【超文論考】「政治とカネ」小渕優子・辞任で露呈した田中角栄的なるものの終焉 by 藤原敏史・監督

職員に見送られて経産省を後にする小渕氏。意外とサバサバした表情だった。経産省 写真:田中龍作(田中龍作ジャーナル主宰)

安倍政権からの猛烈なラブコールで大臣になったはずの小渕優子さんが、いきなり事務所費の使途の問題が明るみに出て、辞任に追い込まれた。なんでも後援会が上京した際の観劇のチケットを公費から出していたそうで、確かにそれ自体は褒められた話ではない。

だが、これだけなら、そんなに大騒ぎするようなことでもないはずだ。

小渕さんの後援会と言えば恐らくお父さんの代から続いている関係で、公私混同と言われればその通りであるにせよ「おつきあい」のレベル、買収とか政策を左右するとかの話でもあるまいし、同じ事務所費問題でも前の安倍政権や麻生政権の際に閣僚が辞任に追い込まれたような、事務所の存在自体が有名無実だったとかの重度な不正に、それが闇資金に横流しされていた疑惑だとかが、あるわけでもない。

メディアの猛烈なバッシングが始まるなか、小渕さんが辞任したのは潔いし、傷口を広げないためにも賢明なやり方だったが、そもそもそんな大騒ぎして叩くような話だったのかも含め、いろいろ疑問は残る。

自民党嫌いな人たち、安倍をなんとか辞めさせたい人たちはこれをテコに安倍自身の「任命責任」を問えると思い込んでいるようだし、政治評論家が一応は、したり顔で「身体検査がなってなかった」などとコメントしている。

だがちょっと待て。

これまで何度も安倍自身の嘘や問題発言がいくらあっても(福一の汚染水が「ブロックされている」というまったくの嘘、国内で誰も知らないことをいきなり国際会議で「公約」、国際法をまったく知らないことがバレた稚拙な発言、果ては戦争挑発ととられて当然の暴言などなど)、常に辞任どころかメディア・スクラムで見事にうやむやになっているのに、たかが閣僚候補の「身体検査」に手抜かりがあった程度で辞めさせる世論が出来ると思うのだろうか?

「対人地雷禁止条約」で示した小渕恵三のリーダーシップ

むしろこうなって来ると、そもそもなぜ安倍執行部は内閣改造にあたって小渕さんの入閣に執着したのかが疑問に思えて来る。

小渕優子さんが閣僚候補として取り沙汰された時、小渕さん本人は若く野心もあるだろうし、自分の活躍の場が出来るならと前向きだったかも知れないが、所属派閥の額賀派は当初は固辞していた。少子化担当などいかにも人寄せパンダな「女性閣僚」ポストでは決してウンと言わず、巨大官庁である経済産業省を仕切る経済産業大臣という、あの若さで女性では異例の抜擢の入閣になった経緯がある。

小渕優子さんといえば一般には小渕恵三元首相の娘というくらいしか知られていないし、後継者として衆院に立候補した時には「こんな右も左も分からぬ小娘が」というのも含め、自民党の世襲体質の典型としてさんざん批判も受けた。

小渕恵三元首相自身が、国民に顔が知られたのは竹下内閣の官房長官時代に昭和天皇が崩御し、新しい年号は「平成」と記者会見で発表した時で、「へーせー」という音韻も含めていかにも間延びして間抜けだと笑いものにされた。首相としてバブル崩壊後の難しい経済運営を迫られていた際に野菜のカブを持ち上げて「株あがれ」とやったパフォーマンスなど、どうもいい印象がない人も多いはずだ。

そんな小渕恵三さんの知られざる業績には、たとえば対人地雷禁止条約に日本が参加したことがある。当時外務大臣だった小渕さんは、防衛省や外務省事務方に反対するスキを与えずに即座に「こういうものは日本は賛成しなければいけませんよね」の一言で押し通してしまった。霞ヶ関としては世界最大の保有国アメリカへの配慮がある上に、なんと自衛隊ですら(専守防衛で日本領内しか活動できないのに、どこで使うのか分からない)対人地雷を保有していた以上、日本はこの条約に参加できない、と大臣にブリーフィングする予定だったのだ。

