「平成の玉音放送」にあらず第二の「天皇人間宣言」、「天皇陛下お気持ち表明」とそのインパクト by 藤原敏史・監督

あっぱれ、さすがとしか言いようがない。改憲の可能性が高まった参院選の直後に生前退位の意向をNHKと共同通信にリーク、注目が否応なく高まるタイミングで天皇が直接国民に語りかけるビデオとして公表された「お気持ち表明」では、計算された通りの圧倒的な国民注視のなか、単に生前退位に関する思いに留まらない、今天皇が抱えている危機感と、そこに対する強い意志が表明された。

「象徴天皇」が8回も繰り返された。

戦後の日本国憲法の第一条で、天皇は「国民統合の象徴」と定められているが、その憲法が変えられようと言う動きが現実化しつつある状況の中、こと天皇の地位については大日本帝国憲法の「神聖にして冒すべからず」に戻せとまでは言わないにせよ、戦前の「元首」の地位に戻そうとする動きは右派を中心に根強い。自民党が出している憲法草案でも「元首」となっている。

一方でいわゆる護憲の側では、この第一条に関してはほとんど言及されて来たことがない。別に左派のなかには天皇制それ自体に反対で共和国を希求する者もいるから、などと言った理由ではない(建前では君主制には否定的な日本共産党でさえ、いやむしろ共産党こそ、天皇と天皇制は大好きだろう)。

まず戦後の日本における護憲といえば、もっぱら憲法9条の改悪と戦争放棄の有名無実化に反対することで、基本的人権に関する様々な規定を政府がないがしろにしている現実についてさえかなり無頓着だったし、冤罪が後を絶たない司法の人権侵害についても憲法の遵守を強く訴えて来たわけではない。こと第一条については人権擁護にも直接は関係しないし、なによりも天皇が「象徴」と言っても、「元首ではない」以外に具体的な意味が見いだせず、要はなんのことか分からないから、議論も避けて来がちだったというのが、現実に近い。

しかし今上天皇はあえてその第一条の「象徴」を全面に押し出し、自分がこれまでやって来たことこそが「象徴天皇とはなにか」を定義づけているとすら事実上言い切った上で、この象徴天皇制は天皇だけでなく国民の努力によっても守られるべきとまで言い切った。

その象徴天皇制が「常に途切れることなく、安定的に続いていくこと」を強く訴える談話は、「国民の理解を得られることを、切に願っています」と締めくくられている。そこには、国民の気持ちは自分と妻の美智子皇后の側にあるはずだという確信、自分達がこれまでの在位で成し遂げたことへの絶対的な自信すら垣間見える。

憲法上、天皇を「元首」とするのは論理矛盾

天皇を事実上の「元首」とみなすのは必ずしも右派だけでなく、リベラルでも海外通ぶった人なども、他国には元首がいるのに日本にはいない等の比較を持ち出して、外交慣例上の扱いとして「元首」だと主張するが、これはあまり正確な認識とは言えない。他国と比較するもなにも、日本語でいう「元首」なる概念自体が、日本以外の国際社会には存在しないからだ。

「元首」は元々は明治時代にsovereignの訳語として作られた造語で、sovereignは「主権の」を意味する形容詞でもある。ならば日本の憲法が国民主権である限り、天皇は「元首」という訳語が作られた際の元々の意味であるsovereign monarch(主権の存するところの君主)ではあり得ず、明らかな論理矛盾になる。

日本国憲法で天皇が「象徴」になったのは「天皇陛下万歳」の陰惨な戦争への反省が込められているだけではない。国民主権である以上は「元首」の元の意味であるsovereignではあり得ないからであり、第一条は実のところ国民主権の大原則に深く関わる条文なのだが、そのことを指摘する者は憲法学者でさえまず見当たらない。

いや大統領も「元首」ではないかと言うのなら、それは英語ならhead of stateであってsovereignではない。

天皇を事実上の「元首」だと言うことは、日本語の「元首」にいつのまにかsovereignとhead of stateの両方の意味になってしまっていると気づかない時点で、前提からして誤った論理倒錯になるか、head of stateを装ってその実sovereignにしてしまおうという悪質な詭弁でしかない。自民党憲法草案に至っては、一応は国民主権という体裁は残しながら第一条でいきなり「元首」と言っている時点で、そもそも法体系として破綻している。

「元首」ではない「象徴」天皇とはなにか?

とはいえ、憲法第一条の定義それ自体は、要するに「元首」ではないという以上の具体的な意味を持たず、つまり象徴天皇とはなんのことかさっぱり分からないまま、日本という国家はなんとなく戦後も天皇制を受け入れ続けるか、放置して来ている。憲法は変わっているのに明治時代に制定された皇室典範が内容的にほとんど手つかずなのは、その象徴的な事実だとも言えよう。

「天皇陛下万歳」の名目で戦われた戦争の反省から戦後の民主主義のなかで天皇をどう位置づけるのかについても、昭和天皇が昭和21年に一般に「人間宣言」と呼ばれる詔勅を出したことくらいしか、真剣に考察された痕跡はないように見られて来たのが、これまでの70年間だった。

天皇の今回の談話は、多くの国民がその程度にしか天皇の地位について考えて来なかったのは間違いだ、と言っているようにも読めるのだが、そもそも今上天皇は、昭和天皇が崩御した服喪明けに正式に即位した際、すでに自分が最初から戦後憲法の定める象徴として即位した初の天皇であり、その憲法を守ることが自分の責務だと明言していた。

以来27年と半年を超えるその在位を通して、「象徴天皇とはなにか」は天皇と美智子皇后、さらには皇太子徳仁親王と妻の雅子妃によって考え抜かれ、実践されて来たのに、国民の方がこの談話の発表まで気づいていなかった。だからこそこの談話は、天皇自身がそのことを、慎ましく、しかしはっきり分かる形で表明した意味も持つ。

表面上話題になって来た生前退位(譲位)についても、あくまでここで天皇が自ら定義づけた「象徴天皇」について、その役割を果たすことが高齢で難しくなるという文脈でしか言及されていない。

天皇とNHKの連携プレー

談話がビデオで発表されたその晩には、今上天皇の歩みをまさに「象徴天皇のあり方の模索」の切り口でまとめたNHKスペシャルが放送された。このお気持ちの表明が「衝撃」というのなら、この番組の冒頭で明かされた会話こそ、もっと大きな驚きだった。

天皇の生前退位の意向は以前からある意味「公然の秘密」か、少なくとも誰しも想像はしていたことだったろうが、宮内庁の職員が「これまでのなされようを国民は見て来ています」とした上で、だから公務を減らすか摂政宮を置いて職務を代行させても国民は受け入れるでしょう、と提案したのに対し、天皇が一言で「それでは駄目なんだ」と断じていたというのだ。

「それでは駄目なんだ」と言下に側近を退ける天皇の姿が、即位以来ずっと謙虚で慎ましく温厚な態度を貫いて来たイメージとはずいぶん異なることにも、驚く人もいるかもしれない。

だが実をいえば即位式の際の談話の方にこそ、当時は違和感を抱いた人も少なくなかった。昭和天皇の崩御のあと1年の服喪を経て久々に聞くその声は、皇太子時代とはずいぶん異なって、ゆっくりと、落ち着いたペースで、それまでのいささか早口で高めだった声とは別人のようだった。あれから27年近く経ち、82歳になった天皇が「それでは駄目なんだ」と断言したことから浮かび上がるその姿は、皇太子時代からこの人の本質はまったく変わっていない、強い意志と激しい気性が現れた瞬間だったように思える。

そしてその秘めた強固な意志と激しいまでの信念が、実は今までの在位のあいだずっと貫かれて来たことが、NHKスペシャルでは丹念にとりあげられていた。

「平成流」の本格始動は、雲仙普賢岳の大火砕流の被災地への訪問だった。

天皇夫妻はまだ危険が残る時期に訪問を強行し、地元の負担を抑えるために自分たちの待遇も随行の数も制限した。そして避難所を訪れると、体育館に敷かれた畳に座る被災者たちに歩み寄り、畳もない床に跪き、座り、手を握った。

今となっては東日本大震災の津波被災地でも、先日の熊本地震でも見られたおなじみの姿だし、当時すでに戦後生まれが過半だった国民の大部分も夫妻の誠実でやさしい人柄を見ただけだろうが、しかし政府などの関係者の衝撃は大きかった。実際、相当な反発があり、それでも夫妻が動じなかったことも、このNHKスペシャルではあえて淡々と説明されていた。

皇太子時代に始まっていた「象徴天皇とはなにか」の模索

いや「象徴天皇」という現代の天皇像の模索は、今の天皇にとって決して即位から始まったものではない。遅くとも、初めて旧華族や皇族ではない「平民」出身の正田美智子と結婚した時点から、脈々と継続されて来たものだし、もしかしたら11歳のときに体験した終戦にまで遡るのかも知れない。

「美智子さまフィーバー」を引き起こした成婚以来、「開かれた皇室」と言われ国民には親しまれて来たそのあり様は、しかし夫妻の日常では激しい抵抗との戦いでもあった。

番組はそこまで遡って、当時は大変に話題になったものの以後ずっと封印されて来た、いわば伝説の秘蔵映像まで解禁した。まだ今の皇太子の徳仁親王が一歳になるかならないかのときの記者との歓談で、皇太子(現天皇)が「ナルちゃんとか呼んでいます。(本人には)通じてないでしょうけどね」と笑うと、美智子妃がすかさず「通じてますよ」と言ったのだ。こんな微笑ましい若夫婦の光景が、「皇太子に口答えするとは何事か」と美智子妃がさんざんバッシングを受けるきっかけになった。

