「戦争責任のことを言われる」のがつらいと言った昭和天皇とニッポン人 by 藤原敏史・監督

日本の世論は時になんとも不気味な集団催眠的心理を露わにする。昭和天皇の側近だった小林侍従の日記の内容が平成30年(とあえて元号で書こう)8月23日の朝刊で報じられた、その昭和天皇の晩年の発言への反応は好例だろう。

小林侍従の昭和62(1987)年4月7日夕方の日記によれば、昭和天皇は高齢に伴う公務削減の検討について、細く長く生きてもしょうがないと思うほど「ツライ」ことがあり、その理由として身近の親しい者が次々と亡くなって行くことに続けて「戦争責任のことを言われる」と述べたという。

報道の解説や世論の反応はあっと言う間に「晩年になっても戦争責任に苦悩していた昭和天皇」一色に染まった。だがそういう解釈が絶対にありえないとまでは言わないが、普通に読めばずいぶん無理がある。なにしろ昭和天皇は「戦争責任のことが」つらいと言ったのでもなければ、「戦争責任の重み」でも「考えること」でもない。仮にそうだったとしても健康も衰えつつある老人の愚痴として気持ちは分からないでもない程度のことで、およそ「苦悩していた」とまでは形容できない、許容範囲ではあってもいささか無責任な発言になっただろう。

しかも昭和天皇はそうは言っていないのだ。あくまで「言われること」がつらい、である。普通に読めば、そんなことを言われるのはもう嫌だ、全体の文脈ではそんなのは嫌だから長生きしろなどと言うな、という意味にしか取れないし、「自分に長生きしろと言うのなら戦争責任のことを言う者を黙らせろ」と言ったように受け取るのだってそううがった見方ではない。

なのにこれを「昭和天皇の苦悩」と同情しつつ美化することで国民世論が一致するとは、いったいどう言うことなのだろう? この不気味な一致そのものに、まるで異論は許さないとでも言うような圧力すら感じる。

案の定、その我々の日本から外れた視点では、見え方はまったく変わる。植民地支配され戦争に巻き込まれ、慰安婦問題や徴用工の強制労働問題など未だ過去の清算も解決には程遠いままの被害国である韓国では、例えば『朝鮮新報』が1週間後(8月31日付)の「取材ノート」で厳しく論評している。

「『戦争責任のことを言われる』――戦争責任と向き合わず、逃げた者の厚顔無恥な一言。この発言を天皇があたかも戦争責任を感じていたかのように美化するメディア。ここに、戦後から現在まで通ずる日本の加害者意識の欠如を見る」

「厚顔無恥」、被害国の韓国の視点でなくとも、単なる客観としてそう言わざるを得まい。

天皇にあるまじき発言

筆者個人の感想を言うなら、朝起きるなり「『長く生きても…戦争責任いわれる』 昭和天皇85歳 大戦苦悩」(東京新聞・8月23日朝刊)と言う見出しに、思わずこみ上げる怒りと共に「やはり天皇の器ではなかったか」と呟いていた。

ごく身近な側近に語った本音としても、これはおよそ国民の象徴にして歴史の継承者たる「天皇」には明らかにふさわしからざる発想だ。高齢になった自分の負担を気遣って公務を減らすことに腐心する側近に、例えば今上の天皇なら「つらいから長生きしたくない」などと投げやりな身勝手を言うだろうか? まして戦争責任といえば、自らの名に於いて戦われ、多くの兵士が「天皇陛下万歳」と叫んで玉砕したり、特攻攻撃で死んで行った戦争だ。そのほとんどが勝ち目のないことが明白だった戦いの「捨て石」で、はっきりいえば天皇のための無駄死にだった。

なにも兵士だけではない。沖縄戦では民間の、それも女たちまでが竹槍で武装し爆弾や地雷を抱えて米軍に突っ込んで行った。あまりにも膨大な非業の死者たちがいた重い事実だけでも、その責任の自覚の重みからつい逃れたくなる弱さを見せることすら、老人の弱音と聞き流すのは難しいのが、まして「戦争責任のことを言われる」のがつらい、である。

ちょうどこの前に、当時の長崎市の本島市長(のちに暴力団に暗殺された)が「天皇陛下に戦争責任はあると思う」と発言していたことなどを考えても、これは文字通り受け取るのが自然で、およそ戦争責任について「苦悩」していたと同情するのは難しい。一部の報道では、昭和天皇が1975年の訪米帰国後の記者会見での戦争責任についての発言も「ずっと気にしていた」と解説がついていたが、その発言とは自分の戦争責任について問われ、こう答えたことだ。

「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」

これまた天皇にあるまじき発言だ。天皇を擁護する言説では、日本国全体と政府の立場からしてこう答えざるを得なかった、立場上うまい逃げだった、と言う説明が主流だが、そうだとしてもこの言い訳はあまりにはしたない。天皇と言えば歴史的には和歌の伝統を受け継ぎ漢籍にも通じ、能筆であることも必須の責務だった。「文学方面の研究」は歴代天皇のもっとも重要な仕事であり、御製の和歌は広く知られ、「宸筆」と呼ばれた天皇の手になる書は今日でも多数伝来し、国宝になっているものもあるし、身近に見られる宸筆では「勅額」を掲げる寺社も全国にある(東京では上野の寛永寺根本中堂、他に鎌倉では建長寺と円覚寺の三門など)。

日本の天皇は歴史的にほとんどの時代に政治的実権を持っていなかった。「象徴天皇」は元から前近代に綿々と続いていた伝統に近代法学の用語をつけたに過ぎず、その「象徴」たる天皇は「文学の研究」でこそ日本の文化と歴史の継承を体現し、「言葉のアヤ」の深みを理解する能力を持ってこそその権威を保ってきたはずだ。その天皇位の継承者たるものがこうも日本語も天皇家の伝統も愚弄したことを言ってはいけない。

ちなみに同じ会見で原爆投下について問われた天皇は「やむを得ないこと、と私は思っています」とも答えている。

天皇の戦争責任をめぐるGHQのフィクション

昭和天皇の戦争責任については、国家の大権を保持する立場にあって多くの兵士が「天皇陛下万歳」と叫んで死んでいった名目上の責任はともかく、本人の直接責任となると、あくまで平和を望んでいたのであって、戦争判断に関与していないはずだから、本人を責めるのは酷だ、と言うのがなんとなく国民に広がっている漠然とした認識だ。

だがこの「なんとなく定説」は、アメリカの機密指定公文書が機密期限が終わって開示されるなど新たな資料が見つかるに連れて、疑義が次々と呈されている。たとえば天皇を戦争犯罪人として訴追しないことがマッカーサーGHQ司令長官の判断であったことまではなんとなくは分かっていたが、その理由は従来、マッカーサーに天皇が昭和20年10月に面会した際にマッカーサーがその人柄に感動し、天皇が平和を望んで来たことを確信したからのように思われて来た。

よく考えれば客観的な歴史の解釈としてずいぶんあやふやで、ひどくセンチメンタルな話だが、一昨年の8月にはこの「定説」を覆す事実が東京新聞のスクープで明らかになっている。この天皇マッカーサー会談以前に幣原喜重郎がマッカーサーに、新憲法に「戦争放棄」を明記することを提案していたことが、記録文書で確定したのだ。ちなみにマッカーサーにとってこれが幣原からの思いもかけない提案だったことも、それを聞いて本当に感動していた(文字通り涙を流し、思わず幣原の手を握った)ことも明らかになった。

一般には改憲派の「押し付け憲法論」を覆す重要な根拠と見なされるこの幣原「戦争放棄」提案だが、見逃してはならないのが、これが天皇の戦犯訴追の回避とバーターになっていたことだ。マッカーサー自身もこの提案に確かに心から感動していた一方で、政治家としてはこの「戦争放棄」を、天皇の訴追を主張する連合国各国を説得する切り札として巧妙に使っている。

言い換えれば、マッカーサーも日本に赴任してかなり早い時期に、天皇を戦犯訴追しないことは決めていたのだ。しかし大きな障害が、連合国各国政府の反対(とりわけ英国と中華民国は強硬に天皇を戦犯として処罰するよう主張)だった。そこへ渡りに船でもあったのが、幣原による「戦争放棄」提案だった。マッカーサーはこれを武器にアメリカ政府も、そして特に天皇の戦犯訴追を強硬に主張していた中華民国や英国も、説得に成功し、こうして天皇の戦犯訴追はなくなった。マッカーサーとの会談はすでに天皇の安泰が決まっていた、その後の儀式と言うか、国際世論を納得させるパフォーマンスでしかなかった。

