日本の現代を代表する映画作家・黒沢清がフランス映画を撮るという空前の映画的事件~『ダゲレオタイプの女』 by 藤原敏史・監督

黒沢清が日本の現代映画、いや現代の世界映画を代表し、またリードする映画作家であるのは、その作品の多くがホラーであったりファンタジー、いわば現実を飛躍したシチュエーションを設定し、また黒沢の映像がその「現実離れ」を徹底させてさえいるからこそ、却ってそこに紛れもなく日本の「現代」ないし「現在」が映り込み、生きた存在として刻印された、その今ここにある世界が確かに定着した映画を作り続けているからでもある。徹底してフィクショナルで、しばしば非リアリズムでさえあるが故のドキュメンタリー性こそが、黒沢清の映画をリアルタイムにして古典、今この時の映画だからこそ普遍的なものとして来た。

例えば最新作『クリーピー 偽りの隣人』の冒頭、サイコパスの連続殺人犯の取り調べが行われている警察署か警視庁の建物は、およそ現実の警察ではありそうもない戦前モダニズム建築だ。にも関わらず…いや昭和モダニズムの洗練された造形とそこに堆積した歴史・時間の両方が映り込んだ空間を研ぎすまされた演出で再構成しているからこそ、一般には日本社会でほとんど無縁と思われがちなこの種の犯罪者が、実は今や日本のどこにいてもおかしくないことが痛烈に印象づけられる。この殺人鬼と同じような論理は、例えばネット上でならしばしば見られることにも気づくかもしれないし、現にこの映画の6月の公開から二ヶ月後、そういう大量殺人事件が起こってしまった。

黒沢清が真に継承する日本映画とは、小津安二郎のそれである

扱っているジャンルや事象はまったく異なるようで、黒沢にもっとも近い過去の映画作家は小津安二郎だと言えよう。

映画のフィクショナルな外観にあえてこだわる黒沢同様に、小津の極度なまでに美学的に整理された、シンプルさに研ぎすまされ作り込まれたフィクション空間と、およそ「社会派」とは言えそうもない、当時でさえ絵空事に見られても当然だった、例えば晩年のカラー作品の中産階級の上といっていい裕福な家庭の、一見他愛もない結婚話を軸とするホームドラマの設定(たとえば『秋日和』の未亡人・原節子がどう生計を立てているのかなぞ、まったく現実離れしているし、亡き夫の同級生でそれぞれに会社重役になっている中年男たちもヒマそうで、仕事の中身もさっぱり分からない)のなかにこそ、映画作家・小津安二郎はその時代時代の日本の「今」をゾッとさえさせられる精確さで潜ませていた。

なかでももっとも普遍的な名作と思われている『東京物語』が、実は1952~3年の、戦後の占領が終わった直後の日本だからこそのテーマを語っていたことを、我々はほぼ同じストーリーを東日本大震災後の東京に置き換えた山田洋次のリメイク『東京家族』の空虚さに逆説的に気づかされた。

1952~3年だからこその映画だった『東京物語』の真の主役は、8年間行方不明のままの、恐らく戦死した次男であり、彼に代表されているところの、戦後の、復興した東京を見ることが出来なかった、戦争で亡くなった死者たちだったのだ。だからこそ「東京」を題名としながら、『東京物語』の画面からは戦後の、復興した東京の姿は、ほとんどシステマティックなまでに徹底して排除されている。東京駅のシーンが必要なら、小津は東京大空襲で大破して屋根がまったく変わっていた駅舎は写さず、ただ物語展開上必要な情報として広島行き夜行列車の案内表示だけを見せる徹底っぷりだ。

そういえば、黒沢清の映画も現代の東京をしばしば舞台にしながら、都心の高層ビル群であるとかはめったに撮影しないし、現代建築すらあまり出て来ない(60年代70年代かそれ以前の建築が圧倒的に多い)。本人は都心は撮影許可がなかなか得られないから環七沿線が多い、というくらいのことしか言わないが、『アカルイミライ』では表参道のど真ん中でロケしながら、背景に写るっているのは戦前からの同潤会アパート(その後取り壊され現在は表参道ヒルズ)だけだったりする。

