら口にし、そこまで無心で私欲のない天皇だからこそ、藤原鎌足たちは天智帝を皇位に復帰させなければならない、と決意を新たにする。

元禄時代に大衆文化の成熟した中で、作者の近松半二は本来は忖度の応酬で言語化されないはずの関係性をあえて言語化することで、この日本独特の「象徴天皇制」の奇妙さと危険性すら浮かび上がらせている。天皇と臣下と民がそれぞれに「お互いのため」に自らを犠牲にする「無私」の運命共同体は、一歩間違えれば揃って国家レベルの心中にもなりかねず、そこで国が滅びるてしまっても、責任を追う「誰か」は無邪気で無心で無垢な天皇自身も含めて、どこにもいなくなってしまいかねない。

その意味では、天皇制を倫理的な中心軸とした国家は究極の無責任体制ともなり得る。互いに「相手のため」に尽くし続けるだけでは、その国家共同体の目標、「どんな国にするのか」の明確な意思もない。天皇が不可視な中心なのはその中心が空虚だからだ、とも言えてしまう(まるで『妹背山婦女庭訓』の無邪気過ぎる純白の天智天皇のように)し、まただからこそ、見えてしまったり、その意思が直接的に表明されてしまった途端に、それは機能しなくなるのかも知れない。

人間としての天皇の「見える化」を徹底して進めた今上天皇

現代に、憲法で明文化された「象徴天皇」とは何かを模索して来たことを、現天皇はこれまで幾度も自らの言葉として明言して来たが、これは単に現行憲法のことを考えただけではないだろう。本文でこれまで大雑把に検証して来た「天皇の歴史」と照らし合わせると、今上天皇夫妻が考える現代日本における「天皇」の役割が、明治憲法の近代天皇制の失敗という断絶を直視しつつも、あくまで歴史的な天皇制の延長上に自らを置くことにあったと気づく人も多いのではないか。

なによりも仁徳天皇神話に見られる「民を忖度する天皇」は、戦争被害者や戦没者、災害の被災者や障害者、ハンセン病などの差別を受けた人たちに度々「思いを寄せる」「寄り添う」「思いを致す」と繰り返して来た夫妻の発言に通じる。

大きな違いは、歴史的な天皇がほとんど禁中から出ることのない「見えざる天皇」でその思いは宸筆・宸翰の書や御製の和歌の間接的な言語表現としてのみ示されて来たのに対し、今上天皇は今なお天皇の行動に課せられている様々な不自由にもめげずに、機会があるたびに自らを「見せる」ことに腐心して来たところだ。だがその表現の仕方は違っていても、基本的な機能は実のところそう変わらない。

皇太子時代の今上天皇夫妻が家族のあり方、とりわけ大人として、親として子ども達にどう接しどう向き合うのかの「お手本」を示し続けたことは先述の通りだ。いや自分たちの子育てだけではない。その以前から、自分たちの結婚で集まったお祝い金を夫妻が寄付して、横浜の旧軍施設跡地に建てさせたのが、子供が動物や自然に接し素朴な遊具で自らの遊び方を発見できるようにデザインされた遊園地「子どもの国」だ。自分たちの子ども達が成人してからも、皇后が国際児童文学学会で基調講演を行ったり、被災地の子供達に自分が少女時代に心動かされた童話を贈ったり、天皇夫妻は今でも子ども達への思いをことあるごとに表明して来ている。

天皇の「平成流」が最初に示された例としてよく挙げられるのは、雲仙普賢岳の噴火の被災地に随行の人員も制限して直後に乗り込み、避難所で跪いて被災者と言葉を交わしたことだ。以後、阪神大震災で特に被害が大きかった長田地区を訪れたり、東日本大震災でも避難所や被災地の訪問を重ねるなど、「被災地に寄り添う天皇」は、一部では心ない批判を浴びながらも、辛抱強くそのやり方を貫き、ついには国民的な支持を受けることになった。現首相の安倍晋三などは以前は天皇が跪くそぶりを真似して「こんな格好を」と言ったと伝えられたが、即位30年記念式典ではそうした天皇の被災地に寄せる思いに感謝の言葉を述べている(うわべだけの偽善だとしても、そう言わざる負えないだけの説得力を天皇夫妻はこの30年積み重ねて来た)。

また皇太子時代も含めれば10数回沖縄を訪問したり、海外の激戦地に「慰霊の旅」を繰り返したり、旧日本軍の捕虜・抑留者虐待の被害者もいるイギリスやオランダで真摯に反省を示す態度をこの上なく誠実に示したりして来たことも、退位を前に改めてテレビなどが振り返っている。ことイギリスやオランダではあの戦争を批判したり反省すること自体が「政治的発言」と言われかねない微妙な立場に置かれた中で、言葉でなく態度で自らの真意を明らかにしたことは、本来の天皇制の伝統からしても完璧だったと言っていいだろう。

天皇の真意を「忖度」したがらない自称「保守」の倒錯

だがこうした天皇夫妻の一連の振る舞いを巡っては、それでも一抹の違和感を指摘せざるを得ない。天皇夫妻自身の行いについてでなく、その受け止めの問題だ。例えば安倍首相などは天皇が被災者に寄り添って来たことに「感謝する」で済む立場ではない。天皇制本来の伝統に立ち返るなら、首相はそうした態度を身をもって示して来た天皇に(体調がすぐれなくても東日本大震災の被災地訪問を強行することすらあった)「感謝」するよりも、その「真意」を「忖度」しなければならない「臣」のトップのはずだ。