新憲法の「戦争放棄」明記に救われた昭和天皇

第二次大戦の太平洋戦線は、人類史上稀に見る凄惨な戦いだった。これも米国の機密公文書開示で、米軍の側に戦争精神障害などの深刻な被害が出ていたことも明らかになっている。国力・戦力の差からして、戦闘そのものはミッドウェイ海戦以降アメリカの連戦連勝が続いていて、死の危険を感じて戦うことの直接の恐怖が兵士たちを苦しめた最大の要因だったわけでもないことが推察できる。ノルマンディ上陸作戦などのヨーロッパ戦線の方がアメリカ兵の死傷者はずっと多く、太平洋戦線はその意味では「楽勝」だったはずが、戦争精神障害の発症数は必ずしもこれに呼応していない。それだけ対日戦線での発症者が多いのだ。

アメリカ兵に深刻な恐怖やトラウマとなってその心を蝕んだのはむしろ、日本側の死に方の想像を絶する異様さだった。実際の戦果がほとんどなかった特攻作戦だったり、日本軍の「玉砕」を目撃したり、その死体を見たり、女性や子供を含む日本の民間人に目の前で自決されたり、女性や子供が特攻攻撃を仕掛けて来まを殺さざるを得なかったりしたことが大きかったのだ。こと沖縄戦では民間人が前線に立たされていたり、日本軍が民間人に変装していたことも分かっていたので、民間人の保護という当初の命令にも、「沖縄(琉球)を日本支配から解放する」と言う大義名分にも反して、民間人まで無差別かつシステマティックに殺さなければならなくなっていた。沖縄戦の米軍の残虐さは日本側の卑劣で常識はずれな作戦の結果で、アメリカ側からすればやむを得ないことであった(民間人だから保護しようとすれば、自分たちがその民間人に殺されてしまう)が、しかしだからこそ、癒しようもないほどの深い心の傷を、アメリカ側にも残していたのだ。

一方で、日本の本土の側では、激しい空襲でほとんどの大都市が壊滅的な打撃を受けていた。東京では一般には3月10日深夜の東京大空襲だけが知られているが、5月24-25日には山手の、品川から青山、渋谷辺りまでが大空襲で焼け野原になっている(被害範囲は東京大空襲より大きい)。これも国民にはほとんど知られていないが、皇居の宮殿ですら空襲で全焼し、今の宮殿は戦後の再建だ。

マッカーサーと幣原は共にそのあまりもの戦争の悲惨を体験して来たものどうしとして出会い、だから幣原の「戦争放棄」というあまりの美しい理想主義の提案に、マッカーサーが軍人として考えるべき国益を超えて(すでに冷戦の前哨戦は始まっており、日本はソ連に対抗する軍事拠点としてその重要性は無視できなかったはずだ)未来への希望と共に共鳴したことは否定できないだろう。「こんな悲惨を二度と繰り返してはならない」、その心からの意思の表明としての「戦争放棄」で両者の思いが一致したのは自然なことだが、またそうでなくともマッカーサーとしては、連合国軍の占領下で再び流血の事態を繰り返すことだけは絶対に避けたかった。そのためには天皇は温存せざるを得ない、というのはほぼ当初からの当然の判断で、日本の「戦争放棄」こそが連合国各国政府相手にその主張を通す決定的なカードになったのだ。

「天皇に直接の戦争責任はない」というフィクションを作り出したGHQと日本側の共同謀議

小林侍従の日記で明らかになった昭和天皇の発言で、細く長く生きても意味がない、という投げやりな気持ちの理由としてもう一つあげられているのが「兄弟など近親者の不幸にあい」であったことには興味を引かれる。この発言があったとされる2ヶ月前には、弟の高松宮宣仁親王が亡くなっているのだ。もっともこの兄弟、終戦の前から全く会っていないと言われていたほどで、病床の宮を天皇が見舞ったのが久しぶりの再会でもあった。

この高松宮こそが天皇の戦犯訴追を回避しようとした日本側の中心人物の1人で、敗戦となると皇族の身分を利用してしきりとGHQ高官を自邸に招き情報収拾と説得に当たっていたことも分かっているが、一方で兄の裕仁個人に間違いなく、少なくとも戦争の継続については直接の責任があったことも知り尽くしていたのも、この弟宮だった。

海軍の参謀として軍令部にいた高松宮は「大本営発表」には書かれない戦況の実際を把握できる立場にあった。宮の死後発見されて妻の喜久子妃が出版した日記には、海軍の暗号電文を解読した本文が多量に書き写されている。こうしてミッドウェイ海戦の惨敗の事実もいち早く掴んだ宮は、即座に兄の天皇に一刻も早い講話を検討するよう進言する手紙を送っているが、この進言は無視された(宮がのちに語ったことでは、宛名はあえて「お上」でも「陛下」でもなく「兄宮様」だったと言い、そのことにも天皇は大いに不興を覚えたらしい)。

前首相の近衛文麿も天皇に戦争の実態が伝わっていないのではないか、と宮と同じ危惧を抱いており、天皇の説得のために宮に協力を求めることになる。いわゆる「近衛上奏」のキーパーソンとなったのが高松宮で、その詳細も宮の日記に記録されていたことで実態が分かった。近衛と宮は何度も天皇に会って説得を試みているが、天皇は頑として応じず、日記には「ダメである」と言った記述が繰り返されている。言い換えれば天皇が、少なくとも宮と近衛に対しては、戦争継続の強い意思を表明し続けていたことは明らかだ。

昭和20年に入ると、高松宮と近衛は戦争を終わらせるためには昭和天皇を退位させるしかないとまで考え、退位後は京都の仁和寺に移すことで仁和寺の了解まで得ていた。最終的に、「御聖断」によって戦争を終わらせるという案にも深く関与することになった時、宮は「敵(陸軍)が精神論という不条理で来るのなら、我々は『御聖断』という不条理で対抗するしかない」と述べている。

こうした隠されていた史実から分かって来た事実で、昭和天皇の戦争継続の強固な意思以外にもう一点重要なのは、天皇も近衛も天皇こそが終戦の決断の鍵だと一貫して考えていたこと、言い換えれば当時の皇族と前首相からみて、天皇にそれだけの権限があったことだ。そうでなくては高松宮も天皇を説得しようとはするはずがないし、天皇がただの飾り物であったり陸軍の横暴に何も言えないような立場であったのなら、近衛が宮に協力を頼むこともなかった。むしろ前首相としての自分の立場で政界をこそ動かそうとしたはずだし、天皇に戦争の実態が知らされていないから戦争が終わらないのではと考えたりもしない。天皇に事実を伝えようとしたり、頑として耳を貸さないその昭和天皇を退位させて、まだ少年の新天皇に終戦の詔勅を出させることなども、画策したりするはずがない。

帝国軍人として天皇の意思に反した行動はしないと断言した東條英機

こうした2人の認識と、それが当時には一般的な考えであったことを裏付けるのが、東京裁判(極東国際軍事法廷)における東條英機の証言だ。天皇の意思に反して対米開戦を命じたのではないかと激しく詰め寄る検事の態度があまりに高飛車だったのだろうか、思わずカッとなった東條は、帝国軍人たる自分が断じて陛下の意思に反することなどできるはずがない、死んでもできない、と言ってしまっているのだ。

この東條の証言は天皇を戦犯として追加起訴する理由になりかねず、現に判事たちの間でも議論になり、天皇をやはり訴追すべきだとの意見も出たが、東條が慌てて撤回し、判決に影響を与えることもなかった。この東條発言もいろいろな曲解は可能だろうが、もっとも素直に解釈するのなら、いったんは怒りのあまり思わず心情を吐露してしまった東條が、天皇を何としても守らなければならない責務を自覚して、と考えるのが自然だ。

東條の前任の首相だった近衛文麿も戦犯として逮捕され訴追されることになっていた。東條は終戦時に自殺未遂をしているが、近衛はいよいよ逮捕されると言うその直前に、自殺している。なぜか? 動機がなんであれ、自らと高松宮の戦時中の終戦工作についての証言を求められれば、天皇を戦犯訴追から守りきることが不可能だったのは間違いない。

戦争指導部にいたわけではないので戦犯訴追の危険はなかった高松宮は、終戦が決定するとすぐに首都圏の海軍基地を回って敗戦の受け入れと、占領軍には決して抵抗しないよう、武装放棄を説得して回っている。占領軍が来てからの宮の動きはすでに述べた通りで、戦犯訴追から天皇を守るべく活発に動いていた。