こんな他愛なくも和やかな映像が、長らく報道や皇室番組で使われることがなかっただけではない。あまりに壮絶なストレスに、美智子妃が流産したこともあった。明仁皇太子の母にあたる良子(香淳)皇后を中心とする旧華族や皇族、学習院関係者などの美智子妃へのいやがらせは相当なものだと噂され、皇后が皇太子ご成婚で馬車の馬の数が自分の時より多かったと不満を言った、というような話も飛び交った。

戦後日本が理想とする家族像・人間像を提示して来た天皇家

そんな逆境の中でも、皇太子(当時)夫妻は自分たちがやるべきことを模索し、考え抜き、そのあり方を貫いて来たし、それは戦後日本社会のニーズに応じたものでもあった。夫妻がたとえば乳母(めのと)制度を廃して自分たちで子どもを育て、戦後の日本人の「核家族」の理想型を身を以て提示し続けたこともそのひとつだ。

もともと皇太子妃に美智子妃が迎えられたこと自体、宮内庁参与を務めていた小泉信三が旧華族・皇族以外の皇太子妃の必要を昭和天皇に訴えて実現したことでもあるが、皇太子(当時)本人もそれを希望していた節もある。

また天皇の名代として海外訪問も多かった留守中に、東宮のスタッフに渡した子育て上の注意点のメモは「ナルちゃん憲法」として報道され、子ども一人一人の個性や発達の度合いを尊重しながら過保護にはしない、我慢すべきは我慢を教えて子どもの主体性を重んじる、戦後高度成長期の子育ての価値観の理想形として、多くの若い母親たちのお手本に推奨された。

その海外訪問でも、警備であるとか周辺スタッフが難色を示すなか、ニューヨークでは当時治安が極めて悪いとされたハーレム地区に行くなど、とりわけ皇太子の、社会の影の面や虐げられた人たちの現実に積極的に接しようとする意思は一貫して強かった。国内ではハンセン病患者施設などを積極的に訪問を続け、天皇になってからはついに(皇太子時代にも地元の希望はあったが握りつぶされて来た)水俣訪問も実現させた。「ことにあたっては時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」という天皇の言葉には、このような夫妻の歴史が凝縮されている。

被災地訪問や開かれた皇室から子育ての話に、ハンセン病患者の支援や水俣訪問も網羅したNHKスペシャルが、明らかに放映の5時間弱前に公表された談話の内容を事前にふまえ、具体的な実例を上げて行くことで談話を補完する意図がある番組だったのは間違いない。宮内庁内部での生前退位をめぐる幹部と天皇の会話まで踏まえているからには、NHKは宮内庁のなかでも天皇に近い立場にある誰かか、もしかしたら天皇本人とのパイプすらあるのではないか?

いやそれを言うなら生前退位の意向を最初に報じたのもNHKで、その時には宮内庁長官が与り知らぬこととして否定の会見をわざわざ行ったほどだ。

天皇家とNHKの密かなパイプ?

以前にもNHKが宮内庁記者クラブなどを経ず、公式発表などとは異なった情報を得るコンタクトを、宮内庁のどこかか、もしかしたら天皇や皇族たち本人と直接持っているのではないかと思われることがあった。すぐに思い浮かぶ例が、もう20年以上前、まだ平成になったばかりのころ、昭和天皇より前に亡くなっていた弟の高松宮宣仁親王の日記が「発見された」…というより宮妃の徳川喜久子(15代将軍徳川慶喜の孫)が日記の存在を公表した時だ。

喜久子妃は遺品を整理していて蔵から「偶然に」宮の日記が見つかったこと、せっかくなので日記の全文を出版することを突然発表し(『高松宮日記』全8巻 1995年~97年 中央公論社)、同時にNHKスペシャル『高松宮日記の昭和史』が放映された。日記の存在も喜久子妃の公表の意思も、宮内庁本体は恐らく把握していなかったか、宮内庁自体が厳重に箝口令を敷き、出版が決まり番組が完成するまでは政府側に一切漏れないよう画策した上での、考え抜かれたサプライズだったとしか思えない。

それだけこの日記の内容は衝撃的な史実であり、番組の方はさらに過激で驚くべき内容だった。

高松宮が日記をつけていたのは戦時中、海軍軍令部に務めたときから戦後まもなくまでだ。軍令部で宮はすべての暗号電文を見られる立場にあり、その内容を毎晩のように詳細に日記に転記していた。大本営発表しか国民には知らされず、政府部内でも戦争の実態が把握できていたのはごくごく一部という異常な状況で、ミッドウェイ海戦の惨敗も隠されようとしていた1942年の暮れに、宮の日記にはその惨敗の詳細が記されていただけではない。

高松宮妃が明らかにした、秘められた昭和史

戦争の継続が不可能、日本の敗戦は確実と見抜いた高松宮は兄・昭和天皇に手紙を書き、天皇大権の発動ですぐさま講和の交渉に入るよう進言した。ところが宮にとっては意外なことに、兄・裕仁(宮の手紙の宛名は、あえて「兄宮様」だった)は、天皇はあくまで内閣以外からの情報を聞く立場になく、内閣の進言を承認するかどうかの権限しか持たず、まして親族の意見で国を左右することばぞ許されないのに、天皇の弟ともあろうものが天皇たるものの立場も分かっていないのか、と激怒しただけだったのだ。

愕然とし、また絶望もしたであろう高松宮は、こう日記に記した「兄は天皇の器にあらず」。

ここで昭和天皇が固執しているのは、軍国主義の台頭以前には明治憲法の定説解釈であった「天皇機関説」の論理だ。確かにそれ自体は名目上は元首 soverigen monarch、つまり国家の主権が君主にあるという建前と近代的な法治国家運営に整合性を持たせ、また「天皇大権」の暴走を抑止するためにも、天皇が最優先で守らなければならない姿勢ではあった。

とはいえその憲法運用の定説「天皇機関説」はすでに軍部の猛攻撃に晒されて世論もこれに従い(昭和10年の「天皇機関説事件」)、公的に否定されていた。天皇の名における戦争を絶対正義とみなす軍国主義にまったく歯止めがなくなっていた日米開戦後、軍部はその「天皇の軍」のメンツを保持するためにこそ、ミッドウェイ海戦の惨敗すら国民にだけでなく天皇にさえ隠し続けていた。

この状況下で戦争を止められる決断ができたのは天皇だけなのに、危機的な現実を知った天皇が「自分は内閣から上層された以外の情報を考慮する立場にはない」「天皇として親族の私的な要求になぞ答えるべきではない」などと言っている場合ではなかったはずだ。むしろこれでは国と国民の存亡の危機において、名目上とはいえ主権者の立場にある天皇の責任放棄でしかない。

「兄は天皇の器にあらず」

兄・昭和天皇に失望した高松宮だが、それでも終戦工作を諦めず、海軍軍令部を辞した後も極秘に様々な動きを続けたことも、日記には記されている。さらにNHKスペシャル『高松宮日記の昭和史』では、日記にも書かれていなかった衝撃の事実も、宮の側近だった外交官で元侯爵の細川護貞(熊本藩主細川家の家系で、細川護煕元総理大臣の父)の証言で明らかにされた。

ある晩、高輪の高松宮邸の居間の暖炉の前で、宣仁親王は「東条(英機・首相)はもう暗殺するしかない」と漏らしたというのだ。細川氏は慌てて、この屋敷も盗聴されているかも知れないのだから滅多なことは口にしないで下さい、と制止した。

夫が毎晩つけていた日記があたかもたまたま見つかったようにとぼけて見せたていた喜久子妃も、番組内では夫がいかに危険を省みずに終戦工作を模索し続け、命の危険もあったことを語った(喜久子妃は自らのことはなにも言わなかったが、すべてを知っていた自分の命は宮のそれ以上に危険だったはずだ)。

昭和二十年に入ると、高松宮たちは昭和天皇を生前退位させて皇太子(現天皇の明仁親王)を立て終戦交渉に入るクーデタまで画策し、隠居先は京都の旧・門跡寺院(皇族が住職を務める寺)の仁和寺として「仁和寺上皇」という呼び名も考えられていた。だがこの計画は東京大空襲で皇居もほとんど焼失した混乱のなか実行はできず、確実に負けると分かっている戦争は無為に継続された。

内閣も責任追及を恐れるだけ、天皇もまた保身としか思えない態度で、なにも決断が下されないまま、多くの将兵がアジア各地で玉砕や特攻で命を捨てただけでない。昭和19年の後半以降は全土の主要都市が軒並み空襲を受け、陸軍が10数万の一般市民を戦場に駆り立て人間の盾に利用しようとした沖縄の焦土作戦の悲劇、そして二度の原爆投下と、いたずらに国内の民間人の被害まで増大し続けるなか、しかし昭和天皇は国民とその幸福を祈る天皇の立場にありながら、なにもしなかったのだ。

同年7月末のポツダム宣言に、やっと内閣が終戦を議論し始めたことを知った高松宮は、今度は横須賀などの海軍基地を自ら回って、終戦を受け入れ反乱を起こさないように説得に尽力した。その生々しい内幕も、高松宮日記には記されている。

