【製作記】希望の政治哲学――不幸のどん底から、再び生きられる社会へ

第2稿・増補改訂版

序章 人間は何のために生き、国家は何のために存在するのか

「人生を漂流しているのでなく、確乎として羅針盤の示す方向へ航海しているということは、それにどんな苦労が伴おうと、確かに生きるに甲斐ある幸福だね。」

これは、宮本顕治が獄中から宮本百合子に宛てた手紙に記した言葉である。

宮本はさらに、たとえ風波によって櫓を失い、計器を流されても、なお天測によって航海を続ける人間の生き方を讃えた。そして、そのような航海者にこそ、人生を「生彩と栄誉、詩と真実」で満たす幸福が訪れるのだと語った。

この言葉は、人間の幸福とは何かという根源的な問いを私たちに投げかける。

幸福とは、苦難のない人生のことだろうか。

経済的に豊かで、病気もせず、失敗もせず、悲しみを経験しないことだろうか。

そうではあるまい。

人間は、どれほど恵まれた環境に生まれても、いつかは喪失を経験する。愛する人と別れ、病に倒れ、仕事を失い、自らの無力さに打ちひしがれることもある。

それでもなお、人は生きる。

生きる意味を探し、自らの人生の方向を定めようとする。

人間の幸福は、単なる快楽や満足の総量によって測り尽くせるものではない。自由、尊厳、愛情、連帯、そして自らの人生を生きているという実感が必要なのである。

ここで、一つの政治哲学的な問題が浮かび上がる。

人間が自らの人生の羅針盤に従って生きる存在であるなら、国家は、その羅針盤に対してどのような責任を負うべきなのだろうか。

国家が人間の進むべき方向を決めるのか。

それとも、一人ひとりが自分の航路を選べる条件を保障するのか。

そして、もう一つ問わなければならない。

嵐によって船を失い、人生の羅針盤さえ見失った人間に対して、社会はいかなる責任を負うのか。

「自分の人生なのだから、自分の力で立ち上がれ」と言い放つことが、自由を尊重することなのだろうか。

あるいは、その人が再び航海に出られるように支えることこそ、自由を保障することなのだろうか。

この問いは、自由と連帯を対立させるものではない。

むしろ、自由を実質的なものにするためには、連帯が必要なのではないかという問題を提起している。

私は、この問いから「最小不幸社会」の政治哲学を出発させたい。


第一章 幸福を約束する国家の危険性

日本国憲法第13条は、すべての国民が個人として尊重されることを宣言し、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を、国政の上で最大限尊重すべきものとして位置づけている。

ここで重要なのは、憲法が「幸福になる権利」ではなく、「幸福追求に対する権利」を保障していることである。

幸福と幸福追求は同じではない。

幸福とは、個人の価値観、経験、思想、愛情、信仰、生き方などによって、その内容が大きく異なるものである。

ある人は家庭に幸福を見いだす。ある人は研究に、ある人は芸術に、またある人は社会変革に人生の意義を見いだす。

国家が唯一の幸福像を定めれば、それに従わない人間は、幸福になることを拒む者として扱われかねない。

ここに、国家による幸福の管理という危険がある。

オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』は、その問題を鋭く描き出した。

作品に登場する社会では、人々は一定の快楽と安定を享受する。しかし、その社会的秩序は、人間の自由な選択、深い思索、真実への探究、そして苦悩する権利さえも犠牲にしている。