占領下に流血の事態を避けるには、天皇は温存されなければならない

戦時中になんとか国を救うために終戦を、と天皇を説得し続けてはその兄に裏切られ続けた宮の動機は、なんだったのだろう? ひとつには子供の頃から教えられている皇族の義務があったことは間違いない。天皇の一族は天皇を守り皇統を存続させるために身を捧げなければならない、とされていたのだ。終戦の説得で「兄宮様」と呼んだら不機嫌になった程度の兄であっても、天皇はやはり天皇なのだ。連合国の降伏要求受け入れを「御聖断という不合理」という手段で受け入れるべきだと主張するに当たっても、宮は唯一の条件を「国体の護持」と言っている。「国体」とはつまり、日本国家の中心は常に天皇であるということだ。

しかし高松宮が兄・天皇を守ろうとしたことにはもうひとつ、極めて現実的な動機が指摘できる。陸軍の戦争継続論を「精神論という不合理」と呼んだ宮だが、もちろんその「精神論」の中枢こそが「天皇」だった。終戦の受け入れと武装放棄を海軍に説得して回った時にも、天皇が訴追されたりアメリカの命令で退位となるだけでも軍の一部が蜂起してもおかしくないことを宮は身をもって感じていた。これ以上の流血を避けるには、自分としては不適任と思っていたであろうし戦争に責任があるのも明らかだった兄・裕仁でも、天皇としてそのまま守るのが最善の選択だったのだ。

この極めて現実主義的な判断をマッカーサーも共有することになったのは既に述べた通りだが、そこにはGHQ高官に対する宮の工作も少なからず影響していただろう。そして幣原喜重郎が「戦争放棄」の新憲法を提案し、これを切り札にマッカーサーが自国アメリカも含む連合国各国政府を説得し、天皇の戦犯訴追は見送られたのである。

こうした天皇の免責と無罪の文脈がすでに出来上がっていたからこそ、天皇とマッカーサーの会見は世界に向けても日本国民に向けても歴史的な出会いとして喧伝され、ほとんど戦後日本の神話的瞬間とまでみなされるようになったのだが、真相は自殺することになる近衛、幣原、高松宮、そしてマッカーサー本人が共謀した「出来レース」に他ならない。そうして始まった東京裁判でも、今度はA級戦犯として訴追された東條たちもまたこの「出来レース」に協力して昭和天皇を守ったのである。東條が思わず激昂して発してしまった一言を除いて、戦犯訴追された最高指導部の面々は、誰1人天皇の関与について一切語らなかったのである。

真の「東京裁判史観」、GHQに刷り込まれたのは「天皇に戦争責任はない」という認識

昨今、日本の戦前戦時中を美化したがる議論の中で「東京裁判史観」というレッテル貼りが安易に使われている。意味することろは「勝者が敗者を罰したのだから公平ではない」という陳腐で幼稚で軽薄な、極端に身勝手な感情論のへ理屈でしかないが、真に「東京裁判史観」ないし「GHQに押し付けられた歴史観」と呼ぶべきなのは、昭和天皇が戦争の判断に直接関わっていないという結論が先にあって、だから昭和天皇は平和を望んでいた、よって昭和天皇本人の戦争責任を問うべきではない、という思い込みの方なのではないのか?

なるほど確かに、A級戦犯とされた東條たちについては、実は天皇の意思であって自分の責任ではないことで罰せられたかもしれない可能性が否定できず、その意味で東京裁判は不公平で、真実を明らかにしていなかったのかも知れない。

だが仮にそうだったとしても、それは東條たちが天皇を守るために「臣民」の「忠義」として自ら引き受けたことであり、戦争責任を天皇のぶんまで自分たちが被ったまま、真相を語って弁明を計ることもなく、死刑に処されることで秘密を墓場まで持って行ったことになる。

昭和天皇はこうして、GHQと東京裁判によってこそ守られたのである。

戦後、退位をほのめかした昭和天皇

では天皇自身はなにを考え、自分の責任について本当のところどう思っていたのだろう? 内大臣、つまり要職にある政治家として天皇の最側近であった木戸幸一によれば、天皇は終戦後に退位を語っていたという。マッカーサーに会う前で、そのマッカーサーに退位の意思を伝え国民を守るよう約束してもらおう、というような考えもほのめかしたらしく、木戸はその天皇に考えを改めるよう説得した。占領下の今退位してしまえば、アメリカの命令で天皇がその地位を追われたように見えてしまう。それでは天皇の地位に傷がつき歴代の天皇に申し開きも立たないので、占領が終わって日本が独立を回復してから、天皇自身の意思として退位してはどうか? 言うまでもなく木戸の頭にもあったのは、天皇がアメリカに地位を追われたように見えてしまっては、軍の一部の武装蜂起などが危惧されることだろう。

木戸もまた戦犯容疑で逮捕され、獄中の木戸に天皇は労いの言葉とともに、木戸の考えは分かった、自分もそうするのが良いと思う、という主旨を伝えさせていた。だが禁固刑の有罪判決を受けた木戸が後に釈放されても、昭和天皇はなぜか二度と彼に会おうとはしなかった。

木戸に対する東京裁判の取り調べでもっとも重要なポイントとなったひとつが、近衛文麿内閣の総辞職を受けて、後継の首班に主戦派の陸軍の代表格で、近衛内閣を退陣に追い込んだ陸軍大臣の東條英機を指名したのが木戸であったことだ。戦前の帝国憲法では、総理大臣は天皇の最側近である内大臣が指名することになっていたのだ。

誰が、なぜ、主戦論強硬派の東條英機を総理大臣に選んだのか?

政党政治と議院内閣制が機能していれば事実上は与党が首相を選び、内大臣はそれを形式的に追認するに過ぎず、その首相の内閣の決定や国会の決議事項を天皇が御名御璽で承認することも含め、明治憲法の正常な運用は天皇を形式的な承認機関とみなす制度設計になっていた。だがこの統治機構を「天皇機関説」として理論化した美濃部達吉の学説が昭和12年に「不敬」と陸軍に責められて否定され、やがて政党政治も崩壊して「大政翼賛会」が成立してしまうと、首班つまり総理大臣を指名することは、内大臣とその内大臣を通じて天皇自身の、直接的な政治的意思の表明かつ権力行使となってしまう。

天皇の信頼も篤いと言われ、国民の人気と期待を集めていたはずの近衛文麿内閣が、なぜああもチグハグな外交方針で迷走し、最後には陸軍(東條)の突き上げで崩壊したのかにも謎が多いが、それ以上に謎なのは、なぜその後任首相に、主戦論者の最右翼で、いわば近衛を首相の座から追い落としたに等しい陸軍大臣・東條英機が指名されたのか、だ。

もし天皇が本当に平和を望んでいたのであれば、木戸の判断には首を傾げざるを得ない。その木戸幸一には東條に与する強硬な対米開戦論者であった形跡はなく、むしろ対米開戦の危機をなんとか避けようとしていた近衛文麿と非常に親しかった。なお木戸は後のいわゆる「近衛上奏」にも協力している。東京裁判のための取り調べの尋問記録や裁判での証言は、天才的に明晰な頭脳が作り出したひどく複雑な詭弁と論評したくなるが、かいつまんで要約すれば以下のような内容だ。

近衛の後継首班指名には天皇は直接の意思を示さず、自分に任されていた。天皇は対米開戦回避と平和を望む意思は自分に伝えていた。

そこから先が芸術的な詭弁としか言いようがない。

自分が東條をあえて選んだのはあえて火中の栗を拾うというか、毒を持って毒を制すというか、東條の強硬な主戦論は陸軍大臣の立場に過ぎないから言えた省益・軍の利益確保のためのスローガンに過ぎず、首相として国全体の命運を考える立場になれば考えが変わるはずだし、ならば軍を説得できるのは東條を置いて他にない、という分かったような分からないような話なのだ。

なるほど、東條がそうやって態度を豹変させることだってあり得ないとまでは言えないだろうが、逆に言えば確実にそうなる保証もまたどこにもなかった。つまり木戸の主張は一か八かの賭けにしてもリスクが高すぎて、誰しもが疑問を抱くところだが、木戸は釈放後に答えたインタビューなどでも頑なに同じような持論を述べてみたり、陸軍の圧力をほのめかしたりしつつ、天皇がこの決定に関与したのかどうかは曖昧に済ましている。

