遺作となった『一、一(邦題「ヤンヤン 夏の思い出」)』が既に15年前、還暦目前の早すぎる死から8年になろうとしている今なお、生前には必ずしも正当な評価を受けて来たとは言い難い映画作家エドワード・ヤン、中国名・楊徳昌は決して「過去」の存在ではなく、台湾映画、ないしアジア映画というのでなく世界の現代映画における、もっとも重要な映画作家であり続けている。1986年の傑作『恐怖分子』は、30年近く経った今なお現代映画の最先端であるどころか、製作以来ずっと現代の世界、それも「アジア」でも「中国人」でもなく人類にとっての現代という時代をこそ、見せ続けて来ている。
現代社会のもっとも危険な凶器とは、電話である
もちろん舞台となる台北は映画の製作年代である独裁が終った直後と今とでは、劇的な変貌を遂げたはずだし、ファッションなども大きく変わったはずが、この映画で時代を感じさせるものがあるとしたら、電話がけたたましいベルが鳴る黒電話で、写真機がまだデジタルではなくフィルム、写真がプリンターで印刷されるのではなく暗室で、引き伸ばし機を使って焼き付けられることくらいだ。しかしそれらは現代の観客にとって気にならないどころか、『恐怖分子』の現代性にとってむしろ重要なのは、カメラなり黒電話なりの、機械として、モノとしての黒光りする存在感の禍々しさにあり、その質感がラスト間近に現れる拳銃のアップの黒光りと通底している。
携帯電話の普及し始めた時代、エドワード自身が真っ先にそれを小道具として駆使した『独立時代(邦題は「エドワード・ヤンの恋愛時代」)』は、スリラーである『恐怖分子』とあらゆる点で対極にあるコメディであると同時に、コインの裏表、表裏一体でもある。あるいは、例えばマーティン・スコセッシの『ディパーテッド』のように、21世紀に入って携帯電話は銃や刃物以上に危険な「凶器」として映画で使われるようになったが、『恐怖分子』の黒電話の禍々しい黒光りは、電話が現代社会の凶器でもあること、使い方によっては武器として作られた道具よりもさらに深い傷を人に与えることを、映像としての存在そのものの重みによって印象づける。
時代がこの映画にやっと追いついた、などと言う暢気なことは言っていられない。1986年、つまりインターネットや携帯電話がここまで普及し、スマートフォンによって世界中と「つながっている」はずの世界など誰も想像していなかった時代に、エドワード・ヤンはすでにそうした道具がいかに人間のあいだのコミュニケーションの進化のために発明されようが、現代の社会と人間がその道具を本来の目的や機能の通りには使いこなせないこと、むしろ人間のつながりを脅かし、人間の存在そのものを不安に陥れるよう作用しかねないことを、『恐怖分子』で既に予言していた。今となっては空恐ろしいほどの鋭さである。
モノのモノとしての存在感の禍々しいまでの強靭さ
低予算で、必ずしも万全の現像体制がなかった当時の台湾で、35mmフィルムで撮影されたこの映画が、デジタル修復を経てデジタル素材で再公開されている。その被写体の物質的存在感をえぐりだす硬質な映像美は現代的な怜悧さを増し、よりクリアになった音響は21世紀になっても20世紀と本質的にはなにも変わっていない都市空間における人間の実存イコール人間性の不在を、これまで以上にシャープに浮かび上がらせる。デジタル化により凶器性を増した黒電話のベル音はいよいよもって、この映画の何か所かで響き渡る銃声と、本質的に同じ音だ。それは人と人をつなぐ装置の音のはずなのに、むしろ人と人とのつながりを遮断する、断ち切る音として機能する。
いやモノがモノとしての存在感の禍々しいまでの強靭さを持つのは、電話とカメラという機械や、写真という特権的に映画それ自体を暗示する物体だけではない。最初から鮮烈に観客の意識に刻印されるのは、無機質であるはずのモノが人物たちと、まるで等価の存在として画面に映し出されることだ。
無人のショットのなかで空き缶が転がる、雨樋から水が滴り落ちる、風で揺れるカーテン、無人の部屋で廻り続ける扇風機や、人物がショットの構図から突然消える(外れる)、その無人の、空ショットの瞬間をあえて引き延ばすことで、『恐怖分子』は物質と機械の文明が人間生活の欠かせない一部になるだけでなく、人間の存在がそうした無機質なモノに支配されることにもなった現代という時代の感覚を、鮮烈に映し出す。それはネット上のヴァーチャル空間が実生活を浸食し支配さえしている、操作する指先の接触を通じてスマートフォンが人体の欠かせない延長になってしまったかのように錯覚されがちな現代という時代を、既に予言していた映像なのだ。