人間は不幸を感じにくくなる代わりに、自らの人生を選ぶ能力を奪われている。

一方、ジョージ・オーウェルの『1984年』では、国家は監視と恐怖、言語と歴史の操作によって、人間の精神を支配しようとする。

レイ・ブラッドベリの『華氏451度』が描くのは、思索や読書から人間が遠ざけられ、知的な自由が失われていく社会である。

三作品はそれぞれ異なる社会像を描く。しかし、共通する問題がある。

人間から自ら考え、自ら選び、自らの人生を意味づける自由が奪われたとき、その社会に安定や満足が存在しても、果たして人間は尊厳を持って生きているといえるのか。

国家は、人間の幸福の内容を決定する権威を持つべきではない。

国家の役割は、幸福を配給することではなく、人々がそれぞれの幸福を追求できる自由と条件を保障することにある。

しかし、形式的に自由が保障されているだけでは十分ではない。

飢えに苦しむ人間に、職業選択の自由があると告げるだけでは、その人は自由にならない。

教育を受ける機会を奪われた子供に、将来の進路を自由に選べると宣言しても、それだけでは選択肢は広がらない。

つまり、自由には二つの側面がある。

国家や他者から不当に干渉されない自由と、自らの意思によって人生を切り開くための実質的な条件である。

後者を欠いた自由は、しばしば名目上の自由にとどまる。

国家は人間の幸福を決めてはならない。しかし、人間が幸福を追求できない状態を放置してよいわけでもない。

宮本顕治の言葉を借りれば、国家が国民の人生の羅針盤を操作してはならない。

だが、羅針盤を持つことさえ許されない人々がいるなら、その不正義を取り除かなければならないのである。

第二章 菅直人の「最小不幸社会」が提起したもの

菅直人が掲げた「最小不幸社会」という理念は、この問題を考えるうえで重要な出発点となる。

国家が人間を幸福にできるのか。

すべての国民を幸福にするという約束は、そもそも可能なのか。

幸福のかたちが人によって異なる以上、国家がすべての人に同じ幸福を保障することはできない。

しかし、国家が減らすことのできる不幸は存在する。

貧困、失業、疾病、差別、災害、暴力、不当な権利侵害、教育機会の欠如。

これらは、人間が自らの自由な選択によって生み出したものとは限らない。

本人にはどうすることもできない事情によって、人は不幸に陥ることがある。

生まれた家庭が貧しかったために、十分な教育を受けられない子供がいる。

病気になったために仕事を失い、生活の基盤まで奪われる人がいる。

差別によって能力を発揮する機会を失う人がいる。

そして、社会から孤立し、誰にも助けを求められないまま、希望を失う人がいる。

これらの不幸を、すべて個人の責任として片づけることはできない。

私は、ここに最小不幸社会の倫理的な核心があると考える。

幸福の内容は個人が決める。しかし、重大な不幸によって幸福を追求する可能性が奪われないようにすることは、社会全体の責任である。

ただし、「不幸の最小化」という言葉には慎重さが必要である。

不幸を単なる数量として扱えば、社会全体の苦痛を少し減らすために、特定の少数者に耐え難い犠牲を負わせるという発想も生まれかねない。

それは人間の尊厳に反する。

したがって、私が構想する最小不幸社会は、不幸の総量を機械的に計算して最小化する社会ではない。

誰一人として、その人の生命、尊厳、自由を根底から脅かす不幸の中に、社会の無関心によって置き去りにされない社会である。

ここでさらに重要なのは、不幸を「起きてしまった後に救済する問題」としてだけ捉えないことである。

貧困に陥った人を救うことは必要である。

しかし、貧困を生み出す不公正な制度を改めることも必要である。

病気になった人を治療することは必要である。

しかし、予防医学や生命科学への投資によって、将来の苦痛を減らすことも必要である。

差別を受けた人を救済することは必要である。

しかし、差別が繰り返されないよう、社会の意識と制度を変えることも必要である。

ここから、最小不幸社会には少なくとも三つの使命があると考えられる。

第一に、現に存在する不幸を救済すること。

第二に、不幸を生み出す社会的な原因を取り除くこと。

第三に、将来の不幸を防ぐために、科学、教育、制度改革へ持続的に取り組むこと。

不幸を完全になくすことはできない。

しかし、避けられる不幸を減らし、避けられない不幸に直面した人を支えることはできる。

この違いは決定的に重要である。


第三章 マンデラのウブントゥ――人間は一人では生きられない

2013年12月10日、ヨハネスブルグで行われたネルソン・マンデラの追悼式で、バラク・オバマはマンデラの生涯を通じ、人間の尊厳と連帯の意味を語った。

その演説の思想的中心にあるのが、アフリカの「ウブントゥ」である。

ウブントゥは、「私は、私たちがあるからこそ、私である」という言葉によって表現されることがある。

人間は孤立した存在ではない。

人は、他者との関係の中で育ち、学び、愛し、働き、自分自身を形作っていく。

誰も他者から完全に独立して生きているわけではない。

オバマは、マンデラが体現したウブントゥについて、人類は目に見えない絆によって結ばれており、他者と分かち合い、思いやることによって自己を実現できるという認識であると語った。