天皇本人の意思表明は記録が残らないのが「天皇制」の伝統

歴史の事実関係を検証する上で厄介になるのが、戦前の帝国憲法体制に限らない「天皇」という君主の特殊性だ。

明治以前・前近代の歴史的な天皇制から綿綿と引き継がれて来た「天皇」そのもののあり方が、たぶんに宗教的な禁忌色を帯びた日本独特のもので、前近代であれば在位中の天皇はその顔がほとんど見られることすらなく、直接会えるのはごく一部の高い官位にあるものだけで、それも臣下であるからには基本、簾ごしだった。在位中の天皇は「禁裏」と呼ばれた不可侵領域である宮中に留まり続けてそこを離れる「行幸」も滅多になく、肖像画などもまず描かれなかった。現存する天皇の肖像画や肖像彫刻のほとんどは退位後の、上皇となって「天皇」を巡る禁忌から解放されて以降のものだ。明治以降「御真影」が各所に配られ飾られていたのとは対照的だ。

そして天皇の意思が言葉として直接伝えられることもまずなかった。公式の天皇の意思となる勅令や綸旨などの命令は、宮中で議論や推敲を経てまとめられたもので、明治維新の決定打となった「倒幕」の密勅に至っては事後承認、元々は西郷隆盛と大久保利通、岩倉具視が結託した書いたニセ詔勅である。

その一方で、天皇御製の和歌は広く流布され、多くの者がその歌を通して天皇の思いを心に浮かべるようにもなっていた。こうした直接には見えずその声も聞こえない、詩歌の「言葉のアヤ」から憶測するしかない天皇の意思という伝統は、近代に入ってからも継承され、国家の実態権力が直接天皇大権として集約され、「大元帥陛下」として軍事的な色彩も帯び、西洋の君主制の模倣で大きく変質した天皇でも、天皇の声が聞こえたのは終戦時の「玉音放送」が最初だった。

天皇の、間接的に伝えられるその言葉や、本人による和歌や書のまさに「言葉のアヤ」から、天皇の意思を忖度し、想像・解釈してそれに従うというのが、そもそも歴史的にほとんどの時代に象徴天皇制であった日本の独特の政治文化であり、そうすることで天皇を直接の政治の権力闘争から切り離して来られたこの間接表現・間接話法と忖度のカルチャーは、名目上にせよ国家の主権と大権が天皇に集中することになった明治体制でも維持されたのである。だから天皇の直接の意思表明の言葉は、少なくとも公文書の記録にはほとんど残っていないし、御前会議の記録などでも天皇の発言は明治天皇の御製の和歌を引用してその意味を考えるよう促したりなどしか書かれていない。だからと言って天皇で和歌しか持ち出さなかったのだと断ずるのも早計だ。実際にはなにか積極的な発言があっても、記録しないことになっていただけだからだ。結果、こうした御前会議などの記録はひどく読解が難しいものにもなっている。最高決定権者の発言が議事録にほとんど記されていないので、意思決定のプロセスが間接的に、推測を伴ってでしか分からないのだ。

総理大臣の指名は内大臣が行うというシステムも、天皇自身の意思が直接には表明されない仕組みの一環だった。内大臣が天皇の指示でとすら制度には書かれていないが、もちろん政府内閣の中でもっとも天皇に近い立場、いわば政治と天皇のつなぎ役である内大臣の首班指名には天皇の意思が尊重されているのが言わずもがなだし、逆に実際には天皇本人の人選であっても、表向き・記録上はあくまで、木戸が東京裁判の取り調べで証言したようなことになる。天皇の意思は曖昧・抽象的な希望としてしか表には現れず、その意思を忖度して直接の人選を任されているのはあくまで内大臣、この場合なら木戸幸一なのだ。

逆に言えば木戸の証言は、木戸が天皇を守ろうとして自分が決めたと言ったのだとしてもまったく不思議ではない。いやむしろ、木戸の見事ではあるがやはりどうにも苦しい詭弁の真相は、東條を近衛の後継首班に選んだのが昭和天皇本人だったという事実を隠そうとしていたからだと言う推理も十分に成り立つし、むしろそうでなくては合理的な説明がつかないほどだ。詭弁はやはり詭弁でしかなく、木戸本人が東條を選ぶ理由はどこにもなかったのである。むしろ近衛と親しかった木戸自身の意思であれば、近衛に考えが近い文民を選んだはずで、木戸自身がかなり警戒していた東條を選ぶとも思えない。

ただし、もし昭和天皇が主戦論に傾いていて、東條が自分の意思を忠実に遂行してくれると期待して木戸に次の首相は東條だと伝え、東條が律儀で生真面目な、官僚的な性格ゆえに、天皇の指名に深く恐れ入ってしまって忠義を尽くそうとしたのだと考えれば、彼の東京裁判での不規則・爆弾発言的な証言も含めて、すべて説明がついてしまう。


「平和を望んでいた昭和天皇」は戦後の後付けに過ぎず、根拠は東京裁判しかない

ここから先は断片でしか分からない史実(天皇の意思が直接記録に残らないだけでなく、膨大な文献記録が終戦時に証拠隠滅目的で焼却されている)からの憶測・推測でしかないが、しかし一般になんとなく流布して信じられて来た、昭和天皇は平和を望んでいて、軍が天皇の意思に反して戦争を進めたのであって、だから天皇個人に戦争責任はないはずだという一応の「定説」に比べれば、まだ具体的な根拠がある。「平和を望んでいた昭和天皇」説は日本側から言えば「国体の護持」、GHQから言えば昭和天皇の戦犯訴追を避けることで治安の安定をはかると言う利害が一致した政治的な理由があった打算に他ならないし、その後付けの根拠となっているのは国体すなわち天皇を守らなければならないという義務感を持っていて当然の者たちの証言と、それに基づく東京裁判の判決だけだ。

たとえば木戸が述べていた東條英機の首班指名の理由だが、これが説得力を持ち得るとしたら(=木戸が本当にそう考えたとしたら)理由はただひとつ、なるほど、東條とてプロの軍人だったことだ。

陸軍大臣として口でこそ勇ましい精神論を唱えていたのは陸軍省の省益・軍の予算の確保のために過ぎなかったのなら、冷静に軍事のプロとして判断すれば対米開戦は無謀でしかなく、およそ勝てる戦いではなかった。すでに中国戦線は完全に膠着状態にあって占領地でも八路軍との泥沼の戦いになっており、広大な大陸に伸びきった兵站線では食糧の補給もおぼつかぬまま、「現地調達」つまり地元民から見れば略奪を命じ続ける状況にあった。最初からかくも無理のある作戦の当然の結果として南京占領時を筆頭に、一般人を虐殺する事態まで随所で継続的に頻発していた。慰安婦まで「現地調達」となれば、つまりは強姦だ。そんな怨嗟が民衆に蓄積している占領を力で押さえつけるだけで維持すること自体が、さらなる膨大な軍事的負担になるが、そのために不可欠な軍事物資を、石油も鉄鋼もアメリカからの輸入に依存していたのだ。つまり対米関係が悪化するだけで日中戦争すら継続は難しい。これでもプロの軍人が、対米開戦を決意するだろうか?

北方に目を向ければ、ノモンハンでの大敗のあとソ連とは不可侵条約を結んではいたものの、スターリンのソ連がそこまで信頼できるわけもない。そのソ連の脅威に北から晒されていた中国での戦争が泥沼化しているのに、その上今度は石油資源のために南方にも侵攻するというのでは、戦線があまりに拡大し過ぎてしまう。なによりも鉄鋼・石油の依存も含め、当時のアメリカと日本では国力・経済力と産業基盤の差が違いすぎた。だからこそアメリカへの依存から脱するべく北朝鮮・満州・中国本土から石炭や鉄鉱石、東南アジアから石油を確保しようという資源計画自体が、実際にそれだけの産出量に達するのに必要な開発経費や時間を考えればおよそ机上の空論でしかなく、とても現実の戦争を戦えるものでは最初からない。つまりもともと勝てる可能性が皆無だったのが対米戦争である以上、東條が首班に指名されれば、陸軍省の省益も引っ込めて、近衛が腐心していた戦争回避に自らの方針を転換することも、まったくあり得ないわけではないだろう。むしろまともな軍人ならそう考えたはずだ。