過ぎ去る時間、戻って来ない過去をこそ定着させるものとしての写真、そして映像

小津は東京を直接にはほとんど見せない『東京物語』で、老夫婦と次男の未亡人の心の交流に観客を感動させるかのように見せかけながら、この三人の端正なしぐざやたたずまいと、ひとつひとつの韻律まで徹底して書き込まれた、極度に直裁でありながら(「いやあねえ世の中って」「そう、いやなことばっかり」)同時に常に複雑に婉曲でもある台詞を通して、本当に見せていたのは不在の息子/夫の、その不在(ないし死)を受け止め切れないまま、戦後の時間を生きているのにその時代から取り残されてしまった者たちの結びつきであり、『東京物語』は戦死者の記憶を封印・隠蔽して慌ただしく戦後復興を生きねばならなかった日本人にこそ鋭く、しかしやさしく、普段は忘れざるを得なかった本当の気持ちを思い出させる映画だったのだ。

そして母とみ(東山千栄子)は、恐らくは戦死したのであろうその息子・昌二のいる彼岸に旅立ち、父・周吉(笠智衆)は義理の娘の紀子(原節子)に、夫のことや自分のことは忘れて再び現代の時間を生き始めるようにとやさしく、しかし決然とした絶縁の意思を込めて告げ、今この時の時間を先へ先へと刻み続ける懐中時計を、妻の形見として与える。映画は再び紀子が生き始めたその時間を刻む時計の音と、対照的に過去の、死者達の時間を生き続ける周吉をそっと包み込むノスタルジックなポンポン蒸気船の音で終わる。

『東京物語』を大きな転換点に、小津安二郎の後期作品は現代を描きながらも過去に結びつき、生きた人間の生活を見せながらも本当に語っているのは死者たちであること、直接に現代を描くのではなくその現代が喪失してしまったなにかをこそ本当は見せているものであることを明確にして行った。戦争から帰って来なかった次男の不在と、題名に反してほとんど映し出されない東京の街並の、東京大空襲前にあったかつての都市の不在、戦争の時代と戦後の慌ただしさのなかで断絶し破壊された日本人のあり様の不在こそが、『東京物語』を普遍的な家族の物語、人生のあり様を感じさせる映画として成立させていた。

黒沢清と小津安二郎、見えない「幽霊」の不在の存在によって満たされる映画空間

一見扱うジャンルはまったく異なるようでありながら、実は小津の後継者である黒沢清にとってホラー、幽霊映画がもっともこだわるジャンルであるのは、その映画もまた常になんらかの形で「死者」と「記憶」という見えないものをこそ見せる映画だからだ。

『彼岸花』以降、遺作『秋刀魚の味』までのカラー作品群の中の、『東京物語』の時期よりもさらに豊かになった東京の風景もまた、その直接には画面上に見えない奥底に、戦争で消えてしまった東京の不在を背負っている。だからこそ人物たちは東京からちょっと離れた時に、一見ストーリーの展開と無関係に、戦前・戦時中の記憶を語り出しもするのだ。たとえば『彼岸花』の田中絹代は箱根で戦時中の厳しい状況下でこそ強かった家族の絆を唐突に夫に話す。『秋日和』の未亡人・原節子と娘の司葉子が蓼科で亡き夫・父の思い出を語り合うその中身も、戦時中に疎開したときのことだ。

圧倒的に優れた映画監督として小津が頂点を極めたのが戦前の『生まれてはみたけれど』だとするなら、その小津が真に偉大な映画作家となったのは戦後の作品群、それも『晩春』以降の、戦後の占領が終わり、「もはや戦後ではない」とまで言われ豊かになった日本を描き始めた作品群によってこそであり、その偉大なる孤高は一見裕福になった東京の、それも徹底して視覚的に理想化された映像世界に、常に「戦後」意識、ないし戦争そのものが地下水脈のように流れ続けているからなのだ。