ここには、最小不幸社会の政治哲学を深める重要な手がかりがある。

なぜ、私たちは他人の不幸に無関心であってはならないのか。

それは、単に善良な人間であるべきだからではない。

私たち自身が、他者に支えられて生きる存在だからである。

人間は誰もが、かつては他者の助けなしに生きられない子供だった。

そして、病気や老い、事故や災害などによって、再び他者の助けを必要とする可能性がある。

支える人と支えられる人は、固定された二つの階級ではない。

人生の時間の中で、その立場は入れ替わる。

今日、誰かを支えている人が、明日は誰かの支えを必要とするかもしれない。

だからこそ、社会保障は、成功した人から失敗した人への一方的な施しであってはならない。

それは、人間が互いに依存しながら生きているという事実を、制度として承認するものである。

私は、最小不幸社会を支える倫理を、次のように表現したい。

他者の不幸を、自分とは無関係な出来事として片づけないこと。

しかし、ウブントゥは単に仲良くすることを意味しない。

マンデラが示したのは、憎悪を乗り越えながらも、不正義を正面から認識し、社会の仕組みを変革するという思想だった。

オバマは追悼演説の中で、マンデラについて、こう語っている。

「彼は法律を変えただけでなく、人々の心も変えたのです。」

この言葉を逆から読めば、人々の心を変えるだけでも不十分だということになる。

思いやりは法律を必要とし、法律は思いやりを必要とする。

ウブントゥの倫理と最小不幸社会の制度構想は、ここで結びつくのである。

だが、さらに一つの条件を付け加えなければならない。

共同体の絆が強ければ、それだけで自由な社会が実現するわけではない。

共同体には、同調圧力が生まれることもある。多数派が共有する価値観によって、少数者が排除されることもある。

したがって、真のウブントゥは、人々が同じ思想や生き方を選ぶことを要求してはならない。

むしろ、異なる人々が、それぞれの違いを保ちながら共に生きることを可能にしなければならない。

ここに、後に論じるハンナ・アーレントの複数性の思想と、ジャック・シラクの対話の哲学が接続されるのである。

第四章 ロールズの正義論――最も弱い立場にいる人から社会を見る

アメリカの哲学者ジョン・ロールズは、社会の基本的な制度がいかなる正義の原理に従うべきかを問い直した。

その格差原理は、社会的・経済的な不平等が正当化されるためには、最も不利な立場にある人々に最大の利益をもたらす必要があるとする。

これは、単に社会の平均的な豊かさを高めればよいという考え方とは異なる。

一部の人が非常に豊かになり、社会全体の所得が増えたとしても、最も不利な立場の人々が取り残されるなら、その社会の公正さは問われなければならない。

ただし、ロールズの正義論は、自由を犠牲にして経済的な利益を最大化する理論ではない。平等な基本的自由と公正な機会の保障が、重要な前提となっている。

ここに最小不幸社会との接点がある。

社会が進歩したかどうかを、国内総生産や株価だけで判断してはならない。

社会の最も弱い場所に立ち、そこから社会全体を見なければならない。

十分な食事を取れない子供がいないか。

病気になった人が、治療費を恐れて医療を諦めていないか。

障害を持つ人が、社会参加の機会から排除されていないか。

高齢者が、誰にも看取られず孤独の中で人生を終えることを余儀なくされていないか。

失業した人が、失業と同時に人間としての尊厳まで失わずに済むか。

こうした問いこそ、政治が向き合うべき問題である。

2020年の民主党大統領候補指名受諾演説で、ジョー・バイデンは父親から教えられた言葉を紹介した。

「仕事とは給料以上のものだ。それは尊厳であり、尊敬であり、地域社会における自分の居場所であり、子供の目を見て『大丈夫だよ』と心から言えることなんだ。」

この言葉が示しているのは、失業が単なる所得の喪失ではないということである。

仕事を失うことによって、人は社会的な居場所や自尊心まで失うことがある。

だからこそ、政治は所得を補償するだけでなく、人間が社会とのつながりを保ち、再び自分の力を発揮できる条件を整えなければならない。

同時に、働くことが困難な人や、賃金労働とは異なる形で社会と関わる人の尊厳も、等しく守られなければならない。

人間の価値は、労働市場における生産性によって決まるものではないからである。

ここではさらに、アマルティア・センやマーサ・ヌスバウムの「潜在能力(ケイパビリティ)」の思想も参考になる。

人間が実際に何をすることができ、どのような生き方を選べるのか。

それを問わなければ、形式的な権利や所得水準だけでは、人間の自由を十分に評価できない。

例えば、同じ所得を持つ二人がいても、障害や病気、地域の環境によって、実際に選択できる生活の範囲は異なる。

この観点からすれば、最小不幸社会の目的は、人々に同じ生活を送らせることではない。

誰もが人間として尊厳ある生活を営むための実質的な可能性を保障することなのである。


第五章 アーレントとポパー――自由を失わないための政治

ここまで述べてきた最小不幸社会には、さらに一つの重要な課題がある。

それは、不幸を減らすための国家権力が、かえって人間の自由を侵害する危険である。

国家が人々を不幸から守るという名目で、言論を規制し、思想を統制し、生き方を指図するようになれば、自由な社会は失われてしまう。

この問題を考えるうえで、ハンナ・アーレントとカール・ポパーの思想は重要である。

アーレントは、自由を個人の内面的な状態だけでなく、人々が公共の場で発言し、行動し、共通の世界を形作る営みとして考えた。