東條本人は軍国主義の征服願望に満ちた野心家タイプではおよそなく、軍事的な功績があったわけでもない、むしろ組織に従順な軍官僚だった。たとえて言うなら初代陸軍大臣で木戸幸一の祖父・木戸孝允こと桂小五郎とは長州閥の盟友だった山縣有朋とは正反対の、生真面目で責任感もあって面倒見もいいが、いささか小心なまでに慎重な、保守的な人物で、また私生活では軍人=厳父イメージとは真逆の、とてもやさしく子煩悩だったと言う。そんな東條が生来の生真面目な性格で首相の責任を感じつつ現実を見れば、主戦論を引っ込めるかも知れないが、小心なまでに慎重な、保守的な性格であればこそ、掌を返すような正反対への政策転換が難しいのも確かだ。やはり戦後になって木戸の語った理屈が成立するにはあまりにハードルが高く、つまりはリアリティがない話なのだが、ただしそこに天皇の平和を望む意思が本当に介在していれば話は別だ。東條が東京裁判で思わず口走ってしまったように帝国軍人は天皇の意思には絶対に従うべきだったのだし、逆に陸軍大臣として強弁していた主張を首相になって引っ込めなければならなくなったとき、「陛下の御意志」は申し分のない大義名分になる。

もちろん現実には、そうはならなかった。東條の首相就任は天皇が主戦論・強硬論を選択したと受け取られて当然だったし、結果もその通りになった。東條はその「天皇の意思」と自らが忖度したことに忠実に行動し、そうした政府方針に抗しきれない外務省の動きは、近衛内閣末期のちぐはぐさを一層強める。日本の東南アジア進出を許さず、中国での停戦と撤退を要求するアメリカとの交渉は、日本の支離滅裂な態度が当然ながらアメリカからまったく信用されずに態度の硬化を招き、そうしたアメリカの態度を「侮辱だ」と報ずるメディアが国民世論を煽り続けた。すっかり日本中が主戦論に染まった中では、たとえば海軍がシミュレーションしていた図上演習では壊滅的な打撃に至ると言う結果ばかりが出ていても、そうした予測は隠蔽・封印されてしまった。

最初から敗北確実の対米戦争は、誰の権限ならば始められたのか?

開戦前から、日本の惨敗は予測されていたのだ。ここで不思議なことがある。軍の上層部がそうした予測を理解できないほど無能だったとは考えにくいし、軍事の詳細は分からずとも政府の首脳部でもアメリカと日本の国力・経済力の差と、すでに日中戦線が膠着状態に陥っていた現実を前に、これを「勝てる戦争」だと考えられるほど無能で不見識であったとも考えられない。

例えばなんとか対米和解に腐心していた外務大臣の東郷茂徳だけでなく、その前任者の松岡洋右ですら、自分が全権大使として結んだ日独伊三国同盟に実はまったく賛成しておらず、政府の方針に押されてこの同盟を結んだあとでは、せめてもの戦争回避の手段として日ソ不可侵条約の締結に奔走した。日独伊にソ連も加われば、アメリカも日本と戦争をすることは躊躇するはずだと言う、かなり無理がある絶望的な判断にすがってでも、アメリカとの戦争は絶対に避けなければ国が滅びる、と松岡もまた考えていた(ちなみに満州事変を契機とした国際連盟からの脱退演説でも有名な松岡だが、本人はこれにも反対だった)。

松岡に限らず主戦派のように思われがちな閣僚たちですら、個々人の率直な意見を問われれば、対米開戦に賛成したとはおよそ考えられないのだ。東條自身ですら既に述べた理由で、プロの軍人としての判断を求められれば、本当に自分の意思でこの戦争を決断しただろうか? まして平和を望む天皇の意思を無視してまで、と言うことがあり得たのだろうか?

だが現実には、当時の日本の統治機構の組織内で起きていたのは真逆の現象だった。海軍は図像演習で勝ち目のない戦争と分かっていながらそのシミュレーション結果を隠蔽し、戦後になって「実は戦争に反対だった」かのように美化されがちな連合艦隊司令長官の山本五十六も「二年間は暴れて見せる」までしか言えていない(言外の言で、それ以降は負けると言う意味)。象徴的な例として、海軍軍縮条約に違反して秘密裏に建造された巨大戦艦の大和・武蔵にしても、大鑑巨砲主義が時代錯誤になっていただけではない。設計上は「不沈艦」でもその設計を実現するには溶接技術が追いつかず、元から欠陥品としてしか完成し得なかったのも、技術者からの警告が握りつぶされていた。「大本営発表」の虚報体質は、戦争の準備段階から始まっていたのだ。

「大本営発表」は誰のためだったのか?実は天皇を喜ばせるためにこそ、軍は天皇が嫌がる事実を隠したのではないか?

元から勝てる戦争ではなかった事実が国民から隠されていたことまでは周知の事実だが、では天皇はどうだったのだろう? 近衛文麿や高松宮が危惧したのが、天皇にもそうした現実が知らされておらず、「大本営発表」しか知らないのでは、と言うことだった。だが戦争の実態を高松宮に知らされた時の天皇の反応について、宮の日記の記述には首を傾げるところがある。天皇が現実を知っていたのかどうかすら、その反応からはまったく読み取れないのだ。

普通なら、天皇が大本営からの公式情報しか知らされていなかったのなら、それが嘘だったと分かった時の驚きや怒りがあるか、逆に近衛や宮の言っていることこそ事実に反する、と抗弁したはずだろう。だが昭和天皇が頑なに耳を貸さなかったのは、なんと単に自分は天皇として正式の報告以外は受ける立場にない、と言う理由だけなのだ。

高松宮の日記にも「ダメである」という半ば絶望、半ば呆れた言葉があるだけで、それ以上の詮索は記されていないのだが、ここでひとつ恐ろしい想定が思い浮かぶ。

天皇は単に負けていると言う現実を知りたくなかっただけではないのか? 「大本営発表」は国民を騙す戦意高揚のためだけではなかったのではないか? 実は天皇の気に障る事実を天皇に伝えないためにこそ、軍は虚偽を言い続けたのではないか? 事実が隠され続けたのは天皇の不興を避けるための、昭和天皇への忖度だったのではないか?

東條が総理大臣に指名されたことからして、天皇が嫌がることを言わない、天皇の心情を慮って喜ばせることしか言わないのが東條だったからではないのか? そんな忖度のヒエラルキーが出来上がってしまって官僚組織の内部まで蝕んでいたのが1940年代初頭の日本で、だから大和・武蔵の設計上の欠陥すら上層部に報告されないような状況ができあがってしまっていたのではないか?

似たような状況を、我々は敗戦から50年後に目撃している。オウム真理教の地下鉄サリン事件だ。公判で明らかになったのは、サリン製造もその使用も教祖・麻原彰晃の主体的な指示があったわけでは必ずしもないことだ(麻原が参加した共同謀議は井上嘉浩だけがを証言している)。むしろ理系エリート出身の幹部たちが競って教祖が喜ぶような「あれもできます」「これもできます」と提案を競い合い、気がつけばなんの意味があるのかもよく分からないがひたすら反社会性の意思だけは明白な、史上初の大都市無差別テロ事件が起こってしまっていた。あるいは安倍政権下の森友・加計学園疑惑にも、似たような状況が指摘できる。

そもそも合理的な国益が説明できない日中戦争以降の日本の戦争

満州事変までの日本の東アジアへの植民地侵略は、伝統産業の延長上の軽工業・民生品中心が明治半以降の「富国強兵」重工業中心へと産業政策が転換された必然的な結果としての、古典的な帝国主義・植民地主義の、資源と市場と労働力を求めての拡張政策として大筋は理解できる。

昭和初期までの日本の最大の製造業で最大の輸出産業が絹糸と絹織物で、養蚕が農家の重要な複収入源になることで広く薄くその利益が国内に循環もしていた。陶磁器なども盛んに輸出されていたのも含め、これは江戸時代に幕府がオランダ東インド会社を通じて大きな収益をあげていた対ヨーロッパ貿易のいわば延長だった。だがこうした殖産興業政策を進めた大久保利通の暗殺後、明治政府は軍需産業にもつながる重工業化に政策を転換し、石炭や鉄鉱石といった資源を求めて満州に進出することは経済産業上必然的な要請となった。そこで日本はまず満州進出の足がかりとして朝鮮半島の植民地化を進め、並行して日清・日露の両戦争で満州の権益を争うことになり、最終的には満州事変・傀儡国家満州国の建国に至ったのが、いわゆる「15年戦争」の始まりだ。

