あまりに遅過ぎるオバマ広島訪問は、「核なき世界」と無関係な「謝罪より追悼」なる偽善のパフォーマンスになってしまうのか? by 藤原敏史・監督

バラク・オバマ米大統領の広島訪問の発表については、なかなか明言はしづらいが、だいたい三通りの反応が、多くの人にはあったのではないか。

まず(これがもっとも言いにくいのだが)、今さらなにを、とはどうしても思ってしまう。「あまりに遅い」というのは、別に原爆投下から71年近く経ってやっとアメリカの大統領が、という意味ではない。2009年春にプラハでの「核なき世界」演説で核廃絶の理想を提唱してから7年間、なぜ今まで広島に行かなかったのか(そして結局は今まで、核廃絶についてなにもやって来ていないのはなぜか)?

第二にあるのは、だからこそ、あれから7年経った今になって広島訪問を決めたことについての、ある種の驚きだ。しかも受け入れ側の日本の政権が、アメリカの核の傘の強化を求める一方で自国の核武装も「憲法上否定されない」という珍論まで言い張り、極右的な歴史修正主義で日本の過去の戦争犯罪をなんとか誤摩化そうとする安倍晋三の内閣であるときに、あえて原爆投下への謝罪を事実上意味する被爆地・広島訪問とは、いかにも政治的なタイミングが悪い。

第三に、これは上記二点から当然導き出される結論でもあるが、2期8年の任期の最後だからこそオバマはやはり広島に行くのだろう、ということ。そのためには相手国側の現政権の異常性・危険性というハードルの高さも看過せざるを得ないほどに、やはりバラク・フセイン・オマバは自分こそがどうしても、アメリカ合衆国大統領として、広島に行かねばならない、と思っているのだ。

2009年には果たしておくべきだった広島訪問

とはいえ、だからこそオバマがやっと広島訪問するのは、あまりに遅過ぎると言わねばならない。2009年に行っておけば、今の世界は大きく変わっていたかも知れないのだ。

プラハでの演説後なるべく早く被爆地にいくことこそが、「核なき世界」を目指す上での最良の次の一手だったはずだ。大統領が広島に行けば、米国メディアを中心に世界中で広島の被曝の事実や、平和記念公園や原爆ドームの姿が報道に流れる。大統領が当然見学することになる平和記念資料館にはいったいなにが展示されているのか、詳しく報じる報道機関も世界中に数多く出て来るはずだ。

もっとも有効な切り札は、オバマ自身が被爆者に会うことだ。オバマが直接会うことで、その体験の証言はこれまでとは比較にならない国際的な注目を浴び、全世界に報道される。核なき世界を実現するのに、これほど世界の世論を説得できる材料もない。

しかも当時の日本では、2009年の夏に政権交代があり、新たに誕生した鳩山由紀夫政権は「友愛」を掲げる平和人道主義を鮮明にしていて、その公約には21世紀の新たな、より対等な日米関係の模索も含まれていた。日米双方にとって、政治的にも絶妙なタイミングだったはずだ。

いや実のところ、2009年秋の訪日に際し、鳩山政権にはホワイトハウスから広島訪問の打診はあった。ここまでは誰にでも予想がつく当然の話なのだが、その先がいかにも不可解な話になる。

言うまでもなく、この時にオバマは広島に行っていないし、その翌年には普天間基地移転問題をめぐって鳩山由紀夫は退陣に追い込まれた。その後の菅直人、野田佳彦の両政権のあいだに広島訪問の打診があったかどうかの情報はないが、尖閣諸島を外交問題にしようとする日本側と、日中対立に巻き込まれることを嫌がるアメリカ側のあいだで日米関係が微妙さを増すなか、オバマ広島訪問の気運はかなり後退したであろうとは推測される。

念のため確認しておくが、普天間基地の県外移設を主張する鳩山政権のせいで日米関係が悪化したというのは事実に反する。これほど分かり易い偏向報道もないと思うが、さんざん日本の報道で揶揄された鳩山由紀夫の「トラスト・ミー」という言葉は(首脳間のプライベートなやり取りが報道にリークされたこと自体が異常なのだが)、普天間の海兵隊の県外移設についてオバマ側が賛成していなければ出て来たはずがない。賛成だが本当に大丈夫か、と言われた文脈でなければ「私を信頼してくれ」と言うわけがないのに、およそ不条理な偏向がまかり通ったのも、まことに不可解だ。