彼女が重視したのは、人間の「複数性」である。

世界には、同じ人間でありながら、一人として全く同じではない人々が存在する。

それぞれが異なる経験を持ち、異なる世界の見方を持つ。

この違いがあるからこそ、人間は語り合い、行動し、政治を必要とするのである。

自由とは、単に誰からも妨害されないことではない。

自らの言葉と行動によって、他者と共に世界に関わることでもある。

この観点からすれば、貧困や差別から解放されることは極めて重要であるが、それだけで自由が完成するわけではない。

人間には、自ら意見を述べ、異なる人々と議論し、社会の将来に関わる機会が必要である。

不幸からの解放は、自由への重要な条件となる。しかし、自由を実際に行使できる公共的な世界がなければ、それは十分ではない。

一方、ポパーは、誤りを犯し得る人間が政治を行う以上、権力者を批判し、政策を修正できる開かれた社会の必要性を説いた。

ここから導かれるのは、政治的な謙虚さである。

どれほど善意の政治家であっても、間違えることがある。

どれほど美しい理想であっても、現実の社会に適用した結果、予期しない苦痛を生むことがある。

したがって、最小不幸社会は、唯一絶対の理想を国民に強制する社会であってはならない。

政策の失敗を認めること。

少数者の異議申し立てを保障すること。

報道と表現の自由を守ること。

誤りを発見したときには、制度を改めること。

こうした民主主義の仕組みは、最小不幸社会にとって不可欠である。

国家が人間を不幸から守るためには、国家そのものが人間を不幸にする危険を、常に警戒しなければならない。

この逆説を忘れてはならない。


第六章 シモーヌ・ヴェイユ――不幸の記憶を正義へと変える

2017年7月5日、パリのアンヴァリッドで、フランス共和国はシモーヌ・ヴェイユを追悼した。

翌2018年7月1日には、ヴェイユと夫アントワーヌをパンテオンに迎える式典が行われた。

この二つの式典で、エマニュエル・マクロン大統領は、アウシュビッツから生還した一人の女性の生涯を通して、人間の尊厳、自由、正義、そして希望の意味を問いかけた。

この二つの演説を最小不幸社会の政治哲学に結びつけるとき、私は特に重要な問題が浮かび上がると考える。

それは、人間が不幸を経験したとき、その経験を社会はどのように受け止めるべきなのかという問題である。

ヴェイユは、ナチスによる迫害と強制収容所での過酷な経験を生き延びた。

家族の多くを失い、人間が人間に対して行い得る残虐さを目の当たりにした。

しかし、彼女はその後の人生を、人間の尊厳を守るための活動に捧げた。

女性の権利、妊娠中絶をめぐる法制度の改革、囚人の処遇改善、差別への抵抗、欧州統合と平和の実現。

これらの活動を通して、彼女は自らの経験を、他者の不幸を減らすための政治的行動へと結びつけた。

2017年の追悼演説で、マクロンは次のように語っている。

「苦しみは一つの権利しか与えません。それは、彼女の心の中にある言いようのない痛みから生まれた絶対的なもので、人を助け、守ること、特に弱い人を助けることでした。」

私は、この一節に、最小不幸社会の政治哲学を発展させる重要な契機を見る。

苦しみを経験した人間が、必ずしも他者を憎むようになるとは限らない。

不条理な苦しみの経験が、他者の苦しみに対する感受性を深めることもある。

自らが尊厳を踏みにじられた経験を持つからこそ、他者の尊厳を守ろうとする。

そこには、人間の精神の一つの可能性がある。

しかし、注意しなければならない。

苦しみを経験した人に、立派な人間になることや、他者を救うことを義務づけてはならない。

不幸が人間を成長させるとは限らない。

苦しみには、人間を傷つけ、人生を破壊する現実がある。

被害者は、自らが経験した苦難を社会のために役立てなければならないわけではない。

ヴェイユの生涯が示すのは、被害者一般に課される義務ではなく、彼女自身が選び取った生き方の可能性なのである。

この区別は、最小不幸社会の思想にとって極めて重要である。

社会は、傷ついた人に立ち直ることを強要してはならない。

傷ついたままでも尊厳が守られる社会でなければならない。

同時に、ヴェイユの生涯から、もう一つの重要な思想を読み取ることができる。

それは、和解とは忘却ではないということである。

2017年の演説で、マクロンは、ヴェイユがドイツとの和解を求めながらも、過去の加害を忘れることや、加害者を赦すことを和解の条件にはしなかったと語っている。

ここには、ネルソン・マンデラの思想と深く響き合うものがある。

過去の不正義を忘れ、何もなかったかのように振る舞うことは、真の和解ではない。

何が起きたのかを記録すること。

被害者の声を聴くこと。

責任を明らかにすること。

そして、二度と同じ不正義が繰り返されないように制度を改めること。

これらを欠いた和解は、しばしば被害者に沈黙を求めるだけのものになってしまう。

不幸を忘れることと、不幸を克服することは違う。

過去の不幸を記憶することは、未来の不幸を防ぐための社会的責任なのである。

ここで最小不幸社会には、第四の使命が加わる。

現に存在する不幸を救うこと。

不幸を生み出す構造を変えること。

将来の不幸を予防すること。

そして、過去の不幸を記憶し、その教訓を次の世代へ伝えること。

この四つが結びついて初めて、不幸を繰り返さない社会への道が開かれる。

さらに、ヴェイユが女性の権利のために行った闘いは、最小不幸社会が単に所得や福祉の問題ではないことを示している。

自分自身の身体について決定する自由。

社会的な差別を受けない権利。

家族や職場において尊厳を守られる権利。