だがここから先の対外拡張・侵略路線が、国益の確保では説明がつかないのだ。中華民国が内乱状態になっていたからといって、日本の国益の確保なら満州国との国境地帯の防備を強化すれば済んだはずだ。日中戦争は野蛮な領土的野心以外に理由が見当たらない戦争だし、対米開戦に至っては無謀でしかなく、日中戦争と並んで日米対立の大きな理由となった東南アジア進出にしても、石油の確保と言ったところでおよそ現実性があった計画ではない。戦争・侵略行為の倫理的な是非以前に、近代国家の合理的な国益判断として「あり得ない戦争」の泥沼に、昭和天皇の時代に入った日本はどんどん踏み込んでしまっていた。

皇太子時代に欧米を歴訪している昭和天皇だから対米戦争は無謀だとわかっていたはずだ、と言うのも、天皇が対米開戦に反対だったのではないかと言う憶測の理由づけとしてしばしば挙げられるし、確かに同じようにアメリカを訪問してよく知っていた高松宮は対米開戦を批判していた。だが単に同じように西洋の先進国を見ていたからと言うだけで、兄弟が共に同じように考えたと言えるのだろうか? だいたい戦前・戦時中の昭和天皇の重臣たちの多くもそれぞれに実際に訪問したり、あるいは勉学を通じて欧米を知っていたはずだが、彼らの誰1人として対米開戦を積極的に阻止しようとはしなかった。明治のエリート教育制度が育てた、有能だったはずの官僚たちも、例えば東南アジア進出による石油の確保が経済政策として破綻していることを指摘して反対したりはしていない。

昭和に入ってからの日本の戦争は、古典的な植民地主義帝国の経済目的・実利的な国益主義を逸脱したものとしかいいようがなく、「国体」と言う国家イデオロギー抜きには説明がつかない。その「国体」の中枢にいた天皇が、この異様な、なんの合理性もない拡張主義の、侵略戦争のための侵略戦争に無関係だった、つまり天皇に戦争責任はなかった、と本当に言えるのだろうか?

戦時中の近衛の動きを見ても、天皇がただの「飾り物」だったとはおよそ考えられないのもすでに述べた通りだし、天皇が陸軍の暴力に怯えて押し切られたなどという説に至ってはなんの根拠もないどころか、それこそ東條が「帝国軍人たるもの」と激怒するだろう。

昭和の「国体」論に浮かび上がる「尊王攘夷」と吉田松陰の亡霊

ではその「国体」とはなにか? 一般には「天皇中心の国家のあり方」と言った程度にしか理解されていないが、元を糾せば明治新国家建設の基本イデオロギーであり、つまりは維新勢力側の「尊王攘夷」に源流がある。この「尊王攘夷」が現代人にはひどく分かりにくいのはまったくその通りで、なにしろ「攘夷」とは「外国人・外国文化排斥」のはずなのに、明治政府が実際にやったのは極端かつ猛スピードの西洋化で、一時は明治天皇その人が頑強に抵抗したほどだったし、鹿鳴館などの極端な西洋模倣・西洋かぶれは東京(旧・江戸)の一般市民から激しい批判と軽蔑に晒されている。

だがこのわけの分からなさは、単に「攘夷」ではなくあくまで「尊王」とワンセット、むしろ本筋が「尊王」の方であったことを見落としているが故に他ならない。つまり「尊王攘夷」と言った時の「夷」つまり外国の野蛮人とは、機械化が進む先端文明を持つ西洋よりも、むしろ同じアジア人を潜在的には最初から意味していたとすら言えるのだ。現に「尊王攘夷」イデオロギーの長州におけるカリスマとなった吉田松陰は密航を企てるほど西洋文明に憧れを持っていたし、『日本書紀』の三韓征伐の記述を理由に朝鮮半島の侵略を唱え、安政の大獄で逮捕された獄中からの書簡では、東南アジアや中国を侵略し日本がアジアの盟主になると言う構想まで書き残している。偶然の一致か、潜在意識レベルでも影響があったのか、「大東亜共栄圏」の「八紘一宇」はこの松陰のカルト的で危険なイデオロギーの具現になっていたのだ。いやさすがに極端すぎる推論ではあろうが、松陰カルトが組織的に当時の日本の統治機構に広まっていたとは考えられないとしても、1人ないしごく少数がこのイデオロギーに密かに心酔していただけでも、それが国家の全体方針になることは不可能ではない。他ならぬ昭和天皇がそうした「国体」カルトに傾倒していた場合だ。

それにしても本来は儒教概念の「攘夷」、つまり中華思想の理念が、なぜこんなねじ曲がったアジア侵略の理屈になるのか? 元を辿れば江戸時代が平和な時代だった結果というかそのおかげで、体系的な歴史学研究が日本で始まったことがある。元禄期に水戸藩2代目当主・徳川光圀が編纂を始めた「大日本史」だ。光圀の功績の大きさに疑問の余地はないが、しかしそこには厄介な副産物があった。日本の歴史が初めて通史として認識されたこの時代に恐らく初めて、日本の天皇家がずっと同じ一族・同じ王朝の系譜で続いていることもまた意識されるようになったのだ。

それだけならば今でも「日本の天皇は世界でいちばん古い王朝」というトリビア程度の話で済んでしまうだろうが、それだけでは済まなかったのは、光圀が学問の奨励で歴史研究と並んで二本の柱としたのが、好奇心旺盛で特に中国文明への憧れが強かった彼だけに、儒教だったことと関わって来る。

長く続く治世=君主の徳の証明?

中国儒教で特に重要な統治理念に「徳治」と「天命」がある。徳のある聖人君子が「天命」を受けて国を統治する「徳治」による長期安定政権が儒教の理想であり、逆に言えば高い徳を維持する優れた君子であれば、それだけ長く天命の加護を受け、統治期間が長くなる、と言う理屈から、在位期間の長さは帝王の徳の証明とも解釈され、だから例えば儒教論理で書かれた『日本書紀』のうち「神代」の、神武天皇から応神天皇までの在位期間が極端に長い理由はここにある。これが書かれた天武持統朝には歴史的な正確さなどまず意識されなかったのだろうし、むしろ遣唐使を前提に中国で読まれることも考慮された日本の「正史」では、天皇家の祖先の徳の高さを強調することが優先されたわけだ。

今は日本の国家になっている「君が代は」という詠み人知らずの和歌も「徳治=統治期間の長さ」と言う考えに基づいている。「今の天皇の在位」(もっとも古い記載である古今集では「我が君は」つまり在位中の天皇そのもの)を意味する一節目以外は、「千代に八千代に」も「さざれ石の巌となりて」も、その巌に「苔のむすまで」も、いずれも極端に長い時間的継続という同じ意味の修辞がひたすら繰り返されているだけだ。当然ながら現代人にはまったく意味が分からない歌で、昭和初期には「さざれ石を」のくだりが天皇の下での国民の結束を表すといった曲解で強引に意味づけがされたりもしたが、これは奈良時代から平安初期にかけては在位の長さ=天命=君主の徳、という信仰が今では想像がつかない深刻な重要性を持っていたからに他ならない。高い徳のある君主が「天命」を受けていれば、善政によって内乱などが抑えられ外国からの侵入も防がれるだけでなく、「天命」なので天変地異・自然災害・疫病もなくなると信じられたのだ。疫病も天災もない期間ができる限り長く続くと言うのは、奈良時代から平安前期にかけて、極めて切実な願いだった。たとえば富士山が噴火を繰り返した時代だし、農業技術も未成熟でちょっとした気候不順が飢饉を引き起こし、都に人口が集中すれば必然的に伝染病も蔓延した。平安朝の天皇家が空海の真言密教に深く帰依したのは「国家鎮護」だったが、これも現代人が思うような戦争安全保障がらみの敵の調伏などではない。なによりも天災と、特に疫病を遠ざける祈りであり、また空海は治水などに不可欠な土木技術も密教と併せて唐から持ち帰っていた(空海が作ったと言うため池や堤防は全国にある)。

日本は古代の、日本側の歴史記録が残るよりはるか以前の時代から、中華帝国の朝貢国で、ヤマト王権の成立期の研究には中国正史の朝貢の記録が最大の手がかりになるほどで、以降もずっと中国は日本人にとって憧れの文化文明先進国であり続け、光圀や同時代の将軍・徳川綱吉にとっての中国は、儒教の強い影響もあって「聖賢の国」だった。だが光圀の没後も「大日本史」の編纂が進むに連れて、日本がその「聖賢」のお手本の中国や朝鮮半島と違って王朝交代がないことが、次第に重要な意味を持つように考えられてしまう。日本の天皇家は東アジアのどの王朝よりも治世が長いということは、天皇家の徳がそれだけ高いという意味になり、つまり日本は特別な国、神の国という意識が水戸藩9代藩主・徳川斉昭によって全国の武士に広められ、斉昭はいわば「攘夷のカリスマ」になった。