だいたい政治的実権を持たない天皇が被災地に行ったところで、精神的な支えとなる以上のことは何も出来ない。天皇がそこまでの思いを示していればこそ、それを「忖度」して首相と政府は被災地と被災者のための政策を立案し実行するのでなければ、「天皇が民を忖度し、その天皇を臣が忖度する」日本の天皇制の理想形は瓦解し、天皇の存在そのものの意味がなくなる。

俳優から反原発を訴えて参議院議員になった山本太郎が、園遊会で天皇に、福島の避難者の窮状を訴える手紙を手渡そうとし、天皇が黙って受け取ったことを、「保守」を自称する政治家たちやその支持層は「天皇の政治利用だ」と口汚く罵ったが、これもおかしい。少なくとも政治家、つまり『日本書紀』の聖徳太子の記述で言えば「十七条憲法」の規定に制約される「臣」の立場にある者であれば、天皇がもちろん山本議員が誰であるのか百も承知であったこと、そしてその手紙を黙ってちゃんと受け取ったことの真意を(あえて何も言わなかったことも含めて)「忖度」するのが「保守」政治家の取るべき君主に対する正しい態度のはずだ。

ちなみに確かに警備上は天皇が何かを受け取ることは原則禁止とは言え、相手は国会議員である。危険があるわけもないのに警備プロトコルを持ち出して山本太郎を批判するのは、そこに示された(本来ならバカにでも分かる)天皇の真意を拒絶するための偽善的な二枚舌でしかない。なおちなみにその「真意」についてヒントを出しておくならば、山本議員の手紙を読むまでもなく、原発事故の被災・避難者の皆さんがどれだけ不条理で理不尽な立場に置かれ続けているか、天皇夫妻は自分で調べさせたりしてかなり知っていた。その上で、当時の山本議員がいささか極端な主張もしていたことまでも承知で、天皇は「黙って」手紙を受け取ったのだ。この程度のことも「忖度」できないで天皇主義者を自称とは、呆れてものも言えない。

天皇はなぜ「弱者」「被害者」「被災者」に寄り添って来たのか?

今上天皇夫妻は被災地に足しげく通い、激戦地に旅して戦没者に頭を下げ、戦争体験者に耳を傾け続けて来ただけではない。皇太子時代からどうも行きたかったらしい水俣も訪問したし、各地で旧ハンセン氏病患者収容施設も度々訪れて来た。

障害のある子供達の施設を訪問した時に、知的障害のある子供と普通に遊んでしまえる天皇など、これはそう簡単にできることではない。ことさら差別意識がないつもりでも、素人ではなかなか行動の予測がつかないこうした子供相手には、普通ならどうしても臆病になったり躊躇してしまうところが、天皇は子供のトランポリン遊びのそばに立ち、優しく抱きとめてまでいた。

こうした行動を、国民がただ「天皇陛下に感謝」とか「ご立派」と褒めるだけで、天皇の「真意」はかなえられるのだろうか? 戦没者の慰霊の旅でも、ことそれが沖縄や、あるいは海外の激戦地の場合、天皇夫妻は必ず現地の戦争体験者にも会ってその言葉を聞き出そうとして来たし、そうした旅が報道されることでそうした「日本側」以外の被害者のこともまたニュースになるよう計算して行動しているのも明らかなのに、そこは綺麗に無視されている。

聖武天皇ととりわけ光明皇后が貧民や病に苦しむ民の救済に力を尽くしたのは、単に天皇の慈愛や仁徳を示すだけでなく、仏教に帰依した日本人としてのあるべき理想の姿、やるべきことを身を以て「お手本」とする行為でもあったし、少なくともそうした光明皇后の行いが以降の時代の日本仏教で語られ続けたのは、在家の仏教徒たるもののやるべきことを考えさせる意味をもたせてのことだ。

つまり、今上天皇夫妻の被災者や障害者、病に苦しんだり国の政策の犠牲になった人たちに「寄り添う」姿もまた、その天皇を「象徴」とする日本の「民」がやるべきこと、少なくとも考えなければならないことを身も持って示す意味を持って来たはずだし、おそらくはだからこそ、夫妻はそうした活動に精力的に取り組んで来たのだろうと「忖度」もするのが、天皇に対する本当の「敬意」のはずではないか?