政治に参加し、自らの意見を表明する権利。

これらもまた、人間の幸福追求に不可欠な条件である。

女性の置かれた困難を、個人の問題として放置してきた社会制度を問い直すことは、まさに最小不幸社会の課題なのである。

マクロンは2018年のパンテオンでの演説において、ヴェイユの生涯が困難な時代の「羅針盤」であり続けるよう願った。

宮本顕治の人生の羅針盤と、この言葉は深く響き合う。

しかし、一つの違いもある。

宮本が語った羅針盤は、自らの人生の進路を示すものであった。

マクロンが語る羅針盤は、後世の社会が進むべき倫理的な方向を示すものである。

個人の人生の羅針盤と、社会の倫理的な羅針盤。

両者は同じではないが、互いに関係している。

そして最小不幸社会にとって、その方向を示すものは、何よりも人間の尊厳でなければならない。

第七章 ロン・レーガン――救える苦しみを放置しない政治

2004年7月27日、ボストンで開催された民主党全国大会で、ロン・レーガンは胚性幹細胞研究の推進を訴える演説を行った。

そこには、医学研究をめぐる政治的な問題だけでなく、国家が人間の苦しみに対して負う責任という根源的な問いが含まれていた。

彼は、重い病気によって苦しんでいる人々の存在を示し、次のように問いかけた。

「自分の命が危険にさらされている人たちを見捨てて、どうして命を肯定することができるでしょうか。」

この問いは、最小不幸社会の哲学に新しい側面を加える。

これまで、私たちは、すでに不幸に陥った人を社会がどのように救済するかという問題を考えてきた。

しかし、もし科学の発展によって、将来の病気や苦痛を減らすことができるとしたら、社会は何をすべきなのだろうか。

治療法が存在しない病気に苦しむ人々がいる。

その病気を克服するための研究の可能性がある。

しかし、研究には費用がかかり、失敗する危険もあり、倫理的な問題も伴う。

そのようなとき、国家は、研究を支援する責任を負うのだろうか。

私は、この問題を最小不幸社会の重要な課題として位置づけたい。

避けられる不幸を減らすためには、すでに存在する救済制度だけでなく、まだ存在しない救済の可能性を切り開く努力も必要なのである。

ただし、ここには科学に対する慎重な姿勢も不可欠である。

ロン・レーガンの演説は、2004年当時の幹細胞研究に寄せられた期待を反映している。

しかし、研究の可能性と、患者に有効な治療法が確立されていることは同じではない。

科学の進歩には不確実性が伴う。

ある治療法が理論的に可能であっても、安全性と有効性が確認されるまでには長い時間が必要になることがある。

また、医学研究を推進する目的が正しいからといって、研究対象となる人々の権利や倫理的な配慮を軽視してよいわけではない。

生命の始まりをめぐる問題についても、人々の間には深い思想的、宗教的な相違がある。

その相違は、単に科学を理解している人と理解していない人の対立に還元できない。

だからこそ、科学的事実と倫理的判断を区別し、異なる立場の人々が公開の議論に参加できる制度が必要になる。

さらに、新しい医療技術が確立されたとしても、その恩恵を富裕層だけが享受する社会であってはならない。

高額な医療を受けられる人と、経済的な理由によって治療を断念せざるを得ない人との格差が拡大すれば、科学の進歩が新たな不平等を生み出すことになる。

したがって、最小不幸社会における科学技術政策には、研究の自由、倫理的な審査、安全性の検証、そして医療への公平なアクセスが求められる。

ロン・レーガンは演説の中で、助ける機会が与えられながら何もしなかったとしたら、苦しんでいる人々に何と言えばよいのかと問いかけた。

ここで重要なのは、政治には、誤った行為によって人々を傷つける責任だけでなく、必要な行動を取らなかったことによる責任も存在するという点である。

もちろん、あらゆる病気について、国家が直ちに治療法を開発できるわけではない。

また、研究資源には限界があり、予算配分には慎重な判断が必要となる。

それでも、生命を救う可能性が存在するとき、その可能性を根拠に基づいて検討し、倫理的に許容される研究を支援することは、国家の重要な役割である。

ここから、最小不幸社会を支える新しい命題が導かれる。

国家には、すべての人間を幸福にする力はない。しかし、救える可能性のある命を見捨てないために、知識と制度を発展させる責任がある。

この命題は、医療だけでなく、防災、感染症対策、交通安全、環境保全などにも適用できる。

科学と政治が結びつくべき理由は、人間を管理するためではない。

人間が避けられるはずの苦痛によって尊厳を奪われないようにするためなのである。


第八章 ジャック・シラク――多様性を守るのは対話である

2007年5月15日、フランスのジャック・シラク大統領は、退任に際して国民に語りかけた。

そこでシラクは、国家を一つに結ぶ絆の重要性を説きながら、フランス社会に存在する多様な価値観や意見の違いを認めた。

そして、異なる人々が共に生きるためには、対話と調和の中で共通の基盤を見いだす必要があると語った。

「私たちは、対話と調和の中で、本質的な部分でお互いを見つけなければなりません。」

この言葉は、最小不幸社会の哲学をさらに深める。

なぜなら、不幸とは、貧困や疾病、災害によってのみ生じるものではないからである。

人間は、他者によって存在を否定されることによっても深く傷つく。

意見が違うという理由で排除される。

宗教や文化が異なるという理由で差別される。

思想が異なるという理由で発言の機会を奪われる。

多数派の価値観に従わないという理由で、社会の周辺へ追いやられる。

そのような経験も、人間の尊厳を脅かす不幸である。