戦後日本で隠されるようになった「尊王攘夷」の危険なカルト性

今年の大河ドラマは西郷隆盛だが、こうした攘夷思想の流れは完全に無視され、なにやら情緒的に突然西郷たちが「将軍よりも天子様」と言い出し、天皇を中心にした新国家で外国の侵略から日本を守る、という露骨にファシズム的な流れになって来ているが、これは必ずしも史実ではない。だいいち当時日本に西洋列強が開国を求めたのは交易目的で、領土的野心はこれっぽっちもなかったし、西郷たちが大内乱を起こしてまで政権奪取に走れたのも、西洋の植民地列強がその隙につけ込んで日本を侵略するような動きをまったく見せなかったからだ。むしろそうした侵略リスクや内乱で国民の生活や生命安全が脅かされることや、列強の介入で日本が植民地化される可能性を危惧していたのが幕府、とりわけ徳川慶喜(ちなみに「攘夷のカリスマ」斉昭の息子だが、祖先の光圀ばりに無類の好奇心の塊で学問好き)の方だ。鳥羽・伏見の戦いに幕府軍が敗北するや慶喜が大坂城から撤退したのは大坂城下の市街戦を避けるためと、大阪湾に展開していた強力な幕府海軍に対抗するには西郷や大久保はイギリス海軍に援軍を頼む以外になく、彼らならそうしかねないと恐れたからでもあった。

「尊王攘夷」の本質は「尊王」の方にあり、その「攘夷」も本来の中国儒教概念の中華思想と中国文明圏外の文明対立の意味ではなく、とにかく長く続いた天皇家ゆえに神聖な「神の国」の日本の「国体」と日本以外の国との違いという意味だったからこそ、本来の儒教概念としての「攘夷」に囚われた中国本土(清朝)や朝鮮半島(李氏朝鮮)と異なり、近代日本が儒教文明圏外の西洋に染まることについても、他ならぬ「尊王攘夷の志士」たちにこそほとんど抵抗がなかった。それどころか近代化=西洋化について清朝や李氏朝鮮が本来の「攘夷」思想から頑なな態度に走りがちだったのに対し、日本がいち早く「文明開化」を進められたのも、どこよりも長く続いた王朝である天皇家をいただく優れた神聖国家なのだから、日本こそ東アジアをリードすべき、そのためにアジア周辺諸国を侵略しても構わないという極端な危険思想を、吉田松陰が明治維新の9年前にはすでに表明していたのだ。そして明治政府では明治6年にはもう、対西洋の開国を拒み続け、さらには明治政府が徳川幕府を倒したことを不忠で不道徳とみなして国交を断絶していた李氏朝鮮に対する侵略戦争が議論されていた。いわゆる「征韓論」だ。

言うまでもなく、一歩引いて冷静客観的に見れば、これはバカバカしいまでの机上の空論の屁理屈でしかない。明治政府が公式に採用した計算では1940年・昭和15年が「紀元2600年」となるが、それだけの長い期間をひとつの血統の王朝として存続できたのも、別に天皇家が有徳の特殊な神聖一族だったからではない。まず吉田松陰の韓国征服論とは真逆に、中大兄皇子=天智天皇が白村江の戦いでの敗戦を機に朝鮮半島から手を引いて以降(むしろ中大兄はわざとこの戦いに負けて、朝鮮侵攻強硬派を戦死させることで政権から排除したフシすらある)は対外戦争がほとんどなく、したがって侵略されるリスクが低下したこと(豊臣秀吉の朝鮮侵略で失墜した国際的信頼も、家康の国交回復で挽回されている)と、なによりも天皇がほとんどの時代において大なり小なり「象徴」に留まり、実態権力の行使とそれに伴う権力闘争から距離を置くように予め制度設計されていたからだ。

こうした日本独特の権威と権力の分化の二重構造が完成された徳川体制は、だからこそ250年も続いた政治的安定を実現できたのだし、実態の支配者である将軍や諸大名は「天皇から預かった民」に尽くす道徳的義務を追うと言う理論で善政を敷くよう求められた。これが江戸時代の日本の経済的繁栄の基盤となり、その高度に発展した文明・文化体制が安定していたことも、西洋列強も日本には領土的野心を持たなかった大きな理由のひとつだった。

日本が侵略の危機に晒されていたと言うのはまったくのフィクション

近代植民地主義の大義名分は、未開の野蛮の地に文明をもたらすことだ。そしてこれはどう見ても、江戸時代末期の日本には当てはまらない。江戸は当時の世界で最大の都市のひとつで衛生環境も極めて良かったし、下層階級でも消費水準が高く、高度な庶民文化が花開いていた。しかもその日本の西欧列強から見てもっとも魅力的な産品が、民度の高さゆえに生まれた高級手工芸品だったのだから、植民地支配する意味自体がなかった。

幕府がフランスから軍事顧問を招き軍の近代化を計り、薩長側に英国がついていたからと言って、戊辰戦争を植民地列強の代理戦争のように言う俗説もあまりにも牽強付会と言わねばならない。西郷隆盛が江戸総攻撃を計画していたとき、人口100万の大都市の市民の命を危険に晒すのは人道上許されないと抗議したのは英国の公使パークスだ。もちろん英国は江戸が壊滅すれば日本の経済構造が崩壊し英国の貿易に大きな損失が出ることを恐れてもいた。当時はアメリカの南北戦争で英国の生活にも工業にも欠かせなかった綿花と茶葉のアメリカ南部からの輸入が滞り、その穴を埋めていたのが日本からの輸入だったのだ。この綿花と茶葉の大規模な買い付けが日本国内での価格の高騰を招いたのを始め、開国による輸出の急増はインフレを招き国民生活に打撃を与えはしたが、そうした経済混乱以外に当時の日本人が西洋の進出に危機感を抱いたり国防の必然を感じたりする理由はほとんどなかったのだ。

だいたい明治新政府も植民地侵略のリスクを感じてなどいなかったし、だからこそ列強の介入も恐れず戊辰戦争も敢行できたのだ。近代日本が目指したのは国防ではなくむしろ西洋列強並みの軍事大国となり、松陰の遺言したようにアジアの盟主として列強と拮抗することで、その正当化の理屈が「国体」、「万世一系」の天皇家による2600年近い東アジア最長の王朝であるが故に日本と天皇には特別な「徳」がある、と言う儒教論理の強引な曲解だった。

もちろん冷静に考えれば、荒唐無稽である。長く続いたからといってそれがなんだと言うのか? 儒教の教養なぞ『水滸伝』や『南総里見八犬伝』くらいでしか知らなかった江戸庶民でも、だからこそ「長けりゃいいってもんじゃねえだろう、バカバカしい」と言ってしまえばそれだけの話だ。だいたい徳川幕府が長期安定政権になったのは江戸庶民に愛されていたからなのも大きな理由で、その逆に、長続きしたから徳のある善政とはならないし、なぜ人気があったのかといえば将軍達の中でも英明とされた者たちが、家光でも綱吉でも吉宗でも、庶民に配慮を欠かさなかったからだ。

長ければ偉い、と言うのは平安時代の『君が代』。そんな「迷信」はとっくに終わっていたはずが…

明治の歪んだ近代主義に毒された儒教の曲解は「軍人勅諭」、そして「教育勅語」でさらに強化される。「教育勅語」の基本ロジックは天皇家の統治の長さは天皇家と日本の徳の高さ故であり、その徳を高め天皇家のさらなる繁栄を目指すためには、天皇ではなく臣民が道徳的な生活を心がけければならない、と言うものだ。本来なら高い徳を要求されるのは君主つまり支配者の側であり、その徳の最重要要素が「仁」、下位のもの、弱きものを慈しみその幸福に尽くすことであり、この独特義務を支配者に課すことで社会の安定を説いた儒教本来の理論は、この時点で完全に逆転している。そんな倒錯論理の行き着く先にあったのが、国民に天皇のために死ぬことを倒錯した道徳律として課し、最初から勝てるわけがなかった対米開戦にまで突き進んだ異常な精神論だ。

どうしたらこのような狂気に至れるのだろう? 国民全体が相互の自己洗脳状態に陥っていたことももちろん指摘できるだろうし、政府内部では陸軍と海軍の確執と軍事予算の取り合いをはじめ、「国体」に殉ずるポーズを競い合うようなうわべだけの精神論の見栄の張り合いが、縦割りの行政組織同士のライバル意識が火に油を注いでいたのも確かだ。だがそれは、誰の目を気にしたポーズの競い合いだったのだろう? 客観的・論理的に考えた場合、どうしても排除できないのは、他ならぬ昭和天皇その人のご機嫌取りで、各省や各大臣が競い合っていたのではないか?