そして大国である日本が速やかに参加を表明したことで、対人地雷の禁止は世界的におおいに弾みがついたのである。

実は一般にもたれているイメージと、小渕恵三さんの政界での評判は真反対だった。配慮を欠かさない大人しい調整型政治家としてふだんは細かな気配りの能力を発揮し、人の話をよく聞く。それでいながら、この対人地雷の一件のように言うべきときは間髪入れず、しかしあくまで柔らかな物腰できちんと言い、ものごとを決断させてしまう。

バブル崩壊後の停滞で日本経済が困難な時代だった小渕政権の経済政策それ自体は、いろいろ妥協や不徹底もあったものの、経済界の重鎮やベテランからの評価は決して低くない。ただ地道できちんとした政策であったぶん派手さがなかった(「カブあがれ」くらいしかパフォーマンスがなかった)上に、小渕さん自身が職務の半ばに脳出血で倒れ帰らぬ人となって中途半端に終わってしまった。

アベノミクスと相容れない小渕優子さんの経済思想

そして小渕優子さんも永田町では、二世三世だらけの自民党若手のなかで珍しく勉強熱心だし有能だと評判が高い人でもあり、最初は疑っていた地元の信頼も厚いという(自民議員には珍しく美人だしね)。経済産業大臣という職も、経済政策をきちんと勉強している彼女は適任だという声が少なくなかったそうだし、派閥のボスの青木氏も、日本初の女性総理を目指させたい秘蔵っ子のキャリアに傷をつけたくないと入閣を渋ったものの、経産相ならばということで折れた経緯がある。

ただ小渕優子さんが経済に明るいと言っても、安倍内閣の経済閣僚としては場違いである。小渕さんはむしろ実態経済を重んじて社会の万遍ない、できるだけ社会全体の公平な経済成長を志向する経済政策を学んでいて、およそ金融資本主義のギャンブル理論に染まってほとんど詐欺的な金融操作を「経済政策」「アベノミクス」と称し、株式会社の配当や資産価値を上げる経営手法を国家の政策に当てはめようとする安倍政権とは合ない。

塩崎泰久・厚労相はアベノミクス原理主義者

たとえば安倍改造内閣の厚生労働大臣は、そうした金融資本主義的な経済政策に明るいとされる塩崎氏である。

安倍政権としては高齢化社会を睨んで福祉政策の効率化や、国際競争に勝ち抜ける労働法制の改革を標榜しているが、その中身は要するにリストラ、合理化と称して首切りや外注化を繰り返し、非正規雇用を増やしてコストダウンを諮り、経営側と従業員の格差を拡大させて来た昨今の企業経営の手法そのままである。

確かにそういう企業リストラ的な手法をとることで、高齢化社会が進み今後の大幅な財政出費の増加が見込まれる年金や医療、福祉分野のコストを少しでも抑制することになると、計算上だけならそうとも見えるし、日本の国家が抱える借金を減らして国際的な信用度を上げる方向になるようにも見えるのかも知れない。

だがそうした経費節減ありきの合理化(切り捨て)は、企業なら増収に結びつくかも知れないが、国家や社会の「政策」と言えるものではない。

企業なら損失を出す分野を切り離せば収益は上がるが、国家社会はその総体のある部分を切り離してどこかに押し付けられるものではない。せいぜいが、かつての日本がやったように、国内で食えなくなった層を「海外の新天地」の美名で誘惑し南米に移民させたり、満州開拓に送り込んだりしたやり方しかない。

たとえば、地方ならまだ食費を抑えようとしたら自分の家で作った作物がある。だが現代の都市の労働者層なら、食費を下げることが栄養バランスを崩したり脂肪分や塩分の過剰摂取に直結し、これは将来の医療費増大に確実に結びつく。

