ラヴ・ディアス監督最新作『停止 The Halt』at 東京国際映画祭 by 藤原敏史・監督

2031年、火山の大噴火があり、東南アジアじゅうで空が火山灰で覆われた。昼夜の区別がなくなった亜熱帯で、新種のインフルエンザが流行する。フィリピンではニルヴァーノ・ナヴァラ大統領の独裁体制が、強権的な手段でこの疫病を食い止めることに成功する。

ラヴ・ディアスの新作は、なんとSFだ。前作『悪魔の季節』は1970年代初頭のマルコス独裁体制の成立過程の深層心理を、なんとミュージカル、というか全編すべてのセリフが歌のオペラ映画として見事に分析して見せたのが、今回のまた新たなる挑戦も再び4時間の大長編だ。緩慢な時間の流れは凝視するほどに不気味な緊張感を帯び、一瞬たりとも飽きさせたり間延びすることがないのも、前作に通ずる。

4時間の大長編、と言ってもディアスの作品は、国際的に注目を浴び始めた頃には7時間、8時間という長大さだった。たまたまある映画祭で一緒だった時、ディアスも筆者も喫煙者なのでホテルの前の喫煙所でタバコを吸いながら、「俺の映画はタバコを吸いたくなったら出て行って、ゆっくり一服してから戻って来てくれていいんだよ。どうせストーリーは進んでないから」と言われたことがある。

「そんなに真剣に見てもらうような映画じゃないから」と言っていたのは冗談半分だとしても、『立ち去った女』(2016)の頃から上映時間が半分くらいになると同時に、特に『悪魔の季節』とこの『停止』では、タバコが恋しくて中座することなどあり得ない映画へと、その作風は変貌している。モノクロで、夜間撮影を多用し、ほとんどのシーンが長大なワンカット、こうしたディアスのトレードマークとも言うべきうわべの特徴は共通していても、その長大なワンカットが異様な時間的緊張感でまとまっていて、その切り取られた時間の中では常になんらかの感情やドラマツルギーの高まりが、明確に組み込まれるようになったのだ。これでは途中で少し目を離すだけでも、一見緩慢で何も起こっていないような会話であるとかの中で起こっている映画的な昂りに、ついていけなくなってしまう。だから我々は、凝視し続けるしかない。

例年、東京国際映画祭の最大の楽しみは、ラヴ・ディアスの新作との遭遇

例えば『悪魔の季節』の、地方の無医村に赴任してクリニックを立ち上げた良心的な民主派の女性医師のヒロインが、民兵にレイプされるシーンだ。ディアスは性暴力をエロチックな、ないし表面的な暴力のセンセーションとしては一切見せようとしない。オペラ映画で全てのセリフが歌であるこの映画で、民兵が彼女をなぶりながら歌う単調なメロディーと同じ歌詞が際限なく繰り返されるうちに、そのメロディと言葉が次第に彼女に伝染し、ついには彼ではなく彼女が歌い出してしまう。

ラヴ・ディアスがこの壮絶な描写で表現した性暴力の本質は、単なる暴力の告発でも、ましてセックスの問題でもない。レイプが女性の心の中枢と存在の根幹そのものを犯し、支配し、洗脳して人格そのものを破壊し、改変していく恐ろしさだ。性暴力が文字通り肉体だけでなく魂を破壊し、人格を奪い、人をロボットにしていくこと、だからこそ戦争や強権体制では性暴力が兵器として、拷問のツールとして多用されることを、これほど凄まじく表現した映画を、筆者は見たことがなかった。

国際映画祭が一般公開されず、なかなか見られない、珍しい世界の映画が見られるチャンスなのはもちろんだが、ここのところ東京国際映画祭には、そんな一般論だけでは済まない目玉がある。ラヴ・ディアスが現代の世界映画のもっとも重要な映画作家の1人であることに疑念の余地はないし、その最新作を見ることが現代映画の最先端を確認することでもあるのも間違いはないが、日本でそのディアスの映画が見られるのが、例年この映画祭なのだ。

そして『悪魔の季節』の衝撃に続いて、今度はSFだと言う『停止』が上映されたのだから、これは是が非でも見なければならなかった。とは言っても4時間という上映時間は大変だろうと思っていたら、『悪魔の季節』に続き本作も、あっという間に終わった。

現代映画の最先端とはいえ、ディアスの映画の経済基盤はインディペンデントで、低予算だ。それでどうやってSFで、近未来社会を描くのか?