黒沢清の映画にこの小津と同じ「今・現代・現実」の空気が息づいているのは、小津が戦後の豊かさのなかに隠されているからこそ鋭く突き刺さる戦争の時代の亡霊を見抜いたのと同様の、シャープな歴史感覚があるからだ。小津と同じようにフィクション映画の作り込まれた世界観を徹底させることでこそ、継続する歴史の現時点における最終形としての「現代・現在」に向ける黒沢清の眼差しは研ぎすまされて行く。

「日本」を撮り続けて来た黒沢清のフランス映画

その黒沢清が、フランスで映画を撮った。

実は以前に上海を舞台にした近代史もののドラマの企画もあったり、『トウキョウソナタ』などには海外資本の参加しているが、『ダゲレオタイプの女』は満を持しての初の本格海外進出作品になる。もちろん世界的に今もっとも注目される映画作家の1人で、ことフランスでは評価が高い黒沢清であり、一方で肝心の日本での映画の製作・出資の状況が難しさを増すなかでは、プロデューサー的感覚では大いにあり得る企画だ。

だが一方で、そこでまったく「日本」と無縁なストーリーを選び、出演するのもフランス人、全編フランス語というのは、黒沢が相当な覚悟で臨んでいるのは間違いない。喩えるならいわば小津安二郎が突然ニューヨークのアッパー・イーストサイドの上流家庭の映画を撮るような話なのだ。これを「事件」と言わずしてなんと呼ぶべきだろうか。

黒沢はしばしば、一件突拍子もなくオリジナリティに満ち、しかも非常に複雑に思える設定を、ホラーならホラーの源に設定する。なかでも抜群に怖い『回路』の電話や映像で伝染する死と仮想生命体のコンピューター上プログラムとの関連や、『叫(さけび)』の赤い服の幽霊と湾岸埋め立て地の地盤液状化、その湾岸に戦前から立つ謎めいた黒いビルの異様な存在感などが強烈に思い出されるだろうし、近作の『REAL 完全なる首長竜の日』でも、心を閉ざした人間の脳波を通してその意識に入り込む装置と、その人物のいわば「脳内現実」のリアルと不可思議のないまぜになった世界観など、凡百の映画ならその時点で観客が置き去りにされそうな入り組んで意味性の深い設定を好んで用いながら、黒沢清はそれをまず物語映画として成立させるだけに留まらず、そうした映画的恐怖の発生装置や『アカルイミライ』の謎めいたくらげ、あるいは『トウキョウソナタ』で日本人が米軍に志願できるようになるといった一見無茶なシチュエーションから、現代の日本社会の痛烈なメタファーとも解釈できる(あるいは、直接になんの言及もないどころかヒントも与えないまま、観客にそう思わせてしまう)ような、今という時代の人間存在そのもののあり様を映し出す、その演出力は圧倒的だ。

その黒沢清がフランスで撮った『ダゲレオタイプの女』の、魔性の中心となる黒沢清映画的な装置は、なんと写真、つまりは映画そのものの根源だ。映画は言うまでもなく、写真の延長に生まれた技術・芸術であり、黒沢は今回、つまりは映画の原理的な本質そのものを恐怖の源、人々を狂わせていくモンスターに設定してしまっている。

写真、つまり映画の原点・本質・本性こそが、モンスターであるホラー映画

題名通りの「ダゲレオタイプ」が、この映画の世界にとりついた化け物だ。19世紀半ばのフランスでダゲールが発明した銀版写真装置(フランス語原題は「銀版の(なかの)女」だ)だが、いきなり黒沢が観客の前に現前させるのが、人間の等身大写真が撮れるという、なんと高さ2mを超える巨大なダゲレオタイプ・カメラだ。

パリで失業中の青年ジャン(タハール・ラヒム)は、助手の募集広告を見て郊外に住む写真家ステファーヌ(オリヴィエ・グルメ)の屋敷を訪れる。写真のことなどまったく知らないので採用される期待もなかったのが、むしろその方が良いと言われて即雇われる。イノセントな主人公が謎めいてゴシック的な異空間に入って行くという古典的ホラーの設定を、黒沢はこの映画であえて採用しているし、ステファーヌが住むのはさすがに城館(シャトー)ではないものの、17~18世紀の古風な邸宅だ。ちなみに撮影順では次作となる『クリーピー』では真逆に、元刑事でサイコパス殺人者を専門に研究する犯罪心理学者が主人公になり、犯罪と日常、被害者と犯罪者とそれを追う者の区別は限りなく曖昧化していく。舞台はやはり郊外だがこちらは東京の普通の住宅地、その平凡な風景に、真夏の映画なので草木が異常なまでに生い茂り、吹き抜ける風に不吉にざわめく。