健康に気を遣った食生活が出来るには、都市なら料理を趣味に出来たり有機野菜を好んで買うなど、一定の収入や余裕がなければ難しく、また低所得者層ほどそうした知識や生活習慣を身につける余暇もない。

地方レベルでは、こと東北地方では、戦後広まった高塩分高脂肪の食生活を改善する啓蒙政策は地道に効果を上げているし、なにしろ素材自体がおいしいし生活時間も都市に較べればゆったりしているし、食を大事にする生活文化が残っているから、健康に配慮した食生活への転換は成功して来ている。

だが全国規模、とりわけ都市部ではそうした啓蒙によって将来の医療リスクと医療費を下げる政策は、「メタボ検診」程度の形だけに留まって、まず効果は見込めないだろうし、生活習慣病を予防し将来の医療リスクを下げるのにもうひとつ肝心なストレス対策に至っては、むしろ国民が不健康になるようなストレスを増やし続けているのが、小泉純一郎以降の自民党の政策だ。

たとえば国民の生活にもっとも直接に関わる厚生労働行政において、安倍政権の意を受けて塩崎厚労大臣が進めようとしているのは、むしろ政治の役割と国家経営の長期的継続性の放棄だ。

貧乏人との格差が広がれば実はデフレは止まらない

こうした厚生労働行政の問題はなにも働く者の権利の保護や福祉に限った話ではなく、経済全体に響く。「デフレ脱却」を安倍政権は公約しているが、金持ちがどんなに金持ちになっても、貧乏人との格差が広がれば実はデフレは止まらないのだ。高いものが売れて官庁の出す経済指標の数字上の見た目で消費が上がっているように見えても、しょせん金持ちが贅沢品を買う余裕が出来ただけ、貧乏人は安いものしか買わないのでは、デフレの構造自体はびくともしない。

日本の税制は高所得者や企業からより多く徴税し、税を富の再分配に活用して社会の平等性を維持するかつての方向性から、間接税・消費税中心、つまりよりフラットな税負担へと方向転換しようとしていて、安倍政権はことその方向性が鮮明だ。今年4月の消費税8%の結果経済は予想以上に悪化したが、それでも10%への再増税に待ったがかかる気配はないし、メディアも金融の操作で短期的にはどうとでもなる数値を根拠に「経済は回復している」と政権擁護に必死だ。

だが消費増税で安定財源を確保したいのなら、皆がよりよいモノを買える、貧乏人や庶民でもたまにはちょっと贅沢とか、子どもや孫のためにはちょっと背伸びして、というように政策的に持って行かないと、消費税による税収が安定して増えることはない(実は民主党の公約だった「子ども手当」は、もっとも即効性が高い景気対策、デフレ予防でもあった)。金持ちが儲けがあるときや政策的インセンティブに応じて贅沢品を買いあさるだけでは、消費税を福祉社会保障の安定財源として期待するには無理があるわけで、今安倍政権が進めようとしている労働法制や法人税減税とは真逆な方が、消費税収は安定するはずなのだ。

職員に見送られて経産省を後にする小渕氏。意外とサバサバした表情だった。経産省 写真:田中龍作(田中龍作ジャーナル主宰)

職員に見送られて経産省を後にする小渕氏。意外とサバサバした表情だった。経産省 写真:田中龍作(田中龍作ジャーナル主宰)

田中角栄的経世会・路線と岸=福田的清和会・路線との対立

小渕優子さんを経済閣僚として入閣させるということは、このようにより社会の各層に満遍なく、安定した(しかし日本の現状では緩やかなものでしかあり得ない。すでに基本、豊かな国なのだから)経済成長路線の方へと政策を修正する意味を持ったはずだし、だからこそ小渕さんもそのポストなら、と入閣を受け入れたのだと思う。