また国民がそうした真の敬意を夫妻の行いに対して持つことでこそ、憲法がうたう天皇が「国民統合の象徴」であるところの意義が初めて実現するはずでもある。だが夫妻の30年間の、いや皇太子時代も含めれば60年近くに及ぶ努力は、決してその意味での成果には到達していない。

それどころか皮肉にも、平成の天皇在位の30年間に、「弱者」とされる人たちへのこの国と社会の対応は天皇が示して来た「善意」だけで済まされ、むしろ政策的に無視され、社会的にも「逆差別だ」などという言いがかり(ちなみにこれは言葉の間違い。「逆差別」とは差別される立場の者が自分自身に対して抱く差別感情のコンプレックスの意味で、弱者が優遇されて強者が差別されるなどという発想はそもそもが倒錯)で分断が進み、政権がむしろそうした傾向をこっそり後押ししている面すらある。

例えば平成の日本で起こった間違いなくもっとも被害の大きく凄惨な殺人事件(というかテロ事件)の一つである、相模原市の重度障害者施設襲撃事件(死者数は地下鉄サリン事件を超えている)の実行犯・植松聖被告は安倍政権の熱烈な支持者で、犯行前にその安倍首相のためにこの事件を起こすので司法取引の対象としてほしい、という趣旨の手紙をわざわざ衆院議長公邸に持参していた。つまり犯行計画を事前に知らされていながら、現政権はなんの予防策も講ぜず、実行を野放しにしただけではない。事件が起こってからもその手紙に示された犯人の異常な思想を批判することすらしていない。海外のテロ事件では「許せない」「必ず罰を」などと威勢よく吹聴するのとは、えらい違いだ。

日本の「言霊」思想の反映としての「元号」の歴史

中大兄皇子=藤原鎌足の「乙巳の変」を経て斉明天皇(中大兄の母)が発布した日本で最初の元号「大化」以来、明治天皇の即位の翌年の慶応4年が明治元年に改元されるまで、日本の元号は中国の風習を取り入れながらも、「君主の在位=一元号」の「一世一元」制は取って来なかった。

「大化」という最初の元号などはこれから倭国の国体を大改革するぞ、という朝廷の意思を分かり易く表明する元号だし、完成した律令と同時の改元が「大宝」というのも政治的な意味づけが分かり易い元号だったが、以降実際の政治権力の行使は法と制度と前例(有職故実)に基づき天皇が実態権力から離れ「象徴」化するに従って、元号は精神的権威の「無私無欲の祈る君主」たる天皇に直接帰属するものとして(つまり改元と暦の発行は以降明治6年に太陰暦ではなく太陽暦が採用されるまで、この時間支配だけは天皇の専権で、天皇が政治権力を持たない、つまり空間支配圏を持たないことと対照的)、むしろ天皇の(民の思いを忖度した上での)祈りや期待を込めた意味合いに変化したと言えるだろう。例えば聖武天皇の在世の元号は「天平」で、その後しばらくは「天平感宝」「天平勝宝」「天平宝宇」(この「宝」は財宝ではなく仏教用語の「三宝」つまり「仏法僧」のこと)、そして「天平神護」と言った仏教的な意味が強い元号が続き、その次が「神亀」で、「亀」は蓬莱山伝説に結びつく長寿の象徴の神獣で、ストレートに縁起担ぎだ。

今回の「改元フィバー」でもつくづく、日本人の潜在意識に組み込まれた「言霊」信仰の深さを思い知らされるが、言葉それ自体に霊的な力があると考えられて来た日本には、その言葉による「予祝」という思考も深く文化的に根付いて来た。あまりに無意識レベルの刷り込みで普段は気づかないほどだが、「予祝」とはめでたいことをあらかじめ言葉として発することで、その言葉の霊力でめでたいことが実現する、という考えで、例えば国歌「君が代」が典型だ。「千代に八千代に」も「さざれ石の巌となりて」も「苔のむすまで」も、どれも平安時代には長い時間の継続を示す修辞語で、つまりこの歌は今の天皇(君)の「代=世」が「長く続く、長く続く、長く続く」と三度繰り返しているだけの意味しか文字通りにはない。だが「今の天皇の世が長続く」と発したその言葉の霊力が、実際にその世が長く続く助けになる、つまりその少しでも長くなる在世期間の間は天皇は「天命」の加護を受け続け、つまり日本は平和であり続ける、という祈りの言葉がこの国歌で、元々は平安時代の朝廷で新年の儀式で用いられた雅歌だ。

あるいは新年に、まだどんな年になるのかもわからないのにとりあえず「あけましておめでとう」というのも本来は「予祝」で、最初に「おめでたい」と言ったその言葉の力でおめでたい年になると期待しての祈りが慣習化下ものだ。

元号にもこの「予祝」の文脈で定められ続けたものが圧倒的に多く、だから「慶長」とか「安政」というような「めでた尽くし」だったり、あるいは「天正」とか「大正」や「明治」のように「正しさ」が言及されたり「応永」「寛永」のように「永く(長く)」の文字が入ったりするのだ。ちなみに「慶長」(1596-1615)が戦国時代の最終盤、江戸時代末期の「安政」(1855-1860)と言えば「安政の大獄」だし、「天正」(1573-93)が織田信長=豊臣秀吉の、戦後時代がもっとも激化し虐殺も繰り返された時代だったように、「予祝」どころか「名前負け」になった元号も少なくない。そこで時代が悪くなると気分一新の縁起担ぎで改元、というのも、天皇本来の宗教的な役割がよく分かる。ちなみに「慶長」の次の「元和」は江戸時代の泰平の世の基礎が構築された時代で、続く幕府の政権基盤が確立した「寛永」は「予祝」期待の通りになった元号だろう。