日本政府の不可解な動き

日本政府がオバマ政権の信頼を決定的に失ったのは、普天間基地の県外移設を主張したからではなく、歴史的な政権交代で誕生した政権が公約し、米政府にも話を通したはずが撤回されたこと、その前後に不可解なリーク報道や、駐米大使がアポなしで国務省を訪れるなどの外務省担当者の不可解な動きが続発したことがあったからだ。その後の菅・野田政権による尖閣諸島の外交問題化(イコール、対中挑発)と、日米同盟を盾にそこに米国を巻き込もうとしたことも、ホワイトハウスの不信感を増大させた。この時期から安倍政権の初期にかけて、米政府が再三繰り返したのは、確かに尖閣諸島は法的には日米同盟による米国の日本防衛義務の適用範囲になるが、だからこそそのような事態が起こることを米国はまったく望んでいない(イコール、日本は中国を挑発して対立を煽るな)ということだった。

そもそもブッシュ政権の段階で、米軍は海兵隊をグアムに配備し再編することを基本方針としていた。沖縄に海兵隊を置き続ける軍事的必要性は冷戦終結後にはほとんどなくなっている。オスプレイなどの最新兵器の整備・保守点検があるので海兵隊岩国は確保し続ける意味があるが、沖縄海兵隊については移転問題で10年20年と膠着が続くばかりで、それ自体が周囲に住宅も密集し危険が大きい普天間基地を維持することも、沖縄地元の反発があまりに大きい辺野古移転も、オバマ政権にとってはなんのメリットもない。

これも米側が繰り返していることだが、普天間基地の辺野古移設は日本側が決めたこと、日本側がアメリカに求めたことであって、米国はその要望に従っているだけなのが現状の基本だ。

普天間基地移転問題に話が脱線したのは、オバマの広島訪問をめぐる不可解さがこの沖縄基地問題の奇妙さとパラレルになっているからだ。なにしろ、日本にとってはある種の念願であったはずの米大統領の広島訪問を打診したのはアメリカ側で、断ったのは日本の鳩山政権だったという。この場では具体的な情報源の明示は避けるが、鳩山由紀夫氏自身が自分の招かれた勉強会などの会合では、2009年秋のオバマ来日の時点で広島訪問の希望はすでに打診されていて、氏自身は歓迎しようとしたが外務省の反対を押し切れなかったことを明かしている。

なぜ日本がアメリカ大統領の広島訪問の希望を断るのか?
その日本側が、アメリカの核の傘の強化すら求め自国の核武装すら否定しない安倍政権ならともかく、より対等な日米関係を掲げ、日米間の沖縄の核配備をめぐる密約すら公表に踏み切った鳩山政権がなぜ断ったのかは理屈が通らないし、国民も当然歓迎することを外務省がいやがった、受け入れを求める首相が折れなければならないほど(鳩山政権の公約のひとつは政治主導だったはずだ)強行に反対したというのは、もっとわけが分からない。

広島でのG7外相会合の意味

アメリカ側を見れば、大統領が広島を訪問すること(ほぼイコール、原爆の投下を謝罪すること)への道筋は、民主党の側で着々と作られて来ていた。オバマ政権の誕生以前から、同党所属の下院議長が広島を訪問している。オバマ政権になってからは初代のルース駐日大使も現ケネディ駐日大使も、原爆記念日の式典には必ず出席して来た。ルース氏は国務省東アジア課(日米同盟が利権となって来た部署)とも政界とも関係がなく、オバマ氏が私的に信頼する友人として駐日大使になった人物だが、息子と米国から呼び寄せた父親も伴った親子三代で平和記念資料館を見学したこともあり、この時には父と息子を従えて平和記念資料館前で涙を流しての記者会見までやっている。

つまり大統領広島訪問は、オバマ大統領の就任以前からあった動きであり、ことオバマ政権は広島を訪問して「核なき世界」の理念のための動きを加速させようという試みをずいぶんやって来たが、日本側の反応は政界もメディアもまったく鈍いものだった。これも不可解なことである。