これは小渕優子さん個人の考えだけで決まることではなく、父の小渕恵三さんから引き継いでいる政治的遺産、もっといえば所属派閥の額賀派が旧・田中派であることにつながる話だ。もともと自民党の歴史のなかで岸信介首相や福田赳夫首相の系譜、最近では森喜朗、小泉純一郎、そして安倍晋三という岸=福田派系の、エリート官僚に近いタカ派路線と対立する田中角栄の系譜があり続けたなかで、後者の最後のホープが小渕優子さんである、という歴史的な位置づけがあり、また青木派の領袖・青木元幹事長は彼女にそういう役割を期待して来た。

かつては自民党内の最大勢力だった旧・田中派的な流れは、族議員の温床とも言われ、政治腐敗を糾弾もされて来た一方で、まさに田中角栄や小沢一郎が典型なように、地方の庶民層を支持基盤にし、「族議員」の政官財の癒着が疑われる一方で、だからこそその専門の政策分野に明るく人脈も持っていた集団である。

その旧・田中派の系譜は、かつて田中角栄がもっとも目をかけていたと言われる小沢一郎氏が自民党を離れて以来、どんどん自民党内での発言力を失って来ている。

自由民主党は岸信介的なものと
田中角栄的なものを併呑してきた

自民党とは大雑把に言えば、岸信介的なものと田中角栄的なもの、正反対の二つの「保守主義」を併呑し続けて来た政党である。

岸的、つまり中央集権体制の国家主義で官僚制によって国家を運営する、旧長州閥、軍、内務省、明治に官僚養成のため国立の帝国大学を作り、その卒業生を中心に国家権力の中枢を担わせる、その実西洋的な中央集権的な官僚支配体制(イギリスとドイツのプロイセン帝国がモデルであることは歴史的に明らかだ)による国家運営の在り方と、田中派的、つまり地方のいわば「お百姓」、せいぜいがその地主階級の価値観としての昔ながらの日本的な「保守主義」に基づく、地域コミュニティに根ざした「みんなが豊かになる」政治を目標とした国家運営の在り方のあいだには、実のところ決定的な思想的対立がある。

岸的な日本の国家像は、こと戦後、とりわけ中国への敵意をあからさまにして来ている現代の日本において、その実おそろしく思想的には矛盾したものになっている。

国家に忠誠を誓いその意志を粛々と実行に移す官僚(そして軍)を中心とする国家運営は、その実歴史的に言って日本的なものではまったくない。近代日本のそれは制度そのものは英独からの輸入だが、精神的骨格は科挙制度と儒教倫理によって運営されて来た中華帝国のそれであり、安倍が「日本の歴史と伝統」をいかに吹聴しようと、その歴史と言えば唐の律令制をそのまま日本に当てはめようとした大化の改新から奈良時代まで、日本史のなかで日本がもっとも中国化した時代しかない。

それに対して日本の庶民的な伝統倫理(実は「武士道」とはまったく関係がない)を反映した、まあ素朴と言えば素朴だし、ほどほどに自己矛盾もあるのを腐敗も含めて程よくなあなあで済ませながら地域コミュニティを維持して来た、成文化されず明治以降の国史の教科書にも登場しない本物の「歴史と伝統」を、完全とは言い難いにせよ継承しているのが、自身が貧農の出で学歴がないことをむしろ積極的にアピールさえした「今太閤」こと田中角栄である。

この田中派的なる自民党、日本的な「保守主義」と、岸的な中国儒教風かつ西洋官僚社会的な、日本では近代以降にしか存在しない「保守主義」(ずいぶん真新しいものでその実ちっとも「保守」「伝統」ではない)の差異をきちんと認識しなかったことに、日本のこと戦後の左派勢力の失敗もあった。

田中角栄「日本列島改造論」の眞の狙い

田中角栄がぶち上げた「日本列島改造論」という勇ましいスローガンは、確かに大企業・大資本の力で日本劣等全体を産業国家に作り替える話のようにも見える…が、そんな認識だけでは明治中期以降の殖産興業・富国強兵路線から連なる近代日本の産業史に対する歴史認識が決定的に欠如している上に、田中が「日本列島改造論」をぶち上げた時点での世界経済における日本の産業的な立場もよく理解していないことになる。