何重にも天皇の権威をないがしろにする「新元号」の倒錯

慶応3(1867)年に即位した明治天皇が翌年に「明治」と改元したのを最後に、在位中の天皇が元号を改めることはなくなった。元号=天皇の諡号(死後その人物を讃えてつける名前)となった一世一元制も歴史的天皇制と近代天皇制の際立った違いのひとつで、平成の天皇は歴史的には「平成天皇」と記録されるだろう。つまりは在世の元号=天皇その人、ともなるわけだが、その点では「平成」という新元号を決めた竹下登内閣は、いかにも当時の新天皇の人柄にも希望にもふさわしい名前を選んだ、いわば「完璧な忖度」の好例だった。

なんでもこの時には「修文」「正化」の他の2候補もあったのが、閣議などに提出された3案のうち出典や意味が説明されていたのは「平成」だけだったと、当時厚生大臣だった小泉純一郎が証言している。つまり竹下は最初から「今度の天皇陛下には『平成』しかない」と決めていたのだ。

原典は司馬遷の歴史書『史記』の「内平外成」と『書経』の「地平天成」で、どちらも平和が構築される意味だし、字だけを見ても「平和になる」と読めば戦争の時代に幼少年期を過ごして平和を希求するこの天皇にふさわしく、また「平」を「平等」の意味に読んでも、「平民出身の皇后」を迎えた天皇の平等思想にふさわしい。

「命令」の「令」だと「悪い意味」だから「令月」は「令嬢」?

これに比べて「令和」という新元号はなんなのだ? 出典はともかくまず字面を見て誰もが思うのは「命令」の「令」に「平和の和」、あるいは「律令」の「令」で、それで「(平)和」とは、政府の上から目線で勘違いした「法の支配」もどきの意図しか見えない。

ちなみに「法の支配」は本来なら権力が法に従う、という意味で、日本の黎明期なら「律令」の法と制度に神聖君主の「天皇」も従うこと、皇位の継承も律令で制度化されたのだが、安倍政権にそういう当たり前の理解がない。「国の決めた法律に国民が従え」と、政府の側では「詭弁で法律上の抜け道を作れば政府は何をやってもいい」の二本立てだと勘違いしている異様なダブル・スタンダードの傲慢については、今さら言うまでもあるまい。

英語圏のメディアでは「令」を「order」と訳して第一報を出したが、官邸はずいぶんこれにご立腹らしい。ちなみに order and peace なら普通に読むと「命令」ではなく「秩序」と解釈するので、官邸の勘違いのご立腹はまったく当たらないのだが、日本政府は beautiful haramony と言い換えさせた。いやこれでも「令」の意味にはそぐわない。官房長官の発表に続いて首相が行った記者会見では、これはそんな「命令」のような「悪い意味」ではなく「令嬢」の「令」のような「いい意味」なのだそうだが、その意味での「令」ならsuperficial harmony が正確な英訳だ。

まず「命令」が「悪い意味」というのも驚きだ。それ自体が悪い意味なわけはもちろんなく(命令の中身に良し悪しがあるだけだ)、ただ国民主権・民主国家の元号にも、天皇の命令にではなくその徳を感じて自然に従うのが理想の日本の天皇制にそぐわないだけだ。しかも「令嬢」の「令」だからいい意味だ、という浅薄で superficial な言い草では、もっと元号にふさわしくなくなってしまう。

「令嬢」とはつまり「いいところのお嬢さん」、家が金持ちだったり「名家」だから「いい意味」という薄っぺらさの裏には、例えば小室圭くんは母子家庭だから、父が自殺しているから眞子内親王と結婚するべきでない的な、家柄差別の感覚が透けて見える。別に「いいところのお嬢さん」が悪いわけではないが、それでも「元号」に使えるような「いい意味」にもまったくならない。

出典は『万葉集』だという。従来の元号は「平成」が『書経』と『史記』を出典とするように、主に四書五経を中心に、古代中国の古典文献から取るのが習わしだったのを、日本の古籍もそこに含めること自体は今さら構わない。

無理やり「万葉集」出典の元号をでっち上げた上っ面だけナショナリズムの陳腐

しかし単に「中国が原典」が嫌だというのなら、それは人種差別に基づく歴史歪曲の捏造虚偽日本史にしかならない。日本が中華帝国を中心とする東アジア文明圏に属して来た歴史を元号で捻じ曲げようというのならその発想は倒錯しているし、そもそも平安中期に仮名文字が女性が使う文字として普及する以前の日本の文献は、公文書や『日本書紀』のような正史などはどっちにしろ漢文で書かれていて、高級で上品で中国で読まれても恥ずかしくない名文調にするために四書五経などの中国古典を様々な形で参照しているので、どっちにしろ中国起源の元号になってしまうのは避けられず、つまり意味がなくなる。

では純粋に「日本起源」を求めると言っても「万葉集」の本文の歌や、『古事記』でも一部では、漢字を表音文字として使ってやまとことば(日本語の起源)を発音で記述していると言っても、今度は要するに「当て字」なので、そこから字を持って来ただけではなかなか「元号」として意味をなす文字列にならない。

こうした批判も予想してなのか、「令和」の出典は無理やり『万葉集』でも、その本文である「万葉仮名(漢字を表音文字に使った当て字)」で書かれた歌ではなく、解説文の漢文から持って来ている。これは懸命に知恵を働かせた成果と言えなくもないが、国民からみてあまりにややこしい「出典」になるし、だいたいむしろ浅知恵と言うべきで、日本人自身の歴史も反映して日本の文献も、という本来の目的からすればあまりに本末転倒だ。「古代の日本人の心も元号に」という理屈で『万葉集』なら、歌そのものが出典でなければ意味がないのではないか?これではまさに「木を見て森を見ず」の典型としか思えない。

それでも無理やり『万葉集』出典にするために引っ張って来れたのが、結局は「初春の令月」の「令」で「うるわしい月」、要するにいい家の生まれだから「令嬢」と同様の、うわべの見た目だけの美辞麗句の意味しかない。果たしてこれが「予祝」の意味を持ち、天皇自身の人柄も表すことになる元号に、本当にふさわしい言葉だろうか?