それが日本がG7サミットのホスト国になった今年になって、突然大きな動きが始った。G7の外相会合を広島で行ったのは明らかにオバマ広島訪問へ向けての布石であり、会合の場所を決めるのはホスト国なのが常識である以上、これが日本側のイニシアティヴで始まった動きであることは否定しようがない。もちろんオバマ政権側にとっても元から希望して来たことであるにせよ、大統領広島訪問の実現は「安倍政権の功績」とは言っていいだろう。

とはいえ、G7外相会合での岸田外相と外務省の動きもずいぶん中途半端だった。平和記念資料館の見学をクローズドとしたのはメディアの詮索が過剰になることを避けて落ち着いて見学してもらう判断として理解できるが、原爆ドームを視察予定に入れておらず、ケリー米国務長官に促されて急遽そこに向かったというのは、いったいどういう予定の組み方なのか、なぜ日本はこうも及び腰なのか、首を傾げざるを得ない。資料館の見学自体はクローズドにしても、そのあとに記者会見くらいは設定するのが、被爆国として(アメリカに限らず、G7にはフランスと英国という核保有国もある)当然のイニシアティヴだったはずだ。

そうでなくとも、なぜオバマの大統領任期の終盤になっていきなり日本側から積極的に働きかけを始めたのかも、昨年の安保法制の強行採決などとまったく整合性がとれない(「戦争法案」に基づけば、米国の核兵器の輸送すら自衛隊の任務となり得ることを、安倍政権は国会答弁で主張している)。ただし鳩山政権のときには外務省の反対で流れた話が、安倍政権では強行できた理由はよく分かる。すでにこの政権は、外務省の助言や意向を無視した外交的スタントを度々繰り返して来た(そしてイスラム国人質事件や、世界遺産登録をめぐる韓国とのいざこざ、同じく韓国との慰安婦問題をめぐる“合意”など、その度に外交的な失点を重ねて来てもいる)。つまり外務省の言うことや国益よりも、政権の人気取りや首相の気まぐれを優先できる政権であり、人事権の恣意的な運用を繰り返すことで、ここまで霞ヶ関を押さえ込める力も持っているのだ。

オバマの広島訪問すら選挙を睨んだ失態隠しの話題作り

一方で、なぜ安倍政権がオバマ広島訪問に向けて突然動きだしたのかの動機それ自体は、実のところえらく簡単な話だ。要はメディア向けの話題作りであり、今夏に予定される参議院選挙への布石でしかない。しかもこの選挙は衆参同日選挙になるという観測も根強く、その場合に衆院解散の期日と目されているのは6月1日、オバマ氏の広島訪問予定は5月27日だ。安保法制の強行で招いた世論の不信を払拭するパフォーマンスに利用する意図が、あまりに分かり易過ぎる。

しかもG7のホスト国になったことを意気揚々と人気取りの話題作りに利用するはずで、なんと歌手の平井堅に「サミット応援歌」まで作らせた伊勢志摩G7首脳会合だが、すでに失敗が目に見えている。消費増税先送りのエクスキューズ作りで政府が招聘したクルーグマン、スティーグリッツの二人のノーベル経済学賞受賞者は、安倍にサミットでアベノミクスの撤回か方向修正をするように提言していた。実際にマイナス金利がまったくの空振りに終わった現状では、アベノミクスを続けることには無理があり過ぎ、これは日本国内の経済だけでなく、世界経済にとってリスク要因とみなされ始めている。にも関わらずサミットの下準備のつもりの5月初旬の欧州外遊で安倍はアベノミクスのような経済政策を世界規模に広げることを提案して、もの笑いのタネにされてしまった。

G7サミットは元々は経済政策を話し合う場だが、昨今同じくらい重視されている国際的な安全保障の面でも、絶望的な状況が続くシリア内戦や中近東情勢について今さらG7で出せるような結論や解決策もない。強いて言えば、シリア難民問題での応分の負担を日本が求められる可能性はあるが、この国際貢献については、安倍は自身の支持層の顔色を見ればおいそれと賛成できない。

