希望の政治哲学――不幸のどん底から、再び生きられる社会へ

著者 及川健二

第4稿・全体構成案

別題:『国家は人を幸福にできるのか――自由、尊厳、そして「最小不幸社会」の政治哲学』


本書を貫く中心命題

政治は、あなたを幸福にすることを約束できない。しかし、あなたが不幸のどん底に落ちたとき、決して見捨てない社会をつくることはできる。

人間の幸福とは何か。

国家は人間を幸福にするために存在するのか。

それとも、人間が自らの幸福を追求する自由と条件を保障するために存在するのか。

幸福の形は、一人ひとり異なる。

国家が唯一の幸福を定め、それを人々に押しつけるなら、そこには自由の喪失という危険が生まれる。

しかし、幸福が個人的なものであるからといって、不幸を個人の責任として放置してよいわけではない。

飢餓、貧困、病気、差別、迫害、災害、戦争。

これらによって人間の尊厳や幸福追求の可能性が奪われるとき、国家と社会には何ができるのか。

本書は、この問いを人類の政治思想と歴史的経験から考察する。

そのために、自由、正義、連帯、非暴力、科学、民主主義、平和、希望という八つの理念を「最小不幸社会」という構想の下に結びつける。


序章 人間は何のために生き、国家は何のために存在するのか

宮本顕治が獄中から宮本百合子に宛てた手紙には、人生を羅針盤に従う航海になぞらえた印象深い言葉がある。

人間は、自らの人生を自らの意思によって生きることに意味を見いだす。

しかし、私たちは常に自分の力だけで人生を切り開けるわけではない。

病気、失業、貧困、災害などによって、人生の羅針盤を見失うこともある。

そのとき、社会はどうあるべきなのか。

国家は、人生の進路を決定する権力であってはならない。

しかし、人間が自らの人生を再び歩み始められるように支える責任はある。

本書は、この問題から出発する。


第一部 幸福・自由・正義

――国家は幸福を決めてはならない

第一章 菅直人の「最小不幸社会」が問いかけたもの

菅直人の「最小不幸社会」を思想的な出発点として、その意味と可能性を探究する。

人間の幸福を国家が決定することはできない。しかし、人間を苦しめる不幸の中には、社会制度によって減らせるものがある。

本章では、幸福の最大化と不幸の最小化の違いを論じる。

同時に、少数者の権利を犠牲にして社会全体の不幸の総量を減らすような考え方を批判的に検討する。

最小不幸社会とは、苦痛の総量を単純に計算する社会ではなく、生命と尊厳を守る社会である。

第二章 幸福追求権――国家が決められない幸福

日本国憲法第13条の幸福追求権を中心に、国家と個人の関係を考える。

幸福は人間の数だけ存在する。

国家が唯一の幸福像を定めてしまえば、人間の自由は失われる。

ハクスリー『すばらしい新世界』、オーウェル『1984年』、ブラッドベリ『華氏451度』を比較し、幸福や秩序を名目とした人間支配の危険を考察する。

国家は幸福を強制してはならない。しかし、幸福を追求するための条件が失われることも放置してはならない。

第三章 ロールズとセン――最も不利な立場から社会を見る

ジョン・ロールズの正義論と、アマルティア・センのケイパビリティ論を比較する。

自由が形式的に保障されていても、その自由を行使できない人がいる。

貧困、障害、病気、教育格差などは、人間が実際に選択できる人生の範囲を制約する。

正義とは、社会全体の平均的な豊かさだけでは測れない。

最も不利な立場にある人々が、尊厳をもって生きることのできる制度が必要である。

第四章 キング牧師――国家は約束を果たしているか

1963年8月28日の「私には夢がある」演説を中心に考察する。

キング牧師は、独立宣言と憲法が保障した自由と幸福追求の権利を、国家が履行すべき「約束手形」にたとえた。

権利を宣言するだけでは十分ではない。

権利が現実の生活の中で保障されてこそ、国家はその責任を果たす。