それこそ悪い意味でしかない「巧言令色」の「令」が、元号にふさわしいのか?

無理やり「日本古典」の結果のずっこけるような不手際はまだまだ続く。まずこれは大伴旅人という奈良時代の官僚が太宰府に左遷され、都を懐かしんで開いた梅見(花見が桜になったのは平安以降で、奈良時代には中国の習慣そのままに梅)の宴で出席者が詠んだ歌32首の、その肝心の歌ではなくただの解説文だ。それに左遷先で恨みと都への望郷を込めた宴会が「元号」になるのもえらく軽薄で無思慮な話で、しかもこの文章自体が中国古典の漢詩集『文選』を下敷きにした中国模倣の「名文」スタイルで、肝心の「令月」はそこから取られている。

これでは日本文献を典拠にしたと言うこと自体が文字通りの「令嬢」という用法の「令」の意味、つまり「うるわしい」と言ってもうわべだけの形だけ、というかそのパロディではないか。これでは「命令」の「令」「律令」の「令」よりむしろ始末が悪く、しかも「令和」という漢字2文字だけで「令」の意味をそのように(「令月」と言うかなり珍しい用法の意味で)受け取れ、と言うのは無理がありすぎる。

いやなによりも違和感があるのは、『四書五経』の中心的な書物で儒教の中心的な聖典、東アジアにおける歴史的な統治理論の根本政治道徳である孔子の『論語』を引くならば、「令」といえば「巧言令色鮮なし仁」の「令」が真っ先に思いつく。「令色」の「令」は意味的に「令嬢」「令月」と同じ分類で、まさにうわべだけ、形だけのことを指す。孔子は儒教の基本論理として、口先だけ巧みだったり見栄えが麗しく整っているだけでは、そこに「仁」はない、人間的な中身や道徳の本質はない、と説いているのだ。

うわべだけ、形だけ、そんなものが「予祝」になったり、新たな国民の象徴たる新天皇本人とその時代の日本が目指すべき自己イメージになるとは、「平成」のシンプルながらの奥深さと比べて、あまりに陳腐で偽善性が透けて見えるだけ、と言わざるを得まい。新天皇の皇后になるのは確かに高名な外交官で、国際司法裁判所の首席判事を長年勤めて国際的な信望も篤い小和田恒の「令嬢」だが、徳仁親王が彼女をどうしても妻にと望んだのは、決して彼女が「令嬢」だからではなかったはずだし、そんな風に新天皇のことを考えるとしたら、それは新天皇への「忖度」が足りないというか、その人格と人徳をあまりに愚弄している。

「令」は天皇ではなく皇太子を連想させる字

「巧言令色」の「令」が元号にふさわしいとは思えない、というのは筆者だけでなく、例えば歴史学者の本郷和人(東京大学史料編纂所教授・専攻は日本中世史)も同じ見解をワイドショーで述べて、さらには日本史学の専門的見地からも、これが元号にふさわしくない字であると指摘していた。「令」は律令の「令」以外では、天皇の出す「勅」より格下の、皇太子かそれ以下の出す命令が「令」であり、なのに天皇に帰属する元号に「令」、後世の歴史では天皇なのに名前に「令」となるはおかしい、という。

しかも新天皇がまた中世史を専攻する歴史学者で、当然その過去の日本の「令」の意味は知っているだろう。その天皇にこの字の元号、そして後代の歴史における名前に「令」の字をつけたのはあまりにちぐはぐで、そのちぐはぐさが分かる新天皇への配慮というか忖度が足りなさ過ぎると言う指摘は、まったくその通りだ。

だいたい元号は公式には天皇のものだったが、実務では朝廷の文書博士を中心に選ばれ、その過程では凄まじい議論を経てやっと決まって来たものだ。こうした会議は記録も残っているが、議論の中身は要するに徹底した「ダメ出し」だった。一見良さそうな元号の案でも、会議の参加者が思いつくありとあらゆる欠点をあげつらってどんどん振い落としていたわけで、この「令和」などは今まであげたような問題が即座に次々と出て来るので、あっという間に候補案から外されるようなものでしかない。まず「『巧言令色』の『令』ではないか!」で一発アウトだ。何しろ superficial な harmony、うわべだけの平和ならかえって縁起でもない。

一時は新元号には首相・安倍晋三の「安」の字が入るのではないかという噂がずいぶん飛び交ったが、これならまだ「安」の元号の方が、はるかにマシだった。「安心」「安寧」の「安」の字の元号にダメ出しがあるとしたら、「総理の苗字から取ったと誤解される」ことくらいしか思いつかず、「安政」「慶安」「天安」「治安」「安貞」「正安」「康安」「応安」「文安」などなど、これまでも度々使われて来て、元号にふさわしい文字なのも間違いない。