近衛文麿は平安時代から関白を輩出してきた藤原北家の名門中の名門・五摂家筆頭の近衛家の末裔である(ちなみに「近衛」は通姓で本当の名字は「藤原」)。その近衛や、天皇自身の弟である高松宮や三笠宮、桂小五郎こと木戸孝允の孫である公爵・木戸幸一らはまだ、「国体=民族の伝統」「国体=国民」と言う天皇制の隠れた根本原理を理解していて、皇統の継承=国民の安寧のため時には天皇を諌めなければならない、と言う立場も自覚していたし、時にはそれを辞さないことも天皇の身近にあるものの義務と心得ていただろう。また昭和天皇が本来の天皇制が想定していた「徳」のなんたるかを知っている君主であれば、少なくとも近衛と高松宮が説得を試みた、すでに戦局が取り返しのつかないほど悪化した段階では、当然耳を傾けたはずだ。

だが実際の昭和天皇はどんな人物だったのか? 高齢で健康の衰えた自分の公務を減らそうという側近の努力を慮りもせずに「細く長く生きても辛いだけ」と投げやりな態度を取っていたのだ。近親者の死に自分の死が近いことを重ね合わせるのはまだわかるが、「戦争責任のことを言われる」と恨みがましく愚痴るような人物でしかなかったのだ。

この時は高齢で精神も衰えて来ていたとしても、その10数年前には「言葉のアヤ」が分からないと言って自らの戦争責任についての問いから逃げるような、原爆投下を「やむを得なかった」と言うような人物が実際の昭和天皇だった。

さらに遡れば靖国神社へのA級戦犯秘密合祀が明らかになった時に昭和天皇が怒ったのまではいいが、そこに祀られるしかなかった戦死者への慮りは一切なく、単に自分が参拝に行けなくなったことを問題にしていただけだ。

沖縄の返還時に沖縄の地元紙がスクープしたショッキングな事実もあった。GHQの占領統治が終わりつつあった時、昭和天皇は沖縄を日本に返還しないよう要請していたのだ。

昭和天皇はなぜ木戸幸一に「退位」を相談したのか?

しょせんその程度の、およそ天皇にふさわしからざる人物だったかも知れないと言う仮定に立った時に見逃せないのが、昭和天皇が木戸幸一に言ったとされる退位の意思だ。戦争の責任を取るかのように退位を口にしたのは、木戸がアメリカ占領下での退位はまずいと当然考えて反対することを見越してだったのではないか? 木戸の進言を受け入れた風を装って占領終了後の退位をほのめかした伝言を入れさせたのも、天皇自身は戦争責任を十分に感じていると木戸に思わせることで、木戸が自分の戦犯訴追を防ぐために戦ってくれるよう(=証言を捻じ曲げ真相を語らないよう)仕向けた心理操作だったのではないか? つまり昭和天皇はただ、木戸に自分を守らせるために彼を騙しただけだったのではないか?

もちろん天皇がなにを考えていたのか、その心の内を推測手がかりはほとんどない。天皇本人の言葉は、今回新発見されたような侍従の日記などで断片的に出て来るだけだからだ。だがどうしても気になるのは、結果としてそうなっただけであるにせよ、天皇が木戸を「裏切った」ことだ。

その木戸自身が天皇の戦争への本当の関与を知っていたせいか、独立回復後の退位によって当時19才だった明仁親王が新天皇として即位することで区切りをつけると言うか、「国体」を刷新することの意味をかなり本気で考えていた節がある。だがその木戸が独立回復後に釈放された後も昭和天皇は退位などおくびにも出さず、そして木戸には二度と会おうとはしなかった。木戸自身はその後の聞き取り調査での証言で、「騙された」とまでは明言しないものの、なんとも言えぬ悔しさらしきものを言葉の端々に滲ませている。それはそうだろう。友人の近衛文麿が文字通り命を賭けて守り、木戸自身もまた懸命に守ろうと知略の限りを尽くした「国体」とは、いったいなんだったのか?

天皇と日本人の「イデオロギーよりアイデンティティー」

ここで我々に突きつけられる問いがある。天皇を残さなければ戦後の日本で流血の事態が繰り返されることを恐れたGHQと「国体の護持」なしには国も民族も崩壊する危機感を持った日本側の利害の一致で、東京裁判によって作り出された「天皇は常に平和を望んでいた」「戦争は天皇の意に反して行われた」、だから「昭和天皇本人に戦争責任はない」と言う神話を、我々は本当のところ、どこまで本気で信じているのだろうか? 実はなんとなくそう思わされて来ただけで根拠はなにもないし考えもしなかったか、どうしてもそう信じたいだけで理屈は後からついて来るだけなのではないか? その理屈の多くはよく考えれば現実性の低いものでしかなく、つまり現代の都合で過去を無理やり捻じ曲げているだけではないのか?

本音の本音の深層心理では、実は単に考えたくないのではないか? だからこそ、「戦争責任のことを言われる」のがつらいと言う、文字通りに読めばまこと身勝手というか無責任というか、厚顔無恥と評されてもしょうがない発言を、日本中が「天皇は苦悩しておられたのだ」という牽強付会すら超えたおよそあり得ない好意的曲解に捻じ曲げることで、なんとか自分たちを騙して納得させているように思えてならない。

だがだとしたら、これは韓国の新聞が被害者の立場から批判した「加害者意識の欠如」どころでは済まない深刻な心の闇、いや「闇」とすら言えない心の空虚さを意味してないないだろうか? それは 明治維新に遡って「攘夷」という理念とその後の明治政府のやったことが全く矛盾している事実を「よく分からない」とだけ片付けて、疑問を突き詰めようとすらしない態度にも通じるのではないか?

よく考えてみれば我々は、あの戦争がなぜ起こったのかさえ「よく分からない」で済ませるか、現実的にあり得ない屁理屈で誤魔化してはいないだろうか? 対米開戦ひとつを取っても、「アメリカが日本を戦争に追い詰めた」という主張は実のところまったく成立しない。日中戦争を停戦にして満州以外の中国大陸から順次撤退し、石油を求めて東南アジアというそもそも無謀で実現性の低い計画を諦めれば、それだけで済んだことでしかないのだ。暗号電文の解読でルーズヴェルトが真珠湾攻撃を事前に察知していたからと言って、「アメリカに騙された」などと言う陰謀論も成り立たない。絶対に勝てるはずもない戦争を日本が始めるとルーズヴェルトやアメリカ側が本気で思っただろうか? 連合艦隊がハワイに向けて進軍していることは把握していても、せいぜいが行き詰まった交渉打開のためのブラフだろうとしか考えないのが普通だ。

先ごろ急逝した沖縄県知事の翁長雄志は、「イデオロギーよりアイデンティティー」を標語に掲げていた。もともと明治の琉球処分までは尚氏の王朝が治める琉球という別の国だった沖縄が奪われたアイデンティティを取り戻すことは、まだ大いに可能性も未来も感じさせるが、この翁長の言葉は彼らから見て「ヤマトンチュ」である我々本土の日本人にこそ、実は深く突き刺さる。

明治以降の近代化は、実は日本人のアイデンティティーの内なる崩壊のプロセスではなかったのか? 我々が自分たちの近代史の重要な局面局面についてことごとく「よく分からない」か、現実的にあり得たはずもない屁理屈の歴史修正主義に走りがちなのは、我々の日本人としてのアイデンティティーが奪われたのですらなく、自ら崩壊させてしまった結果の内面の空虚さを、直視しないためではないか? だからこそ我々は「戦争責任のことを言われる」のがつらいという怒りすら覚える裏切りの言葉ですら、虚偽の欺瞞とどこかでは気づきつつも「苦悩」という曖昧な抽象語で片付けてしまっている。そこにはもはや「言葉のアヤ」のデリケートさはかけらもない。

なるほど、今でも確かに、日本人は「天皇の民」である。今や最悪の意味で。

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