南沙諸島問題で中国を批判したい安倍の思惑も、米国はともかく他のG7各国には「力による現状変更には反対」という反論の意味がない一般抽象論以上のことを言う気はまったくない。昨年のG7でも安倍は辛うじてこの一般論への賛同だけは得て、それを国内では曲解させてあたかもG7が対中国包囲網に賛同するかのような偏向で報道させていたが、そもそも南沙諸島については客観的には中国が「力による現状変更」をやっているとはおよそ言えず(元々中国が実効支配している島とその周辺海域だ)、いたずらに対立を煽りたい日本の思惑は適当にあしらわれるだけだろう。

だが派手に前宣伝したわりにはなんの成果もないサミットでも、その直後にオバマ大統領が広島を訪問すれば、国内メディアはこぞってサミットの評価よりもそちらに注目するに違いなく、首脳会合がどれだけ成果のない結果になっても、オバマの広島訪問という成果を政権は喧伝できる。

さらに熊本と大分での一連の地震災害に関しても、発生当初には安倍が「政府が一丸になって」「迅速に」と大見得を切りながら、実際の対応は混乱の極みのまま、まったく遅々として進んでいない。世論の反発を買った保育園問題もまったく前進がなく、TPP審議もまったく進まなかった上にその前担当大臣の甘利氏の収賄疑惑もあり、日本経済ももはや「アベノミクスの成果」を偽装するのは無理な現状で、夏の選挙を控えて安倍政権にとってマイナスの要因ばかりが並んでいる。さらにここへ来て東京オリンピック招致の買収疑惑まで出て来てしまった。

オバマの広島訪問は、本来なら安倍首相本人にとってはあまり歓迎できないことであるにも関わらず(アメリカの核の傘に過剰に依存した安倍の考える日米同盟ひとつとっても、まったく筋が通らなくなる)、この際の起死回生のための世論操作には、喉から手が出るほど欲しい大きな話題になる。

「謝罪」をめぐる日本側の拙速と米側の困惑

だがG7外相達の広島訪問・平和記念資料館と平和記念公園、そして原爆ドーム視察への日本側の反応(メディアの報道だけしか我々には見えないが、恐らくは内輪での外務省等の動きも含め)は、こうしてレールが出来たはずのオバマ大統領の広島訪問に、思わぬ障害を作り出してしまった。

あろうことかケリー国務長官の広島訪問を受けて日本で話題の中心になったのが、「核なき世界」でも、これまでにない公汎さで原爆の被害を世界に知らしめ得る可能性でもなく、国務長官が「謝罪」するかどうか、オバマも来るとしたらオバマが「謝罪」するかどうか、というえらく薄っぺらかつ卑屈で幼稚な話題に限定されてしまったのだ。

これは客観的に言っても勘違いした下心が透けて見える絶望的に滑稽な矮小化であるだけでなく、ことアメリカにとって、そして他のG7参加国にとっても重大な問題を提起してしまっている。広島訪問自体が謝罪を意味する行動だし、オバマ氏が被爆者に会うことになれば謝罪を意味する発言が一切ないなんてことでは済まされない。ただしその謝罪する相手はあくまで犠牲者と生き残った被爆者であって、日本国民の総体ではないし、まして「日本国」(旧・大日本帝国)であるはずもない。この訪問を利用してでオバマが打破したい米国世論のハードルとは、核兵器が非人道的なものだと示して「核なき世界」にはずみをつけることであって、間違っても安倍が期待しているような「日米同盟の深化」のアピールではないし、広島に行くことも日米の友好や和解のパフォーマンスとしてではない。

日本の国内報道では、アメリカの国内では「原爆投下は戦争終結に必要な判断で、多くの命を救った」が今なお一般的な理解であるから云々、と「謝罪」の困難を強調しているが、アメリカ大統領が被爆地に行くこと自体が、その殺戮行為については謝罪の意味を持つのは自明であり、それ自体が大きな障害だったならオバマは広島に行こうなどと言い出しすらしない。オバマが広島で発する言葉に原爆投下それ自体への謝罪のニュアンスが含まれるとしても、広島のなにがアメリカ世論に伝えられるか次第では、さほど大きな反発は呼ばないか、その反発はそもそも織り込み済みで、むしろそうした反発に対してアメリカが非人道兵器を使用し、今もなお大量に保有しつづけている事実を示して説得したいからこそ、オバマは広島に行きたいのだ。