漆黒の夜空にドローンが4機飛ぶだけで、映画的空間がSFになる

2034年のマニラの、火山灰で太陽が見えなくなった街というのは、元からディアスの映画は夜のシーンが圧倒的に多かったのが、今回は全て夜間撮影になった。

独裁を見せるのに凡百の政治映画のモブシーンなどはない。政府側の登場人物はほぼ、独裁者の大統領と、側近の女性将校2人の、3人だけだ。

そしてSFの高度監視社会はなんと、ドローンが4機飛んでいるだけである。このドローンが近寄ってくると、市民はIDカードをその搭載したセンサーにかざさなければならない。たったこれだけの設定の「仕掛け」で独裁体制下の空気感は圧倒的で、そしてドローンが飛ぶだけでSFの空間が現出する。兵士は黒いシルエットだけ、そしてドローンに搭載されたサーチライトの光の帯が真っ黒な画面を切り裂く。

CGIの技術が格段に進歩し、むしろ現実に近い世界観を描く映画でこそ威力を発揮するようになった今日(例えば歴史もの映画で全く自然に見える建造物が全てCGIというのは、最近のアメリカ映画ではむしろ当たり前になった)、現代映画の商業的な大勢は現代アートでいうところのハイパー・リアリズム的な表現に傾きつつある。そして確かに映画は元々、ありのままの時間と空間を記録し、再構成し、あたかも画面内の目の前で本物の人間達が生きてドラマを展開しているかのような幻想を観客が共有するメディアだ。

だがその映画のリアリズム的な美学がCGIによって実際にないものまでリアルに作り出せる領域にまで入ってしまった今、逆に疑問として湧いてくるのは、暴力なら暴力をいかにもリアルに見せることで、本当にその本質が観客の共有する痛みや恐怖として伝わるのか、だ。

「見せないことでこそ見せる」が現代映画の最先端

例えば本年の東京国際映画祭のもうひとつの最注目作で、やはり大長編3時間半のマーティン・スコセッシの新作『アイリッシュマン』は、スコセッシにとって久々のマフィア映画で、登場人物が次々と殺されて行く。だが今回のスコセッシの暴力描写は、例えば『カジノ』や『グッドフェローズ』の凄絶さに比べて極めて抑制されていて、銃で撃ち殺すのでもほとんど一瞬で終わる。『タクシードライバー』の20分近いクライマックスの、特殊効果の火薬や特殊メイクを駆使した壮絶なリアリズムは、当時はほとんど全てが実写でカメラの前で再現されたことが、今ではほとんどCGIで作り出せるようになると、逆に見た目がいかに本物そっくりでも、そのなぜか意味を失ってしまう。だからこそ『アイリッシュマン』のクライマックスは逆に見た目としてはアンチクライマックスのように、ほとんど何も起こらず、一見どうでもいいような会話だけが交わされ、車が走っているだけの20分超の引き伸ばされた時間となり、一見緩慢で、なにも特別なことが起こらないからこそ、暴力とその痛みが突き刺さるような強靭さを持って、見るものの心を打ち砕く。

もちろん『アイリッシュマン』は大スター三人の共演するアメリカ映画の大作で、ディアスと同じくらい強靭な作家性を持つ現代映画を代表する作家の作品として、映画そのものとしては同列に並べられても、製作の経済規模などなど、具体的な面ではあらゆる次元で全く異なっている。それらがただ「映画」として並べられ、完成された映画としての価値でのみ評価されるのが国際映画祭の悦びではあるものの、そうは言っても具体的な表現の手段が全く異なっているのも確かだ。

そこで興味深いのが、業界内での立場もまったく異なり、世代もバックグラウンドもまるで違うこの2人が、権力とその行使に伴う暴力の表現について、その実まったく共通したアプローチをやっているところだ。それは暴力を直接にはほとんど見せないことでこそ強烈な能力性を映画として見せること、そして暴力の本質があくまで人間関係にあるのであって、流血の量でも銃声の大きさでも、拳銃やパンチの大アップのインパクトでもなく、言うなれば「魂の切実性」にこそあるところだ。

まだ『アイリッシュマン』は歴史映画であるため背景や風俗ディテールの緻密なリアリズム、当時の時代の再現が極めて重要になるが、その点『停止』はSFである。モノクロの、ほとんどが夜間シーンの中で、白いドローンの浮遊する光景の力強さの秘密は、おそらくこうしたところにこそある。

もちろん実際の、現実の我々の時代の延長としてリアリズムで考えるなら、監視社会は無数の監視カメラでこそ完成するものになるだろうし、それが既に近未来SFの定番描写になっている(例えばスピルバーグの傑作『マイノリティ・レポート』)。ドローンを使った監視社会なんておそらくコスト的に不合理で実現することはないだろうが、そこはだからこそ、これが「映画」である。つまり理屈抜きに、道を歩いていたらドローンが飛んで来て、身分証をスキャンできなかったら殺されるかも知れないというのは、個人とその周囲の世界との関係性として、とんでもなく怖いはずだ。

それにしても今回のラヴ・ディアスは、なぜこうも切迫感に溢れているのか?