テロリズムがどんな直接の動機によって起こっているのかは、実はまったく重要ではない
不良少年グループとおぼしき集団と警察の銃撃事件に震える台北で、警察側の襲撃から逃走した少女を、カメラマン志望の少年が偶然見かけ、少年と彼のカメラは彼女の表情のイメージに取り憑かれる。一方、公立病院の研究職系の医師である男は、小説家である妻との関係がぎくしゃくしているその理由、妻がなにに不満ないし不安を感じているのか、なぜ取り憑かれたように執筆に熱中するのか理解できない。彼女は作品の展開が思いつかず不安にかられ浮気に走り、彼は役所内の権力闘争を利用するつもりが逆に巻き込まれ左遷させようとしている。無言電話、匿名の密告電話で、この二組の男女の生が微妙に接近し合いながら、交わるようでなかなか交わらない。警察と暴力集団の衝突が激化する都市に漂う漠然とした不穏さが、人物たちの実存そのものの不安と交錯する、その警察側の捜査指揮に当る刑事は、研究者の男の友人である。
『恐怖分子』、カタカナで言えばテロリスト。1986年といえば史上初の都市型無差別テロ事件となった東京の地下鉄サリンから9年前、今は「イスラム過激派のテロリスト」と呼ばれる勢力がアフガニスタンでソ連の侵攻と闘う「聖戦士」としてCIAの支援を公然と受けていた時代だが、民主化が始まった直後の台北で警察が追いつめる銃撃立てこもり犯には、「◯◯教」なり、60年代70年代のテロリズムの定番だった政治集団の名前はない。
いやこの映画の舞台は、ついこのあいだまで独裁体制だった台湾の首都台北だったわけだし、そうした政治運動をフィクションで名付けることは簡単だったはずが、エドワード・ヤンはその安易さを選ばないことによって、現代社会におけるテロルの真の本質をこの時点で既に突いていたのだ。彼が後に現代のカルト宗教を直接取り上げることになるのは『麻雀(日本公開題「エドワード・ヤンのカップルズ」)』と『一、一(邦題「ヤンヤン 夏の思い出」)』で、東京の地下鉄サリン事件後になるが、信じてしまうものにとってはすがる対象、騙している側は実は金儲けで、『独立時代』の主な舞台となる広告代理店の役割と本質的な違いがない。そしてカルト宗教だから暴力やテロルに結びつくわけでもなく、テロリズムがどんな集団の、どんな直接の動機によって起こっているのかは、実はまったく重要ではない、そこがこの映画作家の慧眼であり知性なのであり、つまり彼は21世紀のテロルにおいて宗教がその本質的な動機であるのではなく、宗教もまた信仰の問題ではなく、我々の存在そのものの不安を利用したただの商売になっていくことを、1986年の時点で見抜いていたのだ。
人間存在が脅かされるデジタル時代を体現する映画
ここ数年、デジタル上映の普及に伴い、映画館にフィルム映写設備がなくなる、止めようがない流れに逆らえず、過去のフィルムで製作されフィルムで完成された映画のデジタル化は急務になっているが、今後はフィルムでは見られないことで、その作品の本質が失われるのではないか、という不安はたいがいの場合は拭いきれない。どちらがより高画質か、という技術論をどんなに戦わせても、やはり見える映像の質感はどうしても異なり、しばしば強い違和感もあるし、エドワード・ヤンはこの急激なデジタル化が進行する以前に亡くなっている。DCP(デジタル・シネマ・パッケージ)なるフォーマットは『恐怖分子』が作られた当時、誰も想像すらしていなかったはずだ。にも関わらずこの映画の場合はそこに違和感がないどころか、フィルム上映よりも鮮明さを増したデジタルの『恐怖分子』は、よりシャープに現代映画としてのその本質を露わにする。
人の肌も木々も、冷たい現代建築のガラスやコンクリート、写真機や電話機と等価の、金属的質感をもって写し出される、そのことが現代社会における我々人間の存在そのものの不安を浮かび上がらせる。人体から生気が奪われ、空っぽの部屋に転がる空き缶や、風になびくカーテン、銃弾が打ち込まれ割れるガラスにむしろ生命感がある。映画がデジタル化されることなど想像も及ばなかった時に作られたはずなのに、デジタル表現としての映画の本質をこれほど体現し、その映像の特質を徹底的に感じさせる映画もないのではないかと、ふと思ってしまう。いや改めて『恐怖分子』を見て思うのは、映画がデジタル化されることはこの時点で既に、必然だったのだ。
インフォメーション
名古屋シネマテークにて上映中
横浜、シネマ・ジャック&ベティにて4月18日より上映
以降、全国順次公開予定 http://kyofubunshi.com/theater.html
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