「謝罪ではなく追悼」という欺瞞

広島六区選出の亀井静香議員は、外国人特派員協会に招かれて「反省も謝罪もないのであれば、おいでいただかないでほしい」と述べた。「私の姉が原爆で殺されたということだけで言っているわけではない。凶悪で残虐な行為をした国の現在の代表だ」。

「日本に謝る」のではなく、原爆を投下したことを犠牲者・被爆者に謝る、というよりも原爆の使用を非人道行為と認めて反省する、イコールこれを残虐で凶悪で非人道的な兵器だと認め、今後絶対に使用しないと誓うこと以外に追悼なぞあり得ないはずだし、そのことを言って「核なき世界」の実現に舵を切ることこそが、オバマが広島に行きたかったそもそもの理由だったはずだ

原爆投下は戦争終結のためという目的は正当化できても、その手段として広島だけで20万以上もの人々(ほとんどが民間・一般市民)を殺傷したことに道徳的な疑問符がつくのは当然であり、現状ではまだアメリカ人の圧倒多数が原爆の被害について漠然と抽象的なイメージしかないのが、オバマ訪問を通じて被害の実態が報道されることで、アメリカの世論もまたより多くを知って変わっていくはずだ。

だが日本側の卑近な政治的目的が「アメリカを(日本に)謝罪させること」という稚拙なナショナリズムにあると訪問前からはっきりしてしまっていては、事態は変わって来る。その日本の側が現状、南京大虐殺についても慰安婦問題についても謝罪を確認したがらず、むしろ過去に一応は謝罪したことを否定したがっている安倍政権となると、まったく政治的な意味合いが異なってしまうのだ。

平たく言えば、原爆について日本側が、アメリカ国家の代表者としてのオバマ大統領にアメリカ国家による日本国家ないし日本人全般への謝罪を求めるのであれば(現状の「謝罪」をめぐる日本世論の動向は、アメリカだけでなく諸外国から見ればそうとしか解釈しようがない)、アメリカは確実に拒絶するし、拒否せざるを得ない。最低限、その前に安倍政権が昨年の戦後70年安倍談話のような曖昧な態度ではなく、占領地で行った数々の虐殺行為について明確に日本国家を代表する立場で謝罪し、侵略戦争や植民地支配を反省する意を表明しなければならないのに、その清算を日本政府が一貫して怠って来たか、少なくとも現政権のようにうやむやにしようとして来ている以上、原爆投下という手段はともかく、日本の凶暴な軍国主義を止めるためだったという目的そのものの正当性は、アメリカ政府だけでなく他のG7参加国にとってまったく譲れない一線になってしまう。それぞれの国の国内世論の反発の問題ではない。戦後の国際社会の秩序と公正さの問題なのだ。

日本政府では、いわばバーターとして、安倍がハワイを訪問して真珠湾で謝罪するといったような案も検討しているらしいが、昨年の安倍の米議会両院合同会議での演説でも、真珠湾奇襲攻撃に直接の言及がなかったことなどはほとんど問題になっていない。共和党からさえ批判が噴出したのは、慰安婦制度の被害当事者が傍聴しているのになにも言わなかったこと、アジア諸国に対する侵略戦争と暴虐で非民主的な軍国主義の反省が一切聞かれなかったことだった。

アメリカに謝罪させることでナショナリズム的な感情論を満たしたい、だがそれが自らの謝罪の拒絶と矛盾したダブルスタンダードになって無理となると「謝罪ではなく追悼」と言い張って、米大統領の広島訪問の意義を核兵器の使用への反省から日米の和解=日米同盟の強化のアピールにすり替えて、日本の戦争責任の問題を曖昧にし続けようとする、そんな安倍政権がアメリカの核の傘への依存を強めようとするのなら、亀井静香の言う通り、「おいでいただかないでほしい」「見物をするなら大統領をお辞めになってからなら歓迎します」が広島の本心になるのではないか?そもそも原爆投下が「凶悪で残虐な行為」(亀井氏)であったことが認識されないのなら、「追悼」になぞなるわけがない。謝罪や抗議で騒ぐな、静かに追悼すべきだなどと、見え透いた欺瞞はいい加減にして欲しい。