では、多様な人々が共に生きる社会とは、どのような社会なのだろうか。

すべての人が同じ思想を持つ社会ではない。

すべての人が同じ価値観を共有する社会でもない。

むしろ、異なる思想や価値観を持つ人々が、その違いを理由として人間としての尊厳を否定されない社会である。

ここで、シラクの対話論は、ハンナ・アーレントの複数性の思想と結びつく。

人間がそれぞれ異なる存在である以上、政治には対話が必要なのである。

ただし、対話には条件がある。

発言の自由が保障されていなければならない。

少数者が報復を恐れずに意見を述べられなければならない。

権力者の主張に異議を唱えられなければならない。

事実に基づく議論が可能でなければならない。

さらに、対話に参加しない自由も尊重されなければならない。

国家や社会が、和解や一致を名目として、被害者や少数者に沈黙や同調を強いることがあってはならない。

したがって、対話とは、単に人々が言葉を交わすことではない。

互いの尊厳を認め、異なる意見を表明する自由を保障しながら、共通の社会を築くための継続的な営みである。

ここに、マンデラのウブントゥとの共通性がある。

しかし、両者には緊張関係もある。

ウブントゥは人間の結びつきを強調する。

アーレントは人間の複数性を重視する。

シラクは対話による共通の社会の維持を説く。

もし共同体の結束だけを強調すれば、異なる人々が同じ価値観に従うことを要求される危険がある。

反対に、個人の違いだけを強調して共通の責任を否定すれば、社会は相互不信と無関心によって分断されかねない。

したがって、最小不幸社会には、連帯と多元性の両立が求められる。

同じである必要はない。

しかし、無関係であってもならない。

私たちは異なる存在である。それでも、互いの尊厳を守る責任を分かち合うことができる。

この認識こそ、多元的な民主主義社会の重要な基礎となる。

シラクは退任演説で、国家を家族にたとえた。

この比喩には、人々を結びつける情緒的な力がある。

しかし、国家は文字どおりの家族ではない。

家族的な一体感を過度に求めれば、そこに同化できない人が排除される危険も生じる。

民主主義社会に必要なのは、すべての人が同じ家族のように考えることではない。

異なる人々が、対等な権利を持つ市民として共に生きることである。

その意味で、対話は単なる政治的な技術ではない。

異なる人間同士が共存するための倫理なのである。

第九章 希望の政治哲学――闇の中で光を失わないこと

2013年のマンデラ追悼演説に続き、2018年のマンデラ生誕100周年記念講演で、オバマは自由と民主主義、経済格差、歴史の進歩、そして人間の希望について語った。

そこに共通するのは、人間と社会は変わることができるという信念である。

ただし、それは歴史が自動的に良い方向へ進むという楽観主義ではない。

民主主義は後退することがある。

自由は奪われることがある。

人間は差別し、憎み合い、時に恐ろしい過ちを犯す。

それでも、過去に不可能と考えられていた不正義の克服が、現実に成し遂げられたこともある。

マンデラが長い投獄を経て、南アフリカの民主化を担ったことは、その歴史的な実例である。

2020年、バイデンは公民権運動の指導者エラ・ベイカーの言葉を引用した。

「人々に光を与えれば、彼らは道を見つけるだろう。」

この言葉を、私は最小不幸社会の政治哲学にとって重要な比喩として受け止めたい。

政治の仕事は、人間に進むべき道を命令することではない。

人々が自らの道を見つけられるようにすることである。

貧困によって未来が見えなくなった人に、再び人生を選択できる条件を与える。

差別によって尊厳を傷つけられた人に、平等な権利と機会を保障する。

失業によって社会から切り離された人に、再び社会参加への道を開く。

そして、希望を失った人が、もう一度人生を始められる場所を残しておく。

バイデンは同じ演説の結びで、こう語った。

「愛は憎しみよりも強いからです。希望は恐怖よりも強く、光は闇よりも強いのです。」

この言葉を、私は単なる美しい修辞として理解したくない。

愛が憎しみより強く、希望が恐怖より強いということは、あらゆる現実で自動的に成り立つ法則ではない。

現実には、憎しみが勝利することもある。恐怖が人々を沈黙させることもある。闇が長く続くこともある。

だからこそ、この言葉は事実の記述というより、人間が選び取るべき倫理的な決意なのである。

愛を選ぶこと。

恐怖に支配されず、希望を持とうとすること。

真実を語ること。

不正義に抗議すること。

そして、不幸に陥った他者を見捨てないこと。

ここで、シモーヌ・ヴェイユの生涯をもう一度考えたい。

彼女が経験した歴史は、人間がいかに残酷になり得るかを示している。

しかし、彼女がその後に歩んだ人生は、人間が社会を変える可能性もまた持っていることを示している。

絶望的な経験をしたからといって、希望を持つ義務があるわけではない。

それでも、希望を選び取ることのできる人間の可能性は、否定されるべきではない。

また、ロン・レーガンが訴えた医学研究も、希望という問題と関係している。

科学研究が将来の治療法を生み出す可能性は、病気に苦しむ人々にとって希望となる。

しかし、その希望は、科学的な検証と倫理的な責任に支えられなければならない。

根拠のない楽観主義は、患者をかえって傷つけることがあるからである。

希望とは、明日が必ず良くなるという保証ではない。

明日を少しでも良くするために、今日、行動するという意志である。

この意味で、希望は単なる感情ではなく、政治的な実践でもある。