「元号」とは究極の「天皇が民を忖度」の祈り

歴史的伝統として天皇に帰属する元号は、戦後は慣例として用いられ続けて来たのだが、「不便だから西暦に統一」「天皇制に結びついた元号を使い続けるのは民主主義では問題」と言った議論が昭和の戦後期にあり、対抗して自民党保守派を中心に元号を強制する動きが出て来た結果、昭和54(1979)年に「元号法」が制定された。公文書には元号を用いることが法的に義務付けられてしまうと、つまりは政治実務の法的な一部になり、憲法上天皇に政治的権能がないため、元号は天皇の決定権ではなく、内閣が政令で定める、となったのが現行の法制度だ。

そうは言っても、もともとは歴史的に天皇がその権威で発布するのが「元号」の伝統であり、天皇制を「日本の伝統」と言うのなら、新しい法律の枠内でもその伝統は最大限尊重しないことには、継承する意味がなくなる。しかも明治以降はその元号が将来は天皇の諡号、つまり歴史的には本人の名前になる以上、たかが数年しか国政を担当しない内閣が勝手に決めていいものではないのは明らかだ。

言霊思想に基づく「予祝」の意味合いが強い日本の元号ではとりわけ、その元号に意味付けやメッセージ性があるとすれば、それは「天皇のメッセージ」であって、所詮は淘汰・更新され交代し続けるいっときの政府のメッセージであってはならない。

竹下政権はそこを心得ていた意味で真正に「保守」と言える態度を天皇に対して貫いた。つまり「平成」は竹下登首相が「これ」と決めた元号で、他の選択の余地は事実上なかったとしても、「平和になる」も「平等になる」も、決してただ竹下個人の政治信条ではないが、その一方で、竹下登自身が天皇に「忖度」したその「真意」と同じ考えであっても全くおかしくなく、それは天皇の「真意」にもふさわしい立派な理念でもある。

天皇が自分の在世をどのような世になって欲しいと思っているのか、どのような天皇を目指すのか、天皇が国民にどのような時代にするよう呼びかけたいのか、その真意を忖度すると同時に、それが天皇にふさわしい立派な考えだからこそ首相も共有し、その天皇にもっともふさわしいが故に国民の代表である自分も共鳴する。そうして選ばれた元号が「平成」で、この元号はあくまで天皇と国民のもので、首相や内閣に帰属するものではない。だから発表も官房長官が事務的に済ましただけで、出典や意味は後から文書による談話で淡々と説明されたのが、竹下内閣での「平成」発表だった。

政権が利用するだけの天皇なら、もはや続けてもらう意味がない

今回の安倍政権のやり方は、この「平成」決定時の手順や配慮と、あまりに対照的だ。

例えば本郷和人が指摘した通り、次の天皇本人の人となりを考えれば、中世史を専攻する歴史学者の天皇に「令」はない、とすぐに思い至らなければおかしいし、そんな知識もないのであれば天皇の「臣」としてあまりに怠惰、と言うことになろう。

安倍政権には「臣」としての自発的な慎みというか、天皇となるその人への敬意がないのだろうか? 「平成」の改元を発表した小渕恵三官房長官が「平成おじさん」と呼ばれて思わぬ人気になった(のちに首相になる)ことにでもあやかりたかったのか、一時は官房長官ではなく首相が新元号を発表することが、官邸内で本気で検討されていた。

これではさすがに元号と天皇の政治利用がひどすぎると自民党内からも批判が出て、発表は「平成」の前例踏襲で官房長官になったが、今度はだいぶ前から4月1日の正午前に発表とスケジュールを出してマスコミや世論を「カウントダウン」機運に誘導し、官房長官の事務的な発表を最大限にイベントとして盛り上げたのも、いかにも浅はかな政治利用の意図が透けてみえる。それも皇居・天皇への報告をわざと無視したスケジュールを作っておいて、皇居と官邸を往復する時間のぶん発表がわざと直前に遅らされたのもいかにも見え透いていた。その遅くなった時間の間はテレビの生中継はどうしても「まだか、まだか」と盛り上がるという計算は、あまりにあこぎで陳腐で軽薄だろう。伝統的な日本的価値観に依拠するなら、これだけでも幸先が悪すぎる。

だがもっとも信じ難かったのは、官房長官発表のあとで安倍晋三が自ら会見を開き、あれやこれやと恣意的な意味づけを滔々と語った挙句に「働き方改革」や東京オリンピックなどの自分の政策とも結びつけて、新元号に込めた「メッセージ」を首相たる自分のメッセージとして国民相手に語り始めたことだ。

新元号決定の直前に、首相を満足させるために出て来た新たな案が「令和」だった?