天皇マッカーサー会談と天皇位存続の内幕

終戦後、英語も堪能であった高松宮夫妻は高輪の邸宅にGHQ関係者を昼食会や晩餐に招いては情報収集に務め、旧軍の反乱を防止し戦後の日本社会を安定させるためには、兄・裕仁が天皇であり続ける他はないと説得に尽力した。宮自身が終戦前に海軍の将校や兵士達を自ら説得しに回った経験からすれば、「天皇陛下万歳」に凝り固まっていた一部の軍人に武装蜂起させないためには、天皇が退位になりその責任が追及される状況は避けざるを得なかったのだ。

昭和20年10月に天皇がダグラス・マッカーサーGHQ総司令官に面会し、マッカーサーが昭和天皇の人柄に感動してそのまま天皇であり続けることが決まった、という定説の裏には、こうした高松宮の動きがあったし、同じことを考えていたのは宮だけではなかっただろう。たとえば首相の幣原喜重郎も、同様の説得をマッカーサーにしていたと思われる。

なお一方で、憲法第九条についてはマッカーサーがそれが幣原喜重郎の提案であったこと、自分は感動して賛同したことを米議会で証言しているが、こちらの感動の方には恐らく裏はない。冷戦はすでに始まっていて日本がアジアにおける最前線になりつつあったなか、アメリカにとってはその日本を西側陣営に取り込む必要こそあれ、厳格な戦争放棄はとくに軍人であるマッカーサーにとって合理的な戦略上の視点では考えもしなかったはずだし、現に同様の立場だった西ドイツの基本法(現在もドイツの事実上の憲法)には、9条のような徹底した反戦条項はない。それに日本の再軍備について連合国のなかでは中華民国が警戒はしていたものの、戦争放棄まで求める意見はなかったし、またそうした現実的な利害判断を超えて感動したのでなければ、軍人だったマッカーサーが9条のような戦争の永久放棄の明記は認めはしなかっただろう。

1942年の終戦講和の進言を昭和天皇が拒絶して以降、天皇と高松宮は戦後もずっと直接顔を合わせることがなかったという。晩年、すでに命が危ぶまれていた病床の宮を昭和天皇が見舞ったことが、久しぶりの兄弟の再会となった。喜久子妃は高輪の宮邸の隣にある和菓子屋で団子や草餅を買い求め、仲の良かった子ども時代を思い出すようにと、兄弟にふるまったという。

その喜久子妃だけでなく、高松宮本人についても、気さくで腰の低い人柄に関する証言は多い。

たとえば知人の画家の個展に、宮は随行もなく1人で立寄り、名乗りもせずただ受付に「高松宣仁」とだけ記帳して帰ったという。その時はたまたま留守だった画家が、後で芳名帳を見て驚き慌て電話をしたところ、宮は笑って聞き流して作品を丁寧に論評して画家を褒めただけだったそうだ。

一方、その高松宮宣仁親王の実兄であり、現天皇の父である昭和天皇についても、人格者であったかのように一般には伝えられているが、かなり異なった実像を伺わせる事実は少なくない。高松宮からの終戦すべきという進言を退けたのもそのひとつで、この不都合な史実が明かになることを望まない勢力があるから、喜久子妃は日記の存在を安全なタイミングで発表できるまで隠し続けたのだろう。サプライズの形で出版を発表し、その時にはNHKスペシャルまで準備されて放送が決まっていれば、もう誰も止められる状況ではなかった。

また昭和天皇がA級戦犯が靖国神社に秘密裏に合祀されたと知って激怒していたことも、侍従のメモから明らかになってはいるが、そこで昭和天皇が挙げていた理由は、かなり官僚的かつ自己中心的なものだと言わざるを得ないし、そんな態度は高松宮の終戦の進言を無視し激怒しただけだったことにも通じる。

だが昭和天皇の意外な実像のなかでもなによりもショッキングなのは、1952年の連合国占領終了の直前に、天皇が個人の意見として沖縄についてアメリカにわざわざ伝えていた意向だ。25年でも50年でも、沖縄はアメリカが統治したままでいいので日本に返還しないよう希望するという内容だった。

「象徴天皇」の務めと「父の罪」

被災地訪問と並ぶ現天皇皇后夫妻のもうひとつの熱心な取り組みが、第二次大戦の慰霊の旅であることは、例のNHKスペシャルでも丁寧に取り上げられ、その原点が1975年沖縄海洋博開会式への出席だったとも紹介され、ひめゆりの塔で皇太子夫妻に火炎瓶が投げつけられたことが大きく取り上げられていた。この時、慌てふためく周囲をよそに皇太子(今の天皇)はまったく動じなかった。

NHKもさすがに触れなかったが、この事件には裏があった。沖縄は25年でも50年でも返還しない方がよい、と昭和天皇がアメリカに伝えていたことは、本土ではほとんど注目されたことがないが、沖縄では1972年の返還直前に大きなニュースになっていたのだ。

今上天皇はそれを百も承知で、皇族による戦後初の沖縄訪問に当たって覚悟を決め、警備などもあくまで最小限に抑えるよう要請していた。自分の身になにか起こるかも知れない、いや起こるべきだとすら覚悟していたようにも察せられる。

昭和天皇に対する決定的な不信が本土復帰の前後に沖縄の人々に巻き起こっていたとき、その気持ちを辛うじてつなぎ止めたのが、この事件にもまったく動じなかった皇太子つまり現天皇夫妻の自らの身の危険も省みない態度と、その後も日程変更はさせずに沖縄の人々に会い、戦争の悲惨の記憶にも懸命に耳を傾け続けたことだったのかも知れない。

反抗的な不良少年伝説に垣間見える少年皇太子の苦悩

天皇が自らの言葉で語ることができる機会は極めて限られているが、そのひとつである天皇誕生日の会見の原稿を、現天皇が誰にも介入させずに自分でワープロで書いていることはよく知られている。この会見で天皇は在位の最初の20年間はほぼ毎年、昭和の同じ年にはなにがあったか、とくに大きな政変や戦争にはたびたび言及して来た(全文は宮内庁ホームページで見ることができる)し、自分が薩摩藩主・島津家の血も引いていることを挙げて、もともと薩摩藩が敢行した日本による琉球王国(沖縄)の侵略・併合に責任を感じていると明言したこともある。

今も天皇夫妻が高齢を押して続ける「慰霊の旅」は、あたかもそれが「象徴天皇」としての自分たちの最大の務めであるかのようにすら、今の天皇夫妻は考えているのではないか? そう思わせる熱心さの「慰霊の旅」で、特に訪問したいのが韓国と中国であることも、筆者はたまたま知っている…というか今上天皇本人に聞いたのだが、そこまで明言こそしなかったものの、日本の戦争責任の謝罪は、その名において戦争が戦われたところの昭和天皇の子たる自分がやらなければ終わらない、という覚悟でもあろうことは十分に察せられた。

こうした天皇の強い信念は、11歳まで教え込まれた「皇国日本」の世界観がガラガラと崩れた体験に発しているはずだし、もしかしたらその8月15日の前から、自分の置かれた環境の異常さに、当時は利発な少年だった彼は気づいていたのかもしれない。

思春期には学習院からの帰りに山手線の反対側の列車に発射直前に突然駆け込んでお付きを捲いたとか、英語教師として派遣されたヴァイニング夫人がクラスの全員に英語のニックネームをつけると自分は「ジミーではない、プリンスだ」と最初は頑固に拒否したなど、反抗的な不良少年伝説も事欠かない。そうした少年皇太子の葛藤は、そのヴァイニング夫人の手記『皇太子の窓』などで国民にも知られることにもなった。

婚約が発表されたときにも、のちの美智子妃は記者会見で皇太子を「誠実」と形容する一方で、その孤独にも言及し、だからこそ身近で支えたいという意思を語っている。

明治以降の「天皇制」の失敗という原点

どういいわけしようが昭和6年の満州事変に始まり、とりわけ昭和12年の日中戦争開戦以降激化した戦争が「天皇陛下のため」の名目で戦われたことは厳然たる事実だ。

こと昭和16年12月8日の対米・対英開戦以降は、陰惨な敗北に至るのが分かり切った方向に戦火がどんどん拡大するなかで、その戦意高揚に自分の地位が利用され続けた昭和天皇自身もまた、抑止や懸念を示唆することも一切なく、つまり昭和天皇は「天皇陛下万歳」を動機に多くの人命が失われることを放置し続けてしまっている。

果たしてそれが天皇のあるべき姿だったのか?

昭和天皇は確かに、明治憲法で名目上は「神聖にして侵すべからず」とされた天皇の役割に忠実だったとは言えるかもしれない。一見天皇こそ国家主権者にして元首の天皇中心主義に見える明治憲法は、論理的に分析すれば「天皇機関説」こそが唯一の合理的な解釈になるように論理構成されていて、その「憲政の常道」の見地から、昭和天皇が弟・高松宮からの「天皇大権」行使の要請を断ったことも間違っていなかったとは言える。

だが当時すでにその立憲君主制の政体が崩壊していることに気づかなかったわけもなかろうに、弟の進言をあろうことか既に否定された「天皇機関説」を論拠に拒絶して、国家の主権者たる天皇の責任逃れに徹したのが、今の天皇が11歳で終戦を迎えるまで現人神だと教え込まれて来たその父、昭和天皇でもあった。

立憲君主国の天皇のあり方はそれはそれ、「皇紀二千六百年」はさすがに真に受けぬとしても、少なくとも大化の改新までには遡る国民の幸福を願い続ける役割を持ち、伝承では太陽神の子孫とも言われる天皇が、国家の存亡だけでなくそのあまたの民草の死に手をこまねいてなにもしないなんてことが、あり得てよいのだろうか?