殖産興業・富国強兵とは、明治政府がかなり強引に当てはめた中央集権の国家構造を、経済産業政策にも当てはめるものだった。

日本の近代産業の最初の目玉は生糸生産の軽工業だった。これは原料となる蚕の生産で地方の農家にまで裾野が広くお金が回るタイプの産業であり、江戸時代以来の伝統でその取引の中心は大阪だった(昭和初期までは、大阪は経済規模でも人口でも東京を上回っている)。

日本が明治維新以降急速に近代化が出来たのも、この日本産の生糸の需要が欧米で大変に高く、最初から輸出で外貨が獲得できる国だったことが大きいし、また元から生糸などの供給が自力で出来る上に、しかも識字率・一般庶民の教育水準が当時の世界で群を抜いて高かった当時の日本を植民地支配しようなどという、リスクの大き過ぎる選択に走る国は欧米列強のどこにもなかった。

だが明治政府(長州閥)はただ日本の独立を守るだけでは飽き足らなかったのか、植民地主義の時代にアジアの盟主にでもなって西洋並みでも目指したつもりで、軍事の需要も睨み日本を生糸など民生分野の軽工業ではなく、国家規模の重工業をこそ産業の中心にすることを選択した。

重工業では大規模な工場が必要になる以上、それは都市部やその周辺などの工業地帯の、局所に集中することになり、国家政策と密接に結びついた大企業(財閥)による経営が必要になる。

産業形態が重工業中心に転換すれば、生糸のように収入が地方にも巡って全国規模で経済を回せることはほとんどなく、そこで必要とされる労働力もそのまま地方の「ふるさと」に留まる農家ではなく、都会や工業地帯に出て来て工場や炭坑などに従事する、いわゆる近代的な意味での「労働者」、プロレタリアートだ。その移行は戦前には完成せず、むしろ決定的になったのは高度成長時代、田中角栄が総理大臣になる少し前のことである。

田中角栄は大企業優先の
資本主義優遇政策でなかった

この歴史的な文脈でみれば、田中角栄の「日本列島改造論」の目的が、決して大企業優先の資本主義優遇政策ではなかったことに気づくはずだ。

日本各地に道路網と鉄道網を整備すれば、まず直近でその建設工事のため地方の労働力を必要とする。言い換えれば利益が都市部や工業地帯に集中するのでなく、地方で働く労働者の給料になり、それは地方での生活で消費され、個々の地方に小さいとはいえ経済圏を構築することになる。

さらに長期的にみれば、道路や鉄道網の整備によって、少なくとも部品など運搬が容易いものは、工場が都市部やその周辺の工業地帯に集中しないでも済む、地場産業が国全体の産業構造に直結して地方に雇用を産むことにもなり得た。

また田中角栄がコンピューターつきブルドーザーとの異名を取りながらあえて越後訛りを棄てず、自分に学歴がないことを隠しもしなかったことは、旧帝大出身のエリート中心主義、つまり中央集権的な教育の価値観において「ものすごく勉強ができる」ことがイコール「偉い人」(かつては「末は博士か大臣か」という言葉が教育の目標として巷間口にされたものである)となることへのアンチテーゼにもなった。

旧帝大を目指すことだけが優等生の証になるような、「旧帝大出の偉い人が言うから従いましょう」ではない価値観も並立させなければ、日本という山が多く細長い特殊な地理的条件を持つが故に元は地方色が豊かで、かつ島国であるためかなり特異な発展を歴史的に遂げて来た社会は、皆がそこそこに満足して幸福であるようには維持できないのだ。