これではあまりに陳腐で露骨な天皇制の政治利用もはなはだしい。前近代では元号は、平安朝であれば「文書博士」を中心に、朝廷に属する貴族の中でも有職故実と古典文献の専門家が常に候補を準備し、先述の「ダメ出し」大論戦で決められるものだったが、近代では学術・学問が国や朝廷から独立し、元号の候補を出すことは複数の、専門分野の権威と目される学者に依頼されている。

元号が内閣の政令で決められるのはあくまで現行の法制度だからに過ぎず、本来は決して政府ではなく天皇の権威によって発布されるものである以上、その候補に政府が口出しするのは慎むべきなのが日本的な「保守」の本来だ。

その意味で首相の「安倍」の「安」の字が入ると言うのはおこがましく、噂と同時に批判も噴出したので避けられたのだろうが、しかし今年の3月の段階になっても、提出された一連の候補案のいずれにも、首相は不満だったらしい。首相の気に入った「令和」の案は、なんと3月下旬に出て来たものだったと、改元の直前に朝日新聞がスクープした。

だとすればやはり、安倍政権が「令和」に執心したのは自分の政治的な意向というか趣味で、「『命令』の『令』」で安倍式勘違いの「法の支配による秩序」、「国民が法律を守れば平和になる」発想に適合するものだったから、としか思えなくなる。

「令和」と言う文字列に、我々はどんなこれからの国家像を目指せばいいのか?あるいはどんな国と時代になることを期待した「予祝」になるのか?

いやもし「『命令』の『令』」のつもりは本当になく、安倍晋三が「『令嬢』の『令』」だからいい意味だと本気で言っていたのなら、そこに「平和」や「以和為貴(和をもって貴しとなす)」の「和」とは一体どう言う意味のつもりなのだ? 世襲三世の岸信介の孫が、「令嬢」が尊ばれる身分出自の差別や格差社会がそのままで「和をもって貴し」とでも言いたいのか? あるいは、 うわべだけの「麗しさ」の「平和」とは、平和を守ると称して戦争を正当化したり、平和を偽装しつつ戦争準備を着々と進めることの意味か? 逆にその場しのぎの口からでまかせの言い逃れで(安倍の国会答弁でよくあること)「『命令』の『令』」をうわべだけ否定するために「『令嬢』の『令』」と思いついただけなのなら、そんな不誠実こそ、これほど幸先の悪いこともない。

「令和」なる元号にどんな「予祝」が期待できるというのか?

本来なら、当代の屈指の権威ある学者たちを信頼して元号案を依頼し、その学者たちが知恵を絞って出して来た複数の候補なら、それが今の天皇の代の総意がある意味で結集したものとみなされるし、だからそのリストにまずは従うと言うのが伝統的・保守的な立場のはずなのは、それがある意味で「おみくじ」に近い意味も持った、一個人の意思を超えた「総意」、ないし「神意」的な結果でもあるからだ。

天武・持統の治世に天皇が「天照大神の子孫」と定められたことも含め、人間の限界と、個々人の恣意や個人的意思を超えた「神意」をうかがうことも天皇制の伝統の一部だ。かつては重要な決定を人間だけでは出せない時に「神籤」のクジ引きが行われたのも、決して現代人が考えるような「いい加減」ではない。クジつまり天や神々が支配する偶然を最後には聞くことが「人事を尽くして天命を待つ」にも通じる「神意」だからだ。有名なところでは室町幕府の六代将軍・足利義教は「クジ引き」で選ばれたとされている。実態は恐らく「クジで決まったから神意だ」と言えば、出家し僧籍に入っていて将軍継承を渋っていた義教本人も説得されざるを得なかったからだろう。

「予祝」の意味も込めた「元号」で縁起担ぎでもあるからこそ、こうして「総意」の上に「神意」をうかがう必要があり、だから本来の元号決定プロセスでは喧々囂々の「ダメ出し」議論も行われたのだろう。現代であってもそこに首相であれ誰であれ、天皇以外の誰かの個人的な意思が反映されることがあってはならず、そして元号を発布する天皇は「無私で無心」の存在だ。

そもそもだからこそ、日本では天武持統朝以来、天皇が権力の直接行使からどんどん切り離されていく歴史と伝統を維持し続けて来たのだし、天皇には普通の人間では考えられないような「徳」、極端に表現すれば『妹背山婦女庭訓』の盲目で子供のように純心な天智天皇のような存在であることが、人間的には相当に無理があるのを百も承知で、それでもあえて天皇の地位にある人に求められて来たし、歴代天皇もまたほとんどがそこに従って来た。

なぜなら、人間はそれぞれに、個々人で「完璧・完全」であるはずもないからだ。日本では古来、現実の人間世界は「憂き世(転じて浮世)」であり仏教用語では「穢土」、人間が生きていくことはそれ自体が日々「穢れ」を溜め込んでいく過程でもあると考えられて来た(だから神社では「お祓い」があったり、水で手や口を清めたりする)。

こと国家全体を統治するような巨大な権力の行使に当たっては、たとえその統治者の思いが最初は純粋なものであっても、「罪」や「悪」や「汚い」行為が起こってしまうのは、現実世界ではやむを得ないとも、日本人は考えて来た。だからと言ってそうした邪さを無批判かつ無制約に全肯定してしまえば、今度は国全体がひたすら私利私欲の身勝手に他者を服従させようとして争い合うモラルハザードに陥り、政治は人望を失い国家も立ち行かなくなる。

こうした政治の権力と権威(それもかなり孤立した島国の)に伴うどうしようもない矛盾を解消とまでは行かなくとも、少なくとも維持継続が可能なものとして保つための歴史的蓄積の知恵の結果が「象徴天皇」「天皇制」なのではないか?