平成20年まで誕生日会見のたびに触れて来た昭和の最初の20年における父・裕仁の振る舞いに、今上天皇が直接言及したことはないが、決して肯定はしていないことは節々に察せられる。というか筆者がたまたま立ち話した際には、にこやかでおだやかに語る(ただしかなりの早口だ)なかにも、今の天皇は父・昭和天皇とその時代にとても厳しい考えを持っていることを隠さなかった。

その天皇の子として天皇位を継いで以来、現天皇が語り続ける新憲法下の「象徴」たる天皇としての強い責任感は、とりもなおさず明治維新以降敗戦までの天皇制のあり方が父の代に完全な失敗に至ったことへの強い意識があるからこそだとしても、なんの不思議もない。

まただからこそ、その明治的な天皇のあり方や父とは明らかに一線を画す「平成流」を、現天皇夫妻は常に模索し、それを確立して来たのではないか?

今こそ表明しなければならない「象徴天皇」を守ることの強い決意

自分たちが築き上げた現憲法下の「象徴天皇」のあり方は守られるべきであり、国民の理解も得られるはずだ。今回の「おことば」のなかで、生前退位ができるかどうか以上に天皇はこのことをこそ伝え、訴えようとしていたし、世間の話題の中心だった譲位の意思についても、あくまでその文脈のなかで「次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが難しくなる」以上、「象徴天皇」のあり様を維持するための合理的な判断である、という論理構成だ。

逆に言えば、生前退位の意向を明らかにしたこと自体が、正式な題名が「象徴天皇としてのお務めについての天皇陛下のおことば」となっている今回の談話を発表するためだったのではないか、とすら思えて来る。しかもその退位の意向の表明は「改憲勢力2/3」と結果が報じられた参議院選挙の直後で、「おことば」の発表は広島と長崎の原爆忌のあいだを狙っての8月8日だった。

直接の政治的発言が許されない立場の天皇が、間接的にとはいえなにを国民に言わんとしていたのかは明らかだろう。まず「象徴天皇」を守るべきと言うことはすなわち、現行憲法の基本論理(国民主権・基本的人権・戦争放棄)が守られるべきであることを意味し、無節操な改憲の流れに抗うものに他ならない。

ところで天皇が政治上の権能を持たないというのは、天皇の権威によって政治判断や国民の人権が制約されることはあってはならない、というだけが憲法条文の意味するところで、必ずしも天皇自身が政治的な意味を持つ発言をしてはならないわけではないし、天皇が個人の良心から発した言葉に、個々人の国民が良識から共感し賛同することも、憲法上特に禁じられていない(だいたい、思想信条と言論の自由が保証されているのが日本国憲法なのだから、禁じることができない)。

戦後天皇家の人々が政治的な発言をなるべく控えて来たのは、むしろ戦前戦中の反省ゆえの自制とみなすべきではないか。

だがその制約は結果として、天皇中心の軍国主義の復活を目論むような動きについてさえ、どれだけ危機感を持っても天皇には反対できず、むしろそこに利用されかねないという、本来の目的から矛盾した状態にも陥りかねない。

戦前への逆コースに警鐘を鳴らし続ける天皇家の役割

このままでは最悪、天皇家が政府のプロパガンダ装置に利用されかねないという、ある意味で明治憲法よりも危険な状態も想定される。天皇を主権者とする建前で構成された旧憲法は、だからこそその主権の行使について厳しい制約も書き込まれ、天皇大権が政府の暴走を制約する論理構成を持っていたが、今の憲法にそうした具体的な天皇の役割と制約は、あえてなにも書かれていない。

政治的発言ができない立場というのはあくまで表立ってのことで、天皇家の人々が立場上ギリギリまで踏み込み危機感を表明したことはある。たとえば三笠宮崇仁親王(昭和天皇の末弟)は歴史学者で、あくまで歴史学の観点という枠内からの発言とはいえ、戦時中に陸軍将校として中国に赴任した体験を基に南京大虐殺否定論などを批判し、また紀元節(建国記念日)は歴史的に根拠がなくおかしいとする述べ、一部自民右派の侵略戦争の自己正当化や、「建国記念日」を「紀元節」に改称しようとする動きを牽制したこともある。

今上天皇の場合も、たとえば日本がアメリカのイラク戦争に率先して協力していた時には、天皇からも、皇后からも、そして皇太子からも、その戦争に反対する意味合いだと解釈されて当然の発言が、政治に介入したと言われないギリギリの一線にまで踏み込んで出て来ていた。たとえば美智子皇后は名誉総裁を務める世界児童文学会議の基調講演で「優れた児童文学から学んだのは、人間の世界に絶対的な正義も絶対的な悪もない、ということだ」と訴えた。

あるいは秋の園遊会で当時東京都教育委員だった将棋の米長邦夫氏に、当時の石原都政が義務化を進めようとしていた学校での君が代斉唱について話しかけられたとき、天皇がすかさず「強制はいけませんね」と答えたことは、当時ずいぶん話題になった。園遊会では天皇家の人々がマイクをつけることはない。天皇は米長氏の装着したマイクでもはっきり録音されるように、かなり大きな声でこの一言を言っていた。

明治の皇室典範は伝統否定

明治維新は儒教の論理のなかでも江戸時代までは日本人にあまりなじみがなかった「忠義」をことさらに強調し、儒教朱子学を公式学問にした徳川将軍家や諸大名が最重要視して来た徳治の理念、つまり上に立つものは徳を持つよう自ら努力することで民草の信頼を得るべきであり、自らを厳しく律して民草の安寧にこそ尽くさなければならない、という考えは基本的に無視し、いわゆる「武士道」的な(ちなみにそんな理念は、江戸時代までの実際の武士の価値観からかけ離れている)男性原理の国家・国民像を目指した。

本来なら天皇は征夷大将軍などの武力行使の司令官を任命はするが、自らが「大元帥」となることなぞ、民とその国家の平和安寧を祈るのが最大の職務として来たそれまでの天皇からは想像すらつかない。全国に配布された明治天皇の「御真影」は、天皇の姿形が見える形で伝えられること自体が江戸時代までの天皇ではまず考えられないことだったが、それも西洋風の軍服姿だった。

江戸時代には天皇に任じられた軍事司令官という肩書きになる徳川家の将軍たちですら、武装した姿で描かれた例はほとんどない。徳川幕府のもっとも基本的な方針は内乱を防止し対外戦争も避ける絶対平和主義で、その精神は250年の泰平のあいだにいわば日本人の「国民性」と言っていいまでに浸透していたし、天皇についてはそのずっと以前の南北朝分裂の終結時から、なによりも平和を祈る役割を持って来ている。

そんな天皇制と日本の国のあり方の本質的な変質の時代に作られた皇室典範が後付けのへ理屈に過ぎないことも、儒教論理や古事記日本書紀の神話記述を強引に引っ張り出した乱暴なツギハギで無理に辻褄を合わせただけの「国体」論で「サムライの国」「武士道」的な国家像の中枢に天皇を置き、天皇中心の政治体制を日本の「国体」とみなした明治以降の国家観であり歴史観、いわゆる「皇国史観」が、「日本の伝統」でもなんでもないのも、言うまでもない。

そもそも天皇家ではむしろ「伝統」だった生前退位

まずこの明治の皇室典範で初めて「世が乱れる」として禁止され、今「生前退位のご意向」で話題になっている譲位については、明治以前の歴代天皇ではむしろ生前に退位した方が多いし、だいたい皇室典範が前提としている天皇親政の政治体制が、実際の日本史のなかでは極めて例外的だ。

明治以降の皇国史観でとくに重視された後醍醐天皇の建武の親政に至っては、実際の歴史では天皇家の分裂と内乱を招き、かえって「世が乱れて」いるし、南北朝時代からの文献を基に実際の史実に当たれば、後醍醐帝の親政の試みが失敗したのはむしろ当然だったことがわかる。帝の親政は政権実務の経験のまったくない貴族の側近たち中心の専横政治に陥り、足利尊氏が室町幕府を打ち立てたのも、政治を安定させて民衆の生活を保証するためにはやむを得ない決断だった。

その尊氏本人は敵対関係になってからも個人的には後醍醐天皇に深い愛情を持ち続け、その奇行としか思えないやり方にひたすら困惑していたことを伺わせる文献も、たとえば東寺の百合文書(国宝)に残っている。これは名目上は南朝調伏の祈祷を依頼する文書だが、はっきり言えば尊氏が帝への愛情を滲ませながら途方にくれている文面だ。

その後醍醐帝が奈良の吉野山中で崩御すると、深く悲しんだ尊氏がその慰霊のために側近の禅僧・夢窓疎石に建てさせたのが、京都・嵐山の名刹、天龍寺だ。

明治に捏造された「国体」論は、歴史を無視した排外主義ナショナリズム

皇国史観が平安時代末の院政期を「世が乱れた」とみなして譲位(生前退位)を禁じたのも、たぶんに史実にも当時の実感にも反した偏向した歴史観と言わざるを得ない。

平安時代の後期には農業生産の向上や流通の発達を背景に武士階級が勃興し、むしろ進歩発展と言える社会の変革期を迎えていた。それまで富と権力を一手に掌握して来た貴族社会においてさえ、いわゆる王朝文化が絶頂を迎えたのもむしろ院政下なのだ。