片や失業中で人生の目標も見つかっていない青年、片や志半ばで警察は離れても犯罪を起こす異常心理の研究に没頭する元刑事、公開順は撮影の順序と逆になったが、『ダゲレオタイプの女』と『クリーピー』は正反対を志向していると同時に、だからこそ合わせ鏡、コインの裏表のような映画だ。

ステファーヌはかつてモード写真で一世を風靡したらしいが、デジタル化の波に背を向ける態度を突き詰めるあまり、今では写真の起源である銀版でしか作品を撮らなくなっている。それでも彼がダゲレオタイプ・カメラで撮るファッション写真のセンスを求めるクライアントの需要は殺到しているが、なにしろ「一瞬を切り取る」のではない、写真として定着させるには露光時間が数分とか20分かかってしまうのが、今は彼がそれしかやらなくなったアナクロな写真撮影法だ。

つまり、被写体になった人間は、20分なら20分、ないし30分といった時間のあいだ、ひたすら静止していなければならない。19世紀の古い肖像写真で、人物が座っていたりなにかに寄りかかっているのはこのせいだ。

当時には被写体が動いてはならないので死角から身体を支える装置まで考案され、ステファーヌも同様の人体固定具を自作している。もちろん、現代のファッション・モデルはそのように身体の自由を奪われることになぞ慣れていない。写真家との掛け合いのなかで、一瞬でも美しかったり個性的な表情を作り、その瞬間を見逃さずに写真家がシャッターを「切る」のが現代の写真だ。デジタル化でフィルム代も印画紙代もタダになった現代の写真家は、とにかく「その一瞬」を逃さないように膨大な回数シャッター・ボタンを押す。

そうした現代的な、いわば軽薄でもあるやり方を、ステファーヌは嫌悪している。モデルは20分、30分という時間まったく動かないことで自分の存在に集中し、そのモデルに向き合うカメラが、銀版にその露光時間のあいだの人間存在そのものを定着させれば、そこには被写体となったモデルの生命の神秘の一部すら、銀粒子に変換されて写し取られているかもしれない。いや、ステファーヌはそう確信しているだけではなく、それを自分の「芸術」として実践している。

自由に動き回る活力ではなく静止しているからこそ映像に写る生命という、日本の映画作家のイマジネーションが創造した究極の表現の求道、とくに微動だにしてはいけないことに、フランス人は「禅」的な意味を見いだすかも知れないし、動かない自分の身体に集中するようモデルに要求するステファーヌの芸術的信念がそのように受け取られてもまったくおかしくない。黒沢清がダゲレオタイプ写真を通して現代のしじゅう動き続けるせわしなさや、デジタル化された写真や映像の軽薄さを批判し、あえて映画のアナクロニズムにこそ価値を見いだしているとも言えるだろう。

だが一方で、日本人ならばすぐに思い出すのはむしろ、幕末から明治初期に新しいもの好きの日本人が写真にとびついた一方で、「命を吸い取られる」と忌み嫌った人も多かったことだ。なんと明治天皇が実はそうで、その “御真影” は仕方がないので御雇外国人画家の描いた油絵の写真複写だった。

「そんな馬鹿げた迷信を」と現代人なら思いそうなことが、黒沢清の手にかかるとある不気味な実感と共に思い出されてしまう。もしかして、本当に写真に撮られることは命を削る行為なのではないか?