「国民の象徴」を表象する天皇と元号の役割の喪失

たとえば「平成」の元号決定は、意識的にせよ、あるいは無意識に継承された「伝統」として、まさに「保守」であったにせよ、この原理原則に従ったものだった。あくまで新天皇の「真意」を竹下が「忖度」したのが「平成」でありながら、「平和になる」「平等になる」が竹下自身の政治信条であってもおかしくなく、むしろそうであればこそ国民にとっても喜ばしく、つまりそこには本来の歴史的な天皇制の、「天皇が民の思いを忖度し、臣がその天皇の思いを忖度する」基本構造の原理がまだ活きていたのだ。

こうしてその「平成」の天皇となった明仁天皇・美智子皇后は、直接に選挙で選ばれる政府の決定とは独立して国民の良識や心底の思いと、国として、人としてあるべき道を人間的に可能な最大限で考え続け、実践的に表現し続けて来た。時には間接的な表現ながらも(とはいえ、よく見ればかなり分かり易く)、政府のやっていることに批判的な立場すら示して警鐘も鳴らしても来た。たとえば日本がアメリカのイラク戦争に賛同した時に、皇后は国際児童文学学会の基調講演で「優れた童話から学んだのは、人間の世界に『絶対の正義』などないということ」と「テロとの戦い」を標榜する先進国側の独善的な戦争に釘を刺したし、教育現場で国旗国歌を強制しようという動きが激しかった時には、天皇は園遊会の場を利用して「強制はいけませんね」と発言した。同じく園遊会の場で、無言で山本太郎参議院議員の手紙を受け取ったのも同じような一例だろう。また天皇は平成の最初の20年間、誕生日会見のたびに昭和の最初の20年(つまり軍国主義と戦争と明治的天皇制国家の破綻の時代)に毎年繰り返し言及し、退位前の誕生日会見で平成は戦争がなかったことだけは良かった、ともわざわざ述べている。

だがこうした(あるいは被災地を訪ね歩き跪き、福祉施設などに通い続けたことや、戦争の慰霊の旅)天皇の振る舞いは、結果として「ガス抜き」にしかなっていないのもまた確かだ。あまりに完璧に「天皇」の役割を果たしたこの天皇を前に、逆に政治も国民も、その思いを「忖度」して見習おうとすることを止めてしまったかのように見える。

天皇が人間でもあることを国民や政治家が忘れてしまうなら、天皇制の意味はない

退位の議論を天皇自身が触発すると、自称「保守派」からは「天皇はただいればいい」と、人間である天皇にあえて人間として相当に無理がある「天皇」の地位を託して来た伝統を無視する発言まで飛び出した。天皇が人間離れした「完璧な徳」であると同時に、その天皇があくまで人間だからこそ、その思いを「忖度」できるのが、歴史的な天皇制が維持されて来た背景の、日本人という民族と国の総意としての知恵であったにも関わらず、である。

では新しい天皇に、政府は、そして国民は、何を求めているのだろう?

徳仁親王は温厚で争いを好まない、気配り細やかな人のようでいて、芯の部分では強い意思と頑固さも持ち、平成の天皇の秘めた気性の激しさとはまた異なった強靭さを持った人物に思える。しかも後奈良天皇の宸翰の般若心経を天皇のあるべき姿として挙げたように、歴史学者として歴史的な天皇の役割もよく知り、考えぬいても来たことだろう。

皮肉といえば皮肉なことに、そんな歴史的な天皇制の延長としての、同時に現代の憲法の下での天皇の役割を考えぬいた「象徴天皇」「人間天皇」を目指し、その振る舞いを徹底して来た今上天皇の在世の終焉に、日本国憲法が骨抜きにされそうになっているだけでなく、天皇制の存在意義は歴史上かつてないほどグズグズに崩壊しつつあるかだ。

まさに痛烈な皮肉として、天皇夫妻が完璧であればあるほど、その振る舞いはその思いを国民が「忖度」し「お手本」とするものではなく、ただの「ガス抜き」になってしまい、日本はどんどん全社会的なモラルハザードに向かっているのではないか? 歴史学者でもある新天皇は本来の天皇の有様を、そして歴史的な継続の上での現代の日本のあるべき姿をどう取り戻していくのか、なかなか前途多難に思える。

いやそこまでの苦労を背負って、妻の雅子妃が病気も抱えている新天皇夫妻が天皇を続ける意味が、本当にあるのだろうか? 平成の天皇の振る舞いについても、政治家も、そして国民の多くですら、結局何も真剣に考えはしなかったではないか。

眞子内親王、佳子内親王、愛子内親王もいずれは結婚して天皇家を離れて行く(その度に恋人がマスコミやネット上の匿名の国民にバッシングされるのだろうか?)のだろうが、このままではいずれたった1人の皇族になってしまうことも確実な悠仁親王も含めて(成長した彼を愛する人は出て来ても、こんな調子では結婚に踏み切れるかどうか)、この家族にこれ以上、かくも虚しく形骸化してしまった「伝統」の名の下に、政治家の利害と一部国民の身勝手の玩具のような立場を、押し付け続けていいのだろうか?

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