人種差別、貧困、政治的排除に抗議したキング牧師の思想から、最小不幸社会を単なる福祉ではなく、権利保障の問題として捉え直す。

第一部の結論:国家は幸福を決定してはならない。しかし、幸福を追求する権利を現実に保障する責任がある。


第二部 人間の尊厳と連帯

――私たちは一人では生きられない

第五章 ガンジー――名もなき人々が歴史を動かす

1915年4月21日、マドラスでの歓迎会演説を取り上げる。

ガンジーは、自分への賛辞を退け、南アフリカで差別と闘い、投獄され、命を落とした人々こそが自分を鼓舞したと語った。

そこには、偉大な指導者が歴史を動かすという英雄中心の歴史観とは異なる思想がある。

歴史を動かす主体は、普通の人々である。

政治家や指導者は、その声を権力に届ける架け橋となることができる。

最小不幸社会は、人々を単なる救済の対象として扱ってはならない。

苦しむ人々もまた、社会を変える力を持つ主体なのである。

第六章 マンデラのウブントゥ――私は私たちがあるから私である

ネルソン・マンデラの生涯と、2013年のオバマによる追悼演説を考察する。

ウブントゥは、人間が他者との関係の中で生きる存在であることを示す思想である。

人間は、誰も完全に孤立して生きることはできない。

社会保障は、強い者から弱い者への単なる施しではない。

人間が相互に依存しながら生きる存在であることを、社会制度として認める営みである。

ただし、共同体の連帯が個人の自由を侵害してはならない。

真の連帯とは、違いを認めながら尊厳を守り合うことである。

第七章 シモーヌ・ヴェイユ――不幸の記憶を正義へ変える

ナチスの強制収容所を生き延びたフランスの政治家シモーヌ・ヴェイユの生涯を取り上げる。

2017年と2018年のマクロン大統領の演説を通じ、歴史の記憶、人間の尊厳、女性の権利、和解の問題を考察する。

苦しみを経験した人間が、他者の苦しみを減らすために行動する可能性がある。

しかし、被害を経験した人に、他者を救う義務や加害者を許す義務を課してはならない。

不幸を記憶することは、過去にとらわれることではない。

同じ不正義を繰り返さないために、未来に対して責任を負うことである。

第八章 アーレント、ポパー、シラク――対話と自由のある社会

ハンナ・アーレントの複数性、カール・ポパーの開かれた社会、ジャック・シラクの対話と連帯の思想を比較する。

人間は誤りを犯す。

国家も誤りを犯す。

だからこそ、社会には権力を批判し、誤りを修正する仕組みが必要となる。

また、人々は異なる価値観を持つ存在である。

社会の一致団結を求めるあまり、少数者の意見を排除してはならない。

自由な報道、言論、政治的な参加、民主的な討論は、国家の誤りを正すためにも不可欠である。

第二部の結論:人間の尊厳は個人の自由と他者との連帯によって守られる。人々は保護される対象であると同時に、社会を形作る主体である。


第三部 不幸から人間を救う国家

――保護と自由を両立させる

第九章 ガンジーの難民保護論――苦しみは他者を傷つける権利を生まない

1948年1月4日の祈祷会演説を考察する。

インドとパキスタンの分離と紛争の中で、ガンジーは、難民が他者の家屋を強制的に占拠することを批判した。

しかし同時に、難民に住居や必要な生活条件を提供することは政府の役目であると明言した。

苦難を経験した人も、他者の権利を尊重しなければならない。

だが、国家には、苦しむ人々が尊厳を保って生きられる条件を保障する責任がある。

人間の苦しみは、他者を傷つける権利を生まない。しかし、その苦しみを放置してよい権利を、国家に与えるものでもない。

第十章 ロン・レーガン――救える苦しみを放置しない科学

2004年のロン・レーガンによる民主党全国大会演説を中心に、医療研究と生命倫理を考える。

科学技術は、人間の苦痛を減らす可能性を持つ。

しかし、その研究には、安全性、科学的な妥当性、倫理的な制約が必要である。