たとえばそうした日本の歴史と伝統の保守は、完全な競争社会や「強さ」=「善」ないし「正義」の図式を好まない。

とりわけ戦後には、公にはほとんどタブーとされて来たものの、戦時中に一兵卒として塗炭の苦しみを味わい無駄死にさせられたのが農家の子弟など庶民層だったからこそ、田中派的な系譜は戦争には反対して来たし、日中国交回復が好例であるようにそれを実際の政策としてもやって来た。

田中派的な自民党の流れは「弱いもの」に
配慮する古風な倫理を持ち合わせていた

田中派的な自民党の流れは、「弱いもの」にはそれなりの配慮を欠かさないような古風な倫理観は持って来たし、またそういう平等性をある程度は確保しなければ、日本という国と社会全体が機能しなくなることを理解していた。

一億総中流には問題ももちろん多い。しかし治安は安定するし、将来のよりよい生活に夢を持って安心して働けるぶん労働生産性は効率よくアップする。そしてそうした田中派的なものがあったからこそ、自由民主党は都市部よりはむしろ地方に、強固な支持基盤を作ることも出来たのである。

左派リベラリズムの観点からすれば、田中派的なものの志向したほどほどに平等な日本社会とは、およそ不完全な平等でしかないのは確かだし、若者にとっては田舎の閉塞した抑圧的な空気は変わらないだろう。なるほどそれは、理論的に言えば偽善に留まるものでしかない。

だがそれでも、岸=福田=安倍派的な、あるいは長州閥の残党と言っていいのかも知れないが、中国道徳と西洋植民地主義の野合でしかない中央集権・エリート中心のフィクショナルな国家主義よりは、遥かに現実社会の局面で機能するものだし、ある程度の自由や社会の許容性も担保できるものだったのも確かだ。

また田中派的なものが存在していたことそれ自体が、岸的な流れのエリート主義を抑制するアンチテーゼにもなって来た。

自民党にかつて大勢いた「族議員」というのも、そういう存在でもあった。

確かに一方では政官財の癒着の中枢にいたのも彼らだが、族議員は所轄官庁以上にその業界に詳しく、エリート官僚が出して来る中央集権国家的な政策に現実主義の観点からノーを言えた、それだけの知識も経験も知能もあったのだ。

ことロッキード事件で田中角栄が逮捕され有罪となって以来、日本の世論はこの田中派的なるものを嫌悪し、政界の浄化が叫ばれて来た。

田中派はそれでも政治的な実行力と、自民党最大派閥の議席数の力で、日本の政治に強い影響力を持って来たが、田中角栄自身が病に倒れるのと前後して、竹下内閣を契機にその地位の低下は如実になり、小沢一郎が自民党を去り、小渕恵三さんが総理の任期半ばに倒れたこと、その後を派閥としては岸的な流れに属するヌエのような森喜朗さんが継ぎ、そして小泉純一郎総理の登場に至る。

当初は反官僚主義を標榜したはずの小泉政権が、それを堅持できたのは最初の一年にも満たない。

原発ゼロを訴える小泉純一郎・元首相。城南信用近郊 撮影:及川健二

原発ゼロを訴える小泉純一郎・元首相。城南信用近郊 撮影:及川健二

小泉首相が排除したのは
官僚でなく族議員だった

小泉純一郎が排除に成功したのは官僚の権力ではなく、官僚と癒着もしながらその絶対権力の抑制弁にもなっていた族議員の方だった。今となってみれば、これがむしろ官僚機構の絶対権力化による中央集権化を押し進め、一方で自民党の政策担当能力を絶望的なまでに劣化させたことは、火を見るよりも明らかな現実だろう。

田中派的なるもの、あるいはもっとはっきり言えば本来の自民党であったものの崩壊には、自業自得の面も大きい。地域コミュニティを維持して来た日本の本当の「保守」は時代に合わせてそれなりに変化して来たが、それが地方行政の身近なレベルでさえ政治に反映されたとは言い難い(そのもっとも分かり易く身近な例が、東日本大震災と福島第一原発事故に対する当該自治体の無策で、こと双葉町の例はあまりにも無惨だ)。