第十章 不条理と幸福――国家にできないこと、国家がしなければならないこと

しかし、ここで、最小不幸社会の政治哲学には避けて通れない問題が残る。

それは、人間の不幸には、どれほど優れた政治制度によっても取り除けないものが存在するという事実である。

愛する人の死。

取り返しのつかない喪失。

老い。

避けることのできない病苦。

人生の予測不可能性。

これらは、国家が完全に解決できる問題ではない。

人間は、必ずしも自分の行動にふさわしい結果を得られるわけではない。

正しく生きた人が報われるとは限らず、懸命に努力した人が成功するとも限らない。

そこには、人間の理性や正義感だけでは説明し尽くせない不条理が存在する。

しかし、だからといって、政治が無力になるわけではない。

国家は愛する人を生き返らせることはできないが、遺された人が生活を失わずに済むよう支えることはできる。

国家は人間から病気を完全になくすことはできないが、病に苦しむ人が必要な医療を受けられるようにすることはできる。

国家は孤独そのものを消し去ることはできないが、社会的な孤立を深める制度的障壁を取り除き、人々が他者とつながる機会を守ることはできる。

このように考えると、最小不幸社会は、人間の有限性と不完全さを認める政治哲学でもある。

幸福を完全に保障することはできない。

不幸を完全に排除することもできない。

しかし、だからこそ、人間は互いに支え合う必要がある。

ここで、マンデラのウブントゥと、宮本顕治の人生の羅針盤が結びつく。

人間は自らの羅針盤に従って生きる。

しかし、人生の航海は常に穏やかとは限らない。

嵐に遭い、船が傷つき、進むべき方向を見失うこともある。

そのとき必要なのは、国家が船の目的地を決めてしまうことではない。

沈みかけた船を救い、再び航海できる条件を整えることである。

ただし、誰もが自力で航海を再開できるとは限らない。長く支えを必要とする人も、船を降りて休む人もいるだろう。

そのような人の尊厳も等しく守られなければならない。

自立を求めることが、支援を必要とする人への新たな圧力になってはならないからである。

最小不幸社会は、人々に強さを命令する社会ではない。

弱さを抱えたままでも、尊厳を持って生きられる社会なのである。

ここで、私は「救済」と「共生」の違いについても考えたい。

救済とは、困難な状況にある人を助けることである。

それに対して共生とは、困難を抱えているかどうかにかかわらず、互いを対等な存在として認め合うことである。

救済される人が、常に受け身の存在でなければならないわけではない。

支援を受ける人にも、自らの意思があり、尊厳があり、社会に参加する権利がある。

社会は、人々を救うだけでなく、人々が自らの意思で生きることを保障しなければならない。

この視点が加わることによって、最小不幸社会は慈善の思想から、権利と尊厳に基づく政治哲学へと発展するのである。

第十一章 最小不幸社会を制度として実現するために

ここまでの議論から、最小不幸社会の政治哲学には、倫理的な理想だけでなく、実際の制度構想が必要であることが明らかになる。

国家は、どのような不幸を優先して減らすべきなのか。

誰に対して、どのような保障を行うべきなのか。

その財源をいかに確保するのか。

そして、その制度が人間の自由を侵害していないことを、どのように確認するのか。

これらの問いを避けることはできない。

私は、最小不幸社会の制度設計に、少なくとも五つの原則が必要だと考える。

第一に、生命と尊厳の不可侵性である。

国家は、どのような事情があっても、人間を単なる手段として扱ってはならない。

社会全体の利益を理由として、特定の人々の基本的な権利を無制限に犠牲にすることは許されない。

第二に、重大な不幸からの最低限の保障である。

食料、住居、医療、教育、安全、社会参加の機会など、人間が尊厳を持って生きるための基礎的な条件を整える必要がある。

その水準は、単に生存できるかどうかではなく、社会の一員として生活できるかどうかを考慮して定められなければならない。

第三に、不幸の予防と科学的な検証である。

救済制度を整えるだけでなく、病気や事故、災害、環境破壊などによって生じる不幸を未然に防ぐ努力が必要である。

ただし、科学的な知識は絶対ではない。政策は、利用可能な証拠に基づきながら、誤りが明らかになった場合には修正されなければならない。

第四に、多元性と民主的な対話である。

人間の不幸の意味も、望ましい救済の方法も、人によって異なる。

国家は、唯一の価値観に従って政策を決定するのではなく、当事者を含む多様な人々の声を聴き、公開の議論を通じて制度を形成する必要がある。

しかし、基本的人権の保障を単なる多数決に委ねてはならない。

少数者の権利を守る立憲主義が不可欠である。

第五に、制度の持続可能性と責任の明確化である。

どれほど望ましい政策であっても、必要な財源や実施能力を欠けば、長期的に人々を支えることはできない。

また、国家、地方自治体、市民社会、医療機関、教育機関、企業、家族などが、それぞれどのような責任を負うのかを明らかにする必要がある。

ただし、家族や地域社会への過度な依存によって、支援の責任を再び個人に押し戻してはならない。

社会的な連帯を制度として保障することが重要なのである。

これらの原則は、決して完成された社会の設計図ではない。

むしろ、不完全な人間が、不完全な社会を少しずつ改善していくための指針である。

ここに、ポパーの開かれた社会、ロールズの正義論、アーレントの複数性、マンデラのウブントゥ、ヴェイユの尊厳の思想、ロン・レーガンの科学と救済の倫理、シラクの対話論が交わる。