この古代国家から中世社会への移行期に、それまで貴族階級に集中していた富が徐々に士や庶民にも広がり、宋から輸入された銅銭で貨幣経済が初めて日本に定着、文字コミュニケーションも一般に普及し始め、社会も文化も活性化していたのが現実で、その時代の変化に対して、大化の改新から奈良時代の初期にかけて確立した律令制の下で政務を担っていた藤原摂関家を中心とする貴族階級は、有職故事に囚わて硬直した官僚主義に陥いり、明らかに時代錯誤になりつつあった。

律令制の完成時に、名目は国家の中心だった天皇がむしろ実際の権力の行使に関わりにくい国家の制度が出来上がっていた。だから社会の激変期に直面した天皇家が、院政という形で律令制度にがんじがらめになった天皇位を離れて、硬直した官僚主義に陥っていた摂関政治に代わる体制を作ったことは、むしろ賢明で時代に合ったやり方だったと言えよう。

平安末の院政期と、そして南北朝から室町にかけた時代こそが、今に至る日本文化と特に日本人の国民性の形成に決定的な役割を果たした時代だったというのが、現代の歴史学的な評価でもある。だが「脱亜入欧」を目指す明治時代にとっては、その実際の歴史の進展こそが都合が悪かったのかもしれない。

院政期と南北朝から室町時代の海外交流の活性化が生んだ日本という国の文化

院政期のとくに後半、後白河法皇と平清盛の時代なら北宋や南宋、南北朝の分断を収拾した足利義満の時代なら明、つまり中国との交易や文化交流がとくに活発だった時期だ。

それも院政期なら大陸との交易やその文化の受容は、遣隋使や遣唐使のような公式朝貢使節の朝廷中心とは異なり、民衆レベルでも顕著に発達している。たとえば既に述べたように日本に貨幣経済が定着し始めたのは院政期に宋から輸入された大量の銅銭が流通したからで、南北朝から室町時代にかけての経済成長のなかで確立したのだが、その間ずっと使われ続けたのは中国製の銅銭で、江戸幕府の成立まで日本には独自通貨が事実上なかった。

南北朝から室町時代に大成した禅の文化やそこから派生した茶道は、現代ではもっとも日本的なものだと思われているが、たとえば水墨山水画はもともと南宋の文人画の模倣から始まっている。15世紀末の日本に雪舟という天才が登場したのも、この画僧が明に留学し、作品を献上された皇帝に絶賛されたことを無視できない。

雪舟のような画僧の禅画から狩野派に引き継がれた日本の公式の絵画を現代の我々は「和の美」、水墨画を「侘び寂び」と喜んで見ているし、そのこと自体は間違いではないが、当時だけでなく江戸時代に至るまで、日本の山水画に直接に描かれているのは中国の服装の人物や中国風の建物を配した風景だ。

茶の文化も禅宗と共に中国から伝来したもので、茶会は元は景徳鎮窯や龍泉窯、建窯など中国製の高級陶磁器を用いた、華やかな宴会のようなものだった。狭い茶室で虚飾を削ぎ落とした簡素で親密な美学を創始したのは、政治的な評価の方はあまり芳しくない室町八代将軍の足利義政で、安土桃山時代に千利休が「侘び茶」を大成した。

現代の我々が「日本の文化」と意識しているものが確立したのは室町時代だし、それ以前にその基礎が固まったのが院政期だ。なのに明治以降の「皇国史観」がこれらの時代を嫌って低く評価して来たのは、中国大陸からの影響が強くアジアのなかの国としての日本を意識せざるを得ないからだったのかも知れない。

このように中華帝国を中心とする大陸の文化や文明を積極的に取り入れて来た日本の歴史に、天皇家ももちろん無縁ではない。まだまだ解明が進まない古代ヤマト(倭)王権の成立の過程でも、古墳時代に渡来人のもたらした技術が決定的な役割を持っていたことは確かだし、古墳時代後期の高松塚古墳やキトラ古墳は天皇家に関わりの深い人物が被葬者だと推定されるが、発見された壁画は中国文明の影響が強い、というより中国の文化や天文学などをそのまま引き継いだものだ。

時代を下って奈良時代の東大寺・正倉院御物は聖武天皇の遺品を光明皇后が寄進したものだが、その宝物の大部分は遣唐使がもたらした中国や中国経由の西方の文物だし、国産と推定される品でも当時の唐の最新流行が反映されている。そもそも仏教の伝来は朝鮮半島経由が最初だし、聖徳太子ゆかりの法隆寺でも仏像は北魏や随などの中国の様式を模倣したものだし、独特の建築様式は当時の朝鮮半島との関係が推定されている。

ちなみに聖徳太子が遣隋使に持たせた国書で隋の煬帝を激高させたという都市伝説には、史実の根拠がない。そもそも「日本書紀」の記述では遣隋使を派遣したのは推古帝であって太子ではないし、随の公式記録の「隋志」にも煬帝が怒ったなどという記述はない(倭国の大王の政治について説明を聞き「道理に合わない」として「呆れた」とは書かれている。典型的な呪詛政治だったからだ)。

戦国時代も無力だったわけではない天皇家

戦国時代は確かに「世が乱れた」、内戦の時代だったが、中世から近世への移行期に地方にも富が行き渡り、南北朝から室町時代に確立した日本的な文化が全国的に普及し個性的な発展を遂げた時代でもあったことは、文化史から見れば一目瞭然だし、そんな時代に地方分権が進んだのも当然のことだ。

群雄割拠の戦国乱世は地方が豊かになって地方分権が進んだ結果でもあって、15世紀後半から16世紀にもなれば律令制が想定した政治権威としての天皇中心の中央集権は完全に有名無実化するしかなかったし、朝廷自身が経済基盤も失い御所も荒れ放題になった。

とはいえ足利将軍家はないがしろにした戦国武将たちでも、朝廷の与える官位は名乗り続けていたのをみても(今年の大河ドラマの主人公・信州の真田家なら昌幸は従五位下の安房守、幸村こと信繁は六位相当の左衛門尉、徳川家康は正二位内大臣の官位を持っていたので「内府」と呼ばれた)、朝廷の精神的権威は、内戦状態が国土自体の崩壊を招く事態だけは避ける倫理的抑制装置として機能し続けていたのではないか?

いやむしろ、この戦国時代にこそ、今に続く天皇の、民の安寧と幸せを祈る最終的倫理装置の役割が確定したとすら言えるかもしれない。

足利将軍家を滅ぼした織田信長は、朝廷もあまり尊重していたようにも見えないが、後を継いだ豊臣秀吉となると関白は朝廷の官位だし豊臣の姓も天皇に賜ったものだ。五三の桐の家紋も天皇家の用いた紋所の使用を許されたものだったことは、近代以降はなぜか無視されがちだ。徳川幕府は禁中並びに公家諸法度の制定が明治以降は朝廷を軽んじた不敬のように言われがちだが、征夷大将軍位も朝廷の官位だし、天皇と朝廷への敬意は欠かしていない。

こうした文化的・精神的(ある意味「宗教的」と言ってもいい)な倫理観の最終担保装置が天皇の果たして来た歴史的な役割であり、そのことは徳川幕府もまた最大限に尊重し続けていた。

幕末に開国した幕府は、一方で孝明天皇の妹の和宮親子内親王を将軍家に迎え入れるなどして結びつきを強め、孝明天皇も最後の将軍の慶喜を信頼し、その大政奉還を受けた公武合体の新体制が成立しそうになったところでその天皇が急死(暗殺説は根強い)、少年の明治天皇が王政復古クーデタ勢力に擁立され、慶喜が強引に朝敵とされたのがいわゆる「明治維新」だ。幕府軍が鳥羽伏見の戦いで総崩れになり、慶喜が江戸に逃げ帰り蟄居してしまったのは、天皇に叛旗を翻すことを将軍家が自らに許すことは絶対にできず、まして内乱で国民を苦しめてとくに100万都市の江戸の住民を戦火に巻き込むことだけは避けなければならなかったからだ。

近世から近代にかけて変質した明治維新の天皇制

明治維新で天皇のあり方がどう激変したのか、分かりやすいところでは江戸時代まで、そもそも「御々簾之内(おんみすだれのうち)」にあって顔を見ることすらタブーであった天皇の姿を「御真影」として全国に配布しただけでも極端な違いだが(ちなみに明治天皇は写真を忌み嫌ったので、実際の御真影は油絵の肖像画の写真複写だった)、しかも西洋式の軍服姿で、露骨に当時の西欧の皇帝や国王の模倣だった。

こうした作り出された西洋的な絶対君主イメージとしての天皇像に添ったものが、譲位を禁止したり皇位継承を「男系男子」に限定して女帝を排する明治の皇室典範なのだが、そもそも実際の日本の歴史を通してみれば、その「国体」論の主張に反して天皇が直接政治の中心だった時代の方がむしろ稀だったし、逆に天皇に実態権力がない状態が明治政府が主張したように「国体の本来」に反していたわけでもない。

日本における天皇制の起源に遡ることは歴史的・考古学的な根拠が少なく極めて難しいが、分かっている範囲でも古代のヤマト(倭)王権が成立した時点で、実際の政体はすでに政治決定は豪族の合議制だった。

たぶんに象徴的な祭祀王だった大王(天皇)家はむしろその権力闘争に振り回され、その地位の継承もルール化されていなかったため、代替わりのたびに皇位継承をめぐる内紛が起こってもいる。日本史の教科書でもなじみ深いところで言えば聖徳太子の父・用明天皇の崩御後にはその皇位の継承をめぐって蘇我氏と物部氏の内乱が勃発し、聖徳太子は蘇我氏系の皇子として物部氏を倒すことを仏教の四天王に祈り、蘇我氏の勝利後に大阪の四天王寺を建立したとされる。この内乱後に即位したのが蘇我系の女帝・推古天皇で、聖徳太子はその皇太子となった。なおこの時の皇太子という地位については、最近の研究によれば疑問も多い。だいたいこの時点で安定した皇太子制度が確立していたとはおよそ考えにくく、実際に聖徳太子の没後、息子の山背大兄王は皇位継承争いで蘇我氏に滅ぼされている。