存在そのものを定着させる写真と、「命を吸い取る」魔性としての写真

それにファッション写真で使う普通の大きさのダゲレオタイプ・カメラなら、露光時間はまだ20分とか30分と言ったところだが、彼が自分の「作品」を撮る等身大カメラなら、70分とか120分、130分という時間になってしまうらしいのだ。しかも太陽光のある屋外ではなく、屋敷のかつての厩かなにかにしつらえた薄暗いスタジオで撮影することに、彼はなぜかこだわっている。つまり露光時間はどうしても長くなり、そのあいだモデルは動いてはいけない。

この写真(と映画)のアナクロニズムへのこだわりが禍々しく危険でもあるのは、単に撮影がモデルにとって拷問になりかねないからだけではない。物理的というか化学的にも、これは危険な写真技法なのだ。ダゲレオタイプの銀版は水銀の蒸気を当てて現像処理される。その廃液を庭に置かれたタンクに棄てようとするジャンに、ステファーヌの娘のマリー(コンスタンス・ルソー)が声をかける。ちゃんとタンクに溜めたはずの水銀も微量ながら地面に垂れ、徐々にその地表を浸食し、周りの草はすでに枯れてしまっている。その先には、彼女が大事に育てて来た植物の温室がある。

伝染して行く恐怖と危険(そして悪意)とは、極めて黒沢清的な、『CURE』や『カリスマ』や『回路』、それに『アカルイミライ』あるいは『叫』や、『クリーピー』『REAL』のこともすぐに思い起こさせる世界観だ。本作で水銀汚染の広がりで表現されたそのことは、『クリーピー』では文字通りサイコパス的な悪意と殺意の伝染として、不気味な広がりを見せることになるだろう。

黒沢清の映画は決して人間の善意や善良さを信じていない映画ではない。しかしそれを強靭で不変なものだとまでは信頼していないというか、むしろその映画は現代の人間世界において、近代主義的な人間の「個」の独立や、個々人の内面で自己充足した合理的な意識の働きや心理なぞ、めったにあり得るものではないとことを見抜いている。

確かに黒沢清が見せ続けて来ているように、現代の人間は環境や周囲の人間に簡単に影響されてしまう、もろくあやうい存在でしかないのかも知れないし、独立した強靭な個という近代の幻想は、そもそもそんなもの、こと現代の日本で存在した試しもないのかも知れない。

その一般的にはいわば「日本的」と思われがちな、「空気」に左右される人間観を、黒沢清は今回あえて、タテマエ上は民主主義と近代個人主義の確立の元祖の国を自認するフランスに衝突させようと企み、イノセントな主人公を郊外の古い屋敷という、「現代」から隔絶された「空気」のなかに放り込む。

「空気」が鍵となる黒沢清演出

日本ではなくフランスを舞台にしているからこそあえて、その場その場の「空気」こそに浸食され支配されてしまう人物たちの有り様が、これまでの黒沢清映画以上に『ダゲレオタイプの女』の演出の中心軸になっている。ステファーヌの屋敷の空気、その母屋に寄り添うように建てられながら異なった空気を持ったマリーの温室、写真家の父と二人っきりの世界の「空気」のなかにいながら、植物園での仕事という別の「空気」を探すマリー、仕事を終えて帰宅するジャンのアパートがあるパリ市内の、あえて没個性的に撮られたその「空気」は、パリがパリでなくなってしまったような感覚が、被写体ではなく(例えば、有名建築物をあえて撮らない、だとかの直接手段ではなく)そこに映り込む「空気」によってこそ、表現されている。

あるいはマチュー・アマルリック演ずる、ステファーヌにファッション写真へ本格復帰させようと狙っているらしいエージェントは、軽薄なだけで個性も厚みもなにもない「空気」をまき散らして登場する(この個性的な名優の、その個性の逆を行く黒沢のキャスティングがあっぱれ)。映画ファンなら知っているだろう有名俳優だからこそ、ただそこにいるだけでいい、的なアマルリックの有り様と対比されるかのように、死を予感してステファーヌに遺影を撮って欲しいと頼みに現れる老女は、無名の女優か、もしかしたら素人かも知れないのに、だからこそ決して忘れられない、深く重く味わい深い「空気」を身にまとってステファーヌの前に現れる。