このままでは被爆者に会えないかもしれないオバマ

バラク・オバマが広島に行きたいのは、実際に核兵器が使用されればどれだけ悲惨で残虐なことになるのかを世界に向けて発信するチャンスになるからだ。日本を除けば、原爆の被害は世界中でまだ一部の関心ある人たちにしか知られて来なかったのが、アメリカ大統領が広島に行けば、状況はまったく異なって来る。

オバマ氏が被爆者に会えば、その人々が語る被爆体験自体がことアメリカ国内では大きく報道される。「核なき世界」に向けて米国世論を説得するためには極めて有効だし、被爆者の訴えを前にしては「謝罪」の有無などさしたる問題ではなく(そして謝らざるを得ない)、核兵器の非人道性が明らかにされることこそが重要なのだ。

だが本来ならほぼ自明で、だからこそわざわざ言ってしまって米国内の極右の反発を刺激するのは避けるのが賢明だった「謝罪」の有無に、日本側の拙速な動きが注目を集めさせてしまいかねない(ドナルド・トランプにかっこうの民主党批判ネタを与えてしまったに等しい)現状では、オバマが被爆者に会うこと自体が難しくなってしまった。

繰り返すが、会えば謝るのは当然だ。だからこそ、会うこと自体への反発が訪問前から起こってしまいかねない。ホワイトハウスが広島訪問の詳細を発表していないのは、そうした反発を避けるためには当然なのだろうが、このままではせっかくの広島訪問が形だけのこと、広島の、被爆者達の、核廃絶の希望を踏みにじる「日米同盟アピール」に終始しかねない。

もっとも、安倍政権は核廃絶どころか核の傘の強化、自国の核保有すら実現したい政権なので、この程度の無意味な広島訪問になってくれた方が、むしろ都合はいい。被爆者との面会のセッティングに日本側が難色を示している、という事態すら裏では起こっていたとしても不思議ではなく、だからこそホワイトハウスも曖昧なことしか言えないのかも知れない。

本当に原爆が戦争を終わらせたのか

核兵器の使用という手段自体について、オバマはプラハでの「核なき世界」演説ですでに米国の「道義的責任」にまで踏み込んで言及している。また国際法の観点では、広島も長崎も軍港があったとはいえ、爆心地は広島なら市の中心部の商業地域、住宅地域で、長崎は浦上天主堂とその周辺の閑静な住宅街であり、軍事目標を狙ったとは言い難い面がある。一般市民の殺戮を目的とした原爆投下だとみなせば、それ自体が戦争犯罪だ。

日本の軍国主義を止める、戦争を終結させるためという目的自体にも、疑問がないではない。まず歴史学的な見解でいえば、確かに天皇の終戦の詔勅(玉音放送)でも「敵は新たに残虐なる爆弾を使用し」との言及もあるものの、実際には終戦の判断に決定的だったのは長崎の原爆と同日のソ連参戦であって、原爆の被害自体は大本営でも把握しきれていなかっただけでなく、無視されてすらいた。

この点はまだまだ研究解明が待たれるが、日本は当時アメリカが原子力爆弾を開発した可能性が高いという情報までは得ていた。さらに8月6日朝に広島にB29が向かっていることも把握されていた。だがこれらの情報は大本営で握りつぶされ、広島でも長崎でも空襲警報すら出ていないのも、いかにも不可解である。

理由のひとつとして考えられるのは、日本もまた陸軍が原爆の開発を試みていたことがある。福島県で見つかったウラン鉱脈からのウランを使った実験が繰り返されたが、臨界つまり核分裂の連鎖反応を作り出すことができないまま、計画は放棄されていた。ウランの濃縮に失敗したとも、もともと日本で見つかったウラン鉱脈の濃度が低かったから無理だったともみなされているが、問題は計画放棄に当たって陸軍省に出された報告の内容だ。技術力の不足やウラン品質の低さを理由に挙げて「日本では出来ない」とは言わず、原子力爆弾は理論に過ぎず実際には科学的に不可能である、と結論づけているのだ。この典型的な責任逃れの報告内容が一人歩きした結果、大本営は原爆自体があり得ないこと、という見解に固執し続け、だから空襲警報も退避命令もないまま、多くの一般市民が一瞬にして命を奪われることになったし(8月6日当日は学生たちの勤労奉仕が市内に集まっていて、あの朝は通常より人が多かった)、広島と長崎を破壊したのが原子力爆弾であったことすら、大本営は認めようとしなかった。