古代の部族社会の延長のようなものだったヤマト(倭)王権が、統治体制と呼べる国家制度を打ち立てた大転換が大化の改新で、中華帝国の支配体制に倣った法制度による支配として律令制の導入が始まったが、その律令制が白鳳時代の末に完成したとき、出来上がっていたのは政治の実務を官僚貴族とそのトップにある藤原氏が担う制度体制だった。

つまり儒教論理の中央集権国家体制の、中華帝国の国家制度を建前では模倣した律令制だが、本質はその中枢たる君主の役割をまったく変えて「象徴天皇」にしたことこそが、最初から日本の伝統だったとすら言える。

「天皇」の「天」は「天気」「お天道様」の「天」

「天皇」という呼称自体が元は儒教の、中華帝国の統治原理から来ている。皇帝は「天命」を受けて巨大帝国を統治する、そのなかでも特別な、理想的な聖人君子を指すのが本来の「天皇」だが、日本語の「天皇」の「天」は「天命」の「天」ではなく、むしろ太陽神アマテラスオオミカミを祖先神とみなすことからも「天気」「天候」「お天道様」の意味が強い、としばしば指摘される。

明治維新の天皇制とそれを支える皇室典範は、こうした日本独自の象徴的君主制の伝統を「迷信」とみなす西洋的な価値観に合わせて変質させようと、極端に中国的な儒教の解釈を強引に援用したものだ。こうした極端な伝統否定・国家観改造の傾向は皇室典範だけでなく、教育勅語や軍人勅諭など、矢継ぎ早に明治天皇の名で発せられた文書を見ても明らかだが、こうした西洋絶対君主的な天皇像を中国儒教で正当化しようとした明治国家体制の建前とは裏腹に、明治天皇自身が徳川家の大政奉還の決断と相前後して孝明天皇の謎の死を受けて王政復古クーデタ勢力が擁立した少年天皇、最初からそれこそ実態も実権も持たない傀儡君主だったのは皮肉だ。

伝統的な天皇制の大改造を狙いながら、明治以降の天皇制の実態はこれまで以上に「象徴天皇制」、それももはや法文上の権威しか持たない、かつてないほど空虚な権威の中心でしかなかったし、弟・高松の宮の諫言にただ怒っただけだった昭和天皇まで、ずっとそうだったのかも知れない。

「御々簾之内」に座し、権力の実態を持たなかったにも関わらず、天皇が日本の歴史のなかで果たして来た重要な役割を、その天皇となった人たちの側から見れば、それはひたすら民を思いその幸を祈ることだった。

実際、神話も含めた歴代天皇のなかでもっとも儒教的な諡号を持つ天皇である仁徳帝は、飢饉の際に民の竃に煙が出る日が来るまで、自身の宮中の竃でも火を起こしてはならぬとした天皇だったし、その諡号の通りの「仁」と「徳」こそが、白鳳時代から奈良時代にかけて儒教を本格導入した日本でもっとも重んじられた儒教理念だった。明治以降の「忠」や「義」の強調はあまり日本的ではないし、もっと言えば「天皇制的」ではない。

近代化が進行すると「民を思いその幸を祈る」倫理的権威としての天皇の役割は、もはや宮中の賢所(かしこどころ)の神秘性のなかにあって御々簾之内に姿を隠して実践できることではなくなる。日本の近代化とはつまり西洋化であって、その西洋近代の価値観では従来の天皇の存在そのものが、はっきりいえば「迷信」扱いにならざるを得ない。

なのに憲法に「神聖にして侵すべからず」と定義したことの矛盾の行き着く果てが、実際には誰も本気で信じてはいなかったからこそ狂信に陥った「神風」なる共有幻想で、確実に負ける戦争をいたずらに継続してしまったことだったとしたら、国民主権・基本的人権の尊重・戦争放棄を基本理念とする新しい日本国家に適した「天皇」とは何なのか? 今上天皇が地道に積み重ねて来たのはその模索と実践の歳月だったし、また今回の「お気持ちの表明」に「天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に」という文言があるように、それを考えることのボールは、今や国民の側にも投げられている。

天皇が取り戻そうとする日本の「家族のカタチ」

この「象徴天皇としてのお務めについての天皇陛下のおことば」は、家族への言及が大きな位置を占めているのも意味深だ。

自民党右派や「日本会議」では、そもそも天皇夫妻が皇太子時代から示して来た、「ナルちゃん憲法」的な戦後日本の家族の理想形を快く思っていない上に、その皇太子徳仁親王と雅子妃には女子の敬宮愛子内親王しか子どもがいないだけでなく、皇太子夫妻が現天皇の意思に忠実で平和主義と民主主義、基本的人権を尊重する態度を鮮明にして来たことにも強い不満があった。

小泉政権のときに愛子内親王を皇位継承者とする前提で皇室典範の改正が取りざたされると、自民右派や「日本会議」は激しく抵抗した。偶然にもそのタイミングで次男の秋篠宮家に男子が産まれたこともあり、その秋篠宮家を支持する動きも最近はずいぶんあからさまだ。天皇の政治利用は禁じられているはずなのにかくもあられもなく政治的な文脈ができあがっているなかで、天皇が譲位を決行することは、次期天皇として長男の徳仁親王の立場を自分の生前に盤石に固め、天皇の政治利用を排除する意味も持つ。

その東宮の雅子妃は、外務省始まって以来の才媛、将来のホープと言われた外交官で、むろん最終的には皇太子の強い愛情が決め手になったとはいえ、国際親善も大きな役割になった天皇家の将来にふさわしい人として期待されて皇室に入った女性だった。

しかしいざ結婚し皇太子妃になると、もともと期待されたはずの「皇室外交」国際交流の役割が任されることもほとんどないまま、雅子妃は「男児を産め」という圧力に晒されることになった。精神を病むまで追い込まれてしまったその病名は、公式には「適応障害」とされているが、これは何年も続く状態を指す病名ではない。恐らく実際には、過剰な環境ストレスが要因の「うつ病」とみなすべきなのだろう。

だがそこまで痛めつけられてしまった雅子妃は、メディアがしばしば激しいバッシングに走り続けているのにも関わらず、今でも一般国民の人気も高く、こと被災地訪問などでは篤い人望を集めている。

今上天皇夫妻が最初に提示したのは、いわば戦後日本の新たな核家族中心の家族的価値観の理想型だった。

今、そのかつての理想の家族の父である天皇は、自分の高齢と体力の限界、迫り来る死への思いまで率直に告白し、東宮家では雅子妃が本来ならその理想モデルだった活躍する新しい女性像が保守旧弊たる男権・父権主義的な社会の圧力に苦しめられ、その妻と家族を守ろうとする皇太子という、日本の家族の今後のあるべき姿を模索する葛藤と、そこに悩む姿を等身大に体現してもいる。

「男系男子」という明治の西洋かぶれ、かつ中国かぶれなフィクション

皇太子つまり次期天皇に男児がいないのが問題になるのは、明治以降の皇室典範で皇位継承が「男系男子」に限定されているからだけで、もともと天皇位の継承に男女の差別をつける伝統が日本にあったわけではない。推古天皇以来、歴史的に重要な役割を果たした女帝も少なくない。「男系男子」はプロイセン憲法などの論理を取り入れた大日本帝国憲法に合わせた皇室典範の、いわば「文明開化」の一貫の西洋模倣に過ぎず、また明治政府が極端に強化しようとした儒教の中国解釈的な男尊女卑に合わせたものでしかない。

そもそも古代から近親結婚が多かった(現天皇夫妻の結婚で、この風習はやっとなくなった)天皇家で、「男系」か「女系」かの違いが重視されていたかのように考えるのはナンセンスだ。遺伝的な疾患の可能性が高いことは昔から経験則的に分かっていて、それでも近親結婚にこだわるのは、血統そのものが重要だったからだと考えないと説明がつかない。

それに明治の皇室典範が皇位継承を「男系男子」に限ったのも、併せて伊藤博文が著した解釈書の「皇室典範儀解」を見ても、実際にはひたすら女帝の即位を禁止する論理にしかなっていない。

伊藤博文は一応は「古事記」「日本書紀」を引用しているが、応神天皇の母神功皇后が夫の死後息子を即位させて自分は摂政を務めて女帝にならなかったことだけを取り出して「女帝は国体に反する」とするその論拠は、古代史の解釈としてまったくデタラメで恣意的なへ理屈でしかない。なにしろ伊藤が女帝は天皇本来の姿ではないと主張するために恣意的に解釈した「古事記」自体が、天武天皇の詔で編纂が始まったが、その天武帝がまもなく崩御し、皇后が後を継いで即位した持統天皇の在位中に、大部分が編纂執筆されたものだ。

この天武・持統朝については、天武天皇(大海人皇子)の即位にあたって兄で先帝の天智天皇(中大兄皇子)の息子・大友皇子との皇位継承をめぐる大きな内乱があり、またその兄・中大兄皇子が朝鮮半島侵略を企んで惨敗した白村江の戦いの結果、日本が唐に断交されて国際的な制裁を受け孤立していた時代でもあったため、記録があまり残っていないのだが、それでも持統天皇が古代の大きな国難の時代に夫の天武帝を超える強い指導力を発揮して難しい時代を牽引したことだけは確かだ。そんな持統帝の時代に、女帝が日本の国体に反する、「世を乱す」などとする思想が、信じられていたはずがない。