普通に生きているはずの人間だからこそ存在が希薄で、この老女のように死を意識している人物こそが強い存在感を持って画面に登場するのは、ダゲレオタイプ写真の撮影法に通底することでもある。つまり、アマルリックや彼が連れて来たモデルはしじゅうせわしなく動いている。老女は(ステファーヌの主観ショットのなかで)画面に正対してすくっと立っている。そのことで彼女は、その場だけでなく屋敷全体、映画全体の空気すら自分の空気で支配できてしてしまうのだ。

話を映画の始まりに戻そう。

玄関ホールの大階段の脇で待たされるジャンの、階段を挟んで反対側にあるドアが、誰もいないのにギーッと音を立てて開く。ジャンがそのドアに入る。このドアの開き方からして、黒沢の映像と演出は研ぎすまされさえ渡っている。ドアの向こうはなんの変哲もない古い台所なのだから、物語情報的に大きな意味はないのだが、映画の雰囲気、この屋敷の「空気」が決定づけられる上であまりに重要なショットのキャメラワークは、遠くからドアに近づきまた離れるという、普通ならぎこちなく見え不自然なはずの動きが、逆に実に効果的に、怪奇映画の空気で画面を満たす。

フランス映画の伝統「作家映画」と黒沢清

『ダゲレオタイプの女』は、フランス映画のカテゴリー的にはいわゆる「作家映画」、芸術的な個性の明らかな映画作家の「作品」として分類される。作家性、芸術性というとその作り手の個性とかインスピレーションこそが重要と思われがちだが、黒沢清はこの映画演出の定石をあえて外したショットを完璧に成立させて「これはホラー映画である」と表明することで、映画における作家のインスピレーションとは思いつきではなく演出の構築であり、その芸術性とは職人技の極みであることを、映画それ自体のなかで証明し、また宣言もしている。

黒沢清が日本ではない場所で、日本語ではない言語を喋る日本人ではない人物たちを撮るというのは、繰り返すが小津安二郎がニューヨークのアッパー・イーストサイドの富裕層の映画でも撮るような冒険だ。黒澤明ならロシア映画の『デルス・ウザーラ』だっていつものように撮れてしまうのだが(逆にロシア文学のドストエフスキーが黒澤明の手にかかれば北海道で日本語の『白痴』、ナスターシャが原節子演ずる那須妙子で成立してしまう)、小津その人だったら「豆腐屋はステーキは作らない」とでも言って決して乗らなかったであろう挑戦に、黒沢は挑んだ。

しかもただ外国というのではなく、あえてフランス映画、幻想や不条理をテーマとする映画ならあっても怪奇・恐怖映画、とくに黒沢清の得意とする現在と過去、生と死をめぐる幽霊と亡霊の映画的伝統がその映画史にほぼ皆無なフランスで、フランス人が建前では「写真の実用化の元祖」「写真の発明」とみなしながら、実際には現代フランス人が見向きもしていないダゲレオタイプ写真機の亡霊を、神聖な芸術であると同時に禍々しい毒性を持ち、その撮影が暴力的な拷問を伴うものとして、あえて現前させるのだ。

別に黒沢清が「反フランス的」ないしフランスに批判的なスタンスをとっているわけではない。ただ作家としての個の確立が、これまで映画を撮って来た日本においてよりも遥かに明確化する状況下で『ダゲレオタイプの女』を撮ったときには、その隔絶した孤高は当然のこととして際立つ。海外で、撮り慣れた風景ではない背景で映画を撮ったことで、その主題性が個々の映画作品の存在する映画史的文脈のなかで際立ったものとなり、さらに純化されたものとして提示される様は、まさに映画史的な「事件」としか言いようがない。

「多国籍共同製作」という黒沢清の新たな戦場

だが一方で、映画の冒頭から「怖い映画」というのとは別の意味で不安を覚えるのも確かだ。映画がまだ始まる前に、まずテレビ局アルテの製作でもあること、フランス、日本、ベルギーの合作でEU映画基金の出資も受けなどなどが、ロゴと最初のクレジットで示される。