生命を守るための研究をどこまで進めるべきか。

生命倫理上の対立を、民主的な社会はどう調整すべきか。

科学の進歩を人間の尊厳と結びつける政治のあり方を探究する。

第十一章 不幸のどん底から、再び生きられる社会へ

最小不幸社会の中心的な制度理念を論じる。

病気、失業、生活困窮、災害、障害、孤独、差別などによって、人間が人生の基盤を失ったとき、どのような社会的支援が必要なのか。

社会保障は、単なる所得補填だけでよいのか。

それとも、人間が自らの人生を再び選択できるように支える仕組みであるべきなのか。

ここでは、生活の保障、社会とのつながり、自己決定の尊重を結びつける。

また、再起できる人だけでなく、再起が困難な人の尊厳を守る必要性も論じる。

第三部の結論:国家の役割は、人間を管理することでも、救済に値する人を選別することでもない。人間が尊厳を失わずに生きられる条件を保障することである。


第四部 戦争、科学、そして平和

――国家は人間の幸福を破壊してはならない

第十二章 ガンジーとオバマ――非暴力と国家の自衛

ガンジーの非暴力思想と、オバマの2009年ノーベル平和賞受賞演説を比較する。

非暴力は、国家や個人が目指すべき倫理的な理想である。

しかしオバマは、国家元首として国民を保護する責任を踏まえ、武力行使が必要となる場合もあると論じた。

ここには、非暴力の理想と国家の自衛という難しい緊張関係がある。

武力行使はどのような場合に許されるのか。

民間人を保護するために、どのような制約が必要なのか。

戦争を防ぐために、外交と国際法は何ができるのか。

最小不幸社会の思想から、武力行使の必要性と危険性をともに考える。

第十三章 オバマの「公正で永続的な平和」――恐怖と欠乏からの自由

2009年12月10日のノーベル平和賞受賞演説を中心に、平和の概念を再検討する。

平和とは、単に戦争がないことではない。

人権が侵害され、貧困や飢餓が放置されているなら、その社会にはなお深刻な不幸が存在する。

人間が恐怖から自由であること。

そして、欠乏からも自由であること。

この二つを結びつけることで、平和の概念は人間の尊厳を保障する思想へと深まる。

第十四章 広島――科学革命には道徳的革命が必要である

2016年5月27日、広島平和記念公園におけるオバマ大統領と安倍晋三首相の演説を考察する。

科学は病気を治し、人間の生活を豊かにする一方、人類を破滅させる兵器も生み出した。

技術の進歩が、必ずしも人間の道徳的な進歩を意味するわけではない。

広島の悲劇を記憶すること。

核兵器による破滅を防ぐこと。

かつて敵対した人々が、歴史を忘れることなく協力すること。

そして、人間の普通の日常を守ること。

広島から、国家の責任と人類の未来を考える。

第四部の結論:国家の責任は、国内の不幸を減らすことだけにとどまらない。国家自身が生み出し得る戦争や暴力によって、人間の生命と幸福追求の可能性を破壊しないことにもある。


第五部 希望の政治哲学

――人間は不完全でも、社会を変えることができる

第十五章 宮本顕治の羅針盤――人間が自らの人生を生きること

宮本顕治の獄中書簡に戻る。

人間の幸福は、自らの人生を自らの意思で生きることと深く結びついている。

しかし、誰もが常に自分の羅針盤を持ち続けられるわけではない。

人生には、喪失、挫折、不条理が存在する。

国家は人間の人生の羅針盤になることはできない。

しかし、その人が自らの羅針盤を失ったとき、再び生きられるように支える灯台となることはできる。

また、希望を失ったままでも、その人の尊厳は失われない。

希望とは人間に強制されるべきものではない。

第十六章 キング、オバマ、バイデン――希望はどこから生まれるのか

キング牧師の「私には夢がある」、オバマの2009年ノーベル平和賞受賞演説、2018年マンデラ生誕100周年記念講演、バイデンの2020年大統領候補指名受諾演説を比較する。