まして「今までの天皇はすべて男系だ」と一部右派が主張し始めたことに至っては、東宮家の子どもが女性の敬宮愛子内親王だけで、ならば女性天皇を復活させるのが自然だとする世論が無視できなくなったので、明治の皇室典範の「男系男子」つまり女帝の排除から「男系」だけを恣意的に切り離して無理矢理捏造された、男女の平等を当然とみなす現代の価値観を快く思わない男尊女卑の自称「保守」派がでっち上げた21世紀の産物に過ぎず、本来の天皇家の伝統ともまるで関係がない。推古天皇や斉明(皇極)天皇、持統天皇、孝謙天皇などの女帝や、平安時代の中宮たちの活躍を見ても、天皇家が男尊女卑の価値観で動いて来た一族と考えるのは無理があるし、なんと言っても天皇家の祖先は天照大神、女神だ。

「古事記」「日本書紀」の建国神話の中心になるのは天岩戸神話で、女神である太陽神が機嫌を損ねて洞窟に引きこもってしまい、太陽が隠れ世界が暗闇になってさあ大変、他の神々がなんとか天照大神を洞窟の外におびき出そうとする物語だ。女性の太陽神が気まぐれを起こしたのは弟が「暴れた」…というか「古事記」の記述は性行為を意味する言及がかなり明確で、精力絶倫で気性が激しい須佐之男命の常軌を逸した暴れ方は大地震や火山噴火などの巨大災害の比喩、天岩戸は日蝕の比喩とも解釈できる。

あるいは、天岩戸神話が「魏志倭人伝」に書かれた「邪馬台国」女王の卑弥呼に符号していると指摘できなくもないし、「隋志」に書かれた、倭の国使が説明した当時の大王の呪詛政治のあり方との近似性もあるかも知れない。大王は太陽を兄とみなし、太陽が出ているあいだは地上の統治を太陽に任せ、寝ているというので、随の煬帝が「道理に合わない」と呆れた、というのが「隋志」の記述だ。

天皇位は歴史的にどう継承されて来たのか、その伝統を無視した「男系男子」論

すでに述べたように、古代の天皇家では天皇の崩御にともなう豪族を巻き込んだ皇位継承争いが絶えなかった。

こうした内乱を避ける皇太子制度、つまり先代の在位中から後継者を決めておく慣例が確立したのが、大化の改新を押し進めた中大兄皇子(のちの天智天皇)が、母・皇極天皇(二度天皇になったので斉明天皇でもある)の東宮として政治の実権を握ったことだと言われる(だがそれでも、天智帝の崩御後には先述の通り壬申の乱が起こっている)。ちなみに皇太子を東宮ないし春宮と呼ぶのは、中国の陰陽五行思想の方位学に基づく。東の方角は春を意味し、その守護神が青龍であることから「青春」という言葉の語源でもある。キトラ古墳で発見された、四方の壁に描かれた玄武、青龍、白虎、朱雀の壁画や、平城京と平安京の南の正門が「朱雀門」だったのも同じ理由だ。

中大兄皇子は三代の天皇(うち二度は実母)の皇太子として政務を主導し、天智天皇として即位したのは晩年だった。

これは律令制の構築の当初から天皇が必ずしも政治実務の中心ではなく、直接の政治権力の行使には天皇でない方が便利だったことの実例ともみなせる(ただし皇国史観で誤解されて来たのとは異なり、皇極・斉明帝がまったくの「お飾り」であったわけではない)し、要するに後の院政と似たようなものであったとも考えられるわけだが、天皇位の継承という観点で言えば、皇太子制度により皇位の継承がルール化された最初の例とみなされる中大兄皇子が既に、いわば「女系相続」だった。

むろん皇極帝は即位前は舒明天皇の皇后で、中大兄皇子と弟の大海人皇子(後の天武天皇)は舒明帝の息子でもあるが、「だから男系だ」と言うのもとってつけたへ理屈に過ぎない。そもそも女性天皇はこうした未亡人(持統天皇も天武天皇の死後皇后が即位し、草壁皇子の東宮妃だった元明天皇が、息子の文武天皇が夭逝したため即位した例もある)か、未婚の内親王がなるもので、子どもがいなかった場合も多く、既婚であれば天皇か皇太子の妻だった。

つまり「今までの天皇はすべて男系」というのはただの結果論の偏向した恣意的解釈に過ぎず、天皇制と制度としての日本国家の確立期の重要な天皇の多くが、天智天皇(大化の改新)、天武天皇(古事記の編纂)、天武天皇と持統天皇の子である聖武天皇(平城遷都と奈良の大仏造営)といったように、女系であり男系の両方であったというよりも、男系か女系かの区別ではなく、血統こそが重要だったとしか考えようがない。

女性天皇が在位中は独身で、聖武天皇の娘の孝謙天皇のように未婚だった場合も多かったのは、大化の改新で中国の統治体制を模倣した律令制を導入したことに合わせて、中華帝国の支配理念である儒教の影響が日本でも強まったからだ。その男尊女卑が濃厚な夫唱婦随の倫理に従って、夫が妻より上位にならないために女帝が未婚だったことは、建前だけでも男女平等でなければならない現代の価値観には合わず、変えられるべきだし、それ以上に明治の産物でしかない皇室典範(そもそも大日本帝国憲法に合わせた内容である)を日本国憲法に合わせて変更することは、とっくに昔にやっていなければおかしかった。

現実問題として東宮家の子どもが女の子で、他にも天皇家に男子が産まれていなかったことから、小泉政権下では一時、皇室典範の改正作業が始まった。ところが偶然にも秋篠宮家で男児の悠仁親王が産まれた。明治の皇室典範の制約を外して古来の伝統に戻す差し迫った必要がなくなったわけだが、この時には一部の自民右派が東宮妃と秋篠宮妃に人工受精による男女産み分けを提案し、東宮夫妻は当然拒絶したが…というような、まことしかやかな噂もささやかれた。

仏教・神道にまたがる信仰的権威としての歴史的天皇と庶民

明治以前の日本で天皇が実態権力を持つことがめったになかったからといって、武家政権の時代でも天皇が庶民に無縁だったわけではない。

年号だけでなく暦も天皇の権限で発布された。ひとりの天皇の在位中は同じ元号というのも、明治以降に中国皇帝に倣ったものだ。大化の改新の前までは古事記・日本書紀の年号表記は天皇ごとの在位の何年目というようになっていて、明治以降の一世一元はそれを「復活させた」と言い張ることもできなくはないが、むしろ記紀の記述が中華帝国の公式歴史文書の体裁に倣ったものだったと考えた方が自然だし、いずれにせよ大化の改新以降は天皇の権限で、たとえば凶事があると縁起担ぎで新しい元号にすると言ったようなことが、日本の伝統だった。

「天岩戸」の神話を思い出してもらいたい。これを巨大地震か大洪水(須佐之男命は大量の涙を流したという記述がある)的な大天変地異や日蝕の神話化と解釈するのなら、四季の変化がはっきりした豊かな風土であるぶん予測不能な自然の変化に晒されることも多かった過去の日本人がいわば「縁起担ぎ」を重んじるのは、まったく自然なことだ。

暦と元号は直接に政治的な支配を民衆に課すものではないが、農耕民族だった過去の日本人にとって、天皇の象徴的な時間支配は武家の幕府などが担って来た政治的な空間支配よりも、よほど生活に密着したものだった。

その天皇は太陽神である女神・天照大神の子孫ということになっているし、仏教が6世紀に伝来する以前の日本の信仰体系が自然崇拝のアニミズムであったこと、仏教の伝来でそのアニミズムの伝統が仏教に取り込まれて日本独特の仏教が花開いたこと、明治の乱暴な神仏分離令で新たに創出された事実上の新宗教である現代の神道もアニミズムの一形態であり続けていることは、天皇が歴史・伝統と文化の継承の象徴でもある以上、現代と将来の天皇制がどうあるべきかの議論でもっとも重要な前提のひとつでなければおかしい。

その時にどうしても大きな障害になるのが、明治維新で天皇のあり方と、日本人の信仰体系というか世界観(近代科学の普及以前には、この両者はほとんど同じことを意味する)が政治的・人為的に大きく変えられていることだ。神仏分離例と廃仏毀釈がいい例だが、それ以前の文化伝統がほとんど暴力的と言っていいやり方で断絶・抹消・隠蔽されたままになっている現状が、今の日本ではなお続いている。

ことその世界観の中心にあった天皇については、これがとても乱暴な断絶だったことは、たとえば「御真影」の例でも述べた通りだし、現在の皇室の宮中祭祀も8割がた明治時代に「再現」と称して新たに作られたものでしかない。今上天皇がお言葉のなかで触れた仰々しい殯(もがり)の儀礼にしても、昭和天皇の大喪の礼のような大がかりなものは明治以降のものでしかなく、それ以前には天皇も仏教で弔われていたし、今でも菩提寺の泉涌寺が京都にある。