フランス映画のクオリティを世界に発信する「作家映画」の伝統は、現代ではこうした出資体制で維持されているのも当たり前なのだが、あまりに数が多い出資者を満足させようとすると「船頭多くして船山に登る」になりかねないのも確かで、作家の「個性」こそが売り物の、「作家主義」の映画の本来と矛盾しているし、フランス映画が21世紀に入ってあまりパッとしないのも、才能の枯渇などよりもこうした製作の態勢に起因する。

しかも日本人映画作家が言語ナショナリズム意識の強いフランスで、フランス語の映画を撮るというのは、プロデューサーがよほどしっかりと監督を守りつつ、フランス人スタッフとの対立や妥協を強いられることを避けながら、最良を引き出さなければならない。

『ダゲレオタイプの女』は黒沢清の監督・脚本作品で、すでに述べたようにそのコンセプトはこれまで日本で撮って来た以作品以上に、極度にとんがっている。その作家のビジョンはこの場合、まず日本語をフランス語の台詞にただ「翻訳」するのではなく、元は日本語で書かれた台詞の映画的言語の等価物を、フランス語ダイアローグに見いださなければならない。

ただでさえ黒沢清映画の場合、小津安二郎の映画の台詞に小津ならではのスタイルが刻印されていたのと同様、その日本語の台詞は必ずしもいわゆる「普通の」「自然な」日本語ではない。日本語の日常会話ではめったにあり得ないほど観念的な言語もあえて用いられて来たし、そこで発語される観念性と哲学性の空気が映画作品の世界観を成立させ、ホラーの設定ならば単にその設定の説明を超えて、映画の主題そのもの、ひいては人間世界の不条理と密接に関わるものとして映画になかに立ち現れる上でいかに重要な役割を果たして来たかに、『ダゲレオタイプの女』に逆説的に気づかされた。

この作品でももちろん、まず設定を説明する言葉が物語の展開上で重要になる。ダゲレオタイプ写真とはなにかという基本設定にしても、カメラの現物を見せられただけではまずなんのことかまず分からないのに、ステファーヌがこの撮影法にこだわっていることとそれ自体が、映画のドラマとホラーを成立させるきっかけなのだ。なぜ彼がこんなにも複雑で手間がかかり、危険も多い写真術に執着しているのか、それを単なる執着に終わらせず観客がリアルに納得しつつゾっともさせられ、さらには「写真は被写体の存在そのものを定着させる」芸術、イコール「命を吸い取る」魔物として意識されなければならない。

この点では残念ながら「日本映画だったらもっと怖かった」と思ってしまう面も否定できないのは、この映画のフランス語の台詞があまりに普通のフランス語でしかないせいだ。さらに厄介なフランス映画の特質にも気づかされる。詩の朗唱と演劇の長い伝統から派生するフランス俳優の演技とは、台詞テクストを基盤とし、言語テクストの意味以上にその響きに支配された演技なのだ。

フランス映画とは歴史的・宿命的に「言葉の映画」だと気づかされる

俳優の受けて来た訓練の文脈もあるだろうし、それ以上にフランスとはフランス語を喋る人間の国だという、フランス人が自覚はしていないが常に支配されているナショナリズムの「空気」意識なのかも知れないが、美しい、傑出した台詞がないと、フランスの俳優というのはどうも美しい演技ができないものらしい。「言霊」という日本語があるが、映画や演劇の演技やスピーチなどの言葉のパフォーマンスに於いては、フランス人の方がよほど「言霊」に支配されていて、「言葉にならない空気」にこそ実は敏感な日本人と対照的なのかも知れない。

フランス語の台詞があまりに平凡なフランス語であることが、『ダゲレオタイプの女』の無視できない問題にはなってしまっている。外国人監督の映画だから、かえってフランス人スタッフが「自然なフランス語」「こんなことはフランス語では言わない」的な意識にこだわり過ぎてしまったのかも知れないが、これまでの黒沢清映画の尋常ならざる言葉の強さが台詞のフランス語の平凡さにかき消されてしまうと、芸術であると同時に魔物であるステファーヌとそのダゲレオタイプ・カメラの存在も、映像的・物理的にだけは確かに写っていることに留まってどうにも映画的アクションとして弾けきれていないのは否めないし、黒沢清の演出と俳優達の演技が噛み合っていないように見えるところもある。