ディアスの映画はこれまで、常にフィリピンのこれまで語られなかった歴史を題材とし、植民地主義や独裁体制がどのような潜在的な影響を社会と、その中の名もなき人々の関係性と心理にもたらすのかは、一貫してその主題の中枢にある。近未来を舞台にしてはいても、『停止』はそうした歴史映画の延長にあるのは間違いない。独裁はフィリピンで、ディアス自身の少年時代・青年期の現実で、前作『悪魔の季節』はそのマルコス独裁の反響を、中央政治ではなく小さな地方コミュニティの中に見せ、分析するものだった。

その一貫した興味がしかし、この近年まるで異なった表現の、特に緊迫感・切迫性のレベルを見せるようになった理由は、ある意味分かりやすいだろう。過去の検証であったことが突然、今日の世界では日々抗うことになってしまったのだ。それはなにもフィリピンで、ドゥテルテが大統領に就任したことだけではない。中国では習近平体制が独裁強権性を突然急激に強め始めているし、ブラジルではオリンピック後の政治的混乱の中からボルソナロ政権が発生し、アメリカにトランプがいるのは言うまでもなく、日本でも安倍政権がプチ独裁のまま腐敗と堕落を突き進み、いずれの国でも社会の分断と潜在的な暴力性の増大が深刻化している。既存の民主主義体制は英国ではEU離脱を巡って混乱と堕落と機能不全に陥り、フランスの民主主義も社会の要請を満たせない政治的インポテンスに陥って混迷状態だし、韓国ではやっと実現した本格的民主主義政権が期待されたような効果を発揮できないままだ。それらの社会の分断と政治の機能不全から、いつこれらの国々もまた独裁の仲間入りをするのか、予断は許されない。

『悪魔の季節』は、独裁が社会の権力構造とその中の人々をじわじわと蝕み変えて行く恐怖を描いた映画だった。『停止』でも物語の始まりの時点で既にニルヴァーノ大統領は独裁者の地位にあるが、冒頭のインフルエンザの蔓延は、その体制の確立にとって決定的だ。確かに独裁だからこそ、この映画の近未来フィリピンは疫病をなんとか食い止めることができ、それでも膨大な死者が出たあとの社会不安があるからこそ、独裁は無制限に強化されたのだ。ディアスはここで、独裁はただ強力な独裁者がいるから成立するのではなく、社会の産物としてこそ独裁が生まれることを、じわじわと見せ、観客と、映画の中の人物たちに同時に刷り込んでいく。

忘れてはならないのは現実の、現在のフィリピンで、ドゥテルテは一部のインテリ層やリベラル層にも支持されて大統領になれたことだ。麻薬密売人は問答無用で死刑ないし射殺というやり方は乱暴に過ぎ、人権侵害だとアメリカのオバマ政権(当時)から厳しい非難も浴びたが、これくらいのやり方なしにはフィリピンの麻薬問題というか、麻薬密売を主な収入源とするマフィアの蔓延は食い止められなかったこともまた、現実なのだ。

滑稽な独裁者、いや滑稽で哀れだからこその独裁

映画の冒頭でニルヴァーノ政権が新種インフルエンザの蔓延を食い止めるのも、独裁だからこそ可能だったことだ。ディアスはただ独裁を悪として描きドゥテルテやトランプを非難するためにこの映画を作っているのではない。そしてこうした、実は諦めと表裏一体の関係にある支持によってこそ独裁は確立すると同時に、我々の心の弱みに巧妙に入り込んで、我々の心理自体を独裁むけに作り替えて行く。『停止』の見事さのひとつは、この我々の側こそが独裁を産んでしまう部分の描写の、圧倒的な緻密さにある。

だからこそ、現実のドゥテルテやトランプやボルソナロがほとんどコメディアンのように滑稽に見えたり、安倍晋三がまるで弱々しく愚かな人間にしか見えなくとも、独裁は成立してしまう。この映画のニルヴァーノ・ナヴァロ大統領は、現実のドゥテルテとトランプを足して二で割ったかのように滑稽な、喜劇的な人物として描かれる。独裁政府はなんと彼と、側近の2人の女性軍人(レズビアンの恋人同士でもある)の三人だけで描かれ、その関係性はほとんどグロテスクな恋愛喜劇の様相を帯びる。しかも実際、映画の後半に明らかになるが、残酷な独裁者ニルヴァーノ本人は、弱々しいだけでなく寂しがり屋のかわいいおじさんでしかないのだ。最後に彼が死に、独裁が崩壊する一連のシーンは、拍子抜けするほど滑稽で、アンチクライマックスにしか見えないからこそ、強烈なクライマックスになる。

寂しがり屋のかわいいおじさん、なのに彼は残虐な独裁者である。いやラヴ・ディアスは、だからこそ彼は独裁者なのだと言っているかのようだ。

ANG HUPA(The Halt) 2019年/フィリピン=フランス合作/286分/モノクロ/デジタル
監督・撮影・編集・美術 ラヴ・ディアス
撮影 ダニエル・ウイ
制作 ヘイゼル・オレンシオ

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