一方、アメリカ側にとっても、本当に原爆の使用が戦争終結の最終手段だったのか、その認識でトルーマン大統領が投下を決断したのかにも疑問は多い。日本に戦争継続能力がないことは、6月の沖縄戦終結時には火を見るよりも明らかなことだったし、1945年の前半の段階で日本中のほとんどの都市が大規模空襲で破壊されていたし、地方の農村部や漁港ですら米艦載機の機銃掃射に日々晒されて膨大な犠牲を出してもいた。

7月末のポツダム宣言は、日本の降伏が時間の問題に過ぎないとの認識で突きつけられた内容であり、日本は国民相手には拒絶したポーズをとったものの、秘密交渉は継続していたし、その落としどころも見えていた。国体の護持、つまり天皇の地位の安泰さえ保証すれば、日本の降伏はあとは内閣内部で決断の責任を誰がとるのかという些細な問題に過ぎないことも米側は把握していたはずだし、原爆の投下後も結局この国体維持の条件は維持されたまま、終戦に至っている。内閣内部での決定の責任の所在は、閣議で結論は出さずに昭和天皇の御聖断という体裁を取ることと、玉音放送でクリアされることになるし、たとえば昭和天皇の弟宮である高松宮宣仁親王は、7月末の段階ですでに自らの属する海軍の将兵が終戦時に反乱を起こさないよう説得するために動いていた。

こうした実際の事実関係をみれば、原爆を使わなければ日本本土上陸作戦を敢行しなければならない、という認識が本当に米側にあったかどうかも、大いに疑わしい。むしろ戦争が終わる前にせっかく作った原爆を急いで使った、と考えた方が説明がつく。

戦争を終わらせ多くの命を守るためには原爆が必要だった、という米側の公式の立場は、このように必ずしも歴史的事実によって支持されるものではない。アメリカ政府が公式にこのことを認めるのはかなり想定し難くはあるが、オバマが実際に「謝罪」した後で米国内での世論の反発が起こるとしても、多くの歴史学者がこうした実際の研究成果を明らかにして再反論するだろう。「謝罪」自体が米国内世論において、日本の報道で言われるほどの大きなハードルであるとは考えにくい。

ただしそれはあくまで犠牲者、被爆者への謝罪であって、日本に謝罪することで日本の侵略戦争や軍国主義が肯定されるかのようなまやかしを日本側が求める限り、「謝罪」ととられる言葉を一切口にできないあまりに、肝心の被爆者と話すことすら出来ない立場に、オバマ大統領は追い込まれてしまう。

端的に言えば、日本が南京大虐殺についても慰安婦問題についても、アジア諸国を侵略したこと自体についても自国の歴史的責任を曖昧にする限り、米国が原爆投下を(被爆者ではなく)日本に謝罪することは筋違いでしかないし、そんなことは国際社会が納得するわけがなく、韓国や東南アジアの同盟国、それに中国や、ヨーロッパの友好諸国(G7メンバー国を含む)の手前、アメリカ政府は決してそのようなことを認めるわけにはいかない。

肝心なのはオバマが広島を見てなにを言うのか

いずれにせよ、実際にオバマ大統領が広島を見て、体感する前から、「謝罪」の有無や、なにを言うのかを憶測すること自体が、本来ならナンセンスだ。

広島でなにを見て、史上空前の残虐な出来事についてなにを学び、なにを考えるのか?
それが訪問する事前から決っているようでは、広島に行くこと自体がただの政治的ジェスチャー、形だけのパフォーマンス、予め決まりきっていて、なにも心が動かされないことに矮小化されてしまう。

ホワイトハウスがオバマの本格的なスピーチなどは予定していない、訪問の詳細は決っていないと繰り返すのもその意味では当然のことだ。オバマが広島を見て、そこで大きく心を動かされる、そうでなければ「謝罪」も意味がないし、まして「核なき世界」に説得力を持たせられない。