だからこそ傑出して浮かび上がるのが、黒澤の映像演出の並々ならぬ力量だ。ある意味、『ダゲレオタイプの女』はほとんどサイレント映画でもあるし、サイレント映画として見てもいっこうに構わないように思える。映像にどの時点でどれだけの情報を込めるのかの計算が考え抜かれ、それが行き渡った映像言語の駆使で、直接の言語的な説明が仮になかったとしても(たとえば、字幕なしで見ても)この映画のストーリーが「分かりにくい」、この映画を「難解」と思う観客はいないだろう。むしろ後半は「分かりやす過ぎる」きらいすらあって、衝撃の真実が明かされる展開のはずのラストも、その「真実」をラストから30分以上前にはほとんどの観客が見抜いてしまうかも知れない。

「理知的な言語」の映画としてのフランス映画の伝統

フランス映画が「言葉(フランス語)の映画」にならざるを得ないことが歴史的・伝統的な宿命でもあるからこそ、黒澤清の世界観の等価物をフランス語の台詞に置き換えられる脚本家はいたはずだ。たとえばフランソワ・トリュフォーには『ダゲレオタイプの女』の恋愛映画的要素にも相通じそうな、恋愛映画でありながらある意味ホラー映画でもある『アデルの恋の物語』と『緑色の部屋』を作っているが、完成された映画はその脚本に較べれば実はずいぶんおとなしい。『アデルの恋の物語』なら精神病院で生涯を終えたヴィクトル・ユーゴーの娘アデル、『緑色の部屋』ならヘンリー・ジェイムズの原作の、そのそれぞれの原テクストの狂おしさを忠実に映画言語に転換しようとしたジャン・グリュオーの脚本の、その禍々しいラディカルさをトリュフォーがたぶんに抑制して映画にしているのだ。

グリュオーはまだ存命とはいえさすがにもう90歳近い高齢なので起用は難しいとはいえ、先頃逝去したジャック・リヴェット作品などの脚本を手がけて来たパスカル・ボニツェールや、ルイス・ブニュエルの晩年を支えたジャン=クロード・カリエールは現役だし、さらに若い世代でも黒澤清の初のフランス映画を支えるだけの言葉の力量のあるフランス人脚本家がいないわけではなかろう。もちろんそうした優れた脚本家をただ起用するだけでなく、フランス語を解さない日本人監督のコンセプトをどうそのフランス人脚本家にフランス語の台詞として書かせるのかこそが、プロデューサーの力量が問われるところだし、さらに言えばそのプロデューサー自身が直面する製作状況の自由度がどれだけ許容され得るのかに大きく左右されることでもある。そうした体制に迎えられて黒澤清が初のフランス映画を作れたわけではないという意味では、『ダゲレオタイプの女』はちょっと残念な映画ではある。

とはいえそれは、日本で『ダゲレオタイプの女』を字幕で見る限りでは、これはあまり関係のない話だろう。純粋な映像演出として、つまり空間内に人物を配してそれをどのアングルで捉えるか、キャメラがどのようにその空間と人物を映像に納めるかによってどのような情報を観客に伝えるのか、あるいはあえて伝えないのかの選択も含め、黒沢清がこの映画で見せる技量は傑出しているし、写真つまり映画の原理本質そのものを狂気と恐怖の根源としてしまうテーマは極めて刺激的だ。なにしろこの映画が企画され、出来てしまったこと自体が現代映画史上の大事件なのである。まずはぜひとも見に行くべき作品だ。

●インフォメーション

『ダゲレオタイプの女』ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ他にて公開中、随時全国公開 http://www.bitters.co.jp/dagereo/theater.html

『クリーピー 偽りの隣人』ブルーレイ、DVD 11月2日発売 http://creepy.asmik-ace.co.jp/

小津安二郎『東京物語』『晩春』『彼岸花』『秋日和』『秋刀魚の味』デジタル修復版 http://www.shochiku.co.jp/ozu/dvd.html

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