聖徳太子は観音菩薩の転生、八幡神(応神天皇)は「菩薩」

今日でも天皇家と仏教の関わりとしてよく知られているのは室町時代の禅僧・一休宗純(アニメの『一休さん』のモデル)が後小松天皇の皇子であり、その墓所はいまも宮内庁の管理だ。皇族が仏門に入るのは珍しいことではなく(法親王)、天台宗を中心に多くの仏教上の要職を出家得度した皇族が務めるのが慣例で、その皇族が住職を務める寺を門跡寺院、宮門跡という。たとえば日光東照宮がそこに作られた日光山輪王寺の貫主は輪王寺宮と呼ばれ、江戸時代には上野に徳川家がつくった東叡山寛永寺の貫主も兼ね、比叡山延暦寺のトップである天台座主を同時に務めることも多かった。京都には仁和寺、大覚寺など著名な門跡寺院が多いし、奈良・斑鳩の法隆寺のそばにある中宮寺は、皇女が住職を務める尼寺の門跡寺院だ。

この中宮寺は本尊の如意輪観音半跏思惟像(国宝)で有名だが、この像は聖徳太子の生き写しという伝承もある。そもそも聖徳太子は明治以前は政治的な役割から重要な歴史上の人物とみなされていたわけではなく、むしろながらく観音菩薩の生まれ変わりとして仏教の信仰対象だった。また全国にある八幡神社の祭神は第15代応神天皇だが、明治時代の神仏分離まで神号は「八幡大菩薩」と仏教の称号で呼ばれ、剃髪した仏僧の姿で神像化されるのが慣習だった。

もともと仏教と今でいう「神道」が仏教伝来以来一体の信仰だったのは、仏教を振興したのが天皇家なのだから当たり前ではある。天皇が生前退位し上皇になったあと、出家して法皇と呼ばれることも少なくなかった。こうした仏教と天皇家の深い関わりは、明治の神仏分離例でまったく無視されることになり、平安時代末期の白河院や後白河法皇のように、出家した上皇が悪役扱いされる場合も多い。

鎌倉幕府を建てて武家政治を創始した源頼朝は、確かに後白河法皇を「大天狗」とも呼んでその権謀術数を警戒していたが、この後白河院が源平合戦をめぐる説話で「悪者」扱いになったのはむしろ明治以降のことだ。院が政治的陰謀に長けて平家と頼朝と弟の義経を巧妙に手玉に取ったことよりも、出家しても俗に言えば典型的な生臭坊主、無類の新しもの好きで民衆の俗謡の研究を趣味にしたり、宋からもたらされる新しい知識や文物に熱中する自由人でもあったことが、明治の「皇国史観」的な価値観には合わなかったからなのかも知れない。

その後白河院が編纂した、当時の俗謡を集めた「梁塵秘抄」には、こんな歌がある。

「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ」

日本国民が天皇制を維持したいのなら、それはいかなる天皇であるべきなのか?

国民の幸福と平和を祈り続ける祭司王というのはその実、天皇が実態権力を持つことがほとんどなかった日本の歴史を通して、天皇の位にある者の最大の役割だった。今上天皇が「おことば」で語った象徴天皇の責務は、その本来の役割に戻ったものだとも言える。

ただしその具体的な「祈り」の責務は古代から近世までの天皇のように、宮中の賢所にこもって祈ることではもはやないし、明治以降昭和20年までの無節操な天皇の政治利用に抵抗できなかった天皇家の反省も当然あるだろう。

天皇自身が「全身全霊をかけて」と表現したように、現代の「祈る天皇」は「行動する天皇」であり、その行動が常に国民に見られ続ける理想像でもあり続けなければならない。もはや天皇が「御々簾之内」の存在のままでは、天皇の位を維持することができないのが、現代の天皇制だ。夫妻が皇太子時代から実践して来た「開かれた皇室」も、その「全身全霊」の天皇の務めの一貫として位置づけられるのだろう。

国民に寄り添うその「祈り」とは、天皇自身が言及した全国を旅すること、その各地で「その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあること」を認識すること、災害があれば被災地に飛び被災者の手を握ることといった、身体的な、具体的行動を伴うものだ。

だから公務を減らすことは受け入れられない、と天皇は明言した。摂政の宮を置き公務を代行させることも「天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続ける」ことになるとして、明確に否定された。

ではその天皇制は現代、そして未来に、いかなる形で継承されるべきなのか? あるいは、本当に継承され続けるべきことなのか? 継承することは可能なのか?

あまりに不自然で非人間的な現代の天皇制と、あまりに人間的な天皇の相克

天皇自身が今回の「おことば」を、「我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ」との言葉で結んでいるように、古代から続く「天皇制」という象徴君主のあり方を今後どうして行くべきなのかが、国民にも問われている。

君主制は平等の理念からすれば民主的でない、とする考えの急先鋒がかつての日本共産党だったが、今はその共産党ですら…いや共産党こそが今の天皇夫妻の業績と、日本社会における最終的な倫理の担保装置という伝統の現代における役割をもっとも積極的に理解しつつ、天皇夫妻その人たちに率直な敬愛を示していたのが、今回の「おことば」に対する各政治勢力からの反応だった。

だがだからこそ、今の天皇制が抱える根本的な矛盾にも、共産党だけが率直に言及していた。それは人権の保護を国是とする憲法を持つ国の象徴であるはずの天皇に、「人権」がないことだ。

どうにも誤解がまかり通っているが、天皇の地位に対する憲法上の制約は政治的な権能がない、つまり直接の参政権がないことだけだし、今の天皇とその一族が受けている人権上の制約に一定の法的な根拠があるとしても、せいぜいが結婚などに皇室会議の承認が必要なことだけのはずだ。だが現実には、かつて美智子皇后が苦しみ、今も雅子妃が苦悩し続けているような途方もない人権侵害が行われ続けているし、天皇自身もまた高齢で身体に無理が来ても天皇であり続けなければならない。

このような人権が無視された天皇が、民主主義で国民主権・基本的人権の擁護を掲げる現代の日本の象徴であり続けていいのだろうか?

あるいは歴史と伝統を省みた場合、天皇は日本の伝統的な自然崇拝的な信仰の中枢にあって、完全に言語化はできないまま日本人が共有してきた「人間的な」倫理を支える存在だったはずなのに、かくも不自然なあり方が天皇自身やその継承者に強要され続けていいのだろうか?

雅子妃が、皇太子の言葉を借りれば「人格を否定」までされて、男子を産むよう圧力を受け続けたりすることが「自然」なのだろうか?

秋篠宮家で悠仁親王が誕生したおかげで「男系男子」というその実男尊女卑イデオロギーの産物でしかない明治の捏造にこだわる、もはや「保守」とは言い難い自称「保守」の人たちは安堵しただろうが、実際にはそんなことはなかったとは信じるものの、この少年親王(今上天皇の譲位が実現すれば、少年皇太子になるかも知れない)には一生、人工授精の遺伝子操作による生み分けだったのではないか、一部の心ない人たちと両親の野心を満たすためだけに無理矢理生まされた子なのではないか、という疑惑を国民がどこかで抱き続けることが、残酷な現実として避けられない。子どもがそんな不幸を背負わされることが、はたして正しいのだろうか。

またこのままでは、悠仁親王が青年になっても、普通に恋愛をすることも不可能に近く、結婚しても美智子皇后や雅子妃が直面した苦難が繰り返されることも、避けられないだろう。

あるいは今後も「男系男子」に拘るのなら、その悠仁親王の子どもについて遺伝子操作による男子の産み分けを考える者も当然出て来るはずだ。だがそんな明らかに「自然」に反する形で生まれた子が、自然信仰の伝統を継ぐ天皇を務められるのだろうか?

天皇を頂いて来た日本人とは何者なのか? 現代の我々は本当に「日本人」と言えるのか?

今上天皇が国民に投げかけ、その理解を求めた問いは、ただ生前退位だけのことではない。

あらためて問われているのは、天皇の位がいかなる形で継承されるべきなのか?あるいは本当に継承され続けるべきことなのか? それは可能なのか、である。あるいは、天皇が言った「伝統の継承者として,これを守り続ける責任」とはなんなのか?でもあろう。

必要なのは、天皇の言う「我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返る」ことを、国民もまた共有することに他ならない。天皇という極めて特殊な君主を頂いて来た日本という国の歴史はなんなのか、そのなかで天皇はいかなる役割を果たし、それは現代という時代にどこを変えて、なにを守るべきなのか? それを守ることはそもそも可能で、意味のあることなのだろうか?

「長い天皇の歴史」が、たかが明治以降140年だか150年を意味するわけがないのは言うまでもないし、明治の天皇制はむしろあの戦争でその失敗が明らかになったいびつな人工物でしかない。だがしかし、本来の天皇制に戻そうにも、それ以前の日本の歴史や日本人の文化を、現代の日本人がしっかり意識しているともおよそ言い難い。

この文章で簡単に触れた古代や院政期、南北朝の歴史についてさえ、歴史学の研究では基本的な前提知識でしかないものなのに、ほとんどの日本人は日本文化が中国を中心とする東アジア文化圏のなかで外国からの強い影響で発展したものであることも、その信仰の価値観では神仏習合が当たり前だったことすら知らない。

必要なのは単に天皇の退位を一代だけ許可する特別立法を、政府の集めた有識者会議の密室で決めることではない。天皇制を今後どうして行くのか、そのためにまず「有識者」が持ち寄る歴史的・文化的な知識・前提を国民レベルで共有し、国民もまた自分たちにとってなにがいちばん自然に思えるのかを、真剣に考えることではないのか?

 

実をいえば天皇がこの「平成の天皇人間宣言」で問いかけたものは、「日本人とは何者で、いかにして今後日本人であり続けるのか」という問いに他ならない。

 

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