だが唯一の被爆国であるにも関わらず、日本がそうなることを望んでいないのではないか、という疑念も拭えないのが正直なところだ。少なくとも現政権に関しては、アメリカの核への依存を強める日米同盟の強化を求めて違憲である集団的自衛権の行使を合法化しようとしたり、アメリカの核を自衛隊が輸送できるようにしたがったり、日本の核保有を違憲ではないと言い張るその態度とは明らかに矛盾する。そして「謝罪」は早々に諦めたらしい安倍政権が言い始めているように、米大統領の広島訪問が「謝罪より追悼」との欺瞞に徹した日米同盟強化のパフォーマンスにしかならないのなら、それは原爆の悲劇の隠蔽・忘却を促すことにしかなるまい。

日本は本当に原爆の記憶の継承と、核廃絶を求めているのか?

折しも、象徴的な出来事が他ならぬ広島の爆心地で起こっている。

平和記念資料館の耐震化工事のために周囲を掘り返したところ、元々は広島市の賑やかな中心街で住人も多かった場所だけに、密集していた住宅や商店などのさまざまな遺構や被曝遺品が発見された。工事は中断されて発掘調査が続けられていたのが、オバマ訪問が正式決定になったとたん、埋め戻し工事が始った。広島市の担当部署では景観が損なわれるから、と言っているらしい。

平和記念公園は資料館・慰霊碑・川を挟んだ原爆ドームを一直線に結び、そこに垂直に交わる横方向に建てられた空中の資料館によって大きな十字架を立体的に構成する丹下健三の壮大なコンセプトに基づいてデザインされている。だがこれがいかに日本近代建築史上の金字塔であっても、丹下が構想したのはあくまで慰霊と記憶の継承の建築的フォルムであって、その景観を表面的にだけ維持することのみが優先されるのでは本末転倒だ。

丹下健三がまだ元気であれば、見つかった遺構をいかに平和記念資料館の展示の一部に組み込んで自分の創造した空間を再構成・発展できるのか、今頃さまざまなアイディアを練っていることだろう。今は20世紀建築の忰である美しい資料館が立つその場所そのものが、そこに住まう大勢の人々が一瞬にして命を奪われて遺体すらほとんど残らなかったと実感させる遺構が見える形で維持されてこそ、平和記念資料館の意義がさらに深まるはずだ。丹下自身が目指した近現代の建築の根幹には、そうやって建築的な創造が時代にあわせて更新され生きたものであり続けて行く、開かれた建築の理念があるはずだ。

だが、そうした平和記念公園と平和記念資料館の本質的なレゾン・デートル(存在意義)には、もはや現代の日本の政治的・社会的な関心は向かないのかも知れない。歴史に対する意識や文化・教育をめぐる教養自体が、今の日本ではどんどん希薄になってきて、ただ表面的なこぎれいさに汲々とするのみなのではないか?

アメリカの大統領の広島訪問が原爆投下という非人道残虐行為への反省もなく、核なき世界という悲願がちっとも進まないままに終わり、「謝罪」を避けてうわべだけの糊塗が優先された日米同盟のアピールにのみ利用され、オバマ大統領が被爆者たち自身の声を聴き、苦しみを抱えながら生き延びている人たちの顔を見て、感じて学び考えることもないのであれば、このパフォーマンス自体が「和解」を偽装した歴史の隠蔽の儀式になりかねない。

当事者にとって人生の安らぎを見いだすには、悲しみや痛み、怒りを「忘れる」こともある意味必要なのかも知れないが、当事者ではない我々が現代の自分達にとっては不都合で不愉快な過去に過ぎないから隠蔽して忘却したいがために、その当事者と死者たちを言い訳にして「騒ぐな、静かに追悼しろ」などと言い募る欺瞞は、ただの不遜では済まない。

それは死者たちとその犠牲それ自体の冒涜であり、忘れたくともその痛みが放射能被曝として身体と遺伝子にまで刻み込まれた目に見える傷と目に見えない傷、決して消えない傷を抱えて生き続ける人々の存在を、踏みにじることでしかない。

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