最小不幸社会は、これらの思想を無条件に統合すれば完成するものではない。

それぞれの思想の間には、緊張や矛盾も存在する。

個人の自由と共同体の連帯。

科学技術の発展と生命倫理。

和解と歴史的な責任追及。

社会の結束と個人の多様性。

生活保障の拡充と財政的な持続可能性。

これらを一挙に解決できる魔法の原理は存在しない。

だからこそ、政治には対話が必要であり、民主主義が必要であり、制度を絶えず検証する謙虚さが必要なのである。


終章 誰一人、取り残さない社会へ

オバマはマンデラ追悼演説の最後に、ウィリアム・アーネスト・ヘンリーの詩『インビクタス』を引用した。

「私は自らの運命の主人であり、私は自らの魂の船長である。」

宮本顕治は、人生の羅針盤に従って航海する人間を讃えた。

マンデラは、獄中にあっても自らの精神的な自由を失わず、憎しみの連鎖を超える社会を構想した。

オバマは、その精神を人間の尊厳、民主主義、自由、和解の思想として語った。

バイデンは、深い悲しみや喪失を経験した人間の言葉として、愛と希望と光を語った。

シモーヌ・ヴェイユは、言葉にできない苦しみの経験を経て、女性の権利と人間の尊厳、そして平和のために行動した。

マクロンは、彼女の生涯を、困難な時代に社会が進むべき方向を示す羅針盤として描いた。

ロン・レーガンは、科学によって人間の苦痛を減らす可能性と、そのために行動する責任を問いかけた。

シラクは、多様な人々が共に生きるために、対話と連帯を呼びかけた。

これらの言葉を貫くものは何だろうか。

私は、それを人間の尊厳と可能性への信頼と呼びたい。

人間は弱い。

傷つきやすく、不完全である。

失敗し、絶望し、時に自らの進むべき道さえ見失う。

しかし、人間には再び立ち上がる可能性がある。

他者を憎むだけでなく、理解しようとする可能性がある。

自らの過ちを認め、変わる可能性がある。

そして、社会そのものを変える可能性がある。

その可能性を、一人ひとりの人間に保障すること。

それこそが、政治の重要な使命ではないだろうか。

ただし、人間の尊厳は、立ち上がれた人だけに与えられるものではない。

希望を失った人もいる。

自分の人生に意味を見いだせない人もいる。

何度立ち上がろうとしても、再び倒れてしまう人もいる。

そのような人を含めて、すべての人間が等しく尊重されなければならない。

人間の尊厳は、成功したことへの報酬ではない。存在そのものに伴う、侵すことのできない価値なのである。

ここに、最小不幸社会の最も深い意義がある。

政治は、すべての人に幸福を約束できない。

しかし、幸福になれなかった人を、失敗者として切り捨てる社会を改めることはできる。

政治は、すべての人の苦しみをなくすことはできない。

しかし、苦しんでいる人が、さらに社会の無関心によって傷つけられることを防ぐことはできる。

政治は、人間の人生に意味を与えることはできない。

しかし、一人ひとりが自らの人生に意味を見いだせるための自由と条件を保障することはできる。

政治は、過去の悲劇をなかったことにはできない。

しかし、その記憶を次の世代へ伝え、同じ悲劇を繰り返さないための制度を築くことはできる。

政治は、すべての病気を治すことはできない。

しかし、科学の可能性を検証し、治療と予防のための努力を続けることはできる。

政治は、すべての人を同じ思想に導くことはできない。

しかし、異なる思想を持つ人々が、互いの尊厳を認めながら共に生きられる社会を築くことはできる。

これは、国家に無限の責任を求める思想ではない。

国家の限界を認めるからこそ、その責任を明確にする思想である。

社会保障、教育、医療、労働、住宅、災害対策、人権保障、科学研究、民主的な対話。

これらは単なる政策の集合ではない。

人間の尊厳を現実の社会の中で守るための制度なのである。

そして、それらの制度は、自由な言論、民主的な参加、権力への批判、少数者の権利保障によって支えられなければならない。

私は、最小不幸社会を単なる福祉国家の理念としてではなく、人間の自由と尊厳を中心に据えた政治哲学として構想したい。

幸福を国家が管理する社会でもない。

不幸を個人の責任として放置する社会でもない。

人間の弱さを認めながら、人間の可能性を信じる社会である。

宮本顕治の言葉に戻ろう。

人生とは、時に激しい嵐の中を進む航海である。

羅針盤が示す方向は、人によって異なる。

その方向を国家が決めてはならない。

しかし、嵐に遭った船を見捨ててはならない。

航海を続ける人にも、進むことのできなくなった人にも、等しく尊厳がある。

その尊厳を守ることが、社会の責任である。

だから、私はこう結論づけたい。

政治は、あなたを幸福にすることを約束できない。しかし、あなたが不幸のどん底に落ちたとき、決して見捨てない社会をつくることはできる。

そして、そのような社会であってこそ、人間は自らの人生を自由に生き、幸福を追求できるのではないだろうか。

それが、私の考える「最小不幸社会」の政治哲学である。

それは不幸を減らすだけの思想ではない。

人間が不幸の中にあっても尊厳を失わず、再び希望を抱ける社会を目指す思想なのである。

しかし、ここで忘れてはならないことがある。

希望を抱くことができない人間もまた、社会の一員である。

誰もが強くなければならないわけではない。

誰もが英雄のように生きなければならないわけではない。

苦しみの中で立ち止まることもある。

人生の進路を見失うこともある。

それでもなお、その人は尊厳ある存在である。

社会は、その尊厳を条件つきのものにしてはならない。

また、私たちは、他者が自分と同じ考え方をすることを要求してはならない。

民主主義社会には、さまざまな思想、文化、宗教、価値観が存在する。

それらの違いを消し去ろうとするのではなく、対話を通じて互いを理解し、共に生きる道を探す必要がある。

マンデラのウブントゥが示す人間のつながりと、アーレントが説いた複数性は、この点において重要な示唆を与えてくれる。

人間は一人では生きられない。

しかし、人間は皆、同じように生きなければならないわけでもない。

この二つの真実を同時に認めることが、自由で多元的な社会の出発点となる。

そして、希望の灯を、一人の英雄や一人の政治家に託すのではなく、私たち一人ひとりが互いに守り、次の世代へ手渡していく。

エラ・ベイカーが語ったように、

「人々に光を与えれば、彼らは道を見つけるだろう」。

国家は人生の羅針盤にはなれない。

しかし、人間が自らの羅針盤を見失わないための、社会の灯台になることはできるのである。

そして、その灯台の光は、成功した人々だけを照らすものであってはならない。

病に苦しむ人にも。

貧困にあえぐ人にも。

差別によって傷ついた人にも。

孤独の中にいる人にも。

社会の片隅で、自分の存在が忘れられていると感じている人にも。

等しく届かなければならない。

誰もが同じ幸福を得る必要はない。しかし、誰もが等しく尊厳を持って生きる権利を持っている。

その権利を守り、不幸の中に置き去りにされる人をなくすために、自由と連帯、科学と倫理、記憶と対話を結びつけていく。

私は、そこに「最小不幸社会」の政治哲学が目指すべき未来を見るのである。


引用・参考思想

  • 宮本顕治『宮本顕治獄中からの手紙――百合子への十二年』(下)、新日本出版社
  • 日本国憲法第13条
  • 菅直人の「最小不幸社会」の政治理念
  • ネルソン・マンデラのウブントゥ思想
  • バラク・オバマ、2013年12月10日、ネルソン・マンデラ追悼演説
  • バラク・オバマ、2018年7月17日、ネルソン・マンデラ生誕100周年記念講演
  • ジョー・バイデン、2020年8月20日、民主党大統領候補指名受諾演説
  • エマニュエル・マクロン、2017年7月5日、シモーヌ・ヴェイユ国民追悼式演説
  • エマニュエル・マクロン、2018年7月1日、シモーヌ・ヴェイユのパンテオン埋葬式典演説
  • ロン・レーガン、2004年7月27日、民主党全国大会演説
  • ジャック・シラク、2007年5月15日、大統領退任演説
  • ジョン・ロールズの正義論
  • ハンナ・アーレントの複数性と公共的自由の思想
  • カール・ポパーの開かれた社会論
  • アマルティア・セン、マーサ・ヌスバウムの潜在能力アプローチ
  • オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』
  • ジョージ・オーウェル『1984年』
  • レイ・ブラッドベリ『華氏451度』

本稿の政治演説の引用は、これまで提供された日本語訳を基本としている。刊行時には各演説の原語資料との照合を要する。ハンナ・アーレントはナチスの迫害を受け、フランスのギュルス収容所に収容された経験を持つが、アウシュビッツからの生還者ではない。また、政治家シモーヌ・ヴェイユ(Simone Veil)と哲学者シモーヌ・ヴェイユ/シモーヌ・ヴェーユ(Simone Weil)は別人である。


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