小渕優子さんが事務所費問題で刺されたのも、お父さんの代からつながる後援会との昔ながらの人間関係の付き合いの結果だが、別に観劇の面倒なんてみなくとも、地元との人間関係はもっと今の地方の人たちの感覚に合わせて変えて来られたはずだ。

だがそれでも、政治家としての能力や思想ではなく、たかがこの程度のことで小渕優子さんの政治生命が絶たれる、それだけでなく今や空前の議席数を確保した巨大与党の自民党のなかで、本来の自民党の政策作成と政策実行能力の要を担って来た流れが完全に途絶えるかも知れない(言い換えれば、日本の権力の実態が霞ヶ関独裁の全体主義になる)ことの危険性を、我々は「政治腐敗を許さない」程度の感情論は一切排して、冷静に認識した方がいい。

それは単に、いわゆる田中派的なものがハト派でもあったのに対して安倍がタカ派どころか言っている中身はネオナチで、田中角栄的な流れが中南海とも公式・非公式に密接なパイプを持ち続けてこれまで決定的な対立を避けて来たのに対し、安倍政権が自ら中国とのあいだに決定的な対決を自らの度重なる挑発によって引き起こし、日中対立によってアメリカを味方について世界を米中対立にすら持ち込もうとしていること(まあ現状、そんなもん世界中で誰も相手にせんが)や、改憲論、平和憲法が骨抜きにされつつあると言った、左右対決の問題だけではない。

もちろん安倍が日本外交を破綻させているのは重大問題だが、それですら安倍的な危機の本質ではなく、結果としての表層の事象に過ぎない。

自民党の主流派の多くがどうしようもない
馬鹿ばかり。それが問題の本質だ

安倍政権それ自体の問題は、自身まったくお勉強ができない安倍を含め、自民党の主流派の多くが、それなりにお勉強でいい成績はとれた連中も含め、どうしようもなく馬鹿であることだ。

たとえば塩崎厚労大臣がいい例だが、結局は偉そうな顔をして最新の経済理論だか経営理論を説く先生の言いなりで、国家や社会を運営するということがどれだけ複雑で、長期を見渡せる視点が必要で、しばしば自己矛盾を内包せざるを得ないものであるかをまったく理解しないまま、杓子定規に薄っぺらなプライドを発散させるだけだ。

お勉強も出来ない総理大臣と、お勉強は一応出来たかも知れないがしょせんそれだけの大臣や副大臣政務官では、結局は膨大な情報量を直接に掌握して、それを根拠に使え、しかも高学歴を誇る(要するに東大法学部がいちばん偉いとされる馬鹿げたヒエラルキー)官僚事務方の言いなりにしかならないだろう。

お勉強はできても自分でやる勉強はやり方すら分からない閣僚では、その閣僚がなにかを判断する際に必要とする情報の供給を、官僚が恣意的に左右することで政策を思い通りに操れるし、おなじことを記者クラブ相手の記者会見やいわゆるオフレコ懇談でメディア相手にやることで、報道すら完全に支配することが出来る。メディアの方は記者がこれまたお勉強はできて一流大学は出ている受験優等生から先にはまったく成長せず、自分でやる勉強がまったく足りないので、官僚の出して来るオフィシャルな情報に完全に依存し切っている。

永田町という地域を、1日でも2日でも歩き回ってみると実感するかも知れない。そんな今の日本の政治に決定的に欠けているものがなんなのか、気がつくかも知れない。

そこには、なにが欠けているのか?

それは人間性、人間が本来なら生まれながら持っているかか育っているうちに身につけて来たはずの当たり前の直感的な知恵が、決定的に欠如しているのだ。

またそうした人間性(あるいは庶民感覚)を「衆愚」だか「愚民」扱いしてまったく勘案しないことが、自分達の偉さだと思っている人たちばかりが、闊歩しているのである。

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