キング牧師は、絶望の山から希望の石を切り出すことを語った。

オバマは、人間が運命の囚人ではなく、自らの行動によって歴史を変える可能性があると訴えた。

バイデンは、恐怖や憎しみだけではなく、愛と希望によって未来を切り開くことを語った。

エラ・ベイカーの「人々に光を与えれば、彼らは道を見つけるだろう」という言葉も、本章の重要な主題となる。

希望とは、現実の不幸を見ないことではない。

不幸を認識しながら、なお社会を改善できると考えることである。

ただし、希望を持つことを人間の義務としてはならない。

政治の責任は、人々に希望を強制することではなく、希望を持つことのできる条件を整えることである。

第十七章 最小不幸社会を実現するために――政治哲学から制度へ

本書の最終章では、これまで論じた理念を社会制度に結びつける。

重要なのは、以下の六つの原則である。

  1. 生命と尊厳の保障:貧困、病気、差別などによって人間の尊厳が奪われない社会をつくる。
  2. 実質的な自由の保障:教育、医療、住居、社会参加など、人間が人生を選択するための条件を整える。
  3. 不幸の予防と救済:不幸が生じた後の救済だけでなく、その発生を防ぐ制度を構築する。
  4. 民主主義と自己決定:当事者を政策の対象としてのみ扱わず、その声が制度設計に反映されるようにする。
  5. 平和と国際的連帯:戦争、迫害、貧困など、国境を越える不幸を減らすために協力する。
  6. 検証と改革の継続:限られた財源や政策上の制約を踏まえ、政策の結果を検証して改善を続ける。

ここで重要なのは、最小不幸社会を完成された理想国家として構想しないことである。

社会には絶えず新たな問題が生まれる。

国家の政策は誤ることがある。

だからこそ、批判と対話を通じて改善し続ける制度が必要なのである。

最小不幸社会は、完成する社会ではない。

人間の不幸を減らすために、絶えず自らを改革する社会なのである。


終章 誰も見捨てない社会へ

国家は、人間を幸福にできるのだろうか。

この問いに対して、私は単純な肯定も否定もしたくない。

国家が人間の幸福を決定することはできない。

幸福は、一人ひとりの人生の中に存在するからである。

しかし、国家には、人間が幸福を追求するための自由と条件を守る責任がある。

その自由を、貧困や疾病、差別や戦争によって奪われる人々がいるなら、国家はその現実に向き合わなければならない。

最小不幸社会とは、不幸を完全になくす社会ではない。

それは不可能である。

しかし、減らすことのできる不幸は存在する。

救うことのできる生命がある。

守ることのできる尊厳がある。

防ぐことのできる差別や暴力がある。

そして、社会の無関心によって一人の人間が不幸の中に置き去りにされることは、政治と社会の選択によって変え得る。

キング牧師は、絶望の山から希望の石を切り出すことができると語った。

ガンジーは、自らが英雄として讃えられるよりも、普通の人々が持つ勇気と行動の力を重視した。

マンデラは、人間が互いに結びついた存在であることを、その生涯を通じて示した。

オバマは、人間が運命の囚人ではなく、歴史を変えることのできる存在だと語った。

これらの思想を結びつけるものは何だろうか。

それは、人間の尊厳への信頼である。

人間は弱い存在である。

しかし、その弱さによって価値を失うわけではない。

人間は不完全な存在である。

しかし、その不完全さによって、よりよい社会をつくる可能性が失われるわけではない。

人間は一人では生きられない。

だからこそ、社会がある。

そして、国家がある。

国家の存在意義は、人間に生き方を命令することではない。

人間が、自ら選び取った人生を、尊厳をもって生きられる社会を支えることにある。

誰もが幸せになれると約束することはできない。

しかし、誰も見捨てないという約束に向けて、制度をつくり、政治を改善し、互いに支え合うことはできる。

絶望の中にいる人も、社会の一員である。

希望を持てない人も、人間として尊重されなければならない。

そして、たとえ不幸のどん底に落ちたとしても、そこで人生が終わったと決めつけられない社会を築くこと。

それこそが、私の考える「希望の政治哲学」である。

政治は、あなたを幸福にすることを約束できない。しかし、あなたが不幸のどん底に落ちたとき、決して見捨てない社会をつくることはできる。

この言葉を、本書の結